6章  ホイットバーンの神学大学院

 

  すでにいくどか述べましたが、アイルランドやスコットランドの歴史書や教会史の

教本が少ないのが一つの悩みの種です。

  また、今ひとつ別の問題は、私が居住しているこの八ヶ嶽南麓の原生林から東京の

図書館なり書店を訪れるということは、老骨にとって決して楽なことではないという

現実です。

 

  すでに紹介してきましたように、渡米するのがトーマスより遅れたキャンベル一家

が新世界へ念願の移住をしようとロンドンデリーを出港してノース海峡に出たとたん

嵐に遭遇し船は難破してしまいました。  かろうじて対岸のアイレー島にたどり着く

ことができましたが、引っ越し荷物のほとんどを海中に失ってしまいました。

  このため、その後こん日まで、キャンベル研究をする者にとって、貴重な資料源を

失ったままであり、キャンベル一家のアイルランド時代の詳しい記録に欠けるという

事態を招いたままでいます。

 

  トーマス・キャンベルがシープ・ブリッジの先輩教友ジョン・キンレイの全面的な

経済的援助を得てグラスゴー大学に留学した期間中の詳しい資料も海難事故のために

何も残されていないのです。

 

  おそらく1786年にトーマスがグラスゴー大学を優秀な成績で卒業したのではない

かということは、そのあとで彼の属していた教群の神学塾を卒業するのに五年かかる

ことと、卒業した年が1791年であったことを考えれば、逆算して1786年であろうと

推測できるのです。

 

  そのような推測を基に、トーマス・キャンベルは翌1787年に再びスコットランドの

ホイットバーン Whitburn にあった同じ教群の神学校に入学したのです。

  ホイットバーンは、それまでトーマスが学んでいたグラスゴー大学からさらに東の

エジンバラとのほぼ中間点にある小さな都市です。  アイルランドのベルファスト港

から連絡船を利用して約二百粁先のグラスゴー港に到着し、さらに陸路を五十粁ほど

乗合馬車のようなものを利用したものと想像します。

 

  大英百科事典にはホイットバーン関連の記事が全く掲載されていませんでした。

インターネットを媒介して得ることができた情報が少しだけありました。

 

  十四世紀半ばの記録によりますと最初は Whytbourne と綴っていたようです。

有名な衣料品リヴァイ・ストラウスの工場や獨逸のフォークス・ワーゲン自動車工場

がかつては存在していたようで、町が活気に溢れていた時の人口は一万人ほどだった

そうですが、これらの工場が撤退した現在では四、五千人に減ったとかです。

 

  歴史的文化遺産的なものとしては、ポークメット・ハウス the Polkemmet House

かつてイギリス軍やポーランド軍の兵舎として使われた建物が残っています。

  ハーフ・ウエイ・ハウス the Half Way House というのも現存しているようです。

名前から想像しますと、エジンバラとグラスゴーのほぼ中間点に位置している建物で

あるのか、あるいはどこか他の町との中間点を指すのではないかと思います。

詳細はわかりませんが、本文とはおそらく関係がないものと思います。

 

  トーマスがホイットバーンに来る二十年ほど前に建てられたとされているブルース

・フィールド・チャーチ the Brucefield Church  の古い教会堂も現存しているよう

ですから、トーマス・キャンベルもこれらの建物の前を通ったことがあろうかと想像

できます。  いつの日にか日本からキャンベル父子研究家が同市を訪問し、さらなる

詳細調査が行われることを希望することと致しましょう。

 

 

  ここまで筆を進めていたとき、去る四月に発行され、注文しておいた書籍が到着し

ました。  ディサイプルズ系のテキサス・クリスチャン大学出版局と、テネシー州の

ナッシュヴィルにあるディサイプルズの歴史協会(仮私訳)との共同作品です。

 

      "Alexander Campbell, Adventure in Freedom"  by Eva Jean Wrather,

       a project of TCU and the Disciples of Christ Historical Society,

                          Fort Worth, Texas, 2005

 

  著者エヴァ・ジーン・ラサー女史がその生前八十余年をかけて調べて書かれたもの

で、信仰の自由を追求したアレキサンダー・キャンベルの生涯を扱ったものです。

  女史が遺された遺稿を編集して出版にまで漕ぎ着けるのには少なくても最低数年は

かかるであろうと言われていたものを、 Dr. Duane Cummins  らの努力で予想よりも

はるかに早く出版できたという労作です。

  著書の中にはアレキサンダーおよび父トーマスが学んだグラスゴー大学のことや、

ホイットバーンの神学校のことにも触れた頁があります。  同神学校の建物の写真も

掲載されています。  船の難破のこともよく調べて詳しく書いてあり脱帽です。

  私に残されている時間と頁数と財力を考えますと、二百六十余頁のこの力作の内容

をどの程度までつけ加えて読者の皆さんに紹介できるのか疑問がのこります。

 

 

  さて、ホイットバーンにはトーマスが所属していた教派、the Anti-Burger branch

of the Seceder Church 、現在のも、過去の長老教会の組織や制度や伝統や慣習にも

全く無縁な私には、正確に、しかも正式に、どのように翻訳してよいのかわからない

ままで今日までいるのですが、スコットランド長老教会、実質的には国教会から脱退

した分離派教会内の臣従宣誓拒否派とでも訳したらよいのかと考えている一派が維持

する神学校が存在していたのです。

  こん日ふうに言えば四年制大学卒業生が入学する学校であったようですから、神学

大学院に相当するのではないかと思いますが、その規模から考えてみますと、むしろ

「神学塾」とか「神学舎」と訳したほうがより正確に学び舎の性格を表現するのでは

ないかと思ったほどの小規模な神学校だったようです。

  転載許可を得ることができれば、この学校が開かれていた建物の写真を紹介したい

と思い交渉中です。

 

  ローマ・カトリック教会支配時代を経て英国国教会支配時代となり、そこから更に

スコットランド教会と、動乱の数世紀を通過して来たスコットランド教会でした。

  しかし、古くからの教会の慣習、とりわけ政治的権力者・軍事的支配者たちの利権

に関する慣習・伝統というものは、支配者の「首」だけが据え代えられたとしても、

おいそれと簡単に最下部まで全面的に改められたというわけではなかったはずだと、

限られた私の理解範囲内のことですが、そのように理解しています。

 

  上記のどの教会の首であれ、教会の大主教・大司教などは私たちの想像をはるかに

超えた権力と財力を持っていた存在のようでした。  これに地元の有力者や領主さま

たちも加わり、自分の政治的支配圏が及ぶ地域内に自分の財力で教会堂を建て、その

教会に自分の意を汲む司祭なり牧師を配属し、そして教会を自分の意のままに支配し

ていたようです。  自分の教会を利用して自分の領地内の貧しい農民たちを徹底的に

支配していたことになります。

 

 

  こういうしきたりから、パトロン制度というものも当然のことですが発達したよう

です。  パトロンたちは莫大な収益を農民たちから得ていたのです。  巨大な利権を

伴う、誘惑に満ち溢れたこのパトロン制度は、当然のことですが、巨額の金銭でやり

取りされることも時としてあったようです。

 

  このパトロンたち、そのほとんどは上述のように大司教サマや大主教サマ、または

軍事的・政治的支配者、あるいは領主サマたちであったようですが、その下にはまた

さらに城下町や市町村の有力者たちがうごめいており、パトロンたちの下で甘い汁を

吸おうと、パトロンが建てて支配する教会に忠誠を誓い、教会の指導的地位を得よう

としていたのでした。 それがのちの市町村行政担当者らに受け継がれていたのです。

そのような教会がスコットランド国教会には多く残っていたのだと思います。

もとともローマ・カトリック教会から英国国教会が受け継いだしきたりが、こんどは

スコットランド国教会になっても、基本的に同じようにそのような既存体制を維持し

踏襲していたものと思います。 当然この慣習を善しとしない人々が出てきます。

 

 そのような状況の中で、ある教区の牧師職に空席が生まれたそうです。

教区内のクリスチャンたちは自分の教区の牧師を自分で選びたいと考えました。

しかし、スコットランド国教会は、そのような牧師選択権や任命権は教区の信者たち

にあるのではなく、スコットランド教会にあると主張して、教区の人々の求めを拒否

したのです。

 

 アースキン牧師はそのような教会の決定はクリスチャンたちが各自の意思と決意で

自分たちのミニスターを選ぶことを疎外するものであり、「教会規律」に反するもので

あると主張し、会衆を支持し、国教会と対決する結果を生み出しました。

 

 アースキンEbenezer Erskine1680年にスコットランド南東部でイングランド境界

から北三十キロほどのドライバラ Dryburgh Abbeyといういう町で牧師の息子として

生まれ、エジンバラ大学卒業後ポートモウク Portmoak とスターリングStirling

牧師として二十八年間よく仕えた、多才で想像力に満ちた人であったそうです。

ポートモウクは小さな村なのか、ナショナル・ジオグラフィー発行の相当詳しい地図で

調べましたが見つかりませんでした。 スターリングは、グラスゴーとエジンバラの

中間にホイットバーンがありますが、そこからほぼまっすぐ上のほうに四十キロほどの

地点にある大きな都会のようです。

 

 ポートモウクでは1703年から仕え、スターリングには1731年に赴任しています。

その間のアースキンは、改革派教会(スコットランド教会)とスコットランド宗教

改革を極めて忠実に支持していました。 かの国の宗教改革は別名でカヴェナント、

すなわち神と人間との間の契約 Covenant を主張する運動でもありました。

アースキンもスコットランドの契約神学を強く信奉していた牧師の一人でした。

 

 それだけに、アースキンらにとって、スコットランド教会という大きな宗教組織が、

別の言葉で言えば、巨大で強力な位階聖職者組織がその権力をほしいままに乱用して

いることを嘆いていたのです。 ローマ・カトリック時代と何ら変わっていないのです。

 

 そのようなことが背景にあって、国会が1712年に議決した 聖職者叙任に際しての

国王や教会に対する誓約 the Oath of Abjuration of the Pretender imposed by Act

of Parliament in 1712を支持しないようになっていったのです。

 このような姿勢を示したアースキンたちはスチュアート王家に対してまったく関係

のないことでしたが、スイスの国王・国会至上主義神学者と同様に見られたようです。

 

 神が導きを約束されたというものは、キリストのみ身体である教会に与えられたもので

あって決して教会を牛耳っているパトロンたちや、教区の土地建物を相続し所有する者たちに与えられたものではないと主張したのです。 国家と教会は別だと主張したのです。

 

 当然のことですが、このような主張は、教会総会の怒りを招くことになりました。

その結果、アースキンはほかの仲間三人とスコットランド国教会を脱退し、新たに

別の教会を作らざるを得なくなっていったのです。 173312 月のことでした。

1736年になりますと、既存体制教会に対して, 仮私訳で「教会の司法裁判に対する

覚え書き」 Judicial testimony を公表しました。 炎に油を注いだようなものです。

1740年に到りアースキンたちはスコットランド国教会(改革教会)からその牧師職を

剥奪されました。 この群れにキャンベル一家が属することになるのです。

 

 結果的にこのような主張をしたアースキンら少数の牧師たちはスコットランド教会

から追放されてしまいました。 やむなくアースキンたちは国教会から分離せざるを

得なくなってしまったのです。 教会の議決は間違っていたと翌年の教会会議は己の

非を認めましたが、すでに対立の溝は深く、修復は不可能となっていました。

アースキンらの主張を支持する教会がわずか一年の間にたくさん増えたからでした。

 話が前後しますが、スコットランド国教会は数年後にアースキンたちから牧師職を

剥奪するという態度に出ました。 ここに到ってアースキンたちはスコットランドで

初めて非国教会を設立せざるを得なくなったのです。 これが分離派教会です。

臣従拒否派と私が意訳したのは、このような背景があったからです。

Secession Church または Seceder Church シッシーダー長老教会と呼ばれました。

 

 すでに述べましたように古くから伝わってきていた教会の牧師の任命権は、多くの

場合、莫大な政治的利権がからんでいたことです。

英国国教会の時もそうでしたが聖職者叙任のさいにはローマ教会に対してでなく国王

なり国教会に対する忠誠を誓約しなければならないというしきたりがありました。  

 こういう慣習の裏には、王位を狙う僭称者のエラストゥス主義Erastianismという

ものがあったようです。 スイスのエラストゥスが十六世紀に提唱した思想で、教会

より国家の権力が優先すると主張する国家権力至上主義の考え方です。

 

 この説に従えば、教会に関わる事柄において国家権力や国会の力が教会を支配する

ということになります。 多くの甘い利権を抱えている教会側が反発し、警戒するの

も当然のこととなります。 

アースキンらの主張は教会側から見てエラストゥス主義者と誤解された面もあった

ようです。 このように、国家や国会に対して忠誠を誓うのか、教会に対して忠誠を

誓うのかというような、こん日の私たちには理解することが困難な、複雑な諸問題が

スコットランド国教会には存在していたようです。 なかなか理解し難いことです。

 

  このような制度なり因習がキャンベル家族の時代にはまだ存在していたようです。

そしてこのような地元の有力指導者たちをバーガーズ burghers 、またはバージシス

burgesses と呼んでいたようです。  耳慣れない用語で、理解に苦労をしました。

 

  トーマス・キャンベルは、以上のように教会を支配するこの世の権力者・為政者が

誓う臣従誓約を拒否しようとする群、アンティ・バーガー派に属していたのです。

  スコットランド市町村の公民代表者たちがスコットランド国教会を支持すると誓約

することに疑義を抱いていた教会人たちが属していた群れです。 バーガー宣誓誓約

burgher oathを拒否した群れでした。 元来ローマ教会を支持しないという誓約です。

  日本語のキリスト教関係の辞典・事典・辞書などには、「市民誓約」、「市民派」

などの訳語を使っています。  「真髄派」またはマロン派という訳語を使っている

のもあります。 英語辞典ではMarron Men などと書いてあるのもありました。

 

  (英語の burgess burghers borough bourne などは、他の単語、たとえば

ドイツ語讚美歌「神は吾が櫓」の burg などと同じように、あるいは、フランス語の

bourgeois のように、ラテン語 burgus の「城下」「都市」を表す語幹から派生して

生まれた単語で、街、村、城、城下町、都市などを意味します。  米国の町にも何々

バローやバーグという地名が多くみられます。  同じくフランス語のブルジョアジー

bourgeoisie 市民階級という言葉も同じ語幹から派生したものと理解しています。)

 

 トーマス・キャンベルのシリーズを書き始めたときには複雑怪奇なイングランド、

アイルランド、そしてスコットランドの歴史、とりわけこれらの国を支配していた

王国と国王たちどうしの関係、王たちと教会との関係、ローマ・カトリック教会と

英国国教会との関係、また英国国教会とスコットランド国教会との関係など、実に

難しい謎解き問題があることに気づき、気がめいっていました。

 

 そういう一つに教会の最高部の位階聖職者たちや、広大な土地を所有していた

領主サマたちが自らの勢力圏内に自分の好きなように教会を建て、それを意のまま

に支配して、ますます利権を増やし、私服を肥やしていたという部分がありました。

はなはだ理解するのが困難なことの一つでした。 パトロン制度でした。

 そういう因習から、わたしの勉強不足を認めながらも、スコットランドの各地の

市町村の為政者たちが、スコットランド国教会を支持するという宣誓をする制度が

残っていたものと、基本的にそのように理解しています。 バーガーのことです。

 

 自治市町村で行政を担当する者たちが誓う宣誓文は極めて曖昧な表現が用いられ

ていたようです。 玉虫色といえばよいのでしょうか。 どちらにも解釈ができる

ような内容であったようです。 解釈する者たちによってどうにでも読めたのです。

 教会との関係で、宣誓書の内容を読む人が置かれていた立場なり、その人の良心

の在りかたなどによって、どうにでも読めるような曖昧な表現であったようです。

 

 本来この宣誓書の意味することは、「私は誓ってローマ・カトリック教会を支持せ

ず、スコットランド国教会を忠実に支持します」ということでしたが、同教会から

分離独立したはずの非国教会員にとっても、「自分たちの非国教会Seceder Church 

シッシーダー教会を支持します」とも読める曖昧な表現内容であったのです。 

それですから非国教会の主張に賛成する市町村の指導者、行政の担当者たちのこと

ですが、バージスとかバーガーと呼ばれていたものたちは、署名宣誓してよいので

はないかと、そのように捉えて誓約したのです。 これがバーガー派です。 

 

 しかし表現は曖昧だが、歴史的経過や内容を吟味すれば、スコットランド国教会

を指しているのだから、良心的にそのような文章に署名宣誓することはできないと

理解し、そう訴えた人々が アンティ(反対)・バーガーズとなったわけです。

そしてキャンベル一家は、この反市民宣誓派の立場を採ったわけです。

「この国土の中で現在告白されているまことの宗教、この国の法律によって認めら

ている宗教を私は支持する」というような曖昧摸湖とした内容であったようです。 

 

 なおこの問題は、スコットランド王国内でスコットランド教会を支持するのか

どうかということでしたから、アイルランドでは問題にならなかったのです。

それですから、アイルランドにあった改革派教会、すなわち長老教会、すなわち

在アイルランドのスコットランド教会には直接関係がなかったのです。 

そのためにアイルランドでは緊張した問題とはなっていなかったようです。

 

 また、スコットランド全土の市町村の為政者たちが署名宣誓したというわけでも

なかったようです。 なぜなら、全ての市町村にバーギーズが存在していたわけで

はありませんでした。 

 

市町村の行政を担当する者たちが宣誓するという事柄と、その宣誓文の内容表記が

極めて曖昧であったということから、せっかく国教会であるスコットランド教会から

分離独立したはずの Seceder Churchを支持する市町村の有力者の中にも宣誓して

いいのではないかと、そのように考えた人も出てきて、それがバーガー派となった

ことと、もともとスコットランド国教会を支持するという宣誓文であるから、これに

署名することはおかしいという、スコットランド国教会から脱退分離独立した群れの

人々もいたと、前頁あたりで述べておきました。 キャンベル家もその一人でした。

 

 1733年にはパトロン制度について論議が起こり、それも脱退分離独立派を生み出す

要因の一つであったのです。 しかし、パトロン制度というものの名前が変わっても

スコットランド全土の多くの市町村には、それまでの古いパトロン制度と同じ精神と

因習が急に除去されたわけではなかったのです。 何百年もの慣習でしたから。

 名前が変わっただけのそれまでの古い因習を市町村の有力者らが受け継いで宣誓を

するという姿勢、原則を弱めてしまうことになりかねないそのような寛容さを良心的

によしとしない人々がアンティ・バーガーズ、すなわち、市民宣誓拒否派と呼ばれる

ようになったのでした。 もちろんすでに述べましたように宣誓文の内容の曖昧さも

大きな論争点であったことは事実のようでした。

 

 

   アンティ・バーガーズ教群にアーチボールド・ブルース Archibald Bruce  という

優れた教会の指導者がおり、ホイットバーンに居住してその町の同派の教会を牧して

いました。  神学校 Divinity Hallで教えるように中会が任命した教師で、神学博士

the Doctor of Divinityでした。  博士一人で神学校の全教科を教えていました。

 

  当時のしきたりとして、教師の居住地に神学校を開くということがあったのです。

そのような理由からブルース博士・牧師が牧会していたホイットバーンにアンティ・

バーガーズ派の神学校も設置されていたのでした。

 

  教授は同派のシノード、教会会議と訳しますか、長老教会系の教会の地方長老会と

訳せばよいのでしょうか、教会会議によって1786年9月に任命された人物でした。

  任命後二十年間にわたりその職務に就き、礼拝と教義に関して数多くの研究発表を

したそうです。  そして教授は学生の間で評判の高い先生であったとのことです。

 

  「神学校」と訳したほうがよいのか、「神学塾」または「神学舎」とでも訳すべき

なのかで戸惑った理由ですが、学生数が二十人から三十人ほどであったからです。

学校はDivinity Hallと呼ばれていましたので日本語では「神学大学院」ということ

になるのでしょう。 シッシーダー・アンティ・バーガズ・セミナリーでしょうか。

  これは当時のアイルランドやスコットランドのアンティ・バーガーズ教群としては

神学を教え学ぶ最高学府であったことに間違いないようです。

 

  入学を希望する学生はまず各学生が居住している区域のプレスビテリー、すなわち

中会が実施するラテン語とギリシャ語の熟達度をみる試験を受けなければなりません

でした。  それ以外にも別の試験が学校でありました。  入学を希望する者にはそれ

以前の大学で学んできた人文科学に関する質問と学生各自の信仰の内容に関する質問

があったようです。  もちろんトーマス・キャンベルも例外ではありませんでした。

 

  ホイットバーンの神学大学院(正式な名前がわかりませんのでこのように仮称して

おきますが)で学んだ者は最終的に卒業証明書と按手を受ける資格を入手できるよう

になっていました。  牧師に任命されるために必要なことでした。

  学校は一年間に八週間だけ開講され、卒業するのには五年間が必要でした。

つまり五年かかって合計四十週間を履修するということでした。

  宣教師と地方の中会が教区内の教会に説教者を必要としている場合には、例外措置

が設けられていたようです。

 

  次に授業内容に関することです。

原則として毎日正午から授業が一駒だけありました。

 

月曜  教授によって「一般的な」講義がありました。

      現在の私の能力では「一般的」という意味が意味する内容をさらに詳しく知る

      ことができないでいます。

 

火曜  学生たちが用意した説教をもとに説教演習と討議でした。

      学生たちが持ちよった各自の説教を実際に実演して、そのあとでそれに対して

      お互いが語り合ったものと思います。

 

水曜  ラテン語による組織神学の授業がありました。

      十七世紀オランダ西海岸の都市ライデンで活躍したオランダ契約神学の教授で

      マーク Mark of Leyden の著書「Markii Medulla」、仮私訳の直訳ですと

      「真髄の基準」「心髄の特色」「真髄の特質」などとなるのかと憶測します。

      そこから、「キリスト教信仰の真髄」とか「信仰の根源的な基準」などを意味

      する組織神学著書であったのではないかと、そのように思っています。

 

      (著者はヨハンニス・マルキー Johannis a Marckii であることを突き止めまし

      た。  小文字 a  の上に小さなウムラウトのような標がついています。

      正確にどのように発音するのか今の私にはわかりません。  1656年から1731

      を生きた神学者です。  著作は 312頁もので16cmと記されてあります。

      1690年にラテン語で書かれたもののようです。  著書では Marck, Johannes a

      とあり、多少名の綴り方が違います。

      名前の発音もホアンなのか、ヨアンニスなのか、ヨーアンニスなのかわかりま

      せん。  Marckii というのは Marck  マルク、またはマルコを表すラテン語の

      所有格だそうです。  それですから Marckiiは「マルコの」となります。

 

      発行所はアムステルダムのようでAmstelaedami: Gerardus Borstius と記され

      ています。  Amstelodami: apud R. & G. Wetstenios, 1721 ともあります。

      編集と読めるのですが editio quinta, emendate & expressis scripturae

      textibus aucta. とあります。  ラテン語を解せない私にはお手上げです。

      なお、http://members.aol.com/RSIGRACE/neo5.html にウイリアム・ヤングの

      論文 Historic Calvinism and Neo-Calvinism: Part V の中でマルコの作品に

      ついて言及している箇所があります。

 

      英語圏の神学者や教会史学者たちがどのようにこのラテン語を英語に翻訳して

      いるのかも知りたかったのですが、一般には「Marck's Medulla 」と呼ばれて

      おり、そういう呼び方で教本と著者の両方が通じるとのことです。

      実際に medulla  というラテン語はそのまま欧米でも使われており、たいてい

      の英和辞典にも「骨髄」とか「器官の中心部」として掲載されています。

      そのことから推測しますと、「キリスト教教義の真髄」とでも翻訳してよいの

      ではないかと思います。  すでに日本語で他の名前で紹介されているのかも知

      れません。  日本語訳の正式学名をご存知の方はどうぞ教えて下さい。

 

      なお、 medulla  メダラのほかにも marrow マローという言葉もあり、意味は

      メダラと同じように、解剖学では髄、骨髄、脊髄という意味です。  そこから

      心髄とか精華とか粋、あるいは滋味に富む食物、活力などを意味します。

      調べて行くうちにどうして medulla  なり marrow というような言葉が神学で

      用いられたのかということが次第にわかってきました。

      そのことに関してはすぐ後でもう少し補足説明を加える予定です。

 

      Johannis Marckii Christianae theologiae medulla didactico-elenctica;

      : Ex majori opere, secunddum ejus capita & paragraphos,expressa. :

      In usus primos academicae juventutis / [Johannis Marckii]

      これが原題と副題のようです。  1686年に出版されたという説もあります。

      1690年には Compendium theologiae christianae didactico elencticum  

      して出版されたということです。  反対論証的キリスト教神学概論、あるいは

      反対論証的キリスト教神学必携書とでもなるのでしょうか?

 

      このヨハンネス・マルク Johannes a Marck 、このようにも綴るようですが、

      豫言書に関する注釈書も書いているとドイツ系でカナダ北東部の大学で教鞭を

      とっておられる教会史の仲間ハンス・ロールマン博士 Dr. Hans Rollmannから

      連絡がありました。

      << In Micham, Nahumum, Habhakkukum, & Tsephanjam, commentarius seu

      analysis exegetic (1700)>>  が題名で、何となくわかるような気がします。

 

      この神学者ヨハンネス・マルクはサムエル・マレシウス Samuel Maresisu 

      共に厳格なカルヴィニストで、二人とも活発に反アルミニウス論争を展開して

      いたとのことです。  <<Het merch der cchristene God-geleertheit>>  とか

      <<Christianae theologiae medulla didactioco-elenctica>> を書いたそうで

      です。  後者はオランダ語からラテン語に訳されたもので、フランス革命以前

      から改革派神学の教本として用いられていたものだそうです。

 

      マルクまたはマルコは、1676年には Franeker に住み、1682年にGroningen

      住み、1689年には Leiden (または Leyden と綴る)に住んでいたそうです。

      オランダ改革派教会とスコットランド改革派教会との間には極めて緊密な関係

      が教義の分野において存在していたそうです。

 

      アーチボールド・ブルース教授はホイットバーンで説教者養成用教本として

Introductory and Occasional Lectures を発行していたようです。

      現存している部数は極めて限られているようですが、インターネットで検索し

      て読むことは可能だとアビリン大学のベリヒル教授Dr. Carisse M. Berryhill

から教えて頂きました。 

 

      六つほど前の段落で「骨髄  medullerまたは marrow 」に関して述べました。

      そのこととの関係で、トーマスが生まれる四十年ほど前に激しい長老教会内に

      論争があったそうですのでご紹介しておきましょう。

 

      論争の名は Marrow Controversy マロー論争です。  直訳すれば髄論争です。

      1645年に発行された神学書がありました。  The Marrow of Modern Divinity

      という名の書籍です。  敢えて仮私訳で直訳すれば「近代神学の骨髄」とでも

      なるのでしょか。  あるいは「近代神学の真髄」とか「近代神学の心髄」など

      でもよいのでしょうか。  または「近代神学の中心核」ではどうでしょうか。

      1645年に出版されたこの本の著者はエドワード・フィッシャー Edward Fisher

      で、広く名の知られた、人気のある神学者だったそうです。

 

      恩寵と律法に関する論文であったようですから、米国内のキリストの諸教会で

      1915年ころから起った表面上は千年王国論争の後ろに隠れていた恩寵強調路線

      と律法主義路線の対立と似ている点が多くあると、私はそのように捉えている

      のです。

 

      すなわち、この著書が主張していた点は神の恩寵ということでした。

      しかし多くの神学者、牧師、教会指導者たちが主張した点は、契約上の言葉に

      すがりついて、人が救われるためには何をなすべきかということがより重要で

      あると主張して、恩寵を強調したこの著者と真っ向から対立したのです。

 

      この書籍は、ジェームズ・ホッグ James Hogという人が序文を書いて1718年に

      再版されましたが、多くの長老教会たちの激しい攻撃に遭遇することとなり、

      1720年のスコットランド教会総会 General Assembly で糾弾されたのです。

    このことが一つの引き金となって、すでに述べましたように、アースキンら

によって、スコットランドで初めて非国教会設立への道を開いたことになります。

 

      しかしこの書籍は、すぐあとで説明をつけて紹介する予定の、スコットランド

      教会からの分離派の設立指導者となるアースキン Ebenezer Erskins などから

      の弁護と支持を得ることとなりました。

      恩寵と律法との関係を述べたこの書籍を擁護したことでアースキンやボストン

      などはスコットランド教会総会と激しく対立することになりました。

      このことから、論争を「マロー論争」と呼ばれるようになったのです。

 

      文字通り「真髄とか心髄」と訳さなくても、そのまま「マロー論争」といいう

      名称で教会史に残っているわけです。

      それですから、Leyden  Marckが書いた組織神学教本 Markii Medulla

      直訳すれば「マルコのキリスト教真髄」となりますが、神の恩寵と人の律法を

      論じた組織神学教本であったわけです。

 

      改革派信仰に基づくスコットランド教会にとって、ジョン・ノックスによって

      オランダにも同じ改革派信仰が導入されたわけですから、オランダの神学者の

      手になる優れた組織神学の教本をスコットランドで用いたとしても何ら不思議

      なことではなかったものと推測します。

      しかし、長老教会も改革派教会も、けっこう律法主義的な信仰理解に基づいて

      いたものだと思います。

 

      そして、キャンベル親子たちは、これに反対したためにスコットランド教会=

      長老教会から糾弾されてアースキンたちの運動によって生まれた分離派教会に

      属していたのです。 Secession Church または Seceder Churchです。

      この教群が、それですから、「マルコの真髄」を組織神学の教本に用いたこと

      は正しい選択であったと思いますし、ブルース教授の判断にも拍手喝采です。

 

      補足追加情報はここまでで、本文の神学大学院の時間表に戻ります。)

 

木曜  前日行われた神学の講義に対する試験があったそうです。

 

金曜  再び学生たちの説教を中心に授業がなされたようです。

 

土曜  「信仰告白」の授業がありました。

      「ウエストミンスター信仰告白」に関して討論があったと私は考えています。

      信仰告白に関して教授が実際的な項目を取り上げ、そのことを中心にして学生

      らが神学的な討議を加えたようです。

 

  なお、この時間割のことは2章後半部に紹介しましたロバート・リッチャスン著の

手になるアレキサンダー・キャンベルの回顧録二十六頁に実に細かい字で紹介されて

います。

 

  スコットランドのホットバーンにあった神学大学院 the Divinity Hall  に通った

トーマスは、すでに紹介しましたように、海峡が穏やかなときに就航していた定期便

でベルファストからグラスゴーまでの海路を往復したものと思います。

1787年から1791年まででした。

  授業は一年に八週間、つまり約二ヶ月間の集中講義であったと推測しています。

五年の間スコットランドに赴いて授業を受けたのちに卒業しています。

 

  スコットランドの神学校で学んでいなかった残りの十ヶ月ほどの間はアイルランド

に戻って、今ふうに言うならば教師のアルバイトをしていたものと考えられます。

学校の開催期間が一年間にわずか二ヶ月ほどですから、待ち時間は充分にあったはず

です。  その間に自習したり実習したり、復習したり、予習をしていたのでしょう。

生活のためのアルバイトをしたことは間違いのないことです。  それにしても連絡船

で通い、先生の自宅に居候し、二ヶ月間の授業を受け、また北アイルランドに戻って

生活をするということを五年間続けた努力には拍手を送り脱帽あるのみです。

 

  そして毎年九ヶ月か十ヶ月ほどを故郷のアイルランドで働いて過ごしている間に、

神さまはトーマスのために彼が予想すらしていなかったすばらしい祝福を準備されて

いたようです。  彼のその後の人生をしっかり支えることになる女性を用意していて

下さったことです。  ジェーン・コーネグル嬢 Jane Corneigle です。  もしかする

とコーナイグルと発音したのかも知れません。

  ローマ・カトリック教会の根強い長期にわたる弾圧が強いフランスから信仰の自由

を求めてアイルランドに移住してきたユグノー派の一家の娘さんでした。

 

  『あなたがたの父なる神は、あなたが求めない前から、あなたがたに必要なものを

ごぞんじである』とマタイ伝6章8節は語っています。

  『私に呼び求めよ。  そうすれば私はあなたに答える。  そしてあなたの知らない

大きな隠されていることを、私はあなたに示す』とエレミヤ書33章3節は語ります。

 

  なお、ユグノー派の歴史をさらにお知りになりたい方には簡潔によく説明している

ものとして、伝道出版社の「信徒の諸教会・初代教会からの歩み」ブロードベント著

第十章「フランスとスイス」をお読みになることをお進めします。

十四章「西方」は私たちの群れの歴史をも扱っています。

  翻訳に問題がありますが、各自が自分の書棚に備えておくのに価値がある、隠れた

ベスト・セラーの教会史教本です。

原文は The Pilgrim Church by E.H. Broadbent, Pickering & Inglis Ltd, London,

1931  です。  伝道出版社の住所などはすでに2章で述べてあります。

 

  ユグノー Huguenots  という名前の由来も語源もわからないようです。

一部にはドイツ語の「同盟者」がジュネーヴ経由でフランスに入った時にはユグノー

となったという説もあるようです。

 

  カルヴァン派の信仰がフランスで信奉された時からローマ・カトリック教会の迫害

を受け、あるいはまた、フランス内の地方政治権力闘争に巻き込まれたこともあり、

1555年ころから1789年までローマ・カトリック教会と為政者たちによって極めて過酷

な迫害に絶え抜いたフランスのプロテスタント一派のことを指します。

 

  この間に聖バルテルミーの大虐殺事件という大量無差別殺戮がユグノー派に1572

には加えられ、1598年にはナントの勅令でプロテスタント信仰が容認されたと思えば

手のひらを返すように1685年には勅令が廃止され、ふたたび迫害が強化されるという

残酷な迫害史が繰り返されていました。

 

  フランスからの脱出はほとんど困難とされながらも、それでも何とか国境を越える

ことができたユグノー派の人々は、遠くは北東のポーランドや、近くはイングランド

やスイス、あるいはドイツへと、彼らの信じる信仰に生きるため、新しい地を求めて

散らばって行ったのでした。

 

  フランスの迫害を逃れ得たそのようなユグノー派の中の二組がアイルランド北部に

たどり着いたのです。  ボンナーまたはボンネルと発音するのだろうと思いますが、

the Bonners 家と、コーネグルまたはコーナイグル the Corneigles 一家です。

  これらの名前がフランスで彼らが自称・他称していた名前なのか、アイルランドに

到着してから現地の人々に呼ばれ易いように変更したものか、私にはわかりません。

 

  これら二家族はネイ湖 Loch Neagh の湖畔のある部落というのでしょうか、村落と

言えばよいのでしょうか、一つの最低の行政区域全体を購入して、耕作に従事しまし

た。  ネイ湖畔の東側か北側ではなかったかと推測しています。

 

  二家族は極めて優れた農耕技術を持つ家族であったようですし、子女教育にも熱心

な家族であったようです。  そのために学校を建てて聖書を教えたようです。

  学校では長老教会(改革派信仰)の教えを子供たちが忠実に守るようにと、極めて

熱心に教会の伝統としきたりを教えたとも語りつがれています。

 

  コーネグルまたはコーナイグル家には娘が一人しかいませんでした。

1763年9月に生まれたジェーンです。  トーマス・キャンベルは同年2月1日生まれ

ですからトーマスのほうがジェーンより七ヶ月ばかり年上ということになります。

  ジェーン嬢の父は彼女が七歳の時に帰天しました。  敬虔な母によってジェーンは

徹底した宗教教育を受けたとのことです。

  濃い茶色系の髪の毛をして、色白の顔で、背丈のすらっとした、よく整った体つき

をしていた一人娘であったとのことです。  威厳のあるお嬢さんでありながら立ち居

振る舞いはつつましやかであったと語られています。

 

  一方のトーマスはといいますと、いわゆる中肉中背で引き締まった体型のハンサム

な青年であったとのことです。  大きな額と薄い灰色の目は人々にトーマスが優しい

もの静かで親切そうな印象を与えていたと記録されています。

 

  このような二人がお互いにとって似合いの夫婦になるのに特に何も問題となるもの

はなかったようです。  二人がいつ結婚したのかという記録は、いくども述べていま

すように、米国行きの船が海難事故で難破してしまったので、残っていないのです。

  しかし、おおかたの見かたでは1787年6月ではなかったのかということです。

トーマスが二十五歳、ジェーンが二十四歳というのがキャンベル研究家の理解です。

  このころのトーマスは、毎年夏の二ヶ月ほどをスコットランドノのホイットバーン

の神学大学院に通っていたと思います。

 

  トーマスとジェーンの結婚生活に就いては次の章で説明いたしましょう。

 

 上記6頁あたりで簡単に説明しましたバーガーズとアンティ・バーガーズの問題、

すなわち国教会を支持する誓約をするのか、あるいはできないという問題が原因で

スコットランド国教会から離脱分離した教会が二つに割れたと説明しておきました。

1800年前後になりますと、キャンベル一家が所属していた非国教会、分離独立派

教会、すなわちシッシーダー教会はさらに二つに内部対立を招くことになります。

 バーガー派とアンティ・バーガー派の二つがさらに二つに割れたということです。

名はニュー・ライト the New Lights派とオ-ルド・ライトthe Old Lights派です。

これもスコットランド国内での対立でした。 イングランドが支配するアイルランド

においては、スコットランドの教会を支持するとかしないということは大きな問題

にならなかったのです。 それでもスコットランド教会との関係においてキャンベル

は後者オールド・ライト派に属していました。

 

ひとことで言いますと、ニュー・ライト派は国教会に対する警戒的な態度です。 

国が関与し、国が支えている宗教に対して用心深い教群とでも言えると思います。

教会と国家は分離されるべきであるという姿勢を主張したグループとでも言えます。

 そのために、ニュー・ライト派は古い信条的解釈 creedal interpretationsを持ち

だそうと試みたそうです。 これに猛反対したのがより保守的なオールド・ライト

派であったとのことです。 少数派であったようです。

 

 バートン・ウォーレン・ストーンがまもなくケンタッキーのケイン・リッジで活躍

しようとしていたころ、すなわち、1800年に為政者たちの職務を規定するウエスト

ミンスター信仰告白の二十三条の改定をめぐる論争が起こったとのことです。

世俗権が教会に関与する権限に関する表現が論争点であったようです。

 より保守的なグループは、いままでどおりでよいのではないかと譲らず、反対派

のニュー・ライトは他のグループに対してより寛容な態度を採ろうとしていたよう

です。 しかし、私たち現在を生きる日本人にとって、当時のスコットランド国教会

であれ非国教会であれ、こまかく分かれて対立を繰り返していた群れのひとつ一つを

知ろうとすることも理解しようと試みることも困難すぎると思います。

 

 国家権力と教会との絡み合った複雑怪奇な関係、同じ教会内でのさまざまな対立

と抗争、ローマ・カトリック教会へ戻ろうとする動き、イングランドとの複雑な関係、

エトセトラ・エトセトラで、私たちにはとうてい理解できない痛ましい厳しい状態

がスコットランドにはうごめいていたようです。 大河ドラマでみている戦国時代

のようにも思えるのです。 

大阪聖書学院長中野卿代先生のご出陣をお願いしなければ素人の私には手に負え

ない問題です。 背景を語らずにキャンベル親子の信仰や教会を語ることは不可能

ですし、語ろうと試みれば芋づる式に間口が広がりすぎてトーマス・キャンベルを

見失いそうです。 できるだけトーマスに焦点を絞るように心がけましょう。

 

 アイルランドではトーマス・キャンベルを含むアンティ・バーガーズ・シノード、

地方中会は圧倒的にニュー・ライト派の理解を支持することに傾いていたそうです。

そういうわけで、アイルランドではこの点での分裂の悲劇は避けられたようですが、

トーマスはスコットランドにおける分離脱退派教会の内部対立を警戒していたとの

ことです。 それよりもむしろ、心を痛めていたと言ったほうが正確でしょう。

 

 アメリカのバートン・ウォーレン・ストーンの場合も、ストーンは長老教会から

「奴はニュー・ライト派だ」と呼ばれていました。 当時の新世界の長老教会でも、

一般的にですが、より革新的な人やグループのことをニュー・ライトというように

レッテルを貼る傾向があったようです。 こん日ふうに言えば「リベラル」という

ことになるのでしょうか。 古いしきたりにこだわらない人ということでしょう。

 

 ストーンは、1801年のケイン・リッジ・キャンプ・ミーティングで人々がそれまで

見たこともない不可解な行動をするのを一週間にわたり目の当たりにして、これは

ただ単に聖霊が、使徒行伝二章に記されているように、降臨してきたのに違いない

と考えたのではなく、それまで人々が新世界で、新大陸で切望していたキリストの

千年王国が目の前でほんとうに実現化されつつあるとすら信じたようです。

 

そのようなストーンたちにとって、それまでの伝統的な長老教会の伝統や教義に

よって窒息しそうなほどぐるぐるまきに縛りあげられても、それでもまだ盲目的に

服従するというのではなく、そういう考え方をする人々を「オールド・ライト派」

と呼んでいたのですが、もっと自由に聖霊に満たされている状態を肯定し満喫して

よいのではないかと感じていたようです。 なにしろ久しく待望していたキリスト

の千年王国が到来したのではないかと信じ始めていたからです。

 

 伝統的なそれまでの長老教会にしてみれば、他教派の牧師たちまで巻き込んだ、

とりわけ久しくかたきのように捉えてことごとく敵対してきていたメソジスト教会

の牧師にまで自由に説教させて、あるいはバプテスト教会からも信者たちが参加し

ての異常な集会であったのですから、ケイン・リッジ集会はまことに想像を絶する、

型破りのキャンプであったわけです。 

それですから、このようなストーンたちが「ケンタッキー・ニュー・ライト」派

とキャンベル親子に仮に呼ばれても決しておかしくはなかったものと思います。

 

 そのようなわけですので、ケンタッキーでストーンたちがニュー・ライト派だと

呼ばれたことと、キャンベルのアイルランドやスコットランドで使われていた意味

でのニュー・ライト派とは、ことばは同じですが、全く同じではありません。 

もちろん両者には共通点も多くありますが、両者が置かれていた状況はまったく

違うのです。 私たち日本人にはほんとうにむつかしいことです。

 

 また私たち日本人にとって英語のことばそのものが表面上は同じように読めても

内容がちがうということを理解しにくいという点のほかにも、ブリテン史、それは

イングランドとウェールズとアイルランドとスコットランド史を含むものですが、

私などは特に殆ど何も学んだことがないという問題があります。 ブリテン教会史

も同じことです。

 

 それですから言葉が同じであっても内容が違うということに気づくことができない

という問題もあるようです。 少なくても私にとってはそのようです。

 聖書に照らし合わせてパトロン制度の因習の是非を論じたことから論争が起こり、

そのことでスコットランド国教会から脱退分離し、初めて非国教会まで作ったはずの

運動でしたが、七頁から八頁にかけて説明しましたように、市民宣誓賛成派と反対派

に分かれてしまっただけではなく、次に出てきた問題は、前頁で簡単に説明しました

ように、ニュー・ライト派とオールド・ライト派に分かれたということです。

 

 オールド・ライト派は保守的だと説明しておきました。 

それに比べてニュー・ライト派は、こん日ふうに言えば「リベラル派」か「モダン派」

ということになります。

 すでに前章でのべましたが、スコットランドは知的面で黄金時代を謳歌していました。

イングランドは産業革命という画期的な事態が生じていました。

そのころのスコットランドの大学界ではmoderatism という運動が起こっていました。

直訳すれば政治的または宗教的に「穏健主義」とか「温和主義」ということになりますが、もうすこしわかりやすく別な表現で言えば、「まぁまぁ適当にやってゆこうよ」主義というように訳してもよいかと思います。

 すなわち聖書の示すイェスの福音をゆるめて道徳的基準にしよう、福音を道徳的次元

でのみ捉えてみようとでも言えばよいのでしょうか、そのような運動が大学界で起こり

始めていたようです。 バーガー派にとってもアンティ・バーガー派にとっても、また

長老教会そのものにとっても、これを神学的危機の一つとして捉えていたようです。

 とりわけ北アイルランドのアーマーではジョン・ハチスン牧師 John Hutcheson の

息子で弁舌さわやかなフランシス・ハチスンFrancis Hutcheson がその代表者として

知られていたようです。 教会にとって時限爆弾を抱え込んでしまったような騒動にと

発展したようです。 

 時代が急激に変化していたのです。 一部の牧師たちは聖書の教えよりも、福音より

も移り変わりゆく時代の文化や社会状態に関心を示していたようです。 どの時代にも

みられると思いますが、こん日ふうに言えば「社会派」と[福音派]でしょうか。

それとも「キリスト派」と「イェス派」とでもいえるのかも知れません。

 

 このことに対してより保守的な態度を採った人々を、この場合も、オールド・ライト派

と呼び、[穏健派]と自称したモダレーティズム派はニュー・ライト派と呼ばれました。

ニュー・ライト派が主張したことは、各自の良心の導くままにより柔軟な路線を採ること

を許されるべきであり、堅苦しい宗教的規則や道徳的規範によって縛られるべきではない

ということでした。 これも今日の日本ですと「リベラル派」または「進歩派」というように呼ばれるのかも知れません。 

 

 このようなわけですから、アメリカのストーンたちがニュー・ライト派と呼ばれたことと、

スコットランドで脱退分離独立派の Seceder Church内で使われたオールド・ライト派と

ニュー・ライト派と、アイルランドで使われたオールド・ライト派、ニュー・ライト派は

言葉が同じでも、内容が違うということです。 ほんとうにむつかしいことです。

 

 以上は追加情報です。 

いつの世にも人々の間には意見の相違と、それから始まる対立があるようです。

また、そういう中にあっても、より聖書的でありたいと願う人々がいつの時代にも、

どこにでも存在していたことを、日本でイェスを信じ、その教会を愛していると自称する私たちは肝に銘じておきたいと願います。

 

 

 

 

♠     ♣     ♥     ♦  

 

 

 なお、すでに10頁前後に記しておきましたように、Leyden の Mark のことや

Markii Medulla、さらに the Burghers や the anti-Burghers というような難解な

謎解きに協力してくださった下記の先輩や教授たちに感謝を表したいと思います。

 

Dr. Carisse Mcickey Berryhill,

Abilene Christian University, Abilene, Texas, USA

 

Dr. Lee Snyder

University of Nebraska, Kearney, Nebraska, USA

 

 

Dr. Hans Rollmann

Memorial University of Newfoundland, St. John’s, Newfoundland, Canada

 

Dr. Tom Olbricht

 

Dr. Keith Huey

Rochester College, Rochester, Michigan, USA

 

Curt Stamps

 

Day Downen

Joplin, Mo, USA