《韓国春川の白基豊校長先生》

 

  朝鮮半島が1875年(明治8年)日本軍艦雲揚号の江華島水域に侵入から始まった

大日本帝国の侵略を受け始めた後、1910年からは酷い植民地支配を受けるようになり

ました。  「大日本帝国」というものが連合国側に降伏したのが1945年でした。

日本の敗戦で朝鮮半島の人々は間接的直接的な日本支配75年から解放されました。

 

  旧日本軍の二つの師団の担当地域の境であった38度線を目指して南からは米軍が、

北からはソ連軍が進出・駐留し東西冷戦の緊張が高まりました。

 

  1948年8月、南に大韓民国政府が樹立、同年9月に北側に共産主義政権の朝鮮民主

主義人民共和国がそれぞれ樹立しました。  1950年6月25日の朝、北朝鮮軍側の南進

で朝鮮戦争が勃発しました。  1953年7月に休戦協定がようやく調印されました。

  1962年6月に到り日韓基本条約が調印されました。  以上が予備知識情報です。

 

  1986年夏Korea Christian College 同窓会(韓国では同門会)会長の金世福さん

から韓・台・日の基督者によるキャンプ開催の呼びかけがあり、日本からは私だけが

参加しました。  日本による植民地支配で多くを奪われ失った直後の朝鮮内乱により

韓国経済は疲弊しきっていました。  そして反日感情は厳しいものがありました。

 

  そのような状態の中で一行はソウルからディーゼル機関車に揺られながら東方の

春川チュンチョン郊外にあった田舎の中学校に向かいました。  江原道春川郡南面江村里の

倉村中学校でした。  夏休みで学生はおらず、校舎を教室と宿舎にして数十名の韓国

青年たちと国際キャンプが確か1週間にわたって開催されました。  空は青く奇麗な

自然が一杯の田舎でした。  中学校の傍には清流が山から流れ下っていました。

 

  このような寒村にも嘗て日本軍の軍旗がはためき軍靴の音が轟きわたり、住民、

特に婦女子を恐怖のどん底に突き落としたのか…あるいは鳥撃帽を深くかぶった特高

が嗅ぎ廻っていたのか?…などと想像をしただけでも、日本人青年の一人としてあの

穏やかで美しい田舎の土地の上に立つのに罪悪感を覚えたのを今でも鮮明に記憶して

います。

  (日本による過去の侵略の歴史を全く学んでいない現在の日本の若者は韓国映画の

俳優に夢中になっています。  極めて不幸な国民だと私はいつも戸惑っています。)

 

  僻地に日本からの稀な客人の来訪ということで、いつの間にか「牧師先生さま」

扱いを受けることになった青二才の私のために、中学校の白基豊校長先生ご夫妻はご

自分たちの住まいを解放して下さることになりました。  破格のもてなしでした。

 

  反日感情はいやがうえにも盛り上がっていた韓国でした。  経済は疲弊しきって

いました。  そして儒教の教えが徹底している韓国です。  校長先生の地方での地位

と影響力と尊敬度は日本と比べて極めて高いものがあります。

  そのような状況のなかに在ったにもかかわらず校長先生のご一家は私という日本人

のために何かと細心の注意を払ってねんごろにもてなして下さったのでした。

  校長であるというだけでふんぞり返って威張ることが普通な儒教の影響が強い韓国

です。  そして若造の日本人である私に対して、それ迄の百年近くに亙って蓄積して

いた筈の鬱憤と憎しみを露骨に一気に吐き出しても決しておかしく無い時代に、校長

先生ご夫妻は常に微笑みを忘れることなく、心から尽くして下さったのでした。

 

  乏しい食料と調味料と燃料を工夫し、また下痢などしないようにと必ず火の通っ

た食物を用意して下さいました。  夜は冷えると仰ってオンドルに火をおこしてから

『ちょっと親戚の家に寝に行って来ます』と言い残して闇の中にご夫妻は毎晩消えて

行かれました。  あとで知ったことですが、親戚の家まで田舎の道を徒歩で6粁ほど

片道1時間半の距離を歩いて通われたのでした。  そして翌朝6時にはすでに戻って

来ておられました。  それらのことに就いてお二人は何も私に仰らずいつも微笑んで

おられました。  この年になって改めてお二人のお人となりを懐かしく偲ぶのです。

 

  誠にこれこそ、ふんぞり返って威張っていても少しもおかしくない筈の指導者が

とるべき、自ら示すべき「長オサ」の優れた態度であると思います。  校長先生ご夫妻

があの時点でクリスチャンであったとは考えておりません。

 

  然し、この「長」が「仕える者」の立場を喜んで採り、「仕えること」を無言で、

微笑みを浮かべならが「実行された」ということは、これこそが主イェスが十字架の

上で示された「仕える僕シモベ 苦難の僕」の道に通じるものであると、恥ずかしい次第

ですが、今になって私は思うのです。  良き隣人に「なって下さった」のでした。

  上に立つ者が己を低うして仕える僕の姿と道を示すということこそ、誠に天晴れな

校長先生であったと今になって深く感動しています。  韓国人の家庭に初めて泊めて

頂いた年長者で社会的地位の高いご家族から、嘗て侵略した加害者側の若者を無条件

で受け入れた上に、ご自身が「徹底して仕える者の姿勢」を示されたのでした。

 

  その後まもなく白先生は引退され春川市内に移転されました。  5年後に春川市内

に先生ご家族を捜しに行きましたが移転先を突き止めることができませんでした。

 

  今でも白基豊校長先生が下さった朝鮮の若い女性たちが踊っている刺繍を納めた

表具があります。  日本の侵略と過酷な植民地政策、それから解放された直後の内乱

で疲弊しきっていた韓国の寒村僻地で出会った白基豊先生との僅か1週間の短い交わ

りを思い出させてくれる大切な表具です。  今ではだいぶ色褪せて来ましたが…

 

  白基豊校長先生が日本の茶道をたしなまれたなどとは思っていませんが、それこそ

茶道で言う客人のもてなしかたの心を表す「一期一会」の意味を実に的確にあらわし

ていると、表具を見るたびに思うのです。  「土器」であったのかも知れない僻地の

白基豊校長先生は、私には「金器」より遥かに尊い器として偲ばれるのです。

  そう言えば13世紀後期に大徳寺の祖始となった大東国師が花園天皇に語った一句が

あります。  『億劫相別れて須臾も離れず  旬日相対して刹那も対せず』です。

 

  「徹底して仕えきる」ということは、「土器」に「なりきる」ということは実に

このように人々の心の奥底に長く留まり、その影響の蕾ツボミ が少しずつ確実に育って

いって、やがて長い時間をかけた後で見事に開花してゆくのではなのでしょうか?

  ガラテヤ書5章22節にありますが、神さまの霊が私たちに結ばせて下さる実も長い

時間をかけて、その人の一生涯をかけて、エゴイストという土器を愛が溢れる人へと

創り変えて下さるものだと思うのです。  「仕えることに徹する」ということで…

 

  あの慎しい校長先生ご夫妻に私は必ず天国でお会いできると確信しています。

            『旅人をねんごろにもてなせ。  旅人の接待を忘るるな。

        或人これに由り、知らずして御使を宿したり』と聖書は告げます。

 

  土の器とは容れ物です。  容器です。  使われるため、仕えるための容器です。

私たちも主イェスのために、周囲の人々のために、「徹底して仕えきる者」としての

道を真剣に求めて、皆さんで手を取り合いながら実践して行きましょう。

 

  『草庵に起きても寝ても祈ること  吾より先に人を渡さん』とは、曹洞宗開祖の

道元禅師(12001253)の祈りです。  「土器に徹した」優れた仏教徒の祈りです。

  そろそろ私たちも「教会ゴッコ」「アーメン・ハレルヤごっこ」を止め、「土器」

として誠実に「仕えることに徹すること」に喜びを見いだす者となりましょう。

  それが誠のアーメンであり、ハレルヤの道だと思うのです。  如何でしょうか?

 

  注:  最近のいわゆる「韓流」ブームで春川は日本人観光客にもチュンチョンは

余りにも有名になってしまいました。  その町の西にある昔からの古里です。