4章  トーマス・父・教会・自立

 

  さて、話を元に戻します。

 

  カナダ出兵から復員して結婚したことを期に、ローマ・カトリック教会を脱会して

英国国教会に改宗し、それ以降その死にいたるまで「忠実な英国国教会員」となった

父アーチボールドを愛し尊敬していたトーマスには、父が所属するようになった英国

国教会をどうしても好きになれないということで、すでに述べましたように、秘かに

真剣に悩んでいたのでした。

 

  父を大切にする良心的な息子トーマスにとって、こん日に到って詳細を正確に把握

することは不可能ですが、その当時のイングランドのスコットランドやアイルランド

に対する抑圧政策を考えるとき、その中でもローマ・カトリック教徒に対する厳しい

弾圧政策を理解するとき、厳しい条件の中でローマ教会への信仰を捨てて英国国教会

に改宗することで何とか少しはましな生活を家族のために得ようと望んだ父の苦悩を

理解することはむつかしいことではなかったものと推測できるのです。

 

  ここで脱線をしますがお許しを願います。

 

  信仰と教会の巨人トーマス・キャンベルを日本に招聘したいと願う今回の私の試み

のために、当時の政治的、社会的、宗教的、文化的背景などを少しばかりですが俄か

素人教会史老学徒が調べてみました。

 

  そして私の想像を遥かに越えた厳しい差別と抑圧をイングランド国家権力と教会が

スコットランドとアイルランドの非英国国教会教徒や英国国教会忌避者たち、そして

ローマ・カトリック教徒たちに課していたことを初めて学び衝撃を受けました。

  まともな職を得ることも、穏やかに結婚生活を営むことも、人間としてささやかな

最低限の生活を願うことすらも許さない厳しい恐怖政策が何世紀にもわたっての人々

を支配していたことを知りました。  たとえば下記サイトを御覧下さい。

       www://catholicity.elcore.net/MacCaffre/HCCRFR2 Chapter11.html

 

  また、プロテスタント(この場合は英国国教会信者を指す)とローマ・カトリック

教徒との結婚に対しては、死刑や密告奨励制度を含めて、実に厳しい制約がこと細か

く定められていたのを知り、自分の無知を恥じると共に、恐怖の抑圧諸悪法のもとで

生きざるを得なかった当時の人々の苦悩に一端を想像することができました。

 

  ローマ・カトリック教徒であった父アーチボールドの結婚もそのような厳しい制約

の下で成立したものと想像します。  死ぬまで「議会決議に従って忠実な英国国教会

教徒であろう…」と試み続けたアーチボールドの限りない不安感を少しは理解できる

ようになったと私は思いました。  父の結婚相手や結婚後の生活が殆ど空白であった

ということの理由も何となく理解できるようになりました。

 

  十六世紀から十七世紀にかけてアイルランドにおけるローマ・カトリック教徒への

一連の抑圧法のことをペナル・ロー Penal Laws と呼んでいました。

  カトリック教徒だということだけで一切の市民権を剥奪するものですし、ローマ・

カトリックの礼拝に厳罰で臨むという法律でした。  1697年から1749年にかけて施行

された主だったもの十五条ほどに目を通してみましたが、まことに残忍きわまりない

悪法律であったことを知りました。

  前述のものと同じように、英語を読める方のために、紹介しておきましょう。

            http://www.law.umn.edu/irishlaw/intermarriage.html

 

 

 

  しかし以上のような政治的・社会的状況の中で、英国軍人としてカナダにまで従軍

できたことや、詳しいことが現在までわからないままですが恐らく英国国教会員では

なかったであろうと思える女性と結婚できたことなどから推測して、アーチボールド

が便宜上?選んだ儀式中心の英国国教会の礼拝や信仰の在り方を、どうしても好きに

なれなかったトーマスや三人の弟たちにとっては、自分自身の良心を曲げてまで信奉

するということはとうていできない相談でした。

  それは、そのころにはすでにトーマスが極めて誠実な人格の持ち主であり、また、

聖書をよく読み、よく祈る敬虔なキリスト教徒であったからだと思います。

 

  そのことはたとえば次のようなことからもわかります。

  トーマスの敬虔な祈りには副詞や形容詞などを豊富過ぎるほど使ったようで、彼が

祈る時にはずいぶんと長い時間を要したようです。  文学青年であったのです。

「天にまします我らの父よ」と、たとえば「主の祈り」を捧げる時にでも、「天」と

「我ら」と「父」という三つの名詞に多くの形容詞を加えて祈るという具合です。

彼はほんとうによく祈ったのです。  熱心に、誠実に、祈ったのです。

  私はトーマスのこの祈りかたを初めて知ったとき、自分自身の祈りの無味乾燥さ、

機械的、義務的、形式的さ、乏しさを示されて神さまに対し誠に申し訳ないものだと

教えられた次第です。  皆さんはそのようなことがないと思うのですが…

 

  また、先ほど述べましたように、尊敬している父であっても、自分の良心や信仰に

反してまでも、父が義務的に?通っていた英国国教会の冷たい儀式的礼拝に参加する

ことはできなかったことです。  このことで友人たちに話しあっていたようです。

  彼自身の救いの確信という点からも、そしてさらに彼自身の性格からも英国国教会

を好きにはなれなかったのです。

  ほんとうの信仰の達成や効果的な召命感につきものの筈の、これはトーマスの理解

なのですが、罪の赦しと神さまに自分は受け入れて頂いているという確信を求めて、

トーマスは熱心に祈ったのです。  聖書を熱心に読む青年でもあったのです。

形式的で儀式中心の英国国教会は彼の心を満たすことができなかったのです。

 

(米国で今までに発行されたトーマス・キャンベル伝記であれ息子アレキサンダーの

伝記であれ、それまでの米国の白人三派教群(ディサイプルズ、キリストの諸教会、

  そしてクリスチャン・チャーチズ Disciples of Christ, Churches of Christ,

and Christian Churches / Churches of Christ )が語るストーン・キャンベル運動

やその運動に携わっている諸教会にとって、自明のこととして、ごく当たり前のこと

として捉えられていることとは、共通のエトスとは、そしてそのところが日本にある

自称キリストの教会には共通認識として決定的に欠落し、大切な共通遺産として徹底

して認識されていないこととは、実にこのトーマスやその息子アレキサンダーたちが

大変に苦い生活を賭けて体験した位階聖職者制度の弊害、すなわち、アイルランドの

ローマ・カトリック教会であれ、スコットランドの国教会となった長老教会であれ、

あるいはそれらの二国を迫害し抑圧していたイングランドとその英国国教会であれ、

それらの宗教組織に上から下まで徹底していた位階聖職者制度の弊害であっただろう

と、そのように私は思っているのです。

 

  そして、当時の国王の権力をも揺るがし兼ねないほどの実力を持っていた宗教組織

なり教会制度という縦社会と、そこに君臨している職業的宗教人たちの驕慢不遜な?

姿勢、それに対して何も言うことができないでいた農漁民や職人たち、あるいはその

ような制度を当然のように支持していた教会の末広がりな縦社会などに対して、それ

はおかしいと思う人々も存在していたと思います。

  そのような社会構造に対し徹底した拒絶姿勢をとるということは、まず自らがよく

祈って、祈って、祈って、そしてほかの誰かがそう言ったからではなく、自分自身で

神の御言葉である聖書を熟読し、神の御言葉にだけにまず静かに聴き従うということ

から初めて生まれて来るはずだと、そのように私は思うのです。

  縦社会の構造になれきっている私たち日本人にとって、その一部である「キリスト

の教会」と自称する教群に属している私たちには、この優れたプロテスタントの実に

最高の精神と最高の遺産を全く理解せず、評価していないのだと、私は教会史を学べ

ば学ぶだけ、そのように思うようになってきているのです。

 

  それですから、人が自分を「牧師」と自称してみたり、そのように呼ばれてみたい

などという誘惑に誘われてしまったり、ローマ教皇や枢機卿のようなガウンを着用し

てみたいという誘惑に弱いのだと私は思います。  イェス以外に牧者はないのです。

  エルサレムの神殿に巣くっていた祭司や学者や長老たちに対してイェスがいちばん

嫌われたはずのことを、自称「キリストの教会」という群れの中にいる福音伝達者、

キリストとその教会に仕えるべき者が、そのような世俗的権威の誘惑に簡単に負けて

しまうのだと思います。  それよりも私たちはまず聖書に精通する者となるべきだと

思うのです。  そして聖書に関連するあらゆる部門についても充分に学ぶべきです。

 

  ちょうどこの欄を推敲し始めた前後にローマ教皇ヨハネ・パウロニ世が帰天され、

その葬儀と次期教皇を選ぶためのコンクラーヴェCon-clave のために世界の各地から

枢機卿たちや他の司祭たちがローマに続々と集結中です。

  そして葬儀を司式したり出席している枢機卿たちの姿が瞬時にして全世界にテレビ

を通して放映されています。  赤の聖衣に黒のベルト、あるいは黒の聖衣に赤の帯、

あるいは赤の滑り落ちそうな帽子や、白や金色で先のとがった権威の象徴の帽子など

を着用している枢機卿や司祭たちの姿を人々は別に何の感情も抱かず肯定的に眺めて

います。

 

  「何の感情も抱かずにテレビを観ている」と書きましたが、その中には私たち自称

クリスチャンという人種も含んでのことです。  その私たちは、つい先日まで映画の

「パッション」というのを激しい複雑な、そして痛みの感情を伴いながら鑑賞してい

たのです。  イェスが、宗教集団の権威の象徴であるガウンを着用したエルサレムの

神殿の祭司や学者やパリサイびとたちによって「つるしあげ裁判」にかけられている

画面を観ていたのです。

  ところが今回のローマのカトリック教会という世界最大の宗教集団のトップたちの

ガウンとキャップ姿を眺めても「何も不思議ではない」という平然とした態度をとっ

ているのです。

  もしローマに今この瞬間にイェスが現れなさったなら、使徒パウロやペテロが出現

したならば、今マルティン・ルターが出てきたら、あるいはトーマス・キャンベルが

いたら、さあ、どのようなことをイェスやこれら私たちの先輩は言うのでしょうか。

  トーマス・キャンベルにとって、それら宗教的位階聖職者の縦社会構造と枢機卿や

司祭たちのあの特権階級の権利と権力を示すガウンやかぶりものをかぶった人たちを

見て、何というのでしょうか?  私は私の仲間の伝道者や牧師たちがガウンを着て、

「牧師です」と、他の人々とはチト違うんだ…と言いたがる気持ちを理解することが

できないでいます。  脱線が過ぎましたがキャンベル研究の大切な点だと思います。

 

  トーマス・キャンベルやその息子アレキサンダーから学ぶこととは、こういう背景

を洞察し、その中でいのちを賭けて聖書一本槍精神を貫いたキャンベル親子の姿勢で

はないのかということです。  キャンベル親子の信仰の歩みをただ過去の歴史物語と

して、知識として学ぶというのではなく、彼らがもっとも大切なこととしていのちを

賭けた信仰の姿勢を学びとることが大切だと思うのです。  いかがでしょうか?

 

  トーマスもアレキサンダーも、古典英語を学び、ギリシャ語を学び、ヘブライ語を

学び、ラテン語を学んでいます。  当時の西ヨーロッパを巻き込んで吹き荒れていた

いろいろな哲学や思想をよく勉強していたのです。 次章の自作地図をご覧ください。

  そして何よりもトーマスは「聖書の人 Man of the Book」と呼ばれていたのです。

また「祈りの人」でもあったのです。  ガウンや肩書きの人ではなかったのです!)

 

 

  さて、話を元に戻します。

  視力の低下が著しい私にとって細かい活字を読むということは至極の難業ですが、

ロバート・リッチャスンが書いたアレキサンダー・キャンベルの回顧録二十三頁には

一字一ミリ半ほどの細かい活字を使ってトーマスの信仰上の悩みや心の葛藤を詳しく

書いています。

 

  信仰上の悩みごとで頭がおかしくなるほどに悩み苦しんでいたある日、トーマスは

草原をひとりで歩きながら、どのようにして信仰の確信を得たらよいのだろうかと、

瞑想に耽っていました。  心も頭も悩みと不安で最悪・最低状態にあったようです。

そのような状態の中で草原の中を散策していたようです。  そして体験するのです。

 

  『突如として聖なる平安が心の隅々までも満たすのを感じた…それまでの人生の中

で一度も体験したことがないような神の愛が胸の中に充満して来るのを感じた…』の

だそうです。  それまでの疑いや不安は『魔法のように消え去った』そうです。

  十字架上で贖罪の業をなし給うたキリストの執り成しの業を確信して、神との和解

の確信を得たのです。  満たされた心の平安と感謝の歓喜の念がそののちのトーマス

の生涯を決定づけるものとなったのだと、リッチャスン回顧録は記録しています。

  トーマスが牧師の道を選ぶことに到るのにこの体験が大いに寄与したのです。

彼は彼の生涯を通してイェス・キリストの福音を語る者になりたいと願う者となった

のです。

 

  (私の個人的で僣越な憶測にしか過ぎないと思いますが、バートン・ウォーレン・

ストーンも同じように悩んだことがあると拙文の中で述べておきました。

  トーマスが所属していた同じ長老教会の教義、すなわちカルヴィニズムが主張する

「神の選び」と、それを確認する方法として個人的な超自然的体験が要求されていた

ということが、トーマスの聖霊体験にも関係していたのかも知れませんが、回顧録の

記録にカルヴィニズムに関する言及があるわけではありませんので、私の憶測に対し

て責任をもってそうだと断定できる筋合いのものではありません。  為念)

 

  この体験後のことですが、父を敬愛する気持ちの強い、そして思い遣りの心の強い

トーマスは、相当な怖れを抱きながら、父の所属する英国国教会の集会に列席したく

ないことと、臣従拒否派のスコットランド長老教会のアンティ・バーガー派(=分離

独立派長老教会内の市民誓約拒否派)に所属したいことと、その群れの中でイェス・

キリストの福音を説き語る者になりたい旨を伝えたのです。

 

  これは父アーチボールドにとって不愉快極まる申し出であったようです。

父と長男との間で取り交わされたこの時の会話内容を具体的に知り得る資料は残って

いませんが、ほかの情報から判断しますと、息子が英国国教会を好まず、教会を変え

たいと申し出たことを知ったアーチボールドは憮然としたようです。

  父アーチボールドが息子からの申し出を「考慮しておく」と答えたのか、あるいは

トーマスが申し出を撤回したのか、そのあたりのことを知るすべは現在のところ全く

ありません。

 

  しかし、このできごとの直後にトーマスはコンノートConnaught に旅立ってしまい

ました。  回顧録によりますとコンノートは貧しい地方だったと記されています。

  地図で調べてみましたら、コンノートはアイルランドの中西部を占める大きな地方

です。  キャンベル家が住んでいたニューリー Newryから西南西の方角です。

 

  アイルランド語というのでしょうか、一種のケルト語と言えばよいのでしょうか、

現地の呼び方に従いますと「コナハト」「コナート」となるのでしょうか、英語式の

読み方とは違うようです。  アイルランドの地名の呼び方には現地の人たちの呼び方

と英語式の呼び方と二通りあるようです。

  コナハト?コナート?は現在のアイルランド共和国を構成する四つの地方の一つで

その中には五つの県があります。  面積は一万七千平方米、人口約四拾三万です。

長野県は約一万四千平米。  アイルランドの中央部の西寄りに位置しています。

  岩石の多い地方のようですから景色は奇麗のようですが耕作には適していない地域

です。  従って生産性は低く、現在でも貧しい地域とされているようです。  地形的

に考えてみても牧羊と漁業が主な生活手段とならざるを得ないのは理解できます。

  また、イングランドによる抑圧政策が更なる貧困を招いたのかも知れません。

 

  トーマスが具体的にコンノート地方のどの場所に行ったのか現在の私には調査する

手段も助けてくれる人物もありません。  圧倒的にケルト語が使われている地方です

からコンノートあるいはコナートという地名の意味も今の私にはよくわかりません。

  ギャルウェイ Galway と発音するのだろうと想像しますが、ゴールゥエーかも知れ

ませんが、コンノート地方(コナハト?、コナート?)のすぐ下にはギャルウェイ?

ゴールウェー?という県があり、その県の大きな町がギャルウェイ?ゴールウェー?

です。

 

  ギャルウェイの対岸で同じギャルウェイ地方内にラー・コンノート lar Connaught

という地域が詳細な地図に記されています。  そのどちらのコンノートをトーマスが

訪れたのか今の私の実力では知る由もありません。  後継研究者に譲りましょう。

  また、このラー larが何を意味するどちらの言葉なのかわかりません。

ケルト語ならお手上げです。  もしかすると古代ローマの家庭と祖先と海路の守護神

ラーレスlares ら来たものかも知れませんが、これも責任をもてません。

  その地方は実にたくさんの湾や入り組んだ入り江、多くのリヤス式海岸線、それに

大小無数の島々から成り立っていますので、もしかすると海路と漁船を守るローマの

神さまの名が残っていても不思議ではないでしょう。  思わぬ脱線でした…

 

  すでに述べましたが、現在のコンノート(コナート)は風光明媚な田園地帯が続く

地方だとアイルランド政府や同国観光業者は謳っています。

下記インターネットでも検索ができます。

                  http://www.ireland-map-of-connaught.htm

      http://www.irelandwide.com/regional/connaught/connaught main.htm

 

  コンノートに出かけたトーマスが、それでは具体的にどこに行ったのかは不明だと

書きましたが、『貧困に打ちのめされていた地方で奉仕したい』というトーマス自身

の優しい心の願いを満たすことで、父との気まずい会話のあとの彼の心を晴らしたい

と考えたのではないかと思います。

 

  おそらくこれも私の推測です。  そしてその推測はそんなにはずれてはいないもの

と思いますが、トーマスはそこで英語塾のようなものを開いたようです。

  すぐ前で述べましたが、その地方はケルト語を話す人の方が今でも多いのです。

トーマスの時代でも、抑圧者の言葉は好きでも嫌いでも必要から喋らなければならな

かったのでしょう。  かつての大日本帝国が朝鮮半島に住む人々に創氏改名を迫り、

朝鮮語の使用を禁じ、日本語の使用を強制したことを思えば、アイルランドの状況も

容易に想像がつくことだと思います。  大勢の人々がトーマスの英語学習塾に集まっ

て来たようです。  教える側と教わる側の一体感からも彼の人となりがわかります。

 

  しかし、この楽しい体験は短命で終わることになりました。

理由は今となっては全くわかりませんが、父アーチボールドから帰宅を強く催促する

連絡が入ったのです。  よほどの事情があったのではないかと想像します。

致し方なく塾を閉鎖する準備を進め、帰宅の道を選ぶことになりました。

  学んでいた人々を、結果的に学習の途中で見捨てることになるということに対する

配慮一つを考えても、彼の優しい心の一片を私は感じます。

 

  呼び戻されたトーマスは自宅のあったニューリー Newryのすぐ北側約三キロにある

シープブリッジ Sheepbridgeにあった小さな学校で教えることとなりました。

  同じ分離脱退派の知り合いのジョン・キンレイ John Kinley, a fellow Seceder

手配をしてくれた結果でした。

  このジョン・キンレイ、ある程度は地位と財力のあった先輩であったようですが、

私の個人的な考えでは、それ以上に、後輩養成ということを考えることができた卓越

した人物ではなかったのかと思います。  ある程度の財力や社会的地位があったとし

ても、そのことでその人が自分になんら利害関係もなく、まして姻戚関係もない後輩

の将来を思い、その青年の成長を洞察して手を貸すということは、そんなにあるわけ

ではないと思うのです。  たいがいの場合ですが、気持ちのある人はお金がない人で

すし、お金のある人は心のない人だと、私はスラム奉仕の体験から、そのように理解

しているのです。  これはいつの時代でもどこの国でも同じだと思うのです。

 

  ジョン・キンレイはトーマスをよく観察していたようです。

トーマスの人となり、その信仰、他者に接する態度などを観察して、トーマスが内に

秘めている潜在的能力を見抜いたようです。

  ある日ジョン・キンレイは、トーマスが牧師になりたいとかつて語っていた希望を

いまだ抱いているのかどうか…と尋ねました。  そしてもしトーマスの希望と決意が

変わっていないのなら、大学に行って研修を積む気がないのかどうかを尋ねました。

『大学に通う費用の一切を援助したいのだが…』とトーマスに告げたのです。

 

  この申し出に対してトーマスが何と答えたのかの記録は残っていないようです。

(のちに触れることになると思いますが、新大陸に移民するために家族が乗船した船

が出港して間もなく難破したので家族の記録が残っていないという事実もあります)

  しかしトーマスが父アーチボールドのことをジョン・キンレイに話さない筈はない

と思います。  アーチボールドはこの寛大な申し出を「躊躇しながら承諾した」よう

です。  これは当時としても、現在に置き換えても、破格の申し出でだと思います。

 

  すでにいくどか触れましたが、当時のアーチボールドの社会的地位やイギリス政府

の過酷な制約から推測しますと、わが子に対する想像を超えたありがたい申し出でを

断る筋がないと思います。  しかし自分が「議会の決議に従って」やむを得ず?改宗

した英国国教会の祭司になるというのではなく、英国国教会を忌避する、非国教会の

スコットランド長老教会の、しかも分離脱退派教会の牧師になるというための奨学金

の申し出でですから、アーチボールドが躊躇するのも理解できるように思えます。

 

  ありがたいジョン・キンレイの申し出でには不承不承のアーチボールドでしたが、

トーマスは大学に行く決意を固めることがやっとできるようになったのです。

  1783年(天明3年、奥羽より始まった大飢饉が日本全土に拡大し、日本全国各地で

農民一揆が勃発。  イギリスが1776年に独立したアメリカをようやく承認した年)、

トーマス・キャンベルは粗末な荷物をまとめてベルファスト港からグラスゴーに向け

出港したのです。  トーマスが二十歳の誕生日を迎えて間もない頃のことでした。

 

  トーマス・キャンベルを扱う資料源の書籍の数は限られていますが、いずれもここ

で一つの区切りをつけ、新しい章としてグラスゴーでの学びを扱っています。

 

  しかし、私はこれらの書籍が語っていないことを一つ述べておきたいと思います。

それは、どうしてトーマス・キャンベルがオックスフォード大学やケンブリッジ大学

を選ばなかったのかということです。

  なぜジョン・キンレイがトーマスにこれらの大学を推薦しなかったのだろうか…と

いうことです。

 

  オックスフォード大学はロンドンから九十キロほど西北西に所在する大学です。

1160年設立だとか言われている古い名門校です。  平家の全盛時代で、源頼朝がこの

年に伊豆に配流されています。

  ケンブリッジ大学はロンドンから北東北に八十キロほどの所にあります。

1209年頃にオックスフォード大学で事件があり、その学生の一部が移住して始まった

学校と言われているようです。  源実朝が将軍職にありました。

  両校とも英国と英国王朝とも関係が深く、明治維新以降こん日まで、皇族を始めと

し多くの日本人エリートたちが留学している世界的名門校です。

 

  トーマス・キャンベルの時代においては、しかしながら、両校ともイングランドの

国策に従い非英国国教会徒や英国国教会忌避者、さらにローマ・カトリック教徒らの

入学を許可しなかったのです。  そのような差別制限が課せられていたのです。

 

  非国教会徒、英国国教会からの分離脱退主義者、そして長老教会教徒の増加という

事態が、スコットランドの知的中産階級社会が次第にこれら非英国国教会の中産階級

の子弟の教育に力を注ぎ込むようになって行ったのです。  そのような必要に迫られ

ていたのです。  イングランドの諸大学が当時の支配階級の子弟を中心にした教育に

重点を置いていたこととは裏腹に、スコトランドでは商人やいろいろな底辺の職業に

従事していた階級の子弟教育に重点を起いていたのでした。

 

  また、スコットランドの懐疑論者デイヴィッド・ヒュームDavid Hume 1711-1776

などを中心とするスコットランドとフランスの啓蒙主義運動者らの連携というものが

あったこともスコットランドで「熊さん・八っつあん」階級の子弟教育に熱心だった

ということと無関係ではなかったのです。

  その反面、フランスの啓蒙主義運動の一部であった無神論などがスコットランドに

進出するのを怖れたスコットランドの非英国国教会のクリスチャンたちは、ヒューム

であれ、その他の哲学や思想であれ、キリスト教信仰に反する教えがスコットランド

に侵入するのを阻止することに真剣に取り組んでいたのです。

  こられのことはトーマス・キャンベルがグラスゴーで学ぶようになった時点でまた

改めて学んでみたいと考えます。

 

  以上のようなことは米国で今までに出版されたトーマス・キャンベル伝では恐らく

触れられていない点かと思いましたので紹介しておきました。

  それでは次にグラスゴーでの学びに移ります。