礼拝雑記

 

 2001年4月 

 金沢キリストの教会天野智允

 

 以前、礼拝についてお話をさせていただいたことがあります。その後文書にして欲しいとの兄姉たちの願いがあり、うれしいことでした。一応途中まで書いたのですが、どうやらフロッピーを失ったか、ファイルを消してしまったようです。同じものは書けませんので思い出しながら何とか書いて責を果たしたいと思います。

 礼拝のプログラムの次第解説については大雑把なものを野毛山教会のために30年ほど前に書いたことがありますが、その時は週報にある次第項目について述べてだけで、礼拝とは何か、礼拝次第そのもののあり方などはあえて問うことをしませんでした。

 神学校在学当時から比べると礼拝学も最近はかなりの進歩を遂げていると思います。しかし、筆者の場合は卒業後からの礼拝学の進歩の情報は皆無に等しいのです。ですから以下に述べさせていただくことは大体30年前の礼拝学の知識を元にしていると思って下さい。今は礼拝学に関する文献も手元にはありません。しかし、基本的なことはそう変わっていないと思います。最近の礼拝学の情報は日高教会の大河内宣義兄がご存じと思います。本当は大河内宣義兄が本稿を執筆するにふさわしいのですが、先に召される者の責として書くことにします。

 礼拝学の長足の進歩はエキュメニカル運動によるところが多いと思います。宗派教派が違っても礼拝を共に守れる道を探っているからです。まだその結論は出ていないと思います。思えば私たちのキリストの教会はその先駆的な道を切り開いてきたと思います。新約聖書の教会に戻ると言うことで信仰のあり方から始まって、礼拝のあり方も形としては今日のようなものになりましたが、「ただのクリスチャン」としてどの宗派教派の兄姉たちとも礼拝を守ることが出来る道を探ってきた先駆者的な誇りは持って良いと思います。

 伝道学院で礼拝学を持たしていただいて私たちの群の週報を集めました。そこからの印象は多くの教会の礼拝次第が日本キリスト教団の礼拝次第に酷似しているというか、それを利用していることに気付かされました。日本キリスト教団の礼拝次第が悪いと言うつもりはありません。筆者自身神学生時代を6年間にわたって日本キリスト教団での礼拝生活を守りましたので、その雰囲気、意味などは一応心得ているつもりです。しかし、私たちの教会は日本キリスト教団の礼拝次第によっているにしろ、そうでないにしろ、礼拝とは何か、どのようにして守るかなどについて改めて問うことがないまま来ているように思います。拙文によって礼拝へのさらなる思いが生まれればと願っています。

 手元に全く文献を置いていないので正確な引用に欠けますが、気軽に読めることをねらって誰が述べたことか、必要に応じて括弧でくくって分かるようにします。

 前置きが長くなりました、思いつくまま書くことにしましょう。

 

 礼拝とは何かということは一言でいうのは不可能です。しかし敢えて言わせていただけば「信仰共同体の信仰告白の具体的形ち」と言って良いと思います。ですから、それは教会堂の建築様式、講壇や主の食卓の位置、椅子の配置、礼拝器具、用いる聖書、讃美歌の類、家庭礼拝、学校礼拝など多岐にわたることになります。しかし、ここでは主日礼拝に限って述べることにします。

 基本的には先の定義でいいと思います。私たちの教会の信仰を具体的に表す形としての礼拝ですから、伝道者や一部の兄姉の考え方で礼拝の守り方を決めてはならないのです。「私たちの教会はこういう形で信仰を言い表そう」ということで礼拝を決めていくことが望ましいのです。それも、一つに形に固定化してしまうことはありません。教会の置かれている地域の状況、信仰告白によってその年々の礼拝の形も変わることがあっていいと思います。祈祷書を持っている教会はそれに拘束されます。日本キリスト教団の礼拝次第もその教団の礼拝式文に準ずるものなので全国一律的なところがあります。

 余談ですが、カトリック教会は以前はラテン語で礼拝を守っていましたので国内のどこでも、世界中どこでも同じ礼拝が守られていました。しかし、第2バチカン公会議の後、日本語での礼拝になりましたので「世界のどこに行っても同じ礼拝の方が一体感があっていい。元に戻して!」という信者の声もあるようです。これはこれで良いところもあると思います。

 私たちの教会は各個教会制をとっているのでそれぞれの教会がそれぞれの信仰の形を表すものとしての礼拝は百種百様であっていいと思います。それではあまりバラバラになってしまってキリストの教会としての礼拝のまとまりがなくなるのではないかと考える方もいらっしゃることでしょうが、そう危惧する事はないと思います。礼拝とは何かをしっかり考えていけば基本をはずれるような滅茶苦茶な礼拝にはならないと思っているからです。たとえば讃美の歌のない、聖書朗読のない、説教のない、主の晩餐のない、祈りのない礼拝なんて考えられないからです。

 礼拝は「信仰共同体の信仰告白の具体的形」と述べましたが、信仰告白を他教派では書かれた信条として多くの場合持っています(キリスト教年鑑)。そしてそれらの信条はこの世との信仰の戦いとして生まれてきた歴史的文書です。いわば歴史的状況の中での信仰告白となっています。私たちの群はこのように書かれた文書を持っていません。アレキサンダー・キャンベルの「宣言」を私たちは大切にしていると思いますが、信条ではないのです。しかし、これもアメリカの歴史の中で、信仰の表れとして書かれたものですから歴史的文書であります。これは信条でないとすると、私たちの信仰告白は「イエスは主である」(ロマ10:9)という聖書の告白文のみであると言っても良いでしょう。「主であるイエス」、「そのイエスを与えた神」への信仰を具体的に言い表した聖書の中に素朴な初代教会の礼拝を見て取れます(使徒行伝2:42など)。では、具体的にどのようなものであったかについては追求するのは難しいようです(「新約聖書の教会」松木治三郎著)。

とは言え、前述の礼拝の要素はありました。それらをふまえつつ、脈々と受け継がれてきた礼拝の歴史も考えながら私たちの礼拝のあり方を考える時に来ていると思います。

 

 「礼拝」と言う言葉を自明のこととして使って書いていますが、個人的にはこの言葉に躊躇するところがあります。礼拝を「レイハイ」と訓ませていますが、「ライハイ」と訓む読み方もあります。特に仏教ではそう訓んでいます。「礼拝」と言いながら、意識の底の方にはこの仏教的なライハイのイメージを日本人の多くは持っているのではないでしょうか。勿論、宗教一般の現象としてキリスト教を見たときに「ライハイ」と通じるものはあると思います。しかし、仏僧たちの行う低頭合掌のイメージを持つライハイとは区別したいのです。どちらも漢字で書くと同じですから躊躇するのです。レイハイは今日では「キリスト教で用いている」と広辞苑は解説していたと思います。「レイハイ」という言葉は信仰の先達たちの努力によって私たちのものとなりました。しかし、この言葉には日本人一般が持つイメージがつきまとうので、誤解されるおそれが多分にあります。「畏れ、拝む」行為の低頭合掌とは違うように思います。「畏れ」は「オホソレ」で、大きく危険な力がこの身に及ばないように大きくそれて欲しいの意味とか。「拝む」は「オレカガム」から来ていて、折れ屈むの意味で身を折り屈んで拝するの意味とか(日本語大辞典だったと思う)。キリスト教のレイハイの考え方とはどこか違うような気がします。ではキリスト教、教会の用いるレイハイはどう言えばよいのでしょうか。もう定着してしまった「礼拝」という言葉を変えるわけにはいきませんから、その意味を聖書から採って呼び名にしている英語圏やドイツ語圏の言葉を紹介しましょう。英語では「サーヴィス」と言う言葉を使います。これは「奉仕」と言う意味です。ドイツ語ではもっとはっきりしていて「ゴッテス・ディーンスト」、訳せば「神への奉仕」、「神に仕えること」となります。しかし、この「ゴッテス」については後述します。「礼拝」と言うときこのような意味を帯びていることを念頭に置いて下さい。「礼拝」の言葉の意味については「礼拝学概論」(由木 康著)を参照して下さい。

 しかしなお付け加えるとすれば、サーヴィス、ゴッテスディーンスト(礼拝)という言葉がそのような意味を持つレイトゥルギアというギリシャ語に由来するからです。しかしながら、聖書以外の、あるいはユダヤ教において用いられた当時のギリシャ世界での意味合いは「責任ある公の職務、職責、任務」を示し、いわば、名誉ある地位の職務を指していました。また、裕福な階級の人々が私費を用いてなされる奉仕の業などをさして用いられた言葉です。聖書にもこの意味合いを含む内容で用いられているところが無くはありません。特にユダヤ教の祭司の務めを指すときにはそうです。それ以外の聖書の用法は大雑把に言ってキリスト者の無私の奉仕の好意を示しています。聖書は名誉あるギリシャ世界のこの言葉に、名誉を顧みない内容を盛り込み、意味上の変質をもたらしたと言ってよいでしょう。ここから英語、独語に訳され、先の言葉が出てきます。

 「サーヴィス」、「ゴッテス・ディーンスト」と言っても誤解して欲しくありません。私たちが「神に仕える」のは勿論ですが、その前に「神が仕えた」という事実が優先していることを覚えなくてはなりません。イエスが徹頭徹尾人に仕えたことに礼拝の起源があるのです。「ゴッテス(神の)」という所有格は「神が」という神の主権と主体があって、「神に」という人間の応答が成り立っていることを明示していると思うのですが如何でしょうか。

 「神が」なされた事への「驚き」、「感謝」、「讃美」・・・というものが私たちの教会の「神へ」の具体的信仰告白を持つのです。その表れが礼拝です。では礼拝がどのような構成になるのか共に考えてみたいと思います。由木康は礼拝の構成要素として預言者的側面と祭司的側面があるとのべ(前掲書)、預言者的面はユダヤ教、旧約聖書から引き継いだ説教であり、祭司的面は聖餐式であると述べています。この2つが礼拝の中心をなすと言います。確かにそうです。ですが、筆者は「神が」という面と「神に」と言う面から礼拝を考えたいと思っています。そのほかにも色々に考えられるのですが、今はこの面から考えていくことにします。由木康は2つの中心と言うことで論を進めていたと思いますが、筆者は2つの焦点と理解しています。中心は円を連想させますが、焦点は楕円を連想します。ここで何が言いたいのかと言いますと2つのものが分かち難く結びついていると言うことを視覚的にとらえていただいた方が両者の関係をイメージし易いと思ったからです。

 礼拝はこの両者が焦点の核になって構成されていきます。一般的には説教があってその後に聖餐がくる場合が多いのですが、熟慮されていれば逆も可能だと個人的には考えています。ここでは礼拝の順序を組み立てるに当たって「神が」と言う面を先にし、「神に」という面を後にしたいと思います。

 「神が」という面は神が徹頭徹尾人に仕えたと言うところから来ていると述べました。神はいつも人を問題にし、人と向き合うことをされます。それは神が人格的存在であるからです。ですから人を愛し、人に仕えようとされたのです。人に仕え、人と向き合うとき神は言葉を持って語りかけ、行動されたのでした。この呼びかけから事が始まるのです。礼拝のありようもこのことに呼応しています。

 「神に」という面は、呼びかけに呼応した人間の側の具体的な行動なのです。由木康は「聖餐式」をもってこの部分を詳しく説明しています。筆者はここのところをなんと呼んだらいいのか迷っています。神のあの出来事が起こり、それに応える人間のドラマが起こる時と場所なので「式」と言うと、ともすれば形骸化しやすいのでそう呼びたくはないのです。神が起こす出来事、それに応える人間のドラマですが、筆者は人間の側の応答という面に焦点を当ててとらえたいと思っています。そこで古来から呼ばれているオフェトリウムがいいかなとは思うのですが、儀式張ってしまう感じがします。これは奉献と訳されていますが日本語としてどうかなと悩みます。英語のオファリングはどうでしょうか。要するに神のなされた出来事に感謝を持って応え、仕える人間の側の何らかの行動を言い表したいのです。初代教会では主の晩餐に用いるものや生活困窮者のための援助の品を携え持ってきて献げたのですから、そのことを言い表す適当な言葉が見つかればいいのです。いまのところは文字通り「ささげること」という言葉で神に対する私たちの行動と気持ちを表しておくことにしましょう。主の晩餐を巡ってこのこととの関係を後述することになります。

 従って「神が」という所を「呼びかけ」、「神に」と言うところを「ささげること」と一応呼んでおくことにします。これを由木康の言葉のように「説教」、「聖餐式」と置き換えて考えて下さっても結構です。

 さて、以下金沢の教会の礼拝の順序の組立に従って説明していくことにしましょう。この礼拝順序は母教会である野毛山教会の礼拝順序を少し手直ししたものですが、その元は日本キリスト教団の礼拝式文を手本としたもののようです。

 

 最初に申しておきたいことは、礼拝の司会者のことです。礼拝の司会者はある意味で説教者よりも大切です。今日、この日の礼拝すべてを執り行う、神と会衆の前での責任者であるからです。キリスト教のこと、教会のこと、礼拝のことに精通熟知した信仰者がその任に当たるべきだと思います。ともすると、私たちの群はそのことをあまり考えていないのではと思わされることがあります。

 

「呼びかけ」

  ①黙祷

 言葉のない祈りです。キリスト教の祈りは神との会話であると言われています。会話である以上言葉が発せられますが、会話は相手の言葉を聞くことがなければ成り立ちません。ここでは私たちが生まれる前から私たちを知り、呼びかけて下さる方の呼びかけの声を聞くことに専念したいと思います。祈るとすれば「神よ、あなたの声をお聞かせ下さい」という内容になるでしょうか。

 余談になりますが、私たちの群の中でオルガンの奏楽をされているところがあります。以前、伝道学院主催で礼拝について考える時が持たれました。その時、筆者と一緒に講師に招かれた大月教会の星合兄に奏楽のことを個人的にお聞きしたいとさる教会のオルガニスとが来られました。筆者は音楽には弱くコンプレックスを持っています。色々の教会のオルガニストの話を聞いたことがありますが、ほとんどど理解できませんでした。音楽の基礎知識が全くなかったからです。もし、私たちの群でオルガンを使うのであれば、東北学院大学の川端純四郎著「礼拝における奏楽の位置」(東北学院大学論集のかなり古いものにあったと思います)はとても参考になるのではないかと思います。オルガニストとしての礼拝における基本的立場と姿勢に言及していたと思いますので是非参考にしてみて下さい。コラール前奏曲のリストは沢山載っていたはずで、これも大いに参考になるはずです。こうした教会音楽的なことは大河内兄に問い合わせてみて下さい。色々の演奏家のCDや色々の出版社の楽譜もご存じと思います。楽譜についてはアルベルト・シュヴァイツアーがブライトコッフ・ウント・ヘルテル社のものを推薦しています。

 余談。これは教会暦に沿ったコラール前奏曲目だったと思いますので教会暦によっていない礼拝を持つ私たちの群はバッハの時代の教会暦のペリコーペによって聖書の箇所を確認されるのがよいでしょう。これについては丸山圭介「バッハと教会」(音楽の友社-以前伝道学院のニュースレターで紹介-)という本があります。現在ドイツ語圏で用いられてる通称エーカーゲー(参考文献目録を参照して下さい)にもペリコーペが記されています。バッハの時代と少し違うでしょうが参考になるでしょう。

  奏楽をする教会の礼拝次第があればこの位置に来ます。私たちの教会の群は無楽器、讃美はアカペラなので筆者はそれを尊びたいと思います。

 余談。 筆者の同級生は日本キリスト教団の牧師であり、オルガニストでもあるのですが、オルガニストとしての悩みを過日聞かせてくれました。大学時代、全大学の礼拝にパイプオルガンを弾く優雅な姿を何度も見ましたが、なかなかの苦労があったなど知る由もありませんでした。特に主日礼拝での苦労は演奏技術的なことよりもその日の礼拝にふさわしい曲か、会衆との関係はどうか、説教との関係はどうか、主を証するものであったかどうか大変なようです。何日もかけて選曲をし、練習をしたにもかかわらず礼拝の時、オルガンの前に着座した途端、今日この日、この場での礼拝には似つかわしくない曲と感じてパニックになることが屡々だそうです。

 またまた余談。アルベルト・シュヴァイツァーのオルガンの先生(フランス人)がバッハのオルガン曲がよく分からないと言ったそうです。シュヴァイツァーは「それは、先生がドイツ語を理解されてないからですよ」と言ったら、「言葉と音楽の関係を君が書き給え」と言うことで、彼の大著「バッハ」が出来上がったとのこと。その序文でフランス人の先生は「彼がこの本を書くことになったのは私の言葉がその端緒になっているので、私には序文を書く権利がある」というようなことをユーモラスに述べていました。その日の聖書のペリコーペや説教の内容と奏楽の楽曲の関係を配慮すると選曲がとても難しいもののようです。また即興的につける和音もその日の礼拝の会衆の雰囲気を考えると至難の業のようです。

 筆者は私たちの群の無楽器と言うことを大切にしたいと思っています。

    ②招きの言葉

  私たちは教会に集まって主の日の礼拝をまもります。教会はその聖書の語源が示すごとく「呼び集められた者」たちの場でもあります。神は言葉をもって私たちを呼び集めて下さるのです。神の招きの言葉が聖書から採られて語られます。これによって礼拝は私たちの業ではなく神の主権によって呼び出され、集められたことを知るのです。私たちが集まったのではなく集められたのです。この世から呼び出されて神のもとへと召集されたことを心に留め置かなくてはなりません。ですから、教会へ到着し、席に着き、司会者の開始の言葉があって礼拝が始まるのではないのです。家を出る前から主が召しておられるのですから、その時から礼拝は始まっているのです。このことは礼拝学の恩師より繰り返し言われてきました。

  ③さんびの歌

 主によって召し集められた事への喜びと感謝を高らかに歌います。呼びかけに応える喜び、主への信頼をもって歌います。礼拝の開会にふさわしい、神の呼びかけに応えるにふさわしいものを選びましょう。

「賛美歌」というのは普通名詞で、「讃美歌」は日本キリスト教団発行のものを言う固有名詞とか。本当かどうか詳しいことは知りませんが、無難なところで「さんびの歌」とし、色々の所の発行になるものを自由に使えるようにするためこのような呼び名にしました。

 多くの場合、曲と歌詞を見るために下を向いて歌っています。讃美の練習を日頃から頻繁に行い、曲と歌詞はしっかり覚え、頭を上げて私たちに対面してしておられる主に向かって讃美をささげましょう。

 余談。さんびを導くためにオルガンを使うところではオルガニストの訓練を十分にされるべきです。オルガニストを養成する学校の先生は「日本のオルガニストはオルガン巧者が多く、自分のオルガンに会衆の讃美を合せるようにするのが多い。私のオルガンについて来て!と言うのだ。音楽のプロなので会衆が音楽的に正確に歌えるようにとの意識が働くようだ。そうではなく、オルガニストが会衆に合わせるべきで、合わせながら、それを支え、主への一つの声の讃美となるよう仕え導いてていくのが務めである。日本には大ホールでリサイタルの出来るオルガニストはゴロゴロいるが、教会のオルガニストはほんの数える程しかいないのは残念。」と言っておられました。

    ④主の祈り

 キリストの教会は主の祈りを唱えません。イエスによって「御国が来た」ので主の祈りは不要になったというのがその理由とか。しかし、礼拝においてこの祈りを唱える必要性があると思います。「天にまします我らの父よ、」という神への呼びかけは礼拝が決して個人的参加のものではないことを示しています。「我ら」という共同体と呼べる場に主は私たちを召し出して下さっているからです。礼拝という場で「私たち」という一つのものにして下さっているからです。それに神学校時代の思い出もあります。ドイツ語による礼拝というのがありました。その時配られたプリントに主の祈りがあり、それが通常のものとは違っていて、現代ドイツ語によるものでした。はじめのところがとても心に残りました。天にいらっしゃる神を「お前」と言う親称で呼びかけているのです。神はそんな風に呼びかけることが出来るなんて嬉しい気持ちでした。勿論ドイツ語聖書では神をそのように呼びかけてはいることは知っていましたが、実際礼拝の場で自分が「お前さん」と呼びかけると気持ちの上で随分と違いますし、神がとても近く親しい者のように感じられたから不思議です。イエスが「アバ父よ(お父ちゃん)。中国語の阿?(アパー)ーと似ていますね」と呼んだことと近いものを感じました。礼拝というものが決してかしこまった窮屈なものではないことをこの主の祈りは示してくれます。それに、人間が考えた祈りではなくイエスが私たちにこう祈りなさいと教えてくれたものです。私たちの祈りに先立って祈るべきものとしてこの位置に置きました。

    ⑤祈祷

  祈りは前項の主の祈りで十分な気がします。しかし、私たちの教会の今日この日の祈りはそれと異なってしかるべきでしょう。主の祈りにその規範を置きながらそこから自由な私たちの状況にあった祈りにすべきです。筆者の実践神学ゼミの恩師は「教会でなされる祈りから『アーメン』を取り除いたら、神社仏閣での祈りと変わらない」と評していました。教会での、しかも主日礼拝の祈りとはどういうものかを心に留めて祈らなければなりません。「家内安全、五穀豊穣、国家安寧」的祈り、御利益の祈りであってはならないのです。どこまでも主の主権が尊ばれ、主に栄光を帰し、主の業を数え上げ、私たちの罪の告白、赦しの嘆願、赦された者の喜び、主の呼びかけへの感謝と讃美等を陳べ祈る。当然の事ながら祈る者の個人的な祈りであってはならず、教会の兄弟姉妹たちの祈りを代表する、とりなすような祭司的祈りになって欲しいです。美辞麗句を延々と連ねる者もいますが簡潔にはっきりと誰にでも聞き取りやすく、理解しやすい言葉で祈るべきです。

 余談。韓国のメソジスト教会の礼拝に出席したことがあります。祈りが20分、説教が20分でした。時間的な長さから言うと祈りも説教も同じ重みを持っていると言うことでしょう。時間的なことはともかくも祈りを非常に大切にしていることが分かりました。内容は韓国語なので分かりませんでしたが。

 またまた余談。日本キリスト教団の加藤常昭牧師が、当時の東独の教会で祈ることを求められて祈ったそうです。自由に、心を込めて、勿論ドイツ語で祈ったのだそうです。すると教会の人たちはびっくりしたとか。ドイツ語で祈ったからではなく、祈祷書によらず自由に祈れると言うことに驚いたとか。私たちの教会は祈祷書がありませんから自由に祈れますが、主の日の礼拝での祈りであることを受け止めて祈りましょう。

  ⑥さんびの歌

 これから語られる神の言葉を聞かしめよ、という気持ちで歌うことが大切。

 以下「さんびの歌」の項でも同じ事ですが、特に説教と讃美の歌との関係は難しく、歌詞も曲もぴったりするものがなく選ぶのに苦労します。筆者の場合は自分のレパートリーが少なく、特に大変で、結局いい加減なところで妥協して選んでしまいます。

    ⑦聖書朗読                                                                                                 

  その日の説教が語られる聖書の言葉が朗読されます。個人的には聖書の言葉だけで説教は要らないかなと半分冗談、半分まじめに考えてしまうことがあります。聖書のオリジナル(翻訳ですが、一応)な言葉で十分と思う時があります。

  朗読者はよく訓練して神の言葉、権威ある言葉にふさわしく朗読しましょう。

 朗読者が朗読しているとき、自分の聖書を開いて黙読している兄姉がおられますが、聖書の言葉は本来読まれるべきものではなく聞くべきものなのです。ですから、朗読されている神の言葉を顔を上げてしっかりと聞きましょう。聖書の翻訳が聞くべき言葉として翻訳されているかどうかについては各教会が判断して、しかるべき翻訳の聖書を選んで見るのも良いでしょう。公同の礼拝で用いるその教会のいわば公用聖書を 決めておくのも良いでしょう。

  余談。件のオルガニストの級友がドイツの教会に出席したとき、聖書朗読の時、一同が起立し聖書の言葉を聞いていたという。聖書の言葉は聞かれるべきものであると言うことを彼に話したとき、ドイツでの思い出として話してくれました。考えさせられます。讃美の歌の時は着座したまま歌っていたとか。

   ⑧説教

「呼びかけ」のクライマックスは説教です。ここで神の言葉が私たちに向けられる    のです。その一番の雛形は「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』。彼は答えた・・・」(創世記3章9、10節)であると思います。 神は私たちに呼びかける。すると私たちは何らかの形で応えることを余儀なくされます。神の呼びかけは私たちに向けられ、私たちの応えを要求する力を持っていると言うことです。説教というものはそのようなものです。説教はこの神の呼びかけなのです。私たちの言葉そのものが即神の言葉、即神の呼びかけそのものにはなりません。私たちの語る言葉は「神はかくかくしかじかを言われている」という、神の言葉、呼びかけの証言なのです。旧約聖書を見てみると「主はかく言われる」、「神はかく言われる」という箇所がたくさんあります。預言者たちが「神はかく言われる」という神の言葉への証言をしているのです。何かにも書きましたが、ここで神の「言葉」について一言述べておくことにします。「神は光あれと言われた。すると光があった」(創世記1章3節)とあるように神が語られる言葉は出来事そのものとなって実現するのです。神の言葉はそれによって引き起こされる出来事と結びついて、表裏一体をなすものなのです。説教は神の言葉、出来事の証言でもあるのです。ですから、説教は私の神学、哲学、思想、信条、社会批評、学問などを語りません。特にイエス・キリストの生と死と復活の出来事を証言します。今は絶版になってしまっているかも知れませんが藤井孝夫著「説教学入門」(日本キリスト教団出版局)を読まれることをお薦めします。これは教会学校教師のために新書版で書かれ、理解しやすい、読みやすい本です。説教はどこまでも証言に留まるものであるこを繰り返し述べています。天才的人物の語ることは人がいつか到達できる人に属するもので、人から出たものだが、説教は神の使信を語ると言うことにおいて人からではない神のメッセージを、呼びかけを語るのです。ちょうど大使が国の意向を相手国に忠実に伝えるのと同じようにです。その時、国の意向を無視して自分の意向を伝えたらどうなるでしょうか。説教は講演のたぐいとは違うのです。聞く者は「どこにいるのか」とその存在を問われていることを感じることでしょう。また、神の出来事が起こった事実について知らされることでしょう。紙幅の関係でこれに留めておきましょう。

 説教を語る者は語ることの内容と自らの行為ののジレンマのうちに生き、それから解放されることはありません。自らの召命感を終始問われるのです。

 余談。「主よ人の望みの喜びよ」との題でよくラジオで流れる曲がありました。聖歌隊に入れてもらったときによく歌いました。バロックの甘く美しい旋律が何とも快いものです。レコードを買ってびっくりしました。その冒頭の曲も美しいのですが歌詞がすばらしいのです。拙訳ですが、「心と口と行いと生活はキリストについて、彼が神であり、救い主であることを懼れることなく、偽ることなしに証しなければならない。」とありました(BWV147)。「主よ人の望みの喜びよ」の旋律はその曲の1部と2部の最後の部分で歌われるコラールとして出てきます。

    ⑨さんびの歌

 「呼びかけられた」、「語られた」神の言葉に応えるさんびにふさわしい言葉と曲が選ばれ歌われます。とは言っても、語られた説教にふさわしい言葉と曲の歌があることは、希と言ってもよいくらい選曲が難しいのです。作詞と作曲の出来る兄姉のおられる教会は創作されることが望ましいと思います。

 

 「ささげること」

 礼拝の2つの中心と言うとき、説教と主の晩餐の2つです。そこで説教と主の晩餐の2つは本来的には深くつながりをもつののなのですが説教を礼拝の前半、主の晩餐は後半というように何となく自然に分離しているように思われています。カトリック教会で礼拝のことを「ミサ」と言うのはこの分離の考えから来ているようです。「イテ・ミサ・エスト」(さあ、出て行きなさい)という退堂を促す言葉から「ミサ」と言われた始まったようです。「これから聖体拝領(主の晩餐)が始まるので、未信者は退堂して下さい」と言っていた言葉が残ったのです。勿論、今ではこの「イテ・ミサ・エスト」という言葉をカトリック教会は新しく解釈し直しています。「祝祷」のところで述べる派遣命令として解釈し直しています。

 2つの中心という表現は礼拝をともすると2つに分けてしまうような気がします。そこで前述したように、視覚的にも両者が分かち難く結びついている楕円形の焦点という言葉の方がわかりやすいように思うのですが、いかがでしょうか。

 神の「呼びかけ」に応える一連の人間の側の行動として「主の晩餐」、「ささげもの」、「報告」などを「ささげること」として捉えてみたいのです。以下、説明します。

     

    ①主の晩餐

 余談ですが、ガリア典礼によると主の晩餐のプログラムの3番目にディプティコス-死者の名簿の朗読-というのがありました。主の晩餐を受けるのは今生きている者だけでなく信仰を伝えた先達たちと共に受けるという、信仰の継承の観点から主の晩餐をとらえていることは興味深いです。第1コリント11章26節と関連させて見るといいですね。礼拝堂の何処かいつでも見える所に逝去者の名前を列挙しておくのもいいですね。

 主の晩餐は福音主義教会ではバプテスマと並んでサクラメントとして考えられています。説教と比べると大きな重みを持っているのですが、しかし、多くの教会では説教の方に重みを置き、主の晩餐はどちらかというと軽視される方向にあると言って良いのかも知れません。私たちの教会はこれを大切なことと信じ、主の命令として守って来ています。とは言っても説教を軽視する意図はありません。礼拝の中で、儀式張った傾向を持ちます。司祭や牧師が執行する儀式めいた傾向を持っていますのでどうしても受け身的なものになりやすく、マンネリになりがちです。少し前まではカトリック教会では司祭はラテン語で執り行い、信徒はその意味を解することは難しく、華麗に執り行われる式を見ているというものでした。カトリックはサクラメントという言葉を「秘跡」と訳していますので何やら秘密めいた儀式に端から見ていると思われたりします。サクラメントと言う言葉は聖書の言葉ではありません。しかし、主の晩餐は主から守るように命令された大事なものです。

  これは様々な言い方がされています。福音主義教会の多くは「聖餐式」と呼んでいます。「主の食卓」、「主の晩餐」、「ユーカリスト」、「コンミュニオン」、「パン裂き」などです。様々に呼ばれていることは一つの言い方では収まりきれない豊富な内容を持っているからだと思います。筆者は個人的には「主の食卓」、「主の晩餐」が良いと思います。カトリック教会は「聖体拝領」と呼んでいます。

 聖書の初代教会は様々なものを持ち寄って食事をしたようです。主の晩餐も持ち寄ったものを用いて行いました。持ち寄ると言う形で「献げる」ことをしたようです。「呼びかけ」に対して「献げる」ことを通して応え、仕えるのです。主イエス・キリストの生と死と復活の出来事は主が人に仕えた、人を救うために奴隷となって人に仕え、「献げ」きることを示す原点でした。それにならって私たちは「献げ」、「仕える」ことをここから学ぶのです。

 「主の晩餐」が儀式化すると形骸化する危険、マンネリズムに陥る危険があります。「聖餐式」とすると何かその傾向が強くなる感じがします。無感動、惰性と習慣、機械的にこれを受けることになったりします。これを防ぐには「主の晩餐」を示していると思われる色々の聖書の箇所を読みとってその多様な意味をその時と場にふさわしく受け取っていくことだと思います。幸い私たちの教会は「礼拝式文」や「祈祷書」など式文化したものを持たないので、自由に、多様な仕方でこれを豊かに守ることの出来る可能性を持っています。信仰的な智慧の持ち方次第では多くの教会に影響を与えうる内容を切り開くことが出来ると思います。

  余談。個人的にカトリック教会、ギリシャ正教会、日本キリスト教団、聖公会などの礼拝に出席し、それらの教会の礼拝の持ち方を経験したことがあります。それぞれの教会にはそれぞれの歴史があり、礼拝の持ち方も様々で私たちが学ぶべきものもあります。しかし、「主の晩餐」の持ち方は司祭や牧師が執り行う儀式の様な気がしました。ですから、カトリック教会は典礼改革を行なって信徒参加型の礼拝に取り組んできているようです。日本キリスト教団の色々な教会で「聖餐式」を持つ回数をもっと増やす方向で動き始めているところもあります。年2回から4回へ、年4回から月に一度と言うようにです。回数を増やせば良い、と言うことではないのを当の教会はよく知っていて本質的な方向を目指してはいます。しかし、なかなかどのようにするかは難しいようです。

 唐突と思われるかも知れませんが、「主の晩餐」は主にささげる「」の面があると思います。京劇やエリザベス王朝時代の演劇とある意味で共通するとSЋGET http://www.bible101.org/images/wmr8;ではとも思います。それはリアルではなくシンボルを用いるという点、シンプルであると言う点です。昔は暗い夜の照明設備はなかったので演劇は昼間に演じたのです。ですから、舞台の机の上に蝋燭が立っていれば場面が夜であることを示し、倒れていれば昼であることを示したのです。京劇の場合背負った旗の数がシンボルとなってで軍勢の数を表したりします。このように色々の約束事の上に成り立っている劇ですから、舞台などもシンプルです。ですから見る方にはかなりの想像力を要求されます。

 主の晩餐は持ち寄り献げられたものを用いて主のあの出来事を再現するのです。初代の弟子たちにとってリアルな「 (または追憶)」となっていたあの晩の出来事を、私たちは弟子たちの「 (または追憶)」を追体験するのです。(または追憶)と書きましたが、実はそれを超える幅の広い、深い意味を持っているのでその一言で表すことは出来ません。これについては後述する事でしょう。主の晩餐を礼拝の中で行なうとき、イエスのあの十字架の出来事、それに向かった彼の誕生の出来事、福音伝道の業、彼の生と死、復活の出来事に繋がるものとして、私たちの目前で起こっていることを信じ受け止めることが大事であると思います。ちょうどのように目前で起こっている神の出来事として受け止めるのです。この出来事は今日も私たちの目の前で起こっている出来事なのです。

  私たちの群のパンはパン種の入らないものです。これは過ぎ越しのパンを意味しています。最後の晩餐が過ぎ越しの食事であったという理解に基づいています。とすれば、イエスの生と死、復活の出来事は、イスラエルの民をエジプトの苦難から救ったことを原型とする神の救いの業がイエスにおいて成就したとの確信であります。

 カトリック教会、聖公会のパンはウエハースのような丸い薄いものであります。それを司祭が一枚づつ舌の上にのせてくれます。日本キリスト教団の多くの教会では食パンをサイコロ状に細かくしたものが配られます。ギリシャ正教会の場合は後述します。私たちの群は丸く焼いたパン種の入らないパンを配餐する者がまず大きく裂くのが一般的です。これは大変良いことだと思います。私たちの目前でイエスの体が裂かれていることを見るからです。主の晩餐が「パン裂き」と言われている所以だと思います。聖書の人々が目撃したことを私たちも目撃するのです。そこには目に見えない聖書の、神の大きなが起こっていることを知るのです。十字架の出来事は2000年前の過去の出来事ではなく神が今も私たちの間に起こしている出来事でもあるのです。ですから私たちの群のパン裂きは大切な意味を持っています。また、十字架につけてその身を裂いているのは2000年前のユダヤ人だけではなく私たち自身であることを思い知らされます。なぜなら、配餐の時には私たちの手でキリストの体になぞらえたパンを裂くからです。十字架につけ死に至らしめたのは私たち自身の手であることを知るのです。

 過ぎ越には戸口に子羊の血を塗りました。イエス・キリストの十字架の血はこの子羊の血でもあります。これは「あなた方のために・・・」と言われたとおり、私たちの罪をあがなう救いのためのものです。

  「取れ、これはわたしのからだである」とイエスはパンを取ったとき言われました。「これはわたしのからである」ということの解釈は一筋縄ではいきません。これには以下のような解釈が大雑把に言ってあると言うに留めておきましょう。  「」、カトリック教会が取っている説。聖体拝領の時、司祭がベルを鳴らすとその時、パンや葡萄酒がイエスの体と血に変化するというものです。「共在説」、パンと葡萄酒の中にイエスの体と血がある、と考えるもので、宗教改革者のルターが採った説です。「象徴説」、キリストの体は昇天して天におられ、地上のパンや葡萄酒はその「象徴」にすぎないとするもので、ツヴィングリが主張しました。「カルヴィン説」、単なる記念の徴ではないし、「共在」もしない。聖霊の働きにより、天にいるキリストの体にるというものです。私たちの教会はこのことをどう考えますか。

 このことと関連して初代教父たちの典礼研究が盛んになり、「エピクレーシス(聖霊を求める祈り)」を見直すことが起こりました。「パンと葡萄酒をイエスの体と血にしてください」と聖霊に求め祈るものです。筆者個人としてはこれを次のように受け取っています。ただ単なる物質にしかすぎないパンと葡萄酒をイエスの体と血と受け取ることは至難のことです。これは信仰がなくては受け取り難いものでありますが、信仰があっても難しいものです。聖霊の助けなくしては不可能と言ったら言い過ぎでしょうか。しかし、先のがリア典礼では聖霊は主の晩餐を取り仕切る主体としてとらえているとか。滞りなく主の晩餐が行われますようにと言う意味の祈りになるとか。教職制を持つ教会だからでしょうか。

  「イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝して・・・」の「感謝」になぞらえて主の食卓を「ユーカリスト(感謝)」と呼ぶこともあります。十字架の出来事によって私たちが救われたことは感謝以外のなにものでもありません。主の晩餐は感謝のうちに、感謝に満ちて受け取りましょう。

  主の晩餐が普通の食事であったか、過ぎ越しの食事であったかについては判断が難しい資料的なことがあります。もし、一般の食事であったなら、豊かな食事も可能でしょう。古代の人にとっては腹一杯食べられて、たっぷり飲める(勿論葡萄酒)のが夢であったでしょう。主の晩餐は天国の食事の予表でもあったことでしょう。ですから、もしこの解釈に立てばもっと違った「主の晩餐」の持ち方が可能でしょう。いわゆる「愛餐」に近い持ち方もできると思います。

  余談。ギリシャ正教会では聖壁(イコノスタシス)の向こう側で司祭たちが天国での食事を思わせるような主の晩餐を開いているようです。信徒は半球型の大きなパンを教会事務所で買ってから司祭に祝福してもらうために渡します。聖壁に阻まれて全く会衆には見えないのですが、パンは聖壁の向こうで祝福されます。半球型の大きなその祝福、聖別されたパンを信徒は家に持って帰って食します。

  「キリストの血にあずかる・・・、体にあずかる」 とある、「あずかる」は「交わり」とも訳される言葉です。口語訳では「あずかる、援助する、施し、交わり」などと訳出されています。ここから、主の食卓は「コンミュニオン」(交わり)とも呼ばれるのです。特にパンについては「パンが一つであるから、私たちは多くいても一つである」とあるように、私たちがキリストにあって一つに合わされていることを示しています。私たちが主にあって交わり、一つの体とされていることは主の賜物として与えられているものです。それは信ずべきものとして与えられた交わりです。ですから私たちの主の晩餐のパンが一つのものとしてはじめに置かれていることの意味を考えさせられます。キリストの教会の伝統は守って行くべきでしょう。神との交わりという縦の交わり、兄弟姉妹たちとの横の交わりも意味しています。

  「わたしを記念するため・・・」、ここの「記念」という言葉はアナムネーシスというのがもとの言葉です。先ほどは (または追憶)と書きましたが、「想起」とも言い表せます。どう言い表すかは一つに決められない深い内容を持っています。チューリッヒ訳聖書はマタイ26章26節からとしてほかの写本からの「取れ、食せ」がこの文の前にあることを脚注で紹介しています。ルター訳は本文に「取れ、食せ」を入れています。口語訳とは少し違いますが、彼の訳は「感謝し、それを裂き、言われた、『取れ、食せ、これはお前たちのために裂かれるわたしの体である。わたしの記念としてこれを行え』。」(第1コリント11章24節)です。この箇所の独訳、英訳について述べる余裕はありませんが、「記念として」の「として」にあたる言葉はギリシャ語本文では「・・・の中へ」という前置詞です。これは「ある方向」を示唆しています。「これを行う」と言うことでそれが見えてくる方向とでも言ったらよいのでしょうか。では「これ」とはどう言うことかと言いますと口語訳でははっきり示されていませんがルター訳やチューリッヒ訳の脚注が示すように「取れ、食せ」という行為だと思います。私たちが主の晩餐ごとに取り、食するという行為を行うごとに導かれる方向です。ですから筆者は「記念」、「記憶」、「想起」、「思い出」という言葉で訳すとしてもアナムネーシスは実質的にはイエスの十字架の出来事そのものを指していると思います。ですから、「あの十字架の出来事の中へとこれを行え」と言うことになると思います。主の晩餐を受け取るごとに私たちはあの十字架の出来事の中に自らの歩を進めることになるのです。自分の目で、心で、理性であの出来事に丸ごとぶつかることを要求されるのです。あのの中へこの身を投じることなくしては神のイエスを通しての救いの計画を信じ、受け止めることは出来ないのだと思います。「取れ、食せ」を前に付け加えたルター訳はのほうが主の晩餐を受け取るにふさわしいと思います。。

  「主の死を告げ知らせる」、ここでは「説教」との関係が問われます。主の晩餐は「説教」と不可分に結びついています。と言う見える形で教会はイエスの死と十字架を告げると同時に、説教という見えない言葉の形でイエスのあの出来事を伝え、告げ広めるのです。神の起こされた出来事は伝えるべき言葉を要求するのです。説教はあの出来事を指し示し、証言するのです。主の晩餐は説教で指し示された出来事を見える形で開示します。ですから、説教と主の晩餐とは表裏一体をなすもので、週ごとにこの二つを行わなくてはならないと思います。

 「彼らは、さんびを歌った後、・・・」(マタイ、マルコ)、この聖書の箇所は最後の晩餐に続くものとして読まれて良いのではないかと思います。もしそうであれば主の晩餐は「さんび」の意味合いを持つことになると思います。

  主の晩餐に当たって読まれるべき聖書の箇所はいろいろあります。その時その場にふさわしいものを選びましょう。

 参考までに述べますと、イエスの最後の晩餐の記事(各福音書の当該箇所)、4000人の食事の平行記事、エマオの途上でイエスと出会う記事などが選ばれるでしょう。

  余談。私たちの群から日本キリスト教団に移ったO牧師、補教師と言う教職制度の身分上、主の晩餐を執り行う資格がありません(説教は出来ます)。にもかかわらず、執り行っています。その教団の重大な規律違反です。そのほかの教派、宗派でも主の晩餐を執行できるのは一定の基準を満たした有資格者である牧師や、司祭です。こうした資格を持っている人が執行してその行為が有効となる考え方を「人効論」(日本語で正式に何というか分かりませんが多分これでいいと思います)と言います。私たちの教会は教職制がありませんので、誰でも主の食卓の当番に当たることが出来ます。他教派宗派の真似をして教職制を持ち込む必要はありませんが、晩餐の当番に当たる人は「主の晩餐」について、礼拝について熟知した人が立つべきと思います。教職制を持つ教会は主の晩餐をそれほど大切と考えているのです。私たちの立場は主の晩餐を執り行うことによってその行為が有効となる「事効論」となるのでしょうか。

  主の晩餐については書けば切りがありませんのでこれで一応終わります。

    ⑪ささげもの

 多くの教会の週報では「献金」となっています。なぜ「ささげもの」にしたかは献金とすると金銭をささげると言う意味合いが強いからです。金銭のみではなく本質的には主がご自身のすべてを、私たちに献げられたように、私たちも私たちのすべてをささげるのが本当だからからです。初代教会では主の晩餐の用意のため、生活の苦しい者たちのためにパンと葡萄酒や色々のものを持ち寄ってその用のために献げました。主が私たちのためにその身を捨てて下さった事への感謝の徴として献げるのです。「ささげもの」は主の晩餐と無関係なものではありません。「ささげもの」として主の晩餐のも私たちが神、キリストにささげる感謝のささげものとしても見ることもできます。礼拝が神へ仕えることでしたから、礼拝は私たちのすべてをささげ切ることで成り立つと言っても良いでしょう。金銭を献げる以上の意味を持っていることを再確認いたしましょう。

 「献金」のとき献金駕篭や袋が礼拝中に廻ってきますが、筆者個人としては礼拝のために教会に来たときに礼拝堂に入る前、受付のところで封筒状のものを受け 取って、それを受付の所に置かれた献金駕篭に入れておくのが良いように思います。「ささげもの」のときに当番がその駕篭をを持って主の食卓に上に献げるのはどうでしょうか。その方が初代教会の持ち寄る形があらわせるかなと思います。

 「主の晩餐」のパンと葡萄酒を初代教会では持ち寄ったのですから何かそのような形があらわせたらいいですね。「主の晩餐」の時になったら、パンと葡萄酒(液)を持って晩餐の食卓に運び、会衆の目前で備えるというのは如何でしょうか。ちなみに、現在ほとんどの教会では食卓の上に用意されている場合、白い布が被せてあります。資料が手元にありませんので正式にはなんと言ったか忘れましたが、この布には名前が付いています。この布を取りのける行為は初代教会の人たちが主の晩餐の用意のために持ち寄った事の象徴的行為だということを何かの文献で読んだことがあります。

  繰り返しになりますが「ささげもの」は主の晩餐の中の一つであり、それと不可分に結びついているのです。また主の晩餐が感謝(ユーカリスト)とも呼ばれていることと感謝の献げものとしての「ささげもの」は一致するところがあります。また、ささげるという行為は自分の身を切ることであるので、前述のようにイエスの「苦難」の出来事とも結びつくところがあります。単なる「献金」と言う言葉では納めておけない内容を持っていると思います。

   ⑫報告

 「報告」も「ささげること」の一つとして考えます。「報告」礼拝の終わりの所にきている教会の週報があります、それはそれでよいのですが、筆者の経験から言うと「報告」は礼拝に含まれないような印象を与えられました。「祝祷」が済むともう礼拝が終わったような気分になったりしました。しかし、「報告」も「ささげること」に含まれると思います。私たちのこと、教会という共同体のこと、この世のことを洗いざらい主の前に携え持って行き、私たちのすべてを主に献げ、主に知っていたどきたいという祈りにも似たものなのです。会衆に知っていただくと言う意味もありますが、主に知っていただくという形での「報告」です。ですから主にささげられる礼拝行為なのだと考えています。

 余談。エキュメニカル・ムーヴメント(世界教会運動)の中でニューヨークのある教会は新聞のニュースを読んだと言います。この世の出来事を神に「私たちの出来事」としてささげる意図があったようです。この世と教会の接点となりうるものとして興味を引く出来事でした。メンフィスのパークアヴェニュー教会の教会学校でその日に祈る内容として生徒に先生が問いかけをしてました。教会の長老の病気、友達のことなどは勿論ありましたが、大統領のこと、地域社会のことなどもありました。教会が世のことを忘れていない事を子どもの時から知ることは大切なことです。

  ⑬とりなしの祈り

 主の前に携え持って来たすべてのことについて、それを主が良き物として下さることを信じ願います。そして前項の教会の事柄、個人的消息と共にこの世の事を祈り、神にすべてを告白し、赦しと祝福を求めます。旧約聖書の中で預言者や祭司たちが神にとりなしを祈ったように、教会が(祈りの当番個人ではなく)祈るのです。キリストが神と私たちの仲立ちをして下さったので、キリストにとりなしをお願いします。特に教会はこの世を代表してキリストにすべてを祈ることが出来ます。キリストが世に仕えたように教会も世に仕えるべくとりなしをし、祈るのです。この点において「とりなしの祈り」も「ささげることに」含まれています。また、神とキリストの意志を世に伝える使命も持っています。

 ⑭頌栄(讃詠)

 「頌栄」は日本基督教団の「ドクソロギア・パルヴァ」の訳語。聖公会では「栄光の頌」、カトリックでは「栄唱」と呼ばれています。三位一体の神が称えられます。「讃美歌」には「讃詠」などが載っていますが、チャントの訳語です。

 心を込めて神に栄光を帰し、感謝を持って歌います。

 ⑮祝祷

 神の祝福を携えてこの世へ、自分の持ち場へ出て行き、またそこへ戻るために祈られるます。礼拝の終わりになされる祈りでありますが、終わりの祈りではなく、この世に、自分の持ち場に仕えるために教会を出ていくのです。いわば「神に仕える」第2の礼拝を始めるべく出ていきます。また、これには「全世界に出ていってすべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16章15節、マタイの平行記事)との主の世への派遣命令も含まれると思います。身をささげるために、福音を携えて教会から去ります。カトリック教会は「イテ・ミサ・エスト」ということをこの世への派遣の言葉として解釈し直しています。

  余談。友達がカトリックの司祭になるための叙階を受けることになり、叙階式に招待されました。叙階式が終わるとカテドラル(司教座教会)の入り口の階段の所に出ました。すると叙階を受けたばかりの生まれたてホヤホヤの司祭の所に信者さんたちが「神父様、祝福を!」と次から次へとやってきました。その度に友達は十字を切って祝福を授けます。これを見ていて、祝福を受けると言うことを自分が熱心に追い求めているかどうかを問われたような気がしてなりませんでした。「祝祷」によって主から受けた祝福の重みを考えさせられます。

 

 礼拝とは何かという本質的なことをキリストの教会の中で考えるつもりで書くはづでしたが、書き終わってみると、少ししか触れられませんでした。30年前と同じようなものに結果的になりました。筆者は学者ではなく、伝道者なので日頃思っていることを雑感として書いてみました。兄姉の声に押されて何らかの刺激を共有できたらと思ったからです。

 私たちの教会は礼拝についてあまり考えてきたことはないのではないかと思います。伝道者や教会の有志たちはそれぞれ個々に考え、考えたことを実践に移してきたかも知れません。しかし、公に文書として見たことはないように思います。筆者が属している教会、金沢キリストの教会の礼拝の順序に従って書いてみました。言い足りないことはたくさんありますが、またの機会にしましょう。

 

  最後の余談。文中「日本キリスト教団」としましたが正しくは「日本基督教団」です。その教団で「基督」を片仮名にする動きがあるようですが、台湾や韓国の教会が漢字のままの「日本基督教団」にしておいて欲しいと言う要望が強いとか。漢字を共有する国ならではのことですね。

 ギリシャ正教会のものはギリシャ正教会の高橋保行司祭がよく著作をしています。東京ニコライ堂の司祭です。筆者が彼の発表を聞いたのはかなり前で、ニューヨークの神学校を出られたばかりで日本語がおぼつかない話し方をされていたのが印象的でした。

 第2バチカン公会議の後のカトリックの動向についてはクリュソストモス、ヒュッポリュトスなど古代教父の研究を深くされて有名な土屋正吉神父(上智大教授)から学ぶことが多かったのですが筆者の知識不足と能力不足でどの程度理解できたか疑問です。

 聖公会、カトリック、ギリシャ正教会の司祭、日本基督教団、ルーテル、バプテストの牧師や、オルガニスト、聖歌隊の責任者、オルガニストを養成する先生たちからも学ぶことが多くありました。これらの学びをして思ったのは私たちの群の先達たちの考えたことは基本的に間違ってはいないと言うことでした。私たちがそれを今、どう捉え、どう考えるかと言うことが問われていると思います。

 

参考文献(書名、発行年など正確さに欠けるところもあると思います。)

 辞典類 聖書大辞典キリスト新聞社  1971年

    キリスト教大辞典  教文館 1967年 今日ではいささか古い。

  キリスト教礼拝辞典  日本基督教団出版局  1987年

    キリスト教礼拝音楽辞典 同上 (正確な書名を忘れました。さんび指導奉仕 者などには必要かも)

  広辞苑 新村 出編  4版岩波書店  1991年

  日本国語大辞典  日本大辞典刊行会小学館1977年

  GREEK-ENGLISH  LEXICON , Liddell  and  Scott,  OXFORD  AT  THE   CLARENDON  PRESS,  1980  小型で便利。

    A  GREEK-ENGLISH  LEXICON  OF  THE  NEW  TESTAMENT

   and Other Early Christian Literature,  Walter  Bauer  Arndt他訳

   THE  UNIVERSITY  OF  CHICAGO  PRESS 出版  独語版の翻訳。

   Die  Religion  in  Geschichte  und  Gegenwart, 3.Auflage 通称当該項目

J, C. B. Mohr(Paul  Siebeck), Tubingen,  1986

   Handkonkordanz  zum  griechen  Neuen  Testament, Alfred  Schmoller,1938 簡易コンコルダンツとして便利。しかし、訳がラテン語なのが難点。

 聖書 口語訳聖書  日本聖書協会 

  新改訳聖書    日本聖書刊行会

  新共同訳聖書 日本聖書協会

  文語訳聖書    日本聖書協会

 聖書    ドンボスコ社(カトリックの聖書)

  HOLY  BIBLE  (NIV)

  HOLY  BIBLE  (ASV) ギリシャ語原文に即しての英訳として有名。

  HOLY  BIBLE  (KJV)

  HOLY BIBLE (RSV) 筆者はまだ何冊かの英訳聖書を持っていますが、今回 用いたのは以上の4冊です。

  DIE  BIBEL  (チューリッヒ訳)

  DIE  HEILIGE  SCHRIFT  (ルター訳)

 Die  Gute  Nachricht-Das Neue Testament in heutigem Deutsch, ドイツ語圏の福音主  義教会、カトリック教会共同発行 ぐっと砕けた現代口語のドイツ語聖     書で英語版Good Newsと同じコンセプトで企画されたもの 1967,   Wurtembergische Bibelanstalt Stuttgart

 ドイツ語で書かれた注解書通称NTDにある個人訳はとても参考になる。

  NOVUM  TESTAMENTUM  GRAECE  24,26版 (NESTLE-ALAND校閲)

 THE  GREEK  NEW  TESTAMENT  3  (MATHEW  BLACK校閲 アメリカを始め数カ国の聖書協会が出版している、いわゆる国際標準ギリシャ語聖書と言われるもの)

  さんび歌

 聖歌  日本福音連盟聖歌編集委員会  いのちのことば社 1959年

 讃美歌-第2編付き-  日本基督教団出版局  1977年

 教会コワイヤ・ブック 第1巻 木岡英三郎著 キリスト教音楽出版社 1958 讃美歌21 日本基督教団出版局   1998年

 Great  Songs  of  The  Church -Number two- ,  Great  Songs  Press,  1959 米国の  キリスト教会で以前広く用いられていたもの

 PRAISE  HYMN  -Book Numbers One,Two,Three,Four- 新しい感覚のものも含ま  れている。米国のキリストの教会で用いられている。

 GESANGBUCH, EVANGELISHES KIRCHEN GESANGBUCH(通称

      Aufgabe  fur  die  Nordelbische  Evangelisch-Lutherische  Kirche

 ドイツ語圏の讃美歌集で筆者所有のは北エルベ地方版のもの。ドイツ語圏 共通の部分と各地方別の部分とで構成されている。ある地方版ではいわゆ る「きよしこのよる」が載っていないものがあるとか。

 主日の聖書ペリコーペと祈祷その他が掲載されている

 式文・祈祷書(教会に供えてあると参考になる)

ミサ典書 (第2バチカン公会議以前のもの)

祈祷書  (聖公会) 最近のは横書きで内容も改められ、口語になっている。

口語式文  日本基督教団

 書籍

礼拝学概論  由木 康  新教出版  1998年(復刻版)必読基本図書 

キリスト教の礼拝  J.E.ホワイト著、越川弘英訳  日本基督教団出版局 2000

 基本的なことをすべてと言って良いほど網羅、百科的図書。

イエスと新約聖書の教会  松木治三郎 日本基督教団出版局   1973年

礼拝-その本質と実際- レイモンド・アバ著 滝沢陽一訳 日本基督教団出版局

 礼拝とは何かについての基本図書。

聖書的説教とは  渡辺善太  日本基督教団出版局  1968年

聖餐  日本基督教団宣教研究所編 日本基督教団出版局  1987年

聖餐論  フォン・アルメン著  土居真俊訳 日本基督教団出版局 1972年

 主の晩餐を考えるに当たっての必読書。

現代における宣教と礼拝 J.G.デーヴィス著 岸本羊一訳 日本基督教団出版局  1972年 エキュメニカル運動の中での礼拝について知る図書

信条集  キリスト教古典叢書  新教出版  1957年 教会の図書として供 えて欲しい図書

礼拝における奏楽の位置 川端純四郎  東北学院大学論集 第9号 1977.12

説教学入門  藤井孝夫 日本基督教団出版局 説教について平易に書かれた図書

公会議後の教会神学 英知大学神学研究所 田口芳五郎 英知大学  1967年

神學の聲 11-1968  聖公會神学院  1968年

神學研究 第21号 關西學院神學研究会1972年

 

 一応筆者の目を通したものを伝道学院の図書によって書名、著者、出版社、出版年などを調べてリストにしました。しかし、これ以外にも目を通したのがあります。しかし、書名、出版社を思い出せないので省きました。その後伝道学院で購入していただいたものも図書室にあります。礼拝に関する本が近年多くなってきています。広告を見ただけでも結構ありました。キリスト教書店で本の目録を手にされて見るのも良いでしょう。礼拝に関する雑誌や大学の紀要の論文などはインターネットで調べることも可能でしょう。同志社大学神学部のホームページの聖書学の情報の項をみたことがあります。色々の神学校のホームページを開く事もできるでしょう。こうして文献や資料集めが出来ますが、大事なのは私たちの群の教会の礼拝を建てあげることへの努力の糧とすることです。そして、教会の兄弟姉妹たちと共に祈り考え合うことです。