《ボストン運動、すなわち》

      《東京キリストの教会・日本キリストの教会・国際キリストの教会》

                  《〔絶対的献身伝道運動〕に関する所感》

 

  【どなたかがこの運動に関する拙翻訳文をインターネットに掲載されました】

        【http://www.geocities.co.jp/Berkeley/9080/ をご覧下さい】

 

  20数年前に米国フロリダ州ゲインズヴィルの無楽器キリストの教会でクロスローズ

教会から生まれた「クロスローズ運動」という一種の献身運動がありました。

  その後この運動はマサチューセッツ州ボストンに飛び火して大きな運動へと成長し

ました。

 

  本来、無楽器教群は南北戦争前後から第一次世界大戦前後迄の間に深南部を基盤に

発達して来た農村型の教群で律法主義傾向の強い教群でした。  そのような信仰理解

の故に社会的にも文化的にも経済的にも全く異なる旧北軍側の北東部に深南部を基盤

とする教会とその信仰理解が定着するのは困難だと長いあいだ思われていました。

 

  この伝説を打破しようとクロスローズ運動の指導者だったキップ・マッキーンなる

青年がボストンで、それまで深南部無楽器教群が考えなかった型破りの方法で集会数

と出席者を増やし、街を幾つかのブロックに分けて形式ばらない聖書研究会を中心に

勢力を拡大し、日曜日には大きな公共建物を利用して全員が集まり礼拝を守るという

信者勧誘政策を実行しました。  数字上の結果や統計上の数字が極めて異常なまでに

強調されました。  アメリカ人の典型的な実益主義が強調されました。

 

  このこともこの運動の母体であった深南部の無楽器教群や、この運動自体の性格を

良く表していると思います。  すなわち、『救いは神の恩寵による』という基本的な

理解が決定的に欠落したままで、生命力を既に失っていた体制的で宗教儀式が中心の

既存の諸教派教会が多く存在していたボストン地域に急速に拡がって行きました。

 

  こうして、それまでは不可能とされていた北東部のボストンで「絶対的献身運動」

なるものが始まりました。  最初は有楽器教群からも無楽器教群からも嘗てなかった

現象として賞賛の目で見られた一時期もあって、多くの人々がボストン集会を見学に

訪れましたが、次第にこの運動の危険性を指摘する声が強くなって行きました。

  有楽器教群の有力な指導者の一人でカレッジ・プレスというキリスト教の出版社を

経営する故人Dはボストンに出向き見学した後で、この運動を賞賛する文を発表した

事がありました。  私は彼に直ちに問題点を指摘する文を送ったことがあります。

 

  その内に、全米主要都市で大きな教会堂や建物や不動産を所有していた教会、温厚

で善良な信者たちが集まっていた教会が次々にこの「ボストン運動」の活動家によっ

ていわゆる「乗っ取られる」という事態が起り始めました。  また反社会的とまでは

行かなくても、極めて非社会的な問題がこの運動に「勧誘されて入信した」青年たち

の間に生じるようになったのです。

  尚、彼らの言う「伝道」と言うものは、私たちが通常使う意味での伝道・宣教とは

異なり、その意味で伝道・宣教などとはとうてい呼べるものではないので、ここでは

敢えて「勧誘」という語彙を用いました。  或る意味でマルチ商法に似ています。

 

  更に、この運動を支える彼らの信仰理解、福音理解が、主イェス・キリストの恩寵

に根拠を置かず、人の業によって救いを得よう、得られると説くことや、この運動内

だけで通用する極めて異常な縦社会構造、ピラミッド体制の中に「勧誘された」者が

閉じ込められ、一種の「洗脳された状態」の中に急速に組み込まれて行くという事実

が明らかにされていったからです。  先進国各地で悲痛な叫び声が発生しました。

 

  この時点からこの運動は無楽器キリストの諸教会と有楽器キリストの諸教会の多く

からカルト集団と非難され始め、その結果として急速に運動体の孤立化・ゲットー化

が進み、母体であったキリストの諸教会との交わりを喪失していったのです。

 

  代々木八幡教会の設立宣教師であったGの母校、有名なH大学の聖書学部長のAで

すらこの運動に魅せられて「入信」しました。  当時この事は相当な衝撃と当惑をA

と彼を愛していた家族、尊敬していた友人や学生、信じていた教会や学校に与えたの

を今でも鮮明に覚えています。  然し、幸いにもこの運動の本質的な誤りに気づいた

Aはのちに脱出に成功しました。  脱洗脳にも忍耐と苦痛と祈りを要したようです。

 

  神の力である福音を人の業によってすり替えようとしているという批判、すなわち

神の恩寵を人が何かを「する」とか「しない」という行為義認主義や律法主義とすり

替えようとしているという批判が高まって来ました。

 

  目先の可視的面数字面だけが常に強調されていて、神の恩寵による救いがいっさい

語られていないと批判する声も出てきましたが、その間にもこの運動はそれらの批判

には馬耳東風で、孤絶化したままで、日本進出をも着々と計画していたのでした。

 

  同教会設立宣教師Gは、自己顕示欲が極めて強い人で、目的のためには手段を選ば

ない冷酷無慈悲な人でした。  連合軍の日本占領が終わって間もなく、日本から引き

揚げ、母国の無楽器教群の諸大学で海外宣教論などを教えていましたが、テキサスの

A大学ではGが来るのなら辞任すると言い出した聖書学部の教授たちもいたようで、

Gの性格面と評価や交友関係の一面を物語っていると私は思っています。

 

  人生最後の教鞭をテネシー州ナッシュヴィルにある古い名門校Dで教えたいと願っ

たGは、同校が太平洋戦争勃発直前まで雑司ヶ谷で宣教活動をしていたマッケーレブ

宣教師の業を称える記念館を設立しようとしているのを知って、横浜市本牧埠頭傍に

あった元占領米軍人用キリストの教会の不動産を売却した資金を寄付するから自分を

大学教授に就職させて欲しいと交渉したようです。

 

  Gの日本宣教を経済的に強力に支援し続けていたシカゴのコーネル・アヴェニュー

・キリストの教会は、マッケーレブ宣教師やその長男ハーディングさんとも深い関係

にあり、Gも長男Hさんに良くして貰ったことがあったので、D大学がマッケーレブ

記念館を建てたいと願っていたことに対しGが関心を抱いたとしても、それはそれで

無理からぬことだと理解できます。

  問題は、記念館建設に興味を抱くことと、同校に就職したいからといって本牧資金

を私物化して同校に持参金としてちらつかせるということは別の次元の問題です。

  当時、同校に子供さんを留学させていた筈の航空会社のYさんが、G宣教師に利用

されて連絡役をさせられていたと私は思いますし、Yさんも「献金」申し込みに関し

て何かをご存知であるのかも知れないと思っています。

 

  この不動産売却資金は、野毛山教会と六角橋教会と代々木八幡教会の伝道者たちに

よって紳士協定が結ばれ、日本のキリストの諸教会のために三者が合意して使用する

ものとして久しく協定が守られて来ていたものでした。G個人が左右できるという性

質のものでは決してありませんでした。日本の敗戦で米軍の占領下にあった時に恰か

も占領軍の一部のような錯覚のまま宣教活動をしていたG元宣教師には、本牧の不動

産の売却資金をも個人で左右できるものと錯覚していたものと推測します。この紳士

協定を結んだ三教会には現在でもそのことの証人が生存されています。

  私は同大学の責任者に会いに行き、その資金がG元宣教師のものではなく、日本の

諸教会の資金であることを伝えました。  結果的にG元宣教師は本牧の資金を彼個人

の同大学への持参金として提供することができず、教授職を得ることはできませんで

した。  その後まもなく、G元宣教師はボストン運動にのめり込んで行ったのです。

 

  彼の性格から考えて見て、実益主義、合理主義、成功主義、自己顕示欲を満たすた

めにはボストン運動こそ格好の手段と映ったものと想像します。  こうしてボストン

運動の対日本進出計画の推進連絡役を引き受けることとなったものと推測します。

  Gはボストン運動の最高指導者キップ・マッキーンに対しても、恐らく本牧資金を

諦めないで、なおも使用可能であると語ったのではないだろうかと、そのように私は

推測しています。

 

  元代々木八幡教会の伝道者でGの愛弟子であったMさんと、その娘さんがボストン

運動の熱心な支持者になったこともあって、Mさんが運動を日本に積極的に推薦した

ことは事実です。  Mさんは、『この運動しか日本教会を奮い立たせる手段はない』

と確信していたようで、そのように私にロサンゼルスでお目にかかった時も、東京で

お目にかかった時にも、また、幾たびかの国際電話でも、Mさんからそのように伺っ

ていました。  このことに関しては既に去る11月5日号ベタニヤつうしん4頁以下に

説明しておいたとおりです。

 

  すなわち、G元宣教師も、私たち夫婦が個人的に兄のように愛していたMさんも、

残念なことですが、恩寵に頼らず、可視的面でのみ信仰の成長を捉えたからだと私は

考えています。  真面目で一生懸命のようですが、一生懸命に間違っているのです。

 

  1986年初夏から、このボストン運動が、その世界伝道の一環として、旧代々木八幡

基督之教会を拠点として、主として青年や学生を対象に活発な勧誘活動を開始したの

です。  当時の同教会役員たちや周辺諸教会の伝道者たちの反対があったにもかかわ

らず、旧代々木八幡基督之教会の設立宣教師のGや、同宣教師に愛された元伝道者M

さんや、元長老で法曹界の重鎮Iなどが内部から積極的に手引きしたこともあって、

実質的に形骸化していた同教会を、結果的に極めて巧みに「乗っ取ること」に成功し

たのです。

 

  もっとも教会設立当初から、敗戦によって心身ともに疲弊し切っていた我が国が、

米軍によって占領されていたという異常事態の下で、占領軍の一翼を担うように振る

舞っていた若い宣教師たちと、彼らが持ち込んで来たマニフェスト・デスティニーの

露骨な精神と、深南部教会の律法主義というものがもたらした「ボタンの掛け違い」

が続けられて来ていた教会ですから、ボストン運動の指導者たちが自己正当化手段と

して使う常套手段の言いわけ、すなわち、『なまぬるい教会や死んでいる教会を我々

がよみがえらせるのだ』と言い逃れを、こともあろうに代々木八幡教会に当てはめる

のは奇妙な話です。

 

  むしろ、そのような状態にあの教会を長年に亙って無責任に放棄していたのはGで

あったとも言えますし、然し、今ここで特定の誰を責めるということもできないだろ

うと思います。

  嘗てペパダイン大学院で私に基督教思想史を指導して下さったホートン教授、のち

茨城に宣教師として来日された恩師がおっしゃったように、『滅びなければならない

教会は必ず滅ぶもの』なのでしょうか。

 

  また、旧東京中央基督の教会(現御茶の水キリストの教会)から穏やかに分離して

生まれた教会ではなかったこともあり、『我々だけが唯一正しい教会である』とする

G宣教師指導の下では他教会とも交わりがなく、教会どうし間での切瑳琢磨もなく、

困った時にも相談できるような仲間の教会も伝道者もいなかったという深刻な問題が

ありました。  友や師を持たないという事は悲劇ですし、孤絶した教会も悲劇です。

 

  さらに、軍国大日本帝国が弾圧を加え続けて来ていたわけですから、恐怖政治から

解放されたとはいえ、そのことが直ちに我が国に優れた霊的、神学的、聖書的な準備

の充分に整っていた人材が竹の子のようにどんどんと芽を出してくるということには

なりませんでした。  それは、エジプトの奴隷支配から解放されたイスラェルの民が

すぐに約束の地に入って新秩序を確立し得なかったのと同じ理由です。  日本人側に

霊的にも聖書的にも神学的にも毅然とした態度を保てるような指導者候補生はなかっ

たのです。

 

  G宣教師自身が久しく「不在地主」でありながら、その間に複数の優れた日本人の

指導者たちの育成や養成をG宣教師自身が怠ったことなどがあげられるのではないか

と、そのように思います。  Gは米国のキリストの教会関連の大学で『俺さまだけが

土着教会を東京で育て上げている』と豪語し続け、『俺は海外宣教学の権威者だ』と

語って深南部の無楽器教群から出て来た若い学生たちに教壇から臨んでいたのです。

 

  G自身が日本人を信じていなかったのか、優れた人材を選び抜く目と、それを養育

する能力や包容力や長期的展望に欠けていたのかも知れません。  彼の周辺には常に

『イェス・サー!』マンや「アメリカ教信者達」が取り巻いていた思うのです。

占領下という異常な時代背景が大きく影響していたのを否むことはできません。

 

  宣教師に言われて長老になり、宣教師に言われて長老を辞任するという元判事でし

た。  「白人アメリカ教」崇拝信者が多過ぎたとも言えると思っています。

『俺は日本で初めて代々木八幡に長老制を敷いた宣教師だ』と米国内では自己宣伝を

していたG宣教師でしたが、実態はそういうものでした。  使徒行伝20章28節や第1

テモテ3章に明記してあるような霊的・聖書的な長老ではなく、宗教行事的、形式的

な、脆弱な名目だけの長老制度でした。  他に任命された人々も自然消滅でした。

 

  G宣教師は、大日本帝国の首都を占領していた強大な米占領軍の将兵を見方にし、

他の宣教師らを牛耳るような権勢を振るっていた人物であったのを覚えています。

  明治神宮西南側で現在の NHK本館がある渋谷区神南近辺にはワシントン・ハイツと

称する占領軍高級将校家族用の住宅地が拡がっていました。  その中にSという将校

がいました。  G宣教師の強力な後ろ盾の一人でした。  代々木八幡教会の日曜礼拝

には大勢の米占領軍将兵たちも来ていましたし、英語礼拝もありました。

 

  Gは、占領米軍将兵のクリスチャンたちだけでなく、横浜や山梨や沖縄に展開して

いた同僚の若い宣教師たちの間でも自己顕示欲の強い、弁論の立つ指導者でした。

  茨城キリスト教学園を設立しようとしていた同僚の若手宣教師たちとも時には競い

時には協力していたように記憶しています。  指導力のある、鼻っぱしの強い、強引

で意志の強い、目的の為には手段を選ばぬ驕慢不適な男であったと記憶しています。

 

  『なまぬるい教会を生き返らせる』とボストン指導者たちは豪語しているようです

が、このように、「なまぬるい教会」を設立し、育て、中途で放棄した責任の多くは

G宣教師にあったと私は考えています。  これは皮肉なことです。

 

  来日した同運動指導者キップ・マッキーンは1986年3月3日、彼に問いただすため

に集合した東京周辺諸教会の伝道者・牧師たちに対し、『最初の6ケ月間だけ代々木

八幡教会で一緒に礼拝を守るが、その後は別の場所で自分たちだけの集会を開く』と

公約しました。  結果的にその約束は守られませんでした。  この席上には同教会の

元伝道者Mさんが同運動を日本に積極的に紹介する人物として同席していました。

このキップ・マッキーンの発言をMさんも今でも覚えておられるようです。

 

  『ボストン運動を俺たちの教会には絶対に入れない』と豪語していた筈の旧代々木

八幡教会の役員たちでしたが、G元宣教師の嘗ての典型的な『イエス・サー・マン』

であった元判事で弁護士業を開業していたIさんが作成した書類で、教会役員の反対

にも拘らず、宣教師査証を手に、長年不在地主であったGは、堂々と再入国を果たし

たのでした。  この点でアメリカ教信者、G教信者であったIの責任は重大でした。

  『死んだら教会墓地に入れてくれる』とのGとの約束を信じてのことであったと、

後日私はそのように聞きました。  結果的に教会墓地には入らなかったそうです。

 

  一方、あれほど一致団結を豪語していた旧役員たちでしたが、目だった抵抗の努力

を見聞きすることは残念でしたがありませんでした。  他教会との交わりを持たず、

孤絶していた教会でしたから無理もなかったのかも知れません。

 

  脱線ですがその一例として、ボストンが進攻して来る前の話ですが、或る水曜日の

夕方、何か気になった私は、自転車で代々木八幡教会を訪ねてみることにしました。

  誰もいない筈の教育館の一室に電燈の光りを見ました。  勝手を知った建物です。

中に入るとそこには教会堂守として住んでいた或る米国人青年WJが数名の日本人青年

と「英語聖書研究会」というのを終える直前でした。  日本人青年たちの表情は異常

で、彼らが統一原理協会・勝共連盟からではないかと直感的に思いました。

 

  集会の終わりにWJが日本人たちに祈るように促しました。  祈りを聞いて私の危惧

は的中しました。  翌朝さっそく代々木八幡教会の代表役員をしていたOさんに電話

し、周辺他教会の伝道者たちにも報告しました。

  結果的にWJは教会から退去を迫られ、統一原理協会の青年たちの提供したトラック

と勤労奉仕で座間方面に移って行ったと、少し後になってから聞きました。

  教会と谷を一つ隔てた近くの松濤町などの高級住宅地にその当時は統一原理協会・

勝共連盟関係の諸施設が多くあり、守りの薄かった代々木八幡教会は確実に乗っ取り

の対象となっていたものと推測します。

 

  脱線といえば、更なる脱線になりますが、G宣教師不在中の或る期間に、Gの依頼

を受けて、Gの義息DJさんが代々木八幡教会に赴任して来たことがありました。

謙虚で良く学んでいる好青年でした。  Gには二人の娘がいたのです。

  或る日、突然の電話でDJの妻、Gの娘の一人が、代々木八幡教会の古いメンバーの

Sさんの高校生の息子と駆け落ちして二人はアメリカに逃避行したというのです。

  仲間の宣教師EPさんと私たち夫婦は早速DJを訪れ、途方に暮れていたDJを励まし、

荷造りを手伝いました。  突然の事態で彼には飛行機代がないと知った私と妻は自宅

の小銭を掻き集めて10万円近くをポケットに入れて再度訪れてDJに手渡しました。

 

  驚いたことに、教会員たちの殆どは事態に対して無関心、無感覚、無感動でした。

例の弁護士Iさんがやって来て『野村さん、こんなことはアメリカじゃしょっちゅう

あることですょ』とシャーシャーと笑いながら語りかけるだけでした。  そのような

「生き殺し」状態に教会があってもG宣教師は無責任にも不在地主状態でした。

 

  その後、同教会の代表役員、主管者代理人であった後輩のOさんが私を二度に亙り

訪ねて来て、『母教会に戻って伝道者になって欲しい』と懇願しました。

  私は、それが主の御旨ではないし、教会員全員の意志と希望でもないし、そのよう

な重責に耐えられるような器でもないし、とりわけGの承認と祝福を到底得られるよ

うな者でもないので、友情を謝しながら、丁重にお断りしたことを現在でも『それで

良かったのだ』と感謝して思い出しています。

 

  このような事態を誰も気づかないで、日曜礼拝だけがかろうじて守られていた教会

でしたから、ボストン指導者たちが「死んだ教会、なまぬるい教会」と断定したのに

も一理はあると思います。  G宣教師の責任は重大だと思います。

 

  その他にも、最後にもう一つ記憶しておくべきこととして、ボストン勢侵入の少し

前ですが、同教会の中心人物の一部が密かに個人的に教会員たちに語りかけて、ある

日突然に、別の教会を近くに設立した動きがあり、これも代々木八幡教会の弱体化に

確実に繋がったものと私は教会史の生徒として考えています。  この予期せぬ分裂は

実に衝撃的な出来事で、不幸なことでしたが、今となっては、神さまのみが知り給う

こと、ご判断なさる事柄だと思います。  人とは多くの過ちを犯す者のようです。

 

  話を元に戻しますが、G元宣教師の入国に必要であった法務省に提出する教会から

の招聘状は、こうしてG宣教師来日反対の態度を明白に打ち出していた教会役員会の

頭越しに、予想もしなかったルートで提出され受理されたのでした。

残念でしたが、元役員たちは結果的に蜘蛛の子を散らすが如く散り去りました。

 

  一部の人たちは他の教会に移って行きました。  その後はどこの教会にも顔を出さ

なくなった人々もいるようです。  一部の者は代々木八幡教会を乗っ取ったボストン

指導者たちから除名通知書を受け取りました。  主イェスの御身体であるエクレシア

から除名するというのですから、天国の鍵を握るとされているローマ教会の法王より

もボストン運動指導者たちは神の前に権力と実力を独占しているものと思います。

 

  いずれにせよ、『ボストンを絶対に入れない!』と豪語していた人たちでしたので

本当に残念なことでした。  みなさん嘗て私の日曜学校の生徒さんや、私たち夫婦に

とっては親しい大切な友人であり、愛する後輩たちであっただけに今でも複雑な思い

で一杯です。  何も考えないで、そのまま残っている「人畜無害」な人もいます。

 

  ボストン運動が活動を開始した当時、上智大学学生課の責任者の外国人神父や国際

基督教大学学生課やキリスト教系新聞社などに警告の意味で情報を提供しましたが、

それらの団体でも、旧代々木八幡教会の役員たちと同様に、私の警告に耳を傾ける事

はありませんでした。  暫くして問題が発生始めてから慌てて問い合わせがありまし

た。  同じ「キリストの教会」ですから一時期は抗議や問い合わせが殺到しました。

 

  東大に留学していたペンシルヴァニアから来ていたバプテスト教会の牧師の娘さん

も勧誘され深みに嵌り始めました。  早稲田の方の英語を話す教会の宣教師から連絡

があり親の牧師さんには国際電話をかけ相談に乗り、米国内で対処するように関係者

たちの電話番号や出版物を紹介した事もありました。  問題が解決すると、その後は

お礼のカードすら送られて来ませんでした。  人間とはお互いに身勝手なものです。

 

  このような身勝手な反応を相談を受けた親たちの殆どから受け続けていましたので

ボストン運動の「被害者」たちに手を貸し相談に乗るというのは「疲れ果てるだけの

くたびれ儲け」の感を否めません。  この親にしてこの子ありの感をも受けました。

 

  そして、必ずと言ってよいほどオロオロと右往左往する母親だけが『助けて!』と

時間かまわず電話をしてくる始末でした。  そこには父親の姿を見ませんでした。

異常でした。

 

  正直なところ汚い表現で恐縮ですが、『勝手にしやがれっつ!お前さんたち夫婦が

子育てに失敗しておいて、困った時だけ気安く身勝手にSOSを発信するなっ!

  夫婦二人で自分の子供を救出しようとしないで、他人に任せるという姿勢はなんて

ザマなんだ!  トウチャンはどうした!  トウチャンはどこにいる!  会社を辞めて

も、家屋を売っ払らってでも子供を救いたいという姿勢を見せてみろ!  子供がクソ

真面目にアーメン・ソーメンやってんだ!  それがおかしいって言うんなら親が先ず

聖書を真剣に読んでみろ!  親がまず近くの教会の門を真剣に叩いて見ろ!と、まぁ

幾度も実は心の中では叫びたくなっていました。

 

  子供が脱出できた瞬間、ありがとうございますも述べないで、どこかに消え去って

いってしまう親ばかりでした。

  八ケ岳から夫婦が一日かけて、電車賃も自腹で、手弁当で東京まで出かけて行って

幾度か相談に乗ったあとの始末が必ずこの仕打ちでした。  エネルギーも、時間も、

オカネも、有り余っている中からの奉仕ではないので、度重なるとガッカリします。

  一組だけ、名誉のために申しておきますが、或るKとおしゃるご両親は真剣で誠実

な方でした。  犠牲者の子供さんは酷い鬱状態から抜け出せずお困りのようです。

 

  私は、他の宗教カルト諸集団から被害者の救出を専門に研究されている諸先生がた

と意見が違うかも知れませんが、ボストン運動が反社会的集団であるとか偽キリスト

教団体=異端集団であるとかの認識を持っている訳では必ずしもありません。

  主の恩寵理解に欠けた極端過ぎる疑似アルミニウス的信仰理解に問題があり、疑似

教祖的存在者の声だけに、縦社会ですから上層部指導者の勧めにだけ耳を傾けるよう

にいつも訓練され、洗脳されている点に深刻な問題がある集団だと思っていますが、

主イェスにある兄弟姉妹に違いはないと思います。  歪められた福音、パウロによれ

ば呪われるべき福音理解の犠牲者でり、神の無条件の恩寵と癒が必要な状態に置かれ

ている仲間だと思っています。

 

  各個人がその責任と自由において聖書を読み考えるという点が欠落していると思い

ます。  キリストの教会という運動、聖書復帰運動、基督者が新約聖書に戻ることで

基督者の一致を求めるという運動は、実にこの各基督者の自由と独立という点に於い

てこそ発揮出来るのです。

  この点に於いて、ボストン運動は「キリストの教会」という名を使っていますが、

限りなく疑似宗教カルト的だと思っています。  キリストの教会の生い立ちの基本的

歴史すら何も知らない、教えられていない、学ぼうともしない集団だと思います。

 

  さて一方、以上のようにして、韓国系の運動活動家フランク・キムが送りこまれ、

(現在では日本名に改めているようです)代々木八幡教会は瞬く間にボストン運動の

活動家の手にいとも簡単に陥落したのです。  Gの愛弟子で秀才であるようです。

 

  同教会役員たちも、周辺の諸教会もこれに立ち向かうというような気骨のある姿勢

を見せ得なかったのは誠に残念なことであったと思います。  最初から孤絶していた

教会に兄弟教会があり得たわけでもありませんでした。  指導者の養成ということも

全く欠落したままでしたから、これも致し方のない当然の成り行きだったのかも知れ

ません。  「地主不在」の長いあいだ、それでもそれなりに精一杯の努力をして畑を

耕していた少数の者たちは、語り合い祈り合う仲間の教会もなく、中心的な指導者も

なく、まともに宗教的・聖書的・神学的訓練を受けた者が居る訳でもなく、それでも

彼らなりに全力投球をしたのちに玉砕したようなものだとも言えます。

あとは神さまのみが総てをご存知のことと思っています。

 

  既に述べましたように、このようして、元本牧米軍人教会売却資金も、戦後久しく

キリストの諸教会が共有特権として使用し続けていた本栖クリスチャン・キャンプ場

も、教会墓地も、何ら汗水一滴たりとも流すこともなく、歴史的経過を知ることもな

く、まるで地から沸いて来たようにボストンの運動活動家は簡単に入手したのです。

 

  本栖キャンプ場は、我が国が米軍占領下にあった時代にキリストの諸教会の宣教師

たちが営林署から青少年育成目的で広大な土地を借りた物件で、営林署に賃貸料金を

支払ったりする窓口として旧代々木八幡教会がその任に当たることになっただけの事

で、旧代々木八幡教会が所有したり独占使用権を得ていた訳ではありません。

  このようにして使用権を得てからは、主として関東首都圏内や静岡県下や山梨県下

の諸キリストの教会とその会員たちが本栖クリスチャン・キャンプ委員会を設けて、

毎年多大の金銭物品や労力を提供し続けて維持管理して来たものでした。  沖縄から

北海道まで、時には有楽器諸教会をも含めて、沢山の人々が利用して来た共同財産で

あったのです。  そのような事情を何も知らないボストン運動指導者たちは歴史的に

深い想いでのあるキャンプ場を、いとも簡単に乗っ取ってしまったのです。

 

  尚、このボストン運動に限ったわけではありませんが、普通一般の教派の一つとし

ての日本のキリストの教会の多くが、米国のキリストの教会系列のクリスチャン大学

から基督者学生たちを夏になると積極的に招いて「レッツ・スタート・トーキング」

というプログラムを指導させています。

  これは、無料英語会話を手段に教会に人々を勧誘しようとする発想から出たもので

す。  多くの場合、米国学生は自分たち又は教会から援助を得て旅費と滞在費に充当

し、彼らの言葉を借りれば、「日本宣教」に従事し、神さまに「一肌脱いであげる」

式の無意識の、善意で無邪気ですが、危険な発想が潜んでいるように私は思います。

 

  そこには深く日本文化や歴史や、日本社会に於けるキリスト教が置かれているいろ

いろな問題に対する関心や興味は見られず、日本語の準備も殆どなく、陽気で無邪気

なアメリカ人青年たちが「指導者として日本人を教える」という発想です。

  この事をよしとする日本側の教会や伝道者もあれば、苦々しく思う教会や伝道者も

います。  そして、鉄のカーテン崩壊後には、旧ソ連邦各地に同じような主旨で勇ん

で「伝道」に出かける米国教会や米国の青年たちが後を絶ちません。

 

  日本人の白人に対する複雑なコンプレックスが如実に表されるのがこの種の企画だ

と思います。  今まで教会に来た事のない日本人で米国人、とりわけ白人に憧れてい

る人々が教会堂に溢れ吾がもの顔に振る舞うように兎角なりがちです。  それ迄忠実

に礼拝を守っていたクリスチャンたちはこの現象に押されて隅に置かれてしまうよう

な寂しさを体験する事があるようです。  米国人が帰ればそれらの人の殆どは教会を

去るようです。

 

  また、このように「常に何かを他人にして貰う」事に慣れてしまう日本人基督者が

それでは自ら海外に宣教に行く気持ちになるかといえば、そう言う事には繋がらない

という別の深刻な問題もあると思います。  この種の安易な人集め企画のもう一つの

落とし穴ではないかと、そのように私は考えています。

 

  また、そのような人集めの企画をして数を誇って報告できる教会とは裏腹に、その

ような企画をしない教会や出来ない小さな教会、非都会の教会は、何となく取り残さ

れたような錯覚に陥る誘惑があるようで、この辺りもそのような企画を計画実行する

教会が配慮しなければならない点ではないかとも思っています。

 

  さて、最後に、そのような米国教会と米国人青年たちの陽気で積極的行動に就いて

考えてみましょう。  (私は反米でも親米でもなく知米でありたいと願っています)

  その裏には米国の1ドル紙幣裏面左側に描かれているピラミッドの意味する問題点

を理解する必要があると思っています。  辞書でマニフェスト・デスティニーという

単語の意味するものを理解する必要があるでしょう。

 

  アングロサクソン系でプロテスタントの白人米国が、米国周辺のみならず、全世界

を、全宇宙を、彼らの価値感覚や文化や宗教で支配するという覇権主義の発想です。

アメリカ原理主義と呼んでもよいかと思います。

  湾岸戦争も、沖縄駐留軍も、そしてボストン運動の全世界獲得熱も、実はアメリカ

原理主義と、アメリカ教会に顕著な原理主義キリスト教が理解するマタイ伝28章19節

20節の世界宣教のイエスの大宣託とがごっちゃ混ぜになっていると思います。

  この理解なくしては実は語れないのです。  ついでにと言うと語弊がありますが、

Manifest Destinyマニフェスト・デスティニーを百科事典などでお調べ下さい。

 

                              2003年9月1日

            408-0031  山梨県北巨摩郡長坂町小荒間1381  野村基之

                    電話 0551-32-5579 Fax: 0551-32-4999

      motofish@eps4.comlink.ne.jp    http://www.bible101.org/nomura

 

            以上の文章は少なくとも約10年ほど前に書いたものです。

    今回それを多少推敲し、改めて「ベタニヤつうしん」付属として出します。