《三日坊主》

 

  このあいだ元旦を祝ったばかりだというのに今日はすでにもう1月22日です。

  お正月が来るたびに『よしっ!今年は~ナニナニをやるんだ!』と決心することが多い

ようです。  それはそれで善いことなのでしょう。  だが Wait and see!です。

  はなはだ残念なことですが、そのような「決意」というものは、わたくしの場合、

三日坊主どころか舌の先が乾かない内にケロリと忘れ去ってしまうということです。

 

  それと同じように、ほとんどの人間は善いことをしたい‥悪いことをしたくない‥

善い事をやろう!‥悪いことはやるまい!‥と何度もなんども心に決めるものです。

  しかし、それを実行することとなると、善いことを願う心があるにもかかわらず、

まったく別のこと、すなわち、その反対のことをやっている自分を発見するのです。

 

  今から二千年ほど前に、自分にも他人にも厳しかったパウロという男がいました。

ロマ書7章16節~8章4節で『自分の心はとても弱い』と嘆いています。

                                                               ノモス

  『私は私がやりたくないと願っていることをやっている。  それは律法が善いもの

であると私が同意していることになる。  さてそのことをやっているのはもはや私で

はなく、私の中に住みついている罪である。  私の中には善いものが住みついていな

いことを経験からよぉ~く知っている。  私には善いことをしたいと願うことはでき

るが、私にはそれを実行できないのだ。  私がやりたいと願っている善いことを私は

ちっともやらないし、私が願っていない悪いことばかりを私はやってしまうのだ!

 

  そういうわけで、そういうことは私がやっているというのではなく、私の心の中に

巣食っている罪がやっているのだ‥  ああっ、こんな私とは何と言う哀れで惨めな男

なんだろう!!  この死のからだから私を救い出してくれることができるのは誰なんだ

ろう?!  我々の主イェス・キリストを通して神さまに感謝を捧げたい!

 

  このようなわけで、今やキリスト・イェスに在る者に対しては罪への非難・宣告・

処罰というものはいっさいなくなったのだ!  罪と死の原理・律法・原則ノモス から

キリスト・イェスに在るいのちの霊の原理ノモス があなたを解き放って下さったのだ。

  なぜなら、肉の弱さによって律法ノモス ができなかったことを、罪のために罪深い

肉と同じような形をとって御自分の御子を送ってくださり、肉において罪を処罰して

下さったのだ。  それは肉によって歩むのではなく、聖霊に従って歩む我々にの中に

律法ノモス の正当な要求が満たされるためなのである』  (野村仮私訳)

 

  元旦ごとに、毎年お正月ごとに、飽きることもなく、懲りることもなく、私たちは

善意で「新年の決意」とか「今年度の目標」などというものを設定するのです。

  そしてそのほとんどは、いわゆる「三日坊主」に終わってしまい、「元の木阿弥」

状態に戻り、またまた失望してしまうことが多いのです。

 

  使徒パウロが言うように、私たちの肉体の中に宿る善玉は、同じように宿る悪玉と

の闘いにおいて大体は負けてしまうことが多いのです。  罪の力、罪の為す業です。

  私たちは、いわゆる「人間性悪説」よりも「人間性善説」を信じたいのです。

また、同様にに私たちは他人さまのお世話になって生きる生きかたよりも、すなわち

「他力本願な生きかた」よりも何とか自分の力で生きて行きたい、つまり「自力本願

の生きかた」を選びたいと願うのが普通であろうかと思います。

 

  人間性善説も、自力本願の生きかたも、それはそれで尊いことでありましょう。

しかし、実際には私たちが自分の力だけで、自分の意志だけで、何か善いことを始め

ようとしても、始めたとしても、自分の意志には限界があり、だいじょうぶだと思っ

ていたはずの自分の力にも限界があることに気づき、途中であきらめたり、挫折して

しまうことのほうが多いのです。  独りでやるには人生は厳し過ぎますし、シンドイ

のです。

 

  しかし、そのような自力本願ではなくて、主イェスへの信仰、聖霊の助けを得て、

神さまの恩寵によって清められて歩むのであれば、失敗することはないのです。

 

  聖歌 406番に「胸の奥に潜む罪と汚れに…」という、イェスにすがることを勧める

きれいにな誘いの歌があります。  イェスの愛にすがる人生には、基本的に、平安と

喜びが与えられると告げています。  如何なものでしょうか?