5章  グラスゴー大学

 

  キリスト教会を含めた我が国は、その精神面や信仰面、あるいは神学面において、

実に多くの影響をスコットランド(蘇格蘭)から受けて来ました。  しかしながら、

それではこの私がどれだけスコットランドについて知っているのかということになり

ますと、ほとんど何も知らないという恥ずかしい現実に直面してしまいました。

 

  私たち日本人は明治以降現在まで「脱亜入欧」という街道をひたすらに走り続けて

きましたが、その場合の「西欧」というのはほとんどの場合、イギリス(英吉利)、

ドイツ(獨逸)、フランス(佛蘭西)、イタリア(伊太利)などが中心であったかと

思います。  北欧諸国やアメリカ(北亜米利加合衆国)を加える人も少しはあるかも

知れませんが、東欧諸国となれば関心度が極端に減少するように思えます。

 

  同様なことがアイルランド(愛蘭)やスコットランドについても当てはまるのでは

ないでしょうか?  明治政府の脱亜入欧政策によって文部省唱歌として数曲の愛・蘇

両国の美しい民謡が讚美歌のいくつかと共に我が国に導入され、哀愁を伴うきれいな

名曲がいつのまにか私たち自身の愛唱歌として定着していますが、それ以外のことで

私たちは愛・蘇両国のことについてほとんど何も知らないのです。

 

  たとえば音楽家のクープラン、ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデル、モーツァルト

や、彼らから少しあとで生まれた画家のマネや、モネ、セザンヌ、ゴッホ、あるいは

ロートレックなどは、だいたいの日本人ならあるていど知っていますが、東欧や北欧

のいろいろな芸術家とその作品となりますと、まことに恥ずかしい話ですが、私たち

はほとんど何も知っていないのです。  英・佛・獨・伊などが中心となります。

 

  同じように、愛・蘇の芸術や文化を初めとし、両国の歴史や文化も地理もほとんど

知っていませんし、主な観光地すら知らないというのが私たち日本人の現実です。

  もっとも、イングランドの歴史と、それに関連したイングランドの教会史に関して

も同じようなことが言えるのかもしれません。  知っていると言えばとダイアナ姫と

ロンドン市内の観光スポットくらいでしょうか?  まことにお恥ずかしい次第です。

 

  トーマス・キャンベルが生まれ育ったアイルランドと、トーマスの新世界での人生

にのちのちまでもその影響が残ることになる貴重な学びと信仰を得たスコットランド

のグラスゴー大学のこともそうですが、日本人には縁遠い国でして、情けないことに

実はこの私も両国のことをほとんど何も知らないというのが現実なのです。

  そこで、泥縄式に、アイルランドやスコットランドの歴史を調べ始めました。

スコットランドを調べ始めた途端、芋づる式にアイルランド、イングランド、そして

フランスの歴史や、それらの国々に生きた学者や思想や信仰を学ばなければならない

ことを思い知らされました。  二ヶ月ほどこれらの巨大な未知の世界の高い岸壁の下

で足踏みをしてしまいました。  今この瞬間にも、どのように越えて行けばよいのか

わからず戸惑ったままでいます。  蛙が太平洋を泳ぎ渡ろうとするのに似ています。

 

  アイルランドやスコットランドに関する読書が極めて少ないのも大きな障壁です。

そのために、主だった百科事典・辞書・辞典から抜粋した写しを添付しておきたいと

願っていますが、頁数が増え過ぎるかもしれないと危惧しています。

  お粗末な作品ですが手作りの粗地図を何枚か適当に挿入しておきます。

 

  今回のトーマス・キャンベル・シリーズをしたためるに際し多くの教会史の資料源

を改めて読み始めました。  しかしその多くはいずれも読者には詳し過ぎるようです

し、無味乾燥なものかと思いますのでどの程度まで紹介すればよいのかで迷います。

 

  一般の方々にはベイントン著、教文館発行「世界キリスト教史物語」の8章、9章

そして14章から21章か22章あたりを読んでいただくのが良いかと思います。

著者が自らスケッチされた多くの挿絵も視覚的に内容理解を深めてくれます。

  (The Church of Our Fathers by Roland H. Bainton, Charles Scribner's Sons)

 

  留学中にも帰国後にも個人的に著者からお交わりを頂いておりましたし、来日時に

はあらかじめ個人的にお誘いを頂きましたので原宿で直接お目にかかり、二時間ほど

お話をお伺いすることができました。  個人的に頂いていた書簡のうちの数通が現在

でも手元に残っています。  貴重な思いでとなりました。

  学者でいらっしゃりながら実に気さくで庶民的な善き師、善きお爺ちゃまでした。

このような方を師として戴くことができたことを神さまに感謝しています。

天国での再会を楽しみにしています。  博士の上記教会史入門書をお薦め致します。

 

  もう少し詳しくお知りになりたいという方は、ケァンズ著「基督教全史」の邦語訳

16章~18章、26章~31章、および35章がよいかと思います。

  (Christianity Through The Centuries by Earle E. Cairns, Academie Books,

Grand Rapids, Michigan, Zondervan Publishing House, 1954)

 

  さらに、ブロードベント著「信徒の諸教会」の邦訳が伝道出版社から出ています。

  隠れたベスト・セラー教会史ですが、著者の意としたことを翻訳者たちが全く理解

できないまま実にお粗末な翻訳をしてしまったことが残念ですが、11章が背景理解に

役立つと思いますし、14章では私たちの教群の歴史を扱っています。

(The Pilgrim Church by E.H.Broadbent, Pickering & Inglis Ltd., London, 1931)

 

  ほかにも一般教会史読本は数多くありますが以上をお薦め致しておきます。

 

 

  さて前章後半部でトーマス・キャンベルがスコットランドの中心地、グラスゴーへ

学びに行くことになったと書いて章を終えました。

 

  のちにもう少し詳しく述べる予定ですが、キャンベル家がアイルランドから新世界

アメリカに移住するとき、出港直後のノース海峡で船が難破し、同家資料のほとんど

が海の底に沈んでしまったという出来事がありました。  このためにキャンベル家の

資料が現在までほとんど何も残っていないままで二百年以上が経過しています。

 

  それにもかかわらず現在入手できるキャンベル親子に関する資料や文献は、当然の

ことですが、主として米国白人関係者が書き残しているものです。

  記録した者や筆者にとっては自明のことであったのでしょうが、キャンベル父子が

直面していた困難な諸問題は、すべて教会に関するもの、具体的には臣従拒否・市民

宣誓拒否・脱退分離派の長老教会内の諸問題に関するものが中心です。

 

  それらの参考文献は、グラスゴーに学んだキャンベル父子の環境などを更に詳しく

取り上げている文献ではないので、東洋人としての私のような素人の俄か教会史学徒

にとって何かしら物足りないものを感じてしまいます。

 

 

  前の章で述べておきましたように、コンノート(コナハト)での短い英語塾の教師

生活から厳父アーチボールドによって召還されたトーマス・キャンベルは自宅のある

ニューリーの町はずれに今も残っているシープ・ブリッジの近くにあった小さな学校

で教壇に立ちました。

 

  アイルランド島は一般に大きく東西南北、四つの地域に別けられて考えられていま

す。  その中でコンノートは島の中西部を占める地域です。  氷河時代に氷層が島の

上を北東方面から南西方面に移動したときに地表の土を削り取ってしまったそうで、

コンノート地区は起伏の激しい奇形岩石が露出している地域だそうです。

 

  したがって農業に適せず、樹木が育たず、厳しい立地条件がさらに厳しい気象条件

や風土を醸し出すという悪条件を招いているようです。  貧しい地域を生んだのだと

思います。  ローマ・カトリック教徒たちがイングランドによって数世紀にもわたり

貧しいこの地域に追いやられ、押し込められて来た地方でもあったようです。

  一方で、島の北東部は豊かな土地が多いようです。  キャンベル一家が住んでいた

ニューリーは豊かな方のアルスター地域内にある湾岸地域です。

 

  どのような理由があったのかは未だにわからないのですが、父のアーチボールドの

英国国教会への(強いられていた?)忠誠心と、父を愛する子としての情と、そして

トーマス自身の信仰の確信から来る国教会忌避の気持ちなどがあってか、さらにまた

貧しい人々への信仰的・人道主義的な憐れみの動機なのか、トーマスはコンノートに

赴いて英語塾の教師を始めていたのでした。

  しかし、厳父の呼び寄せを受けたトーマスはコンノートからニューリーに戻り、父の

口ききによってなのか、町はずれのシープ・ブリッジの小さな学校で教鞭をとること

になったのでした。  これらのことは前章で述べておきました。

 

  そこで働く青年トーマスを観察していた、トーマスと同じ信仰を抱いていた実業家

ジョン・キンレイ John Kinley  がトーマスに『もし今でも牧師として生涯を捧げる

決意が鈍っていないのなら全面的に経済的な援助をするからグラスゴー大学に行って

勉強をしてみる気がないか?』と問いかけてくれました。

 

  渋々であったようでしたが、本当は嬉しかったはずだと思うのですが、父アーチ・

ボールドの承諾を得たトーマスは意を決してグラスゴー大学に通うことになったので

す。  今回の5章ではグラスゴー大学のことについて筆を進めます。

 

  前章末尾で触れておきましたように、当時のアイルランド住民やスコットランドに

住む若者たちがイングランドのオックスフォード大学やケンブリッジ大学に入学する

ということには政治的・人種的・宗教的な差別があって不可能であったようです。

 

 

  トーマスが入学したのは1783年(天明3年・江戸時代中期・光格天皇・徳川幕府は

家治が将軍)、トーマスが二十歳の誕生を迎えた直後でした。

 

  グラスゴー大学は1450年か1451年の1月7日にスコットランド王ジェームズ2世の

求めに応じて、また、ウイリアム・ターンブルの申請もあって、教皇ニコラス5世が

設立したものです。  五百余年もの歴史をもつ大学ということになります。

  中世期に設立された学校のほとんど全部がそうであったように、グラスゴー大学も

教会の強い影響力の下にあり、経済的にも教会の保護と特権の内にありました。

  (そのころの我が国は後花園天皇の時代で足利義政が将軍でした。  能狂言がほぼ

完成した時期とされ、京都に龍安寺が創建され、一休和尚の像が完成しています)

 

  しかしながら、大学は設立されたものの、最初の半世紀ほどには多くの紆余曲折・

栄枯盛衰があったようです。  教室も建物もなかったり、あるいは失ったり、移動を

余儀なくさせられたり、財政的に追いつめられたりと、いろいろあったようです。

  そうかと思うとクイン・メリーの肩入れがあったりと、浮き沈みが激しかったこと

を学ぶことができました。  その間にもルッターやカルヴァンの宗教改革の波も押し

寄せて来ました。

  大学設立からおおよそ二百年を経た1689年には英仏間で植民地をめぐる戦争が勃発

しました。  名誉革命というものがあったり、信教自由令が発言されたり、権利宣言

なるものが発布され、それらの嵐の影響を大学は直接的・間接的に受けたようです。

 

  1492年以降になりますとグラスゴーの総大司教が大学の名誉総長の座に坐るように

なっていました。  総大主教の配下の聖職者たちが大学の格部署に着いていたようで

すし、教授陣は教会員によって構成されており、学生たちは卒業後に聖職者となるの

が普通のようでした。  大英百科事典 The Encyclopedia Britannicaに詳細な説明が

ありましたがここでは割愛することにいたします。

 

  1574年には、スコットランドの宗教改革者でセント・アンドリューズ大学とパリの

大学で学び、ギリシャ語と東洋語学を研究し、教会の国家からの分離独立を主張した

アンドリュー・メルヴィル Andrew Melvilleがグラスゴー大学長に就任しました。

  メルヴィルは、教会は国家権力から独立して自由であるべきだと強く主張していま

したので、グラスゴー大学長の席を追われ、のちにロンドンに召喚されロンドン塔に

四年間も幽閉されたことのある気骨のある人物でした。

 

  このメルヴィル在任中にグラスゴー大学は大きな発展を遂げました。

  ノヴァ・エレクシオ Nova Erectio (仮私訳で)「大学新憲章」がメルヴィル学長

在任時に制定されました。  この新憲章はそののち三世紀にわたってほとんど変更さ

れることなく同大学の安定した成長を支える大黒柱となったようです。

  学長が一人、評議員が三名、会計担当者四名、事務・財産管理者一名、使用人三名

(当時の英国学校制度を熟知していませんのでいずれも仮私訳)で大学の維持管理に

当たっていたようです。  この制度がメルヴィル学長時代から始まったようです。

 

  メルヴィルの甥が古い死語的スコットランド語で書き残した文章を何とか判読して

みますと、当時のヨーロッパのどこよりもグラスゴー大学の内容は充実していたとの

ことです。  諸国の言語が教えられており、芸術を含む人文科学分野の学問に優れ、

科学が教えられていた…のだそうです。  当時の学問の世界最高峰だったそうです。

  ギリシャ語やラテン語、東洋言語学、数学、天文学、科学、法律、植物学、医学、

解剖学、神学、論理学、道徳哲学、自然哲学などが順次加えられていったようです。

 

  月刊雑誌「福音誌」5月号掲示板に掲載されていた記事、すなわちスコットランド

やアイルランド関連の教会史や一般的諸資料を私が捜していることをお読みになった

大阪聖書学院の横堀葉子さんが Aspects of Scottish Church History by DD Donald

MacLean, T. & T. Clark, Edinburgh, 1927 や、その他の資料3点をお送りください

ました。  仮私訳で「スコットランド教会史の特徴」とか「蘇格蘭教会史の問題点」

としておきます。  メルヴィルの活動が何ヶ所かに記されていますが、ここではこれ

以上の脱線をしません。  優れた神学者であったようです。

 

  あわてて入手した幾冊かの書籍の中に、[スコットランド史・その意義と可能性」

Why Scottish History Matters by Rosalind Mitchison, editor  未来社2版1994

ロザリンド・ミチスン、富田理恵・家入葉子訳があります。

  その中にもスコットランドの「知識人群像」についての説明がありました。

スコットランドの伝統ある三大学、その一つがグラスゴー大学、はすべて、代表的な

知識人を「群像」に登場させている…としるし、「スコットランドは、キリスト教の

絆と学問の交流を中心に、対等な関係で(欧州)大陸と結びついていた」と七十七頁

の「スコットランドの学問的伝統」の項で述べています。

 

  このような状態の中から、たとえば有名な人物では、道徳哲学者で優れた経済学者

のアダム・スミスAdam Smith、倫理医学者のウィリアム・カレン William Cullen

医学者で化学者のジョーセフ・ブラック Joseph Black 、そして日本では小学生でも

知っている蒸気機関の発明者のジェームズ・ウォット James Watt などがグラスゴー

大学から世界に出て行き大きな影響を現在でも与え続けています。

(平凡社百科事典はワット、岩波西洋人人名辞典はウォット、小学館ランダムハウス

英和大辞典はワット、三省堂コンサイス人名辞典もワットと表示しています)

 

  そのほかにも軍医で文筆活動家のトビアス・スモレット Tobias Smollett、法律家

で伝記作家のジェームズ・ボズウェス James Boswell、そして私たちが関心を抱いて

いるトーマス・キャンベルと同名異人ですがトーマス・キャンベル Thomas Campbell

という詩人も同窓生として名を残しています。

  このトーマス・キャンベルの作品は讚美歌第二編の 230番に紹介されています。

『わが主を十字架の  And can it be that I should gain』がそうです。

 

  また、グラスゴー大学卒業生の中でも英国では飛び抜けて賞賛されている人物とし

てウィリアム・ハンターWilliam Hunterがいます。  優れた外科医・解剖医でしたが

膨大な数の珍しい標本や硬貨や古文書類を収集し、それらをすべて寄贈して博物館の

設立に貢献したというので英国では多くの人々がその名を記憶しているそうです。

 

  私たちが追い求めているトーマス・キャンベルがグラスゴー大学に入学する前に、

このような人たちが同大学で学んでいたのでした。  大学の創立当時には困難なこと

が多くあったようですが、やがてスコットランド市民たちがこの大学を熱心に支えて

いったのでした。  とりあえず以上のようなことがあったとご記憶下さい。

 

 

  なお、キャンベル父子がその設立と運営にかかわった米ウエスト・ヴァージニア州

北西端にある寒村ベサニー・カレッジ Bethany College Bethany, WV 26032 の中心

に僻地とは思えないような壮大な建物があります。  キャンベル父子にとって大切な

思いでの母校グラスゴー大学をモデルにして建てられたものだと、同校を訪れた時に

説明を受けました。  電子不思議函 historic@bethanywv.edu で検索できます。

 

  上記でグラスゴー大学についてすでに大まかな説明をしましたが、トーマス青年が

入学したころの大学には終身制名誉職の総長 chancellor 、おなじく終身制の学寮長

principal 、四名の補佐役を伴った教会教区司祭である神学部の学長 rector などが

職務に当たっていたようです。  とりわけ私たちには面白いと思えるのは神学部長の

補佐官たちの制度で、これは学生たちの出身地に応じて学生たちによって三年ごとに

選ばれていたもののようです。  英国国教会や蘇国国教会のことに全く不慣れな私に

とって、果たして正確にこれらの制度を理解できたのかどう疑問が残ります。

 

  その他にもグラスゴー大学には、日本の学校制度を考えますと、教務課 registrar

に相当する部署、財務会計課 bursarius、どのように理解し翻訳すればよいのか躊躇

しますが promoter プロモーター、入学促進課?という課もあったようです。

  直訳すれば入学許可担当事務局となりますが、日本では教務課内で入学を担当する

部署、米国の大学校ではアドミッション・オフィスという部署に相当すると理解して

よいかと思います。  異なる国の異なる制度や呼び名を訳すのはむつかしいです。

 

  また、 bedellus ベデラスという聞き慣れない職務名がありました。

この単語は幅十三センチほどある小学館のランダムハウス英和辞書にも掲載されて

いませんでしたが、The Unabridged  Edition of The Random House Dictionary of

 the English Language を調べましたところ beadle の古語で、重たい棍棒・警棒を

担いで行列の先頭を進む中世の役職から出てきた権標棒持者ということでした。

  そこから王室守衛官ということになり、さらに守衛・管理人・用務員などと、現在

の日本ふうに言えば、なるのだと初めて知りました。

 

  グラスゴー大学は四学部で始められたそうです。

 

  まず我が国では教養科目とか基礎科目というふうに呼んでいる学部があります。

もう少し詳しく調べてみましたら、中世の大学では文法、修辞、そして理論の三つの

科目を含む trivium  トリヴィウム・三学科というものからあったようで、これらに

さらに算術、幾何、天文学、そして音楽を含む quadrivium クゥオドリウムを加えて

邦訳すれば教養学部 Arts としていたようです。  訳語はむつかしいですが…

 

 

  神学部が次です。  大学は教会の強力な保護下にあり、神学生養成を目的としてい

たのです。  第三番目にキャノン・ロー Canon Law学部がありました。教会法(典)

または宗規とでも訳せばよいのでしょうか。

  そして四番目の学部として医学部または薬学部 Medicine がありました。

卒業後、赴任地の貧しい農漁民たちに最低の医療的援助の手を差し伸べることができ

るようにという配慮があったのではないかと思います。

 

  これらの四学部は最初の頃にはお互いに別々、各学部は独立していたようです。

各学部の教授たちは学内での調和と泰平と和睦を保つために誓約書を書かされていた

とのことです。  建学当初時代には全教授が同じ一つの建物に一緒に住まなければな

らなかったようです。  しかしトーマスが入学するまでの何世紀かのあいだに次々と

新しい建物が追加建築されていましたので、教授の数も増加していたそうです。

 

  トーマス青年が入学する直前からはさらに多くの新しい建物が校舎内のあちこちに

建築され始めていたようです。  教授たちは建築にともなう騒音がうるさ過ぎるので

授業がまともにできないと苦情を重ねていたようです。

 

  なお、どのような建物が建設されていたのかを正確に知ることは今回の私の主題と

直接の関係がありませんので詳細は割愛します、私たち日本人が想像しがちな学校の

建物とは基本的に違うと思います。  下記に一部の校舎が掲載されています。

        http://www.gla.ac.uk/general/Pictures/hires/16.jpg

        http://image07.webshots.com/7/5/9/4587750945eegBSt6 ph.jpg

        http://image07.webshots.com/7/5/9/458774650dzAKuF ph.jpg

                    大学一般情報は http://www.gla.ac.uk/

 

  授業にさしつかえが生じたほどの騒音を出していたという、煉瓦と石で建てられて

いた校舎の建築ラッシュとそれに伴う連日の激しい騒音が物語ることは、グラスゴー

大学の発展を象徴するものではなかったのかと、私はそのように理解しています。

 

  岩波西洋人人名辞典増補版で調べてみましたが掲載されていませんので今のところ

著者のことを知ることができませんが、ジョージ・スチュワート George Steward

仮私訳で「スコットランド教育史 The Story of Scottish Education」の百二十五頁

に『十八世紀はスコットランド思想界の黄金時代であった』と記しています。

(スチュワート一族はスコットランドの名門で英・蘇両国の王家にも関係する一族で

す。  大英百科事典でジョージ・スチュワートを調べましたがありませんでした。)

 

  この黄金時代を代表するスコットランドの名門校グラスゴー大学にトーマスは入学

したのでした。  息子アレキサンダーも少しあとになってからですが同じ大学で同じ

ように大きな影響を受けたのでした。

  のちに新世界でアレキサンダーは、建国してから間もない当時の米国で、最高教育

と教養を積んだ神学者・教育者として活躍することになるのです。

連邦政府であれ地方政界であれ、共に大きな影響力を持つ人物となったのです。

 

  「スコットランド思想界の黄金時代」をグラスゴー大学で学んだアレキサンダーの

深い思想や信仰を理解することができないまま、ストーン・キャンベル運動にその後

かかわった者たちが全米はおろか全世界に散らばり、律法主義的な聖書理解を得々と

して説いたということの愚を私は今回の学びから深く反省させられた次第です。

  父トーマスであれその子アレキサンダーであれ、よく学び準備された福音伝道者で

あったのです。  私たちはどれほど自分自身にむち打って準備をしたのでしょうか?

  「よく研がれた刃物はよく切れる」のだと思います。  充分に研がれていない刃物

でこの世に立ち向かえるなどと錯覚することは恐ろしいことだと教えられました。

 

  先ほどのジョージ・スチュワートに戻ります。

  『十八世紀のスコットランド著名人らの名が、スコットランドの思想界の輝く星座

に幅広く散らばって天空を見事に飾っている。  人類に関するおおよそ考え得られる

あらゆる分野において、その知的業績において、すなわち、科学や芸術や文芸におい

て、また医学や神学において、各部門が共に勝利の凱旋を誇り祝っている』と、その

ようにスチュワートは書き残しています。

  キャンベル親子が学んだグラスゴー大学はその銀河の輝きの中心部を占めていたの

です。  さらにそのことを具体的に学んでみましょう。

 

  すでに簡単に主要点だけを紹介しておきましたが、グラスゴー大学はその設立当初

からトーマス・キャンベル入学時までの三百余年の間に多くの紆余曲折・栄枯盛衰、

多くの苦悩の歴史がありました。

  しかし十八世紀に到り過去の労苦が報われることとなり、とりわけ知的面と宗教面

での自由を勝ち取り、謳歌することができるようになったのです。

 

  たとえば、「スコットランドにおける教会と国家Church and State in Scotland

すぐ書房1986年、トマス・ブラウン Thomas Brown 著、松谷好明訳の「市民的自由と

キリストへの忠誠心」という項で、チャールズニ世の圧制に対して教会とキリスト者

たちがキリストへの忠誠心を守るという確信から、どのようにして過酷な条件を克服

して、苦難のなかで信仰の自由と独立を勝ち取っていったのかが述べられています。

 

  多くの長い困難を乗り越えて来たスコットランドは、ようやく十八世紀に到って、

文学、哲学、商業、経済、社会科学などの分野において顕著な発展を見ただけではな

く、スコットランド教会の成長・発展面においても豊かな刈り入れを体験することに

なる時代となっていたのでした。

 

  トーマスが入学するころのグラスゴー大学でもそのことがはっきりと見られたとい

うことでしょう。  キャンパスのあちこちで建築ブームが起っていたということがそ

の事実を裏づけていたのだと思いながらスチュワートの説明文を読んだ次第です。

 

  これらのことはただ単に思想界や教育界や宗教界だけの発展に限らず、そこに住む

人々のあらゆる分野にも言えることであったようです。

  その理由の一つに、スコットランドとイングランド両国との間の良好な交流関係が

確立しつつあったということがあるようです。  経済面での交易も盛んになっていた

ようです。

 

  また、スコットランド国内にそれまで何世紀にもわたって蓄積していたハイランド

(The Highlands) 地方とローランド(The Lowlands)地方に住む人々同士の対立と緊張

関係が減少し、相互交流と理解が進んだということもあったようです。

  しかし、何と言ってもスコットランド人自身の教育への関心・熱心さが、結果的に

スコットランド全体を善い方に導いていったものと考えられています。

 

  (ハイランドはスコットランド北部・北西部の山地地方を意味し、スコットランド

高地 Scottish Highlands とも言います。  スコットランド中部のローランドに対す

る呼称です。  氷食と湿潤気候のために高層湿原や原野が広がり、観光以外に粗放的

牧羊やウイスキー醸造が主産業で、ケルト人の古い慣習や言語が残存していると或る

書物に説明がありました。

  一方のローランド地方は、ハイランド地方に対する呼称で、スコットランド中部の

低地帯を指す呼称です。  低地を流れる二つの河川によって潤されている平野を利用

した酪農や、炭田を背景にした鉄鋼業や造船業などが盛んな地域だそうです。

グラスゴーやエジンバラなどの都会が発達し、同国の核心地域を形成しています。

  訪れたことがないので多くの辞典・辞書などに頼らざるを得ず、多くを語ることが

できないのが残念です。  お許しを願います。  手書き地図をご覧下さい。)

 

  すでにいくどとなく正直に申しましたように、私はアイルランド、スコットランド

あるいはイングランドの歴史や教会史を全くというほどまじめに勉強したことがない

のです。  新世界・新大陸、すなわち北米合衆国のことであれば、何とかある程度は

まともなことを述べることができるかと思います。  愛・蘇・英となると降参です。

 

  そういう限られた理解の中で泥縄式にスコットランドについて学んだことですが、

スコットランドは七万九千平方粁弱の総面積を有する地域だと知りました。

  九州地方が四万五千平方粁弱、北海道がいわゆる北方四島を含めて八万四千平方粁

弱です。  含めなければ八万平米粁弱ですからスコットランドより少し大きいという

ことになります。

 

  比較的小さなこのスコットランドは、その地理的サイズにもかかわらず、十八世紀

にはヨーロッパからの知的影響をたくさん受けた地域であったようです。

  その当時イングランドでは懐疑主義や合理主義が思想界を揺るがしていました。

ギリシャ哲学のプロタゴスやソクラテス、さらにピューロン、アウグスティヌスから

デカルトやモンテーニュ、カントなどを巻き込んだ長い歴史をもつ懐疑主義でした。

  合理主義も、基本的には一般に理性に従った考え方、生き方、世界の捉え方を意味

するもので、紀元前五世紀ごろからギリシャで人々が思考し始めたもののようです。

  ローマ・カトリック信仰が支配していた中世期のヨーロッパではアリストテレスを

中心にギリシャ哲学を媒介として神学として高度に理論化されていたようです。

デカルトやカントやニュートンやヘーゲルなどが活発に理論を展開していました。

 

  しかし、スコットランドはこれらの思想の襲来に対してキリスト教信仰を堅く守る

防波堤の役を果たしていたのでした。  この点においてもグラスゴー大学が果たした

砦の役割はすばらしいものがあったそうです。  グラスゴー大学の教授たちは帰納的

推理の原理と信仰とを巧みに結びつけて防波堤の役目をよく果たしていたそうです。

  それ以外のスコットランドのすべての大学が、それでは同じように成功していたか

というと、必ずしもそうではなかったようです。  襲い来る哲学や思想の荒波に完全

に打ち負かされ、キリスト教信仰を犠牲にしてしまった学校もあったようです。

 

  このような時代にトーマス・キャンベルはグラスゴー大学に入学したのでした。

入学当時のグラウスゴー大学は、科学分野の勉強が盛んになっていたころでした。

  ほとんどの学生が話題になり始めた科学という学問に何らかのかたちで興味を抱き

出したとのことですし、一般人もそのような関心が高まりつつあったとのことです。

何しろウォット(ワット)が蒸気機関を発明したという時代でしたから。

 

  当時は「大英」というふうに名のっていたのか不明ですし、しかも仮私訳ですが、

大英帝国科学学術院?(The British Scientific Society)、倫敦大英帝国学士院

The Royal Society of London )、さらにフランス学士院(The French Academy

などが設立され始めた時代です。  そこにもその当時の雰囲気を感じさせます。

  科学を奨励するこのような雰囲気なり環境というものは、数多くの出版物や雑誌、

専門誌や百科事典などを生み出すことになっていったということです。

多くの人々が科学に対して強い興味と関心を示し始めていたということになります。

 

  それだけではなく、『科学が未知の世界の扉を開き、天地宇宙・森羅万象の秘密を

すべて解き明かし、人類がそれまでに抱いて来たすべての疑問に答を出すであろう』

と、そのように人々が信じ始めたということです。  それまでの長い人類歴史の流れ

の中で知り得なかった多くのことが一気に解明されるであろうというような科学万能

時代の到来を人々は期待し、また、そのように信じ始めたていた時代でした。

 

  このような時代背景の中でトーマス・キャンベルはグラスゴー大学で学んだのでし

た。  1783年から1786年にかけての三年間でした。  トーマスと同じように多くの

学生が夢をふくらませてスコットランドの知的黄金時代をグラスゴー大学で謳歌して

いたのです。 校庭内各地に建築工事の雑音が絶えなかったというのもわかります。

 

  次にトーマスがどのような科目を修得したのか、どのような教授たちがどのような

科目を教えていたのか、そしてトーマスがどのような影響を受けたのであろうかなど

を考えてみましょう。

 

  すでに簡単に述べましたように、そしてのちほどさらに詳しく述べる予定ですが、

先に新大陸・新世界に旅立ったトーマス・キャンベルの後を追ってキャンベル一家は

息子アレキサンダーが父親代わりを引き受けて北アメリカに移住することになりまし

た。  一行がロンドンデリーを出港して間もなく船は嵐に遭遇して難破しました。

 

  このため、トーマスの筆まめな性格から推測して、おそらく存在していたであろう

かと思われるキャンベル一家の記録なり書類のほとんどが海の中に失われてしまった

ものと私は推測しています。  失われてしまったのであろうと思われる書類の中には

トーマスのグラスゴー大学時代のものも含まれていたのではないかと思います。

  このようなわけですから、トーマスが具体的にどのような勉強をしたのかを正確に

把握することは、こん日にいたっては不可能だと思います。

 

  しかしながら、まずトーマスが、他の多くの学生たちと同様に、我が国の大学制度

からいうところの教養科目なり基礎科目を取得したのではないかと思います。

  すでに述べましたように、中世期の大学の授業内容にはトリヴィウム trivium

すなわち文法、倫理学、修辞学と、クォドゥリヴィウムquadrivium、すなわち算術、

幾何、天文学、それに音楽を加えてアーツ Arts として教えていたようです。

 

  これもすでに述べましたが、当時のグラスゴー大学は十八世紀のスコットランドの

黄金時代を満喫していた最高学府であったわけですから、上記授業以外にも、当時の

最高関心事であった科学に対する追求もなされ、ベーコンやニュートンもさらに話題

となっていたものと容易に想像できます。

 

  ベーコン Francis Baconはイングランドの優れた文学者、法律家、政治家、そして

何よりも経験論哲学の開祖であり、デカルトと共に近代哲学の開発者でした。

  晩年において、それまでになかった新しい方法で学術研究を試みたのでした。

すなわち、彼自身はそれまでの古い推理・憶測の世界、演繹法の世界に生まれ生きて

きた人でしたが、初めて学問追究の新機軸として帰納法の採用を提案したのです。

実験と観察を強調したのです。

 

  わかりやすく言えば、推理や憶測、あるいは科学的でない信仰や迷信や伝統などを

排除し、科学的に事実に基づいて学問を追究して行こうとする姿勢です。

  一つのことをこうだと推理して、そのような前提で物事を考えるなら、結論部でも

推理を前提としたものを認めざるをえなくなるという演繹法を排除し、帰納法を導入

しようとしたのです。  十八世紀の学問の黄金時代を謳歌していたスコットランドの

大学生には大歓迎された新しい学問追究姿勢です。

 

  しかし実はこういう科学的に問題に接するという姿勢が、それまでの教会の聖書の

読み方に大きな影響を与えることになってゆくのです。  帰納法という原則で、科学

的に聖書を冷静に読むという、それまでになかった姿勢が生まれてゆくとこになるの

です。  憶測や推理を聖書解釈に持ち込まないとする姿勢です。

 

  キリストの教会が過去百余年間とかく律法主義的な傾向を強め、聖霊軽視・無視の

姿勢を伴って来てしまったという遠因がこういうところにもあると私は考えます。

今から九十年ほど前に起った誠に不幸な千年王國論争というのも実はこういう背景が

あってのことでした。

 

  ニュートンIsaac Newtown は近代自然科学成立の最大功労者だとされています。

著書「プリンキピア」で、コペルニクスの地動説から始まり、ガリレイを経た力学の

形成を説いていますし、その力学的自然観は十八世紀の啓蒙思想に大きな影響を与え

たことで知られています。  また、宗教思想家としても特異な存在で、理神論者でも

ありました。  スコットランドやイングランドの若者たちに科学的探求心を与えたと

いうので、グラスゴー大学の学生たちも大きな刺激と挑戦を受けていたのです。

 

  ニュートンがキャンベル親子や、さらに私たちキリストの教会の群れに属している

者たちに与えた影響というものは、ベーコンが聖書を読む者たちに与えた影響と同じ

ようなことではなかったかと思います。

  彼の探求心、興味ある関心ごとの一つひとつに、どんなに細かいことにでも注意を

払い、精神を傾け、心を注ぎ込むということで、憶測や推理を排除して、真理を追求

して行くという姿勢が、キャンベル親子の、とりわけアレキサンダーに影響を与え、

徹底的に、科学的に、憶測や推測を排除して、聖書をどう解釈して行けばよいのかと

いう追求姿勢を与えたものと思います。

  それに引き替え、それまで西欧諸国で盛んに学ばれていたアリストテレスへの関心

は減少気味となっていたようです。

 

  なお、1983年はストーン・キャンベル運動のキリストの教会の最初の宣教師として

1893年に来日されたガーストCharles Garst 夫妻とスミス G.T. Smith 夫妻来日百年

目に当たりました。  そのことを記念して、三派による初めての集会を私が企画し、

それに応えて来日して御茶の水キリストの教会会堂などで一連の講演をして下さった

リロイ・ギャレットLeroy Garrett 博士の名著「ストーン・キャンベル運動 Stone-

Campbell Movement College Press, 1981 の最初の部分にはベーコンやニュートン

が私たちの運動に与えた影響についての言及があります。  ベーコンとニュートンの

ほかにもジョン・ロック John Locke が私たちの運動に大きな影響を与えたと同博士

の著書が記しています。  そんなに難しい英語ではないので一読を勧め致します。

 

 

  さて、ふたたびグラスゴー大学とその授業内容に戻ります。

新しい科学、新しい科学的な発見などへの強い関心がスコットランドの知識層に普及

するに従い、それまで関心ごとの中心であったアリストテレスなどへの関心度が急激

に減少していったとも言われています。

 

  科学実験室、天文台や測候所、自然科学博物館や歴史博物館などが次々に主だった

大学につけ加えられていった時代であったようです。  トーマス・キャンベルの在学

時代には医学への関心とその重要性も強調され始めていたころであったそうです。

  これらを背景として、グラスゴーやスコットランドの主だった諸大学の教授たちが

直接トーマスを教えていたか、何らかの形でトーマスに大きな影響を与えていたよう

です。  そのことについても少し説明をしておきましょう。

 

 

  まずトーマス・リードThomas Reid 教授です。

大英百科事典には同教授に関して詳しい説明がありましたが省略いたします。

スコットランド学派の哲学者だと、日本で発売されている各種辞書や辞典には基本的

にそのように簡単に記載しています。  スコットランド学派というのは、常識学派と

いう意味です。

  著名な経済学者アダム・スミスの後任として1764年グラスゴー大学総長に就任し、

1796年の帰天まで道徳哲学を中心に神学、倫理学、政治科学、及び修辞学担任しまし

た。

 

  トーマス・キャンベルの在学期間が1783年から1786年ですから、トーマスがリード

教授からこれらの科目を学んだことに疑いの余地はほとんどないと私は思います。

  このことはトーマスのその後の人生に、その後の彼の新世界での教会生活に、また

息子アレキサンダーに、そしてまた新世界で生まれて来ることになるキリストの教会

運動に計り知れないほどの大きな影響を与えることになったものと、そのように私は

感じるのです。

  仮にもしもリード教授が加齢者のためにトーマスの教室で教鞭をとることが不可能

であったとしても、教授が大学に与えていた強い影響をトーマスが受けられなかった

ということは考えられないはずだと思います。

 

  リード教授は経験主義に立脚していましたが、ヒュームの懐疑哲学とは常に一線を

画し批判していました。  経験の真偽を判別する本能的な能力は常識にあると説いた

のでした。  この原理を偶然的心理と必然的真理に分け、道徳感情や良心というもの

によって道徳の原理は知覚できるのだと説いたのです。

 

  1764年にエジンバラで発行されたライドの主要著書 An Inquiry Into the Human

Mind, on the Principles of Common Sense というのがあります。  邦訳されたこと

があるのかどうか不勉強でわかりません。  仮私訳で「常識原理に基づく人の心への

質疑」とでもしておけば良いのでしょうか?

  この本は、リードよりちょうど一年後の同じ日に生まれたディヴィッド・ヒューム

David Humeというエジンバラ生まれのイギリスの哲学者の哲学をリードが読んだ後に

書いたもので、「常識哲学」という彼自身の哲学を記したものです。

 

  イングランドの認識的経験論哲学の創始者であるロック John Locke の経験主義・

理論的実証主義哲学や、スコットランドの社会思想家で歴史家でもあり、また著名な

上記の哲学者ヒュームの合理主義哲学または理性主義哲学に対して、リードは人間の

心の目というものは抑えられない確信なり必要不可欠な確信というものを伝え得るも

のであると主張したのです。  そのような確信、人はその常識を使って、ものごとが

真実なものであると判断できると主張したのです。  鋭い精神的、霊的な、あるいは

知覚なり理解力を強調するということで、人は経験の真偽を判断できる本有的能力を

常識の内に持っていると、リードは常識論に基づいた彼の哲学を確立したのです。

 

  霊的・精神的、あるいはむしろ知的見識・知的明察と訳すのが哲学の世界では良い

のでしょうか、spiritual insight 知覚洞察力というものは自明のことであるとし、

人は観念によって外的対象を知覚できるという能力があり、これを常識と呼ぶのだと

したのです。  道徳の原理というものも道徳感情や人の良心によって直感的に知覚し

得るとも説いたのです。  魂の存在というものの存在も肯定したのです。

  これらはすべて人間が内的に本有的に所有する能力であり、常識哲学の基本的原理

原則であるとしたのです。  リードが主張した常識哲学とは、ヒュームの懐疑主義に

対する保守的な反作用であったと言えましょう。

 

  そして、大切なことは、リードのこのような常識哲学が、その当時のイングランド

やスコットランドに吹き荒れていたさまざまな思想の波のうねりからキリスト教信仰

を守る唯一の哲学であったと考えられていたことでしょう。

 

  リードのものごとに対する考え方が、その後のトーマス・キャンベルの心の奥深く

にまで浸透し、トーマスの思考に大きな影響を与えることになるのです。

  ものごとを注意深く、冷静に、丹念に観察して得た常識というもの、その常識から

得るものの信頼性ということが、トーマスの聖書に接する態度に大きな影響を与えた

と言えるのではないでしょうか。  もちろん息子アレキサンダーに対しても間接的に

影響を与えたことを疑う必要はないと思えます。  『良き師に出会わずば学ばず』と

鎌倉初期の禅僧、曹洞宗の開祖道元がそのように言いましたが、そのとおりです。

 

 

  次にトーマス・キャンベルがグラスゴー大学で学んでいた時に出会ったもう一人の

大切な師、ギリシャ語教授ジョン・ヤング John Young との出会いについてです。

 

  ヤング教授に関して私が所有しています英米それぞれの百科事典類、多くの教会史

辞典、何冊かの人名辞など典にも記載されていませんでした。

  権威あるとされている英国の宗教倫理百科事典にも掲載されていませんでしたので

詳細については完全にお手上げ状態です。

  そこで次の手として、アメリカとカナダに在住するストーン・キャンベル運動史の

研究家たちに尋ねています。

  私淑していますトム・オルブライト博士 Dr. Thomas H. Olbricht がお持ちの3巻

からなる英国古典辞書にも記載されていないそうです。

  しかしキャンベル研究家でアビリン・クリスチャン大学教授 DR. Carisse Mickey

Berryhill ベリーヒル博士を紹介して頂き、博士からいくつかの貴重な資料や助言を

頂くことができました。  このあとすぐに紹介いたしましょう。

 

  所有していますキャンベル親子の書簡などを集めたミレニアル・ハービンジャー誌

復刻版 the Millennial Harbinger の第4巻6号、1833年6月にヤング教授について

トーマスが言及している箇所があると知りましたので細かい文章を丹念に調べてみま

した。

 

  復刻版は総数四十余冊からなり、1830年から1870年までの間に主としてトーマスの

息子アレキサンダーが中心になって、いろいろな人士との間で取り交わした信仰上の

書簡などを日記ふうに丹念にまとめたものです。  積み上げると一米六十余糎ほどに

なります。  細かい字がぎっしり詰まっています。

 

   260頁最下部で、ガラテヤ書1章4節をめぐって、神が私たちをキリストに在って

義として下さることを論じている部分があり、その箇所でトーマスは次のようなこと

を述べています。  文脈を省略しヤング教授の名前が出て来る所だけの仮私訳です。

  『もし私が神の救いを哲学的に思索し理論づけると仮定するなら、私はヤング教授

と共に次のようにたぶん言うことになるでしょう。  すなわち、「神さまのすべてが

慈悲や容赦だけだとすれば、そのような神さまは不公平な神さまだ」…と』。

 

  これはトーマスがケンタッキーの議員トンプソンから受け取った私信に対する長文

の返事の一部分で、ヤング教授の名前を引き合いに出してトーマスの論点を擁護して

いると思われます。  グラスゴー大学在学中にヤング教授から影響を受けていたこと

を具体的に示す箇所として理解してよいのではないでしょうか?

  そのほかにもミレニアル・ハービンジャー誌(「千年王国の前兆・先駆者・先触れ

の意)をさらに詳しく調べればヤング教授に関するトーマスの言及があるかも知れま

せんが、今回はさしあたって上記以外の探索は放念しました。

 

  そこでとりあえず、すでに2章で紹介しておきましたマッカリストー教授の著書、

Thomas Campbell, Man of the Book / Lester G. McAllisterの二十七頁から得た情報

によりますと、ヤングは1774年から1820年までグラスゴー大学で主としてギリシャ語

教師として教鞭をとり、トーマスもヤング教授の授業を受けていたとのことです。

 

  ヤングは「造詣深い文法学者」、「雄弁術の達人」などとして多くの人に知られ、

また人々の尊敬を受けていた教授であったようです。  独創的な授業方法を駆使して

ギリシャ語だけではなく科学も教えていたとのことです。

 

  たとえばある日ヤング教授が地質学の授業に臨むに際し、学生たちが岩石や鉱物の

標本・見本を収集して教室に持参すれば、ヤングがそれらを分析してみせると発表し

たそうです。

  そのことを聞いた学生たちで地質学にあまり興味を示さなかった者たちは、義務的

にいくつかの見本を教室に持参しました。  しかしヤング教授をからかってやろうと

考えた一人の学生は砕かれていた煉瓦片を拾い上げ、それに着色して教室に持参した

そうです。

  学生たちが持参した標本・見本の数々を一つずつ手にした教授は、『諸君、これは

古代エジプト産の赤地に長石結晶を含んだ硬い岩石でポーフェリー porphyry という

ものだよ』、『これは金を含有した水晶だよ』というように、次から次にすらすらと

名前を当て、標本の性質を説明したそうです。  そして例の着色された煉瓦片を前に

教授は、『これはだなぁ、愚かな者がこの教室にいるという見本だよ』と学生たちに

答えたそうです。  恐らく大きな爆笑が教室に響きわたったことでしょう。

 

  マッカリスターによりますと、グラスゴー大学主催のヤング教授追悼記念式場では

以下のような弔辞が述べられたそうです。

 

  『教授は実に造詣深い幽玄さと鋭敏さをもって学問を探索なさり、もっとも愉快で

巧妙な才能を駆使して学生たちの心に溶け込み言語構造のすべてを説き、いにしえの

言語の荘厳さの復元に大いに寄与されたのである…

  教授は非凡な創造的才能に豊かに恵まれた方であり、また人文科学のあらゆる面に

おいてよく学ばれた方である。

  教授は自然界に対して限りない興味をもって臨まれ、鋭く観察された方でもあり、

才能を秘めた詩人でもあり、優れた雄弁家でもあり、独創的な著述家でもあり、深遠

で賢明な哲学者でもあられた…』

 

  アビリン・クリスチャン大学のベリーヒル教授から伺ったことですが、ヤング教授

はトーマス・キャンベルがグラスゴー大学に入学するほんの少し前に、アーUre 教授

やジャーディンJardine 教授と組んで、それまでのアリストテレス方式からベーコン

方式 Aristotelian to Baconian methods に大学のカリキュラムを改定されたのだそ

うです。

  このことはトーマスの息子アレキサンダーが1808年から1809年にかけてグラスコー

大学に在学中に、彼がアー教授の科学の授業とジャーディン教授の修辞学を学んだ時

のことをアレキサンダーが書き記している資料からもわかるのです。

 

  この資料はベリーヒル教授がお調べになった未発表の資料から判明しました。

  いく年か前に伝道学院の招きに応じて来日され、八王子の大学セミナー・ハウスで

講演をして下さったジョン・マーク・ヒックス教授 Dr. John Mark Hicks  のもとで

博士論文として書かれたものであるようです。

  A Descriptive Guide To Eight Early Alexander Campbell Manuscripts と題した

ものです。  なお、ベリーヒル教授がこれを刊行本として発表なさるお気持ちはない

とのことでした。  関心のある方は私にまで個人的にご連絡下さい。

 

  さらに、Dictionary of National Biographyという書籍にはヤングのことが恐らく

記載されているであろうとベリーヒル教授はおっしゃっておりましたが、それがどの

ような辞典なのか今の時点ではわかりません。  後ほど調べてみるつもりでいます。

 

  トーマスがヤング教授のもとで学んだ時のことを手書きした文献が存在しているの

かどうかはわからないようですが、アレキサンダーがヤング教授とジャーディン教授

の授業でとった筆記ノートが現在でもベサニー大学に保管されているそうです。

  元茨城基督教学園への宣教師グラハム・マッケーさんの案内で私たち夫婦が同校を

訪問した時、特別にキャンベル記念室に案内され、キャンベル親子の所持品を身近に

見せて頂きましたが、残念なことに今となっては記憶を失ってしまっています。

 

  あとはアレキサンダーの回顧録 Memoirs of Alexander Campbell by R.Richardson

の少なくとも 113頁から 119頁あたりをさしあたり丹念に読むしかありません。

 

 

  しかしこれ以上ヤング教授のことを紹介するのは控えて、ジョージ・ジャーディン

教授を次に紹介いたします。  トーマスとアレキサンダーに大きな影響を与えた教師

の一人です。  ジャーディン教授に関してアレキサンダーは書き残しています。

 

  すでに簡単に述べましたように、そしてのちほどさらに詳しく述べる予定ですが、

先に新大陸・新世界に旅立ったトーマス・キャンベルの後を追ってキャンベル一家は

息子アレキサンダーが父親代わりを引き受けて北アメリカに移住することになりまし

た。  一行がロンドンデリーを出港して間もなく船は嵐に遭遇して難破しました。

 

  このため、トーマスの筆まめな性格から推測して、おそらく存在していたであろう

かと思われるキャンベル一家の記録なり書類のほとんどが海の中に失われてしまった

ものと私は推測しています。  失われてしまったのであろうと思われる書類の中には

トーマスのグラスゴー大学時代のものも含まれていたのではないかと思います。

  このようなわけですから、トーマスが具体的にどのような勉強をしたのかを正確に

把握することは、こん日にいたっては不可能だと思います。

 

  しかしながら、まずトーマスが、他の多くの学生たちと同様に、我が国の大学制度

からいうところの教養科目なり基礎科目を取得したのではないかと思います。

  すでに述べましたように、中世期の大学の授業内容にはトリヴィウム trivium

すなわち文法、倫理学、修辞学と、クォドゥリヴィウムquadrivium、すなわち算術、

幾何、天文学、それに音楽を加えてアーツ Arts として教えていたようです。

 

  これもすでに述べましたが、当時のグラスゴー大学は十八世紀のスコットランドの

黄金時代を満喫していた最高学府であったわけですから、上記授業以外にも、当時の

最高関心事であった科学に対する追求もなされ、ベーコンやニュートンもさらに話題

となっていたものと容易に想像できます。

 

  ベーコン Francis Baconはイングランドの優れた文学者、法律家、政治家、そして

何よりも経験論哲学の開祖であり、デカルトと共に近代哲学の開発者でした。

  晩年において、それまでになかった新しい方法で学術研究を試みたのでした。

すなわち、彼自身はそれまでの古い推理・憶測の世界、演繹法の世界に生まれ生きて

きた人でしたが、初めて学問追究の新機軸として帰納法の採用を提案したのです。

実験と観察を強調したのです。

 

  わかりやすく言えば、推理や憶測、あるいは科学的でない信仰や迷信や伝統などを

排除し、科学的に事実に基づいて学問を追究して行こうとする姿勢です。

  一つのことをこうだと推理して、そのような前提で物事を考えるなら、結論部でも

推理を前提としたものを認めざるをえなくなるという演繹法を排除し、帰納法を導入

しようとしたのです。  十八世紀の学問の黄金時代を謳歌していたスコットランドの

大学生には大歓迎された新しい学問追究姿勢です。

 

  しかし実はこういう科学的に問題に接するという姿勢が、それまでの教会の聖書の

読み方に大きな影響を与えることになってゆくのです。  帰納法という原則で、科学

的に聖書を冷静に読むという、それまでになかった姿勢が生まれてゆくとこになるの

です。  憶測や推理を聖書解釈に持ち込まないとする姿勢です。

 

  キリストの教会が過去百余年間とかく律法主義的な傾向を強め、聖霊軽視・無視の

姿勢を伴って来てしまったという遠因がこういうところにもあると私は考えます。

今から九十年ほど前に起った誠に不幸な千年王國論争というのも実はこういう背景が

あってのことでした。

 

  ニュートンIsaac Newtown は近代自然科学成立の最大功労者だとされています。

著書「プリンキピア」で、コペルニクスの地動説から始まり、ガリレイを経た力学の

形成を説いていますし、その力学的自然観は十八世紀の啓蒙思想に大きな影響を与え

たことで知られています。  また、宗教思想家としても特異な存在で、理神論者でも

ありました。  スコットランドやイングランドの若者たちに科学的探求心を与えたと

いうので、グラスゴー大学の学生たちも大きな刺激と挑戦を受けていたのです。

 

  ニュートンがキャンベル親子や、さらに私たちキリストの教会の群れに属している

者たちに与えた影響というものは、ベーコンが聖書を読む者たちに与えた影響と同じ

ようなことではなかったかと思います。

  彼の探求心、興味ある関心ごとの一つひとつに、どんなに細かいことにでも注意を

払い、精神を傾け、心を注ぎ込むということで、憶測や推理を排除して、真理を追求

して行くという姿勢が、キャンベル親子の、とりわけアレキサンダーに影響を与え、

徹底的に、科学的に、憶測や推測を排除して、聖書をどう解釈して行けばよいのかと

いう追求姿勢を与えたものと思います。

  それに引き替え、それまで西欧諸国で盛んに学ばれていたアリストテレスへの関心

は減少気味となっていたようです。

 

  なお、1983年はストーン・キャンベル運動のキリストの教会の最初の宣教師として

1893年に来日されたガーストCharles Garst 夫妻とスミス G.T. Smith 夫妻来日百年

目に当たりました。  そのことを記念して、三派による初めての集会を私が企画し、

それに応えて来日して御茶の水キリストの教会会堂などで一連の講演をして下さった

リロイ・ギャレットLeroy Garrett 博士の名著「ストーン・キャンベル運動 Stone-

Campbell Movement College Press, 1981 の最初の部分にはベーコンやニュートン

が私たちの運動に与えた影響についての言及があります。  ベーコンとニュートンの

ほかにもジョン・ロック John Locke が私たちの運動に大きな影響を与えたと同博士

の著書が記しています。  そんなに難しい英語ではないので一読を勧め致します。

 

 

  さて、ふたたびグラスゴー大学とその授業内容に戻ります。

新しい科学、新しい科学的な発見などへの強い関心がスコットランドの知識層に普及

するに従い、それまで関心ごとの中心であったアリストテレスなどへの関心度が急激

に減少していったとも言われています。

 

  科学実験室、天文台や測候所、自然科学博物館や歴史博物館などが次々に主だった

大学につけ加えられていった時代であったようです。  トーマス・キャンベルの在学

時代には医学への関心とその重要性も強調され始めていたころであったそうです。

  これらを背景として、グラスゴーやスコットランドの主だった諸大学の教授たちが

直接トーマスを教えていたか、何らかの形でトーマスに大きな影響を与えていたよう

です。  そのことについても少し説明をしておきましょう。

 

 

  まずトーマス・リードThomas Reid 教授です。

大英百科事典には同教授に関して詳しい説明がありましたが省略いたします。

スコットランド学派の哲学者だと、日本で発売されている各種辞書や辞典には基本的

にそのように簡単に記載しています。  スコットランド学派というのは、常識学派と

いう意味です。

  著名な経済学者アダム・スミスの後任として1764年グラスゴー大学総長に就任し、

1796年の帰天まで道徳哲学を中心に神学、倫理学、政治科学、及び修辞学担任しまし

た。

 

  トーマス・キャンベルの在学期間が1783年から1786年ですから、トーマスがリード

教授からこれらの科目を学んだことに疑いの余地はほとんどないと私は思います。

  このことはトーマスのその後の人生に、その後の彼の新世界での教会生活に、また

息子アレキサンダーに、そしてまた新世界で生まれて来ることになるキリストの教会

運動に計り知れないほどの大きな影響を与えることになったものと、そのように私は

感じるのです。

  仮にもしもリード教授が加齢者のためにトーマスの教室で教鞭をとることが不可能

であったとしても、教授が大学に与えていた強い影響をトーマスが受けられなかった

ということは考えられないはずだと思います。

 

  リード教授は経験主義に立脚していましたが、ヒュームの懐疑哲学とは常に一線を

画し批判していました。  経験の真偽を判別する本能的な能力は常識にあると説いた

のでした。  この原理を偶然的心理と必然的真理に分け、道徳感情や良心というもの

によって道徳の原理は知覚できるのだと説いたのです。

 

  1764年にエジンバラで発行されたライドの主要著書 An Inquiry Into the Human

Mind, on the Principles of Common Sense というのがあります。  邦訳されたこと

があるのかどうか不勉強でわかりません。  仮私訳で「常識原理に基づく人の心への

質疑」とでもしておけば良いのでしょうか?

  この本は、リードよりちょうど一年後の同じ日に生まれたディヴィッド・ヒューム

David Humeというエジンバラ生まれのイギリスの哲学者の哲学をリードが読んだ後に

書いたもので、「常識哲学」という彼自身の哲学を記したものです。

 

  イングランドの認識的経験論哲学の創始者であるロック John Locke の経験主義・

理論的実証主義哲学や、スコットランドの社会思想家で歴史家でもあり、また著名な

上記の哲学者ヒュームの合理主義哲学または理性主義哲学に対して、リードは人間の

心の目というものは抑えられない確信なり必要不可欠な確信というものを伝え得るも

のであると主張したのです。  そのような確信、人はその常識を使って、ものごとが

真実なものであると判断できると主張したのです。  鋭い精神的、霊的な、あるいは

知覚なり理解力を強調するということで、人は経験の真偽を判断できる本有的能力を

常識の内に持っていると、リードは常識論に基づいた彼の哲学を確立したのです。

 

  霊的・精神的、あるいはむしろ知的見識・知的明察と訳すのが哲学の世界では良い

のでしょうか、spiritual insight 知覚洞察力というものは自明のことであるとし、

人は観念によって外的対象を知覚できるという能力があり、これを常識と呼ぶのだと

したのです。  道徳の原理というものも道徳感情や人の良心によって直感的に知覚し

得るとも説いたのです。  魂の存在というものの存在も肯定したのです。

  これらはすべて人間が内的に本有的に所有する能力であり、常識哲学の基本的原理

原則であるとしたのです。  リードが主張した常識哲学とは、ヒュームの懐疑主義に

対する保守的な反作用であったと言えましょう。

 

  そして、大切なことは、リードのこのような常識哲学が、その当時のイングランド

やスコットランドに吹き荒れていたさまざまな思想の波のうねりからキリスト教信仰

を守る唯一の哲学であったと考えられていたことでしょう。

 

  リードのものごとに対する考え方が、その後のトーマス・キャンベルの心の奥深く

にまで浸透し、トーマスの思考に大きな影響を与えることになるのです。

  ものごとを注意深く、冷静に、丹念に観察して得た常識というもの、その常識から

得るものの信頼性ということが、トーマスの聖書に接する態度に大きな影響を与えた

と言えるのではないでしょうか。  もちろん息子アレキサンダーに対しても間接的に

影響を与えたことを疑う必要はないと思えます。  『良き師に出会わずば学ばず』と

鎌倉初期の禅僧、曹洞宗の開祖道元がそのように言いましたが、そのとおりです。

 

 

  次にトーマス・キャンベルがグラスゴー大学で学んでいた時に出会ったもう一人の

大切な師、ギリシャ語教授ジョン・ヤング John Young との出会いについてです。

 

  ヤング教授に関して私が所有しています英米それぞれの百科事典類、多くの教会史

辞典、何冊かの人名辞など典にも記載されていませんでした。

  権威あるとされている英国の宗教倫理百科事典にも掲載されていませんでしたので

詳細については完全にお手上げ状態です。

  そこで次の手として、アメリカとカナダに在住するストーン・キャンベル運動史の

研究家たちに尋ねています。

  私淑していますトム・オルブライト博士 Dr. Thomas H. Olbricht がお持ちの3巻

からなる英国古典辞書にも記載されていないそうです。

  しかしキャンベル研究家でアビリン・クリスチャン大学教授 DR. Carisse Mickey

Berryhill ベリーヒル博士を紹介して頂き、博士からいくつかの貴重な資料や助言を

頂くことができました。  このあとすぐに紹介いたしましょう。

 

  所有していますキャンベル親子の書簡などを集めたミレニアル・ハービンジャー誌

復刻版 the Millennial Harbinger の第4巻6号、1833年6月にヤング教授について

トーマスが言及している箇所があると知りましたので細かい文章を丹念に調べてみま

した。

 

  復刻版は総数四十余冊からなり、1830年から1870年までの間に主としてトーマスの

息子アレキサンダーが中心になって、いろいろな人士との間で取り交わした信仰上の

書簡などを日記ふうに丹念にまとめたものです。  積み上げると一米六十余糎ほどに

なります。  細かい字がぎっしり詰まっています。

 

   260頁最下部で、ガラテヤ書1章4節をめぐって、神が私たちをキリストに在って

義として下さることを論じている部分があり、その箇所でトーマスは次のようなこと

を述べています。  文脈を省略しヤング教授の名前が出て来る所だけの仮私訳です。

  『もし私が神の救いを哲学的に思索し理論づけると仮定するなら、私はヤング教授

と共に次のようにたぶん言うことになるでしょう。  すなわち、「神さまのすべてが

慈悲や容赦だけだとすれば、そのような神さまは不公平な神さまだ」…と』。

 

  これはトーマスがケンタッキーの議員トンプソンから受け取った私信に対する長文

の返事の一部分で、ヤング教授の名前を引き合いに出してトーマスの論点を擁護して

いると思われます。  グラスゴー大学在学中にヤング教授から影響を受けていたこと

を具体的に示す箇所として理解してよいのではないでしょうか?

  そのほかにもミレニアル・ハービンジャー誌(「千年王国の前兆・先駆者・先触れ

の意)をさらに詳しく調べればヤング教授に関するトーマスの言及があるかも知れま

せんが、今回はさしあたって上記以外の探索は放念しました。

 

  そこでとりあえず、すでに2章で紹介しておきましたマッカリストー教授の著書、

Thomas Campbell, Man of the Book / Lester G. McAllisterの二十七頁から得た情報

によりますと、ヤングは1774年から1820年までグラスゴー大学で主としてギリシャ語

教師として教鞭をとり、トーマスもヤング教授の授業を受けていたとのことです。

 

  ヤングは「造詣深い文法学者」、「雄弁術の達人」などとして多くの人に知られ、

また人々の尊敬を受けていた教授であったようです。  独創的な授業方法を駆使して

ギリシャ語だけではなく科学も教えていたとのことです。

 

  たとえばある日ヤング教授が地質学の授業に臨むに際し、学生たちが岩石や鉱物の

標本・見本を収集して教室に持参すれば、ヤングがそれらを分析してみせると発表し

たそうです。

  そのことを聞いた学生たちで地質学にあまり興味を示さなかった者たちは、義務的

にいくつかの見本を教室に持参しました。  しかしヤング教授をからかってやろうと

考えた一人の学生は砕かれていた煉瓦片を拾い上げ、それに着色して教室に持参した

そうです。

  学生たちが持参した標本・見本の数々を一つずつ手にした教授は、『諸君、これは

古代エジプト産の赤地に長石結晶を含んだ硬い岩石でポーフェリー porphyry という

ものだよ』、『これは金を含有した水晶だよ』というように、次から次にすらすらと

名前を当て、標本の性質を説明したそうです。  そして例の着色された煉瓦片を前に

教授は、『これはだなぁ、愚かな者がこの教室にいるという見本だよ』と学生たちに

答えたそうです。  恐らく大きな爆笑が教室に響きわたったことでしょう。

 

  マッカリスターによりますと、グラスゴー大学主催のヤング教授追悼記念式場では

以下のような弔辞が述べられたそうです。

 

  『教授は実に造詣深い幽玄さと鋭敏さをもって学問を探索なさり、もっとも愉快で

巧妙な才能を駆使して学生たちの心に溶け込み言語構造のすべてを説き、いにしえの

言語の荘厳さの復元に大いに寄与されたのである…

  教授は非凡な創造的才能に豊かに恵まれた方であり、また人文科学のあらゆる面に

おいてよく学ばれた方である。

  教授は自然界に対して限りない興味をもって臨まれ、鋭く観察された方でもあり、

才能を秘めた詩人でもあり、優れた雄弁家でもあり、独創的な著述家でもあり、深遠

で賢明な哲学者でもあられた…』

 

    アビリン・クリスチャン大学のベリーヒル教授から伺ったことですが、ヤング教授

はトーマス・キャンベルがグラスゴー大学に入学するほんの少し前に、アーUre 教授

やジャーディン George Jardine 教授と組んで、それまでのアリストテレス方式から

ベーコン方式 Aristotelian to Baconian methods に大学のカリキュラムを改定され

たのだそうです。  ジャーディンはジャーデインと発音するのかも知れません。

 

  このことはトーマスの息子アレキサンダーが1808年から1809年にかけてグラスゴー

大学に在学中に、彼がアー教授の科学の授業とジャーディン教授の修辞学を学んだ時

のことをアレキサンダーが書き記している資料からもわかるのです。

 

  この資料はベリーヒル教授がお調べになった未発表の資料から判明しました。

  いく年か前に伝道学院の招きに応じて来日され、八王子の大学セミナー・ハウスで

講演をして下さったジョン・マーク・ヒックス教授 Dr. John Mark Hicks  のもとで

博士論文として書かれたものであるようです。

  A Descriptive Guide To Eight Early Alexander Campbell Manuscripts と題した

ものです。  なお、ベリーヒル教授がこれを刊行本として発表なさるお気持ちはない

とのことでした。  関心のある方は私まで個人的にご連絡下さい。

 

  さらに、Dictionary of National Biographyという書籍にはヤングのことが恐らく

記載されているであろうとベリーヒル教授はおっしゃっておりましたが、それがどの

ような辞典なのか今の時点ではわかりません。  後ほど調べてみるつもりでいます。

 

  トーマスがヤング教授のもとで学んだ時のことを手書きした文献が存在しているの

かどうかはわからないようですが、アレキサンダーがヤング教授とジャーディン教授

の授業でとった筆記ノートが現在でもベサニー大学に保管されているそうです。

  元茨城基督教学園への宣教師グラハム・マッケーさんの案内で私たち夫婦が同校を

訪問した時、特別にキャンベル記念室に案内され、キャンベル親子の所持品を身近に

見せて頂きましたが、残念なことに今となっては記憶を失ってしまっています。

 

  あとはアレキサンダーの回顧録 Memoirs of Alexander Campbell by R.Richardson

の少なくとも 113頁から 119頁あたりをさしあたり丹念に読むしかありません。

 

 

  しかしこれ以上ヤング教授のことを紹介するのは控えて、ジョージ・ジャーディン

教授を次に紹介いたします。

トーマスとアレキサンダー親子にも大きな影響を与えた教授陣の一人です。

 

  いつものことですが、ジャーディン(またはジャーデイン)教授に関する資料も、

スコットランドのグラスゴー大学を訪れるか、キャンベル親子が設立したベサニー・

カレッジを訪れるか、あるいは南豪州公立図書館を訪れないかぎり詳しく調査するの

は不可能のようです。  教授に関する資料は三十センチと十八センチほどのサイズの

もので、四百頁弱のものがウエスト・ヴァージニア州のベサニー・カレッジ校舎内に

あるフィリップ図書館に保管されているとのことです。  お手上げです。

 

  そこで、とりあえず手持ちのいくつかの資料を調べた範囲内でということですが、

ジャーディン教授(以下ジャーディン教授で統一)は主として論理学と純文学を担当

していた教授であったようです。  純文学、ラテン語で belles-lettres です。

  教授はしばらくのあいだジェームズ・クロウ James Clow 教授の助手を務めた後、

クロウ教授の後継者として教鞭を担ったそうです。

 

  クロウ教授がグラスゴー大学で教えていたのは1775年から1787年までであったとの

ことです。  残念なことですが、私の手持ちの資料源にクロウ教授の名が掲載されて

いるものがありません。  クロウ教授がトーマスにどのような影響を与えたのか今の

段階の私には想像すらつきません。  ここではジャーディン教授だけに限定します。

 

  トーマスはジャーディン教授のことを想い出して次のように書き記しています。

『ジャーディン先生はほんとうに慈しみ深く、気だての優しい、人当たりのよい立派

な哲学者でいらっしゃった』…と。

 

  『修辞学の教本として諸君はラテン語を充分に勉強しておかなきゃいかんぞ。

そしてだなぁ、さらにクインティリアヌスの書き物にも精通しておく必要があるぞ』

と口癖に語っていたそうです。

  クインティリアヌス Marcus Fabius Quintilianus はイェスが十字架に架けられた

ころ現在のスペインで生まれ、ローマで教育を受けたローマの修辞家のことです。

彼の主著に十二巻からなる「弁論術教程」があります。  中世期やルネサンス時代の

著作家たちに修辞学の古典として盛んに受け入れられていたものです。

トーマスもジャーディン教授経由でクインティリアヌスの修辞学を学んだのです。

 

  また、ジャーディン教授が好んで用いた教本にはベーコンの未完の大著「新機関」

Novum Organum がありました。  これは彼の Instauratio Magna「学問の大革新」の

第二部で、アリストテレスの Organonに対して科学的・哲学的方法論として帰納法を

提唱したものです。

 

  すでに述べましたように、ジャーディンはヤングやアーらと組んでグラスゴー大学

のそれまでのカリキュラムに大きな改革・革新をもたらした教授の一人で、教育者と

して優れていた人物であったようです。

 

  最近の日本の大学の授業方法を私は知りませんが、私の中・高校生や大学生時代の

授業というのは教授が一方的にメモを読み上げることがほとんどで、それを聴く学生

らは聴いていることを同時に必死になって筆記するということが主であったと、その

ように記憶しています。  質疑応答などはほとんどなかったように記憶しています。

 

  何年も使って黄色く変色したようなメモを講壇から読みあげる教師と、それを学生

が集中して聴きながら、とにかくただひたすらに筆記するというのが普通の授業方式

であったかと思います。  録音器具やコピー機など存在しなかったのです。

  授業を受けない要領のよい学生は学友のノートを借りてそっくり写し書きをすれば

よかったのです。  よいノートを取って、それをきれいによくまとめることができる

学生を捜し出し、そういう学生を友人にするのが良い点を取る大切なコツでした。

 

  余談ですが、私がそのような一方的な授業を最後に体験したのは、東京神学大学の

大学院でした。  入学直後に核マル派ゲバ騒動が起ったので確か1970年でした。

「ある有名な神学者」と呼ばれていた教授の授業でした。  誠に不誠実な教授であり

学期の半分は休講でした。  授業内容は教授の書いた本そっくりで、色褪せたノート

を、学生たちの方に顔を向けないで、横の方を向いて教授が一方的に読みあげるだけ

の授業でしたから、自宅でその本を読めばわざわざ登校しなくても済むことでした。

「学生の痛みの神学」をいやというほど体験させられたお粗末千万の授業でしたし、

それを可とする権威主義丸出しの神学校でした。  以上は「余言者の余言」です。

 

  そのような授業方式がいつごろから、どこから我が国に導入されて来たのか正確に

私にはわかりませんが、ジャーディン教授が学生に接するときに一つの基準とされて

いたことを学ぶに従い、私が受けていた戦前・戦中・戦後の授業は欧州から導入され

て来たものではなかったのかと、そのように思えるように感じました。

 

  ジャーディン教授が優れた教師であったとすでに述べましたが、それは教授が筆記

試験や小論文提出というそれまでの方式よりも、質疑応答や口答試験を重視する教授

であったということからも伺えます。  一対一の授業を尊重した優れた教師でした。

  何十人、何百人もの学生をホールのように大きい教室に入れて、マイクロフォンや

プロジェクターを使って、機械的に授業をするという現在のやり方では人格的影響を

学生たちに対して与えることは不可能となっている現在と比べ、トーマスたちが体験

した個人重視の授業方式がいかに恵まれたものであったのかを思い知らされます。

 

  そのほかにも、私自身も留学中の数年間に三つの大学で体験したことですが、毎回

あるいは毎週のように各授業でクイズという小さなテストなり書いたものを提出する

という習慣があったと記憶しています。  とにかく指定された教科書以外にも数多く

の参考資料や副読本を片っ端から読んでおかないと決してレポートが書けないという

仕組みでした。  怠けることができないという点が米国の大学に共通していました。

 

  ジャーディン教授は質疑応答や口答試験以外にも毎週宿題を出しました。

学生たちは何かしら提出物を毎週要求されていたようです。  現在の日本の教育制度

では考えられないようなことでしょうが、学生たちが提出したペーパーなりレポート

にジャーディン教授は必ず目を通し、ひとつひとつを評価し、コメントを書き記して

から学生たちに返還していたようです。  口答試験もたびたび行ったようです。

  また、教授は「徹底した常識論者であった」と語り継がれています。

そして教授の基本的教育方針・原則は、「学生ひとりひとりがあらゆる話題について

徹底的に自ら考えるように訓練する」ということであったようです。

 

  このようなわけで、ヤング教授とジャーディン教授がトーマス・キャンベルの心と

頭脳に与えた影響は計り知れないものがあると考えられています。

『善き師に出会わずば学ばず』(禅僧道元)とは誰にとっても誠に大切なことです。

  神が各自に託して下さった才能を伸ばすために、私たちひとりひとりには善き師、

人生の善きペース・メーカーとしての師との出会いが必要なのだと確信するのです。

 

  すでに述べたことですが、その当時の西欧に吹き荒れていたいろいろな思想や運動

は、もちろんスコットランドをも襲っていたのです。  軍事的・政治的にも不安定な

状態が各地に起っていました。  まさしく動乱時代であったと思います。

(このことに関して手作り地図を用意しました。 欧州各地から、あるいはすぐ下の

イングランドからも、いろいろな思想の波がスコットランドにも押し寄せてきていた

ことをおわかりいただけるかと思います。 それを防いだスコットランドの神学者や

教会人、さらにスコットランド常識哲学などを加えておきました。 讃美歌234番

の3節を念頭におきながら素人の私が書いたものです。 不完全さをお詫びします。)

 

  しかしグラスゴー大学は襲いかかるそれらの荒波を防ぎ、信仰を護る防波堤の役目

をよく果たしていたのでした。  それは上記のような優れた教授たちに負うところが

多いと言わなければならないでしょう。  そして、それらの優れた教授たちの指導と

影響を受けながらトーマス・キャンベルは学んでいたのです。  実に恵まれた環境の

中で善く学んだ学生の一人であったのです。  善き学舎、善き師、善き学生です。

 

  トーマスが入学した時にもう一つ特記すべきことがあります。

それは幸いなことでしたが、トーマスがグラスゴー大学に入学する直前に新しい学部

が追加されていたことです。  医学部の新設でした。

  大学で学んだのち卒業して各地の教会で牧師として赴任する予定の者たちが在学中

に最低限の医学的知識を学んでおくことが伝道・牧会に必要になるだろうという動機

から新設された学部でした。  とりわけ貧しい教区に派遣される卒業生にこのことの

必要性が叫ばれていたからでした。  最低限の医学的知識を学生たちに与えておけば

貧しい教区民たちのために必ず役立つであろうと考えられての新設でした。

トーマスはこの授業にも、時間をきちっと守って、熱心に出席していたそうです。

 

  私が最初に留学した学校の聖書のクラスでも、『これからの聖書学部の学生たちは

心理学・精神医学・神経内科などを学んでおくべきだ』と、もう五十余年も前のこと

になりますが、そのような声をいく度となく聴いたことがあります。  その当時には

こん日のような複雑な社会になるだろうなどと想像もつかなかったことでした。

さらに留学生の身分では経済的にも語学的にもそのような余裕はありませんでした。

 

  いつの世にあっても、どこにいても、『よく研がれた刃はよく切れる』ということ

なのでしょう。  第1テモテ書4章12節に『年が若いからといって他人に軽んじられ

てはいけない』とありますし、第2テモテ書2章15節には『練達・熟練した働き人に

なる』必要性を説いています。  トーマスに負けないで学び続けたいものです。

 

 

  最後にひとことグラスゴー大学の貢献度を改めて述べておきましょう。

トーマス・キャンベルが在学したころのグラスゴー大学も、スコットランドの知的界

でも、黄金時代を謳歌していました。  いちじるしく伸び始めていた科学的研究法が

重要視されていた時代でした。

 

  しかしグラスゴー大学では科学を信仰の根拠としようと試みる自然神学のいかなる

挑戦に対してもこれを厳しく戒め拒否しようとしていたのです。  イェス・キリスト

の啓示、イェス・キリストの十字架の贖罪を経ないで、人間が生まれつき持っている

理性によって神を知り、また知ろうとする自然神学には断固とした態度で臨んだので

す。  グラスゴー大学の教授たちが主張したこととは、科学というものは方法手段を

提供するものであって、私たち人間は自分たちの霊的なことがらに対して、精神的な

ことに関しては、あくまでも啓示された宗教を見上げるべきであるとしたことです。

 

 そして、見落としがちなことを再度ここで述べて読者のみなさんの注意を喚起して

おきたいと思います。 それは、若いトーマス青年の将来性を見抜いて奨学金を申し

出たジョン・キンレイ John Kinley という人物を神が備えてくださっていたという

事実でした。 

東洋の地にあってとかく私たちは「血のつながり」を無意識にも強調し過ぎる傾向

があるようですが、イェスに対する信仰が固く、人となりに優れている若者をイェス

の栄光のため、神の国のために、育て上げることに使命と喜びを覚える訓練を年配者

なり経済的・社会的にゆとりができてきた者が学ぶ必要があるという点です。

神の国のために神さまから託された財宝を喜んで捧げるということにもう少し敏感で

あってもよいのではないかと私は思うのです。 

口先だけで後継者養成を論じるのはいとも簡単なことですが、気がついた者が率先

して神さまの御用に自分が用いられることを願うようにならなければアジアの教会の

成長はそれだけ遅れると思うのです。 いかがなものでしょうか?

 

 

 

  1786年(天明6年、光格天皇、徳川家斉将軍、ロシア船千島に到来、江戸大火災、

関東大水害、湯島聖堂炎上、アメリカ合衆国独立10年目、バートン・ストーン14歳)

ころにトーマス・キャンベルはグラスゴー大学文学部を優秀な成績で卒業しました。

  このあと、トーマスは自分たちが所属している教群の神学校でさらに学問の研鑽に

励むこととなります。  このことは次章で説明いたしましょう。