《ある讚美歌史   It is well with my soul

                          讚美歌 520  聖歌 476

 

 

  先日はご一緒に古い讚美歌 547番「思ひいづるだに恥ずかしや」を歌いました。

その他に聖歌 338番に「いとも善きものを主に捧げよ」や 541番に「皆捧げ奉り」が

あります。  若い時はやる気満々、健康に恵まれ、経済的能力に於いても好調です。

  しかし加齢者となり、健康が衰え始め、経済的能力も低下し、年金に頼った生活を

始めるに従い上記のような聖歌を声高く歌うことに躊躇を覚えるようになります。

 

    先週そのようなことを考えていた時に箴言3章9節~10節に目が留まりました。

そのこととの関連で上記聖書箇所をも併せて読んでみました。  すなわち「初穂」に

関する主の定めです。  「初物・初穂 the first fruitを以て主を崇め誉め讚えよ」

という旧約の教えです。  考え込んで思考が停止してしまったようになりました。

  この老骨者に一体何を主が更に求められるのだろうか、どうやって応えたらよいの

だろうかと戸惑い、そこから脱出することも前進することもできませんでした。

 

    獨逸人で英国に渡った人にジョージ・ミュラーGeorge Muller 1805-1898 という

人がいました。  現代ふうに言うのなら福音伝道者、聖書的信仰理解と確信から特に

孤児やユダヤ人を愛した博愛主義者、社会事業家、聖書普及運動実践者‥再臨待望者

などとも言えるのかも知れません。  あるいは賀川豊彦の規模を更に拡大したタイプ

の人物であったとも言えるのかも知れません。  プリマス・ブレズレンの群れに属し

ていました。

 

  ミュラーを有名にさせたのは孤児に対する献身でした。  最初は数名の孤児の世話

をしていましたが、いつの間にか2千人を越えたと言われています。  ブリストルの

郊外に孤児を収容する為に5棟の建物を含む大きな施設を信仰一本槍で設立したので

す。  必要なものは必ず主が備えて下さるとの堅い祈りの信仰に立っての事でした。

  孤児院を維持するためにミュラーの懐にはどれだけの献金が注ぎ込まれたのか誰も

わからないほどであったと言われていますが、そのことごとくをミュラーは主の栄光

の為に、孤児の育成の為に使い、己自身は常に無一文者であったと言われています。

  没直前には東洋伝道に関心を抱いていたようですし、キリスト再臨待望信仰の強い

人でもありました。

 

  半世紀前に私がケンタッキーの聖書大学に留学していたとき、ギリシャ語で聖書を

読む事を教えて下さったボイド老教授はミュラーを個人的にご存知であったようでし

た。  授業中に幾度も「神の摂理へのミュラーの堅い信仰」を語って下さいました。

 

    初穂・初物…  キリスト信仰を抱く前の青年ミュラーは自己中心の放縦放蕩生活

に浸っていたのです。  それがイェスに出会って創り変えられたのです。  捧げる人

へと創り変えられたのです。  仕える人に創り変えられたのです。  初穂を捧げて主

を崇める喜びを体験する人と創り変えられたのです。  ミュラーさんと同じ主イェス

を信じている私たち、同じ恩寵に与っている私たちにも可能な筈だと思うのです。

 

 

  私たちの小さな群れの為にいつも暖かい交わりの手を差し伸べて下さっている方

で、元茨城基督教学園に派遣されていた宣教師、今はテネシー州在住のマッケイさん

Br. Graham Clayton McKay, Spring Hill, Tennesseeがいらっしゃいます。

 

    そのマッケイさん、最近はナッシュヴィルで或る老紳士に昼食を配達する奉仕を

されています。  米国カナダ讚美歌協会前会長レノルズさん Dr.William Reynolds

す。  私も同協会の協力会員として会費と共に応分の維持特別献金をしています。

  マッケイさんは同協会員ではないようですが、ご存知のように讚美歌史を一冊最近

出版されており、讚美歌に深い造詣があります。  良いヴォランティアー活動です。

 

    このレノルズ博士と先日マッケイさんは昼食を共にされました。

その時に博士が、日本語の讚美歌では 520番、聖歌 476番の原文、 It is well with

my soul の作詞者スパッフォード Mr. and Mrs. Horatio G. Spafford さんご夫妻と

エルサレムで一緒にお茶を飲んだことがある…と、そのようにマッケイさんに語られ

たそうです。

 

  世界中でたくさんの聖徒たちが愛唱しているこの有名な讚美歌の作詞者と私たちが

不思議なクリスチャンの糸で繋がっているのだと、神さまの一方的な恩寵で神の家族

の一員として加えられていることの素晴らしさを、あらためて覚えた次第です。

そのような理由で私はこの讚美歌が生まれた以下の背景を調べてみました。

 

    ホレシオ・スパッフォードさんはニューヨーク州ノーストロイで18281020

日に生れた人です。  その後シカゴに移住し若くして弁護士として成功した人です。

経済的に成功しただけではなく、シカゴの長老教会のメンバーとして、シカゴを中心

としたクリスチャン・ビジネスマンとして、伝道や奉仕活動を積極的に支援していた

のです。

 

  先日ご紹介しました「九十九匹の羊」の背景説明文ですでに申しましたが、当時の

欧米世界で積極的に伝道活動をしていた福音説教者ムーディーや讚美歌手サンキーの

巡回伝道を積極的に支援していた一人でもありました。  極めて洗練された人物で、

霊的な人でもあったようです。  聖書の学徒としても知られていたそうです。

 

    米国史を学ぶ時に出会う出来事の一つにシカゴ大火災 the Great Fire of 1871

というものがあります。  パトリック・オリアリーの牛小屋から出火し十万人が家屋

を失ったという大火災でした。  以後シカゴでは木造住宅が禁止されました。

  蛇足ですが、日本人に分かりやすく説明しますと、映画「風と共に去りぬ」の時代

からすぐ後の出来事です。  南北戦争集結直後でした。  南の人にはその後遺症から

まだ立ち直れないような時期でした。  大火災被害者への救援を深南部教会の指導者

リプスコムが憎悪を乗り越えて深南部の教会に呼びかけていた時期でもありました。

 

    火災がシカゴを襲う数ヶ月前のことですが、スパッフォードさんはミシガン湖の

湖畔リゾート地区の邸宅に投資したばかりでした。  しかし大火災で投資したものを

すべて完全に失ってしまったのでした。  大邸宅や財産のことを英語ではエステイト

estateと言います。

  しかし同時にこの単語は、人生の状況や状態を表す意味としても使われますので、

2節目の歌詞の中では、彼の財産と境遇の二つの意味を兼ねて使われています。

 

    スパッフォードさんがこのように二つの意味を含めて、エステートという単語を

使って作詞した理由というのは、実はスパッフォードさん夫妻にとって、この大火災

ですべての財産を失う少し前に、最愛の息子を猩紅熱で失っていたからでした。

 

    合い重なった予期せぬ出来事で心身共に疲れきっていたスパッフォードさん一家

はヨーロッパに休暇旅行を思いつきました。

  ただ単に慰安旅行に行くというだけではなく、常日頃から支えていたムーディー・

サンキー伝道隊がイングランドを中心にスコットランドなど各地を廻る伝道旅行中で

あったので、伝道隊に合流してお手伝いをしたいとも願ってのことでした。

  夫妻と四人の娘さんたち合計六名で大西洋を越えヨーロッパに出発する手筈が整い

ました。  1873年(明治6年)11月出港予定でした。

 

    出発直前になって大切な仕事が飛び込んで来ましたので、スパッフォードさんは

シカゴに残り、すぐ後から出港する船を利用して家族に追いつくことにして、夫人と

四人の娘さんたちが予定どおり蒸気汽船 Ville du Havre 号で出発したのでした。

  しかし船は大西洋の真ん中まで来た1122日にイギリスの鋼鉄製帆船ロッチアーン

Lochearn号と衝突し、僅か十二分間で深い海中へと沈没してしまったのです。

 

    数日後に一握りの生存者たちはウエールズ南端のカディフ港に上陸しました。

スパッフォード夫人は、後から同じ大西洋航路で先発の家族を追いかけて来ることに

なっていた夫君スパッフォードさんに、「Saved alone =我一人のみ生存せり」と、

たったふたことの電報を送ったのです。

 

    数日後スパッフォードさんは途方に暮れている夫人のもとに向かって同じ大西洋

航路の船客となりました。

 

  船が四人の娘さんたちを呑み込んだ悲劇の地点あたりに差しかかった時、長老教会

の信仰、すなわち、神の主権という教義、すべてのことを神は予定されているという

カルヴィン主義を強く信じていたスパッフォードさんは、度重なって襲って来た災難

のド真ん中にあって、When sorrows like sea billows roll‥(複数形の)悲しみが

荒海の荒波の如くに我を襲って来ようとも… it is well with my soul  それでも

すべては我が魂にとって善きことであり、大丈夫だ…と書き留めたとされています。

 

    この詩の中で特にスパッフォードさんの信仰をもっとも良く表現している部分は

三節と四節であると言われています。

 

  すなわち、第三節でスパッフォードさんは、筆舌では言い表せないような悲しみの

只中にいたであろうと容易に想像できますが、そのような中で主イェス・キリストの

贖罪の業を強く意識して第三節を作詞していたとう点でしょう。

  そして更に第四節において、主イェス・キリストの再臨の栄光を覚えて、悲しみの

ドン底に在りながらも、総てのことが主の再臨の栄光の内に喜びと感謝の絶頂に達す

るという信仰で作詞を終えているということではないかと思います。

 

    スパッフォードさんの想いを思う時、日本語訳では、讚美歌の訳のほうが聖歌の

訳よりも原文に忠実かと思います。

  聖歌 476の第四節において主イェス・キリストの再臨を語っていますが、天変地異

のその只中にあって、御前に侍る聖徒たちが恐怖を伴って主イェスにまみえるような

印象を与えかねない訳だと思います。

  原文には「"Even so" it is well with my soul ‥“それにもかかわらず、それで

あっても”我が魂には良いのだ…」と書いてありますので、聖歌の訳の方が忠実な訳

なのでしょうが、讚美歌の訳の方が詩的には美しいと私は個人的にそのように思いま

す。  その点で讚美歌 520番第四節にはそのような響きが少ないと思うのですが…

 

    いずれにしても一人の人間が耐えられる悲しみや苦しみや迷いというものには、

ある程度の限度、限界というものがあるように思うのですが、スパッフォードさんは

ほとんど間を置かないで、全財産を火災で失い、猩紅熱で息子を失い、海難事故では

四人の娘さんを同時に失ってしまったのです。

 

  このような逆境の中に在っても、それにもかかわらず It is well with my soul

自分は大丈夫だ…自分の魂は大丈夫なんだ…と告白できたスパッフォードさんの信仰

を熟考してみますと、これの讚美の詩にはスパッフォードさんの生きた信仰の強さを

感じさせてくれると思います。  このような信仰の持ち主になりたいと願います。

 

    しかし後年に到って、これらの苦悩から来たものなのか、スパッフォードさんは

心の平安を欠くようになり、幻影・幻想に悩まされるようになり、エルサレムに移住

し、1888年に六十歳で帰天したのです。

  帰天される前のスパッフォードさんと、前述のアメリカ・カナダ讚美歌協会元会長

ウイリアム・レノルズさんがエルサレムでお茶を飲んで話しあったと、レノルズ翁に

ヴォランティアーでお世話をされているマッケイさんに話されたのです。

  レノルズさんも長老教会員ですが、御両親はテキサスでキリストの教会員であった

とのことです。

 

    スパッフォード家の重なる悲劇体験と強い信仰を知ったのが作曲家フィリップ・

ブリス Phillip P. Bliss でした。  1876年にサンキー・ブリス讚美歌集に発表しま

した。  正式名称は「福音讚美歌集第二編 Gospel Hymns No. Two です。

  ブリスはその生涯を通して数多くの讚美歌を作詞作曲した人物として知られていま

す。  日本の讚美歌 332,501,508,523と聖歌 196,459,523,654,734に出ています。

 

    詩編3114節、 142編3節、ガラテヤ書2章20節、そしてペテロ前書4章19節を

讚美歌 520番や聖歌 476番の歌詞と併せて読んでみるのも善いかと思います。

  「初穂・初物」を主に捧げるということに於いても、いろいろな方法があるものだ

と教えられた次第です。  (物語は数冊の英文の讚美歌史から纏めてみました。)