3章  幼少年期のトーマスと

                              その家族と教会

 

 

  私が幼かったころ毎年初夏になると町内のガキ大将にくっついて嵐山の奥の保津川

の渓流や、清滝川の急流の岩の上にいる河鹿蛙(カジカ)を採りに行きました。

3センチから4センチ前後の細長い蛙でした。  足の先に丸い吸盤がありました。

  きれいな声で鳴くと言われていましたが、採ってきた蛙が鳴いたのを一度も聴いた

ことがありませんでした。  そして、すぐ死んでしまいました。

  そのカジカが太平洋の荒波を泳いで横切り、アメリカの西海岸にたどり着くなどと

いうことは、これはどう考えてみてもあり得ないことです。

 

  いま私がやろうと試みていること、すなわちトーマス・キャンベルという教会史の

中の巨人の一人を日本の教会の皆さんに紹介しようと願うことは、河鹿蛙が太平洋を

米国西海岸まで泳いで渡ろうとするのと同じほどの暴挙であり、不可能に近いことに

あえて挑戦しようとする無謀なことなのです。

 

  最初からこの無謀者がとんでもないことをやろうと試みていることと、結局は中途

半端に終わるであろうということの二つをお断りしておきます。  そして次から次に

後輩のトーマス研究家がこの国からも興されることを心から願います。

 

  この国においても今回私が築こうとしている橋頭堡を足がかりにして、リレー方式

で二、三十人の教会史の学徒たちが少しずつやってゆけば、いつの日にかトーマス・

キャンベルとその息子アレキサンダー・キャンベルが中心になって試みた運動とその

遺産に対する評価と感謝の念が理解されるようになり、またそのことで主イエェス・

キリストの教会に対する感謝と愛情も更に深いものとなることでしょう。

 

                                             

 

  トーマス・キャンベルに関しての基本的な資料源はすでに第2章で紹介しました。

 

  そのほかにも次のような資料が存在していることも明らかになりました。

トーマスが二代目の牧師として仕えた北アイルランドのアホレー教会(1786年設立)

で牧師として三十三年間にわたり仕えておられたアルフレッド・ラッセル・スコット

Dr. Alfred Russell Scott博士が1985年に北米テキサス州アビリンにあるアビリン・

クリスチャン大学を訪問されトーマス・キャンベルについて講演をされた時の原稿が

レストレーション・クォータリー The Restoration Quarterlyに紹介されています。

Thomas Campbell's Ministry at Ahorey, Vol 29/No.4 です。

 

  さて、トーマス・キャンベルは1763年(日本では宝歴13年、日本各地で農民一揆が

連続発生中)2月1日に北アイルランドのダウン郡ニューリー Newry, County Down

の近くで生まれました。  ダイアレーク Dyerlake という所だそうですが、Dyerlake

Woodと書いた資料もあります。  森の多い地域だったのでしょうか。  (地図参照)

 

  父アーチボールド・キャンベル Archibald Campbell 側を五世代までさかのぼって

わかっているようです。  代々ローマ・カトリック教会の信者でした。

  元来キャンベル一族はスコットランドのアーガイルシャー Argyleshire, Scotland

のダイアーミッドthe race of Diarmid 族の内のアーガイル公爵 Duke of Argyle

率いていたキャンベル族であったそうです。  それ以上のことは現時点ではわかりま

せん。  アーガイル地方というのはスコットランド中部の広い西海岸地域を指す名称

で、だいたい北緯55度から57度の間にある大小無数の諸島やリヤス式海岸を含む無数

の半島地域です。

 

  イングランドとスコットランドとアイルランド三国の間の政治・軍事的な力関係に

巻き込まれた一族が、スコットランド中西部の海岸及び諸島地域からアイルランドに

十七世紀後半から十八世世初頭にかけて移動したようだとも聞いていますが、詳しい

ことは、地図でアーガイル地方を確認できた以外、今のところ私にはわかりません。

  もしかするとイングランドがアイルランド北部を植民地化するための動きでの中で

兵や民の移動が起ったのかもしれません。

 

  トーマスの父アーチボールドの父、すなわちトーマスのおじいさんも同じトーマス

という名前だったそうです。  百五歳まで長生きをしたおじいさんであったようです

し、父アーチボールドも八十八歳まで生きたそうです。  太陽光線の少ない寒い国で

の長生きです。

 

  当時のアイルランドに住む多くの人がそうであったように、父のアーチボールドも

ローマ・カトリック教会の信者でした。  一時期アーチボールドは英国兵として兵役

に服したようですが、これはどちらかと言うと異例のことであったと私は思います。

  当時のアイルランド居住者たちのほとんどはローマ・カトリック教会員でしたから

英国兵にはなる資格がなかったのです。

  1690年前後のイングランドは、すなわち、ウイリアム大王のころのイングランドと

フランスは植民地をめぐって長期の戦争が起る時でした。

 

  そのような時代の流れの中で、1690年にウイリアム大王が決定したことがあって、

アイルランド人はイングランド兵になることを許されず、欧州大陸に渡ってフランス

軍やスペイン軍に雇われていたようです。  両国ともローマ・カトリック教会が強い

国だからです。

 

  さらに、三世紀からローマ・カトリック教会はアイルランドにすでに宣教師を送り

込み、独特の修道院制度を中心とする布教活動を開始していました。

そのようなわけで、アイルランドは伝統的にローマ・カトリック教会の力が強い国で

あることを私たちは記憶しておくとよいかと思います。

 

  一方のイングランドは、ローマ教会から独立して、英国国教会 Church of England

となっていました。  在位1509年~1547年のヘンリー8世(14911547)がローマ・

カトリック教会と教皇の支配から離脱し、それまでイングランドにあったローマ教会

を自分が支配する国家に従属させたことから英国国教会という、ローマ・カトリック

教会とプロテスタント教会との折衷教会を、粗雑な説明ですが、作り上げたのです。

このように、ヨーロッパ大陸にまたがる宗教勢力と国家権力の葛藤があったのです。

  三世紀といいますと、日本では古墳文化の前、弥生文化の時代、倭の邪馬台国女帝

卑弥呼の時代です。  ずいぶんと早くからアイルランドには宣教師が渡ったのです。

 

  さて1756年から1763年の英仏間の植民地七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)

激化に従い1757年になりますと英国側は自分の軍隊を強化する必要に迫られました。

  このような理由でアイルランドのローマ・カトリック教徒たちも英国軍に従軍する

ことが許されることになりました。

 

  英国国教会とローマ・カトリック教会との激しいいがみ合い、さらには大英帝国と

ヨーロッパ各地のローマ・カトリック教会の支配下にあった諸国との対立などの複雑

な数々の要素が、トーマス・キャンベルの父アーチボールドの時も、そしてこん日に

及んでも、アイルランドには深い傷を遺したまま今日に到っています。

 

  アーチボールドは、このような背景の中で、英軍兵として数年間を過ごし、1762

に復員してニューリーに帰郷し、結婚しています。

  在役中アーチボールドはジェームズ・ウォルフ将軍 General James Wolfeの指揮の

下にカナダのケッベク郊外のエイブラハム高原に出兵しフランス軍と戦っています。

いわゆる「フレンチ・インディアン戦争」に従軍したのです。  このウォルフ将軍は

アーチボールドの両腕の中で戦死したとも伝えられています。

 

 

  ここで少し脱線してフレンチ・インディアン戦争」について説明いたします。

 

  ヨーロッパで展開されていた英仏の軍事的対立はそのまま新世界・新大陸にも持ち

込まれ、新世界・新大陸でも英仏の間で植民地争奪戦が繰り広げられていました。

 

  フランスは現在のカナダのセント・ローレンス河~五大湖からオハイオ川流域経由

でミシッシピ川沿岸を支配下に置きながら南下しルイジアナのニュー・オーリンズに

到る地域を占拠して毛皮貿易の膨大な利潤を狙っていました。

  その裏には、これらの拠点を確保しながらイギリスの勢力の西漸を阻止する目的も

あったのだと私は思っています。

 

  一方、イギリスは新世界・新大陸の農業製品で収益を上げることをもくろんでいた

ようです。  もちろん「信仰の自由を求めて」という名目で清教徒らがニューイング

ランドに上陸したことも事実ですが、多くのアングロ・サクソン系の人々も旧世界で

の赤貧生活から脱出するために新世界を目指したというのが本音だと思います。

 

  アングロ・サクソン系の人々、すなわち英語を話す人々は、東海岸上陸直後に目の

前に立ちはだかるアパラチア山脈に妨害されて容易に西漸することはできませんでし

た。  アパラチア山脈はその長さにおいても幅においても、日本列島と同等か、それ

以上のものです。  これを越えて西側に出るのに約百五十年もかかったとも言われて

いるほどです。  山脈最高峰ミッチェル Mt. Mitchell 2037メートルです。

アパラチア山脈に添って南北に走るアララチヤ・トレイルは世界最長の遊歩道です。

3299キロの長さを誇っています。  アパラチア山脈には旧世界からの移民たちの古い

文化や伝統が多く残っている実に風光明媚で気象条件の厳しい山脈地帯です。

  すでにご紹介しまたが、ケンタッキーのケイン・リッジ・キャンプ・ミーティング

に集まったストーン牧師や多くの開拓者たちの多くは、キャロライナア植民地から

カンバランド・ギャップを越えて初めて西漸することができた開拓者たちでした。

 

  話題を新世界を舞台にした英仏紛争に戻します。

  英国本土とアフリカと新世界アメリカ大陸を結ぶ三角形のバーター交易の中身には

奴隷貿易も含まれていたのでした。  有名な讚美歌アメージング・グレイスで有名な

ジョン・ニュトン牧師もかつてはそのような奴隷を運ぶ船員でした。

 

  さらに、東南部フロリダに到着したスペイン勢力はフロリダ上陸後北上することを

英国に妨害され、やむなくメキシコ方面に進出しました。  英国がジョージア植民地

をフロリダのすぐ上に設置してスペイン勢の北上を阻止したからです。

  メキシコに進んだスペイン勢は、そこからメキシコ、テキサス、カリフォルニア、

アリゾナなどに不老不死の薬を得るために、またさらに西回りで黄金の国ジャパング

に到りたいと、冒険の触手を伸ばしていたと考えても良いかと思います。

 

  ロシアはシベリアを経由してアラスカに到り、さらに南下して現在のワシントン州

やオレゴン方面に垂涎中であったのです。  アラスカはのちに米国がロシアから買収

した地域です。

  今もむかしも西欧列強諸国は恐ろしい国々ですね。  英仏両国はそれぞれが先住民

たち(いやな蔑視差別用語ですがいわゆるインディアンたち)を見方にひきいれて、

自分の側に有利に働くように先住民を利用するのに熱心でした。

 

  このようなヨーロッパ列強の新世界植民地獲得競争の中でフレンチ・インディアン

戦争が起るべくして起ったのです。

  1749年、アメリカ合衆国の独立より三十年ほど前のことですが、オハイオ川沿岸の

土地五十万エーカー(1エーカーは四捨五入で約千三百三十六坪弱)をイギリス政府

がオハイオ会社に与えます。

 

  この動きに対してフランスは砦を築いて対抗し、獲得した領地を守備しました。

地の利に詳しい先住民たちを見方にひきいれて戦力の強化もはかりました。  これが

フランス軍と先住民の合同軍です。  フレンチ・インディアン隊です。

  ブラッド将軍が率いるイギリス軍はフレンチ・インディアン連合勢力の待ち伏せに

遭遇して大敗し、このことから英仏勢力の本格的戦争、フレンチ・インディアン戦争

が勃発しました。

 

  紆余曲折ののち、結果的にイギリス軍が戦争を有利に導き、フランス軍は降参して

講和が成立し、カナダはイギリス領となり、フランス勢力は北アメリカから追放され

るという結果に終わりました。  肝心の先住民たちは講和からはずされ、そののちも

イギリス軍と戦争を続け、1765年に到り敗北して講和が成立します。

 

  北アメリカからフランス勢が追放されたと言っても、ミシシッピ川沿岸とその支流

の沿岸の都市にはフランス系の名前がたくさん残っています。  ニュー・オーリンズ

を始めとして、バートン・ルージュ、ルイジアナ、セント・ルイス、ルイヴィルなど

いくつもあります。  北のカナダにも南のルイジアナにも、フランス系住民の子孫が

今でもたくさんいます。  ルイジアナ州では今でもフランス語系の方言しか話さない

ケイジャンと呼ばれている人々がおり、独特の食文化や言語、音楽や生活習慣を堅持

しています。  私の同級生たちも大勢その中にいますのでいくども訪問しました。

 

  1803年、これはすでに学びましたようにバートン・ウォーレン・ストーンのケイン

・リッジ集会が開催された2年後のことですが、それまで越えることがほとんど困難

であったアパラチア山脈を越えて西漸しミシシッピ川に到着したアメリカ合衆国は、

ヨーロッパでの戦争のために軍事費を必要としていたナポレオン率いるフランスから

シシシッピ川以西からロッキー山脈に到る広大なフランス領ルイジアナを密約で購入

し、合衆国の面積をそれまでの二倍以上に広げました。  この点から考えてみまして

も、新大陸におけるフランスの勢力は消滅して行きました。

 

  (なお、フレンチ・インディアン戦争とは直接に関係がありませんが、当時の白人

たち、先住民からすれば侵略者たちと先住民たちとの関係を知るための背景理解に、

1970年度制作アメリカ映画「馬と呼ばれた男」や「サウス・ダコタの戦い」、あるい

1990年アカデミー賞受賞作品ケヴィン・コスナーの「ダンス・ウイズ・ウルヴス」

などを鑑賞されておくのも良いかと思います)

 

 

  さて、フレンチ・インディアン戦争に従軍後帰国したアーチボールド・キャンベル

に戻りましょう。

  復員後アーチボールドはダウン郡ニューリーの近くに落ち着き、結婚しました。

一説によりますと妻はユダヤ系の女性であったとも言われていますが、詳しいことは

何もわからないままです。  名前はアリス・マックネリー Alice McNallyでした。

 

  結婚後にアーチボールドはローマ・カトリック教会員から英国国教会員に改宗して

います。  「議会を通過した法令に従って according to the act of Parliament

という理由が残されています。

アーチボールドの頑固一徹に忠誠を誓う軍人精神のようなものを感じます。

  厳格で、自己中心的な面もあり、感情の起伏の激しいところもあった人物ようです

が、全体的に穏やかで暖かい心の持ち主として八十八歳の人生を「極めて忠実な英国

国教会員として」まっとうしたと言われています。

 

  なお、この「(英国)議会の決議に従って」とか「議会を通過した法令に従って」

という "according to the act of Parliament" 文言が何を指すのか私には具体的に

ながいことわかりませんでした。

  にわか歴史学徒としての私の「感」によれば、ローマ・カトリック教徒など反英国

的要素を抱えていたアイルランドの住民やスコットランドの住民たちに対する英国側

の厳しい抑圧政策というものがあったのではないか…、そしてその抑圧政策から免除

された者たちに対して何か誓約と制約を加える条件が英国議会を通過したのではない

だろうか…と、漠然と推測していました。

  なぜならアーチボールドがローマ・カトリック教徒であったのに、英国軍人として

カナダに出征できたことや、復員後に結婚をした時から「忠実な英国教会員として」

八十八歳で逝去するまで「議会の決議に従った」という文言が回顧録の中にいくどか

出てくるからです。

  先にすでに述べましたが、英国国教会を設立したヘンリー8世(在位15091547

時代には、具体的には1532年から1534年の間に、ローマ・カトリック教会とその教徒

を対象に、詳細は略しますが、厳しい七つの法案を可決しています。

  1559年、クイーン・エリザベス即位後には英国の支配に反抗的なスコットランドや

アイルランドに住むローマ・カトリック教徒たちに更に厳しい法律を課しています。

  1560年に出された「議会を通過した法案」を始めとして1829年までに数多くの同様

主旨の法案が可決され、とりわけアイルランドでは「刑罰法規 Penal Laws 」という

差別法案が英国議会を通過しました。

  ローマ・カトリック教徒から実質的に一切の市民権を剥奪し、ローマ・カトリック

教会の礼拝にも厳罰をもって臨むという法案であったようです。

  その撤廃は、1791年から1926年までの百三十五年をかけて少しずつ徐々に減少され

たのでした。  1926年といえば昭和元年のことでした。

 

  その間、ローマ・カトリック教徒たちには一切の選挙権が与えられず、おもだった

公職、すなわち、たとえば弁護士、公的機関の書記、聖職、裁判関係の法定弁護士や

訴訟依頼任との間で裁判事務を扱う弁護士などなどに就くことが許されなかったよう

です。  当然ですが、軍人として英国軍隊に入隊することも不可能なことでした。

 

  プロテスタント教徒とローマ・カトリック教徒との結婚も許可されませんでした。

1746年5月1日発効の「議会を通過した法律」に従いますと、プロテスタント教徒と

ローマ・カトリック教徒と間の結婚を司式した祭司は「重罪を犯した」という罪名で

処罰されたそうです。  のちに到りますとそのような結婚式を司式した祭司には死刑

が執行されたそうです。

  また、そのような差別法を逃れようと表面上プロテスタント教徒となった者が結婚

したとしても、改宗してから一年を経ていない者の結婚が暴露した場合、その結婚は

破棄・無効とされたようです。  実に厳しい差別と抑圧が存在していたのでした。

 

  アーチボールドの妻、すなわちトーマスの母となる女性についても、ユダヤ人だっ

たという説もありますが、彼女のことについてほとんどなにも記録が残されていない

という事実や、アーチボールドがどのようにして彼女と出会って結婚したのかについ

ても何も記録がないことや、結婚した時からその死に到るまで「議会決議に従って」

や「忠実な英国国教会員として神に仕えた」という文言の裏には、その当時の英国政

府の厳しいローマ・カトリック教徒への抑圧差別政策が存在していたことや、いかに

トーマスの両親がそのような厳しい環境の中で結婚したのかということを暗に物語っ

ているのではないのかと、素人の私は憶測しているのです。

 

  今年初めに印刷を見た拙文「バートン・ウォーレン・ストーン牧師とケイン・リッジ

キャンプ・ミーティング」の中でも紹介しておきましたが、以上の諸情報も私淑して

いますトム・オルブライト Tom Olbricht 教授やドン・ハイメス Don Haymes 教授の

情報援助を頂いたことを感謝して記しておきたいと思います。  そのほかにもカナダ

のラス・キューケンダール Russ Kuykendall教授からも頂戴しました。 省略した

ほかの情報もまだたくさんありますが、以上の情報で充分であろうかと思います。

 

  さて、アーチボールドの結婚から四名の息子たちが生まれています。

四人の娘たちにも恵まれましたが、娘たちはいずれも嬰児期に死亡しています。

興味のあることですが、娘が生まれるたびにメアリー Mary と同じ名をつけましたが

次々に死んでしまいました。

  メアリーという名前についてですが(これも私の個人的憶測にしか過ぎませんが)

イングランド・スコットランドおよびアイルランドの女王(16891694)として君臨

したメアリー2世のことを配慮して命名したのではないかと、そのように感じます。

 

  四人の息子たちには、それぞれトーマス、ジェームズ、アーチボールド、イーノス

Thomas, James, Archibald, and Enosと名づけました。  トーマスが長男です。

  生きのこることができた四人の息子たちは、自宅からそんなに遠くない所にあった

陸軍連隊学校に通い、当時としては優れた伝統的英語教育を受けることができたよう

です。  英文法、国語読解、ラテン語、ギリシャ語、ペン習字、そして算術でした。

  どのような経過で四人の息子たちが陸軍連隊の学校で学ぶことができたのかは今と

なってはわかりません。  とにかく優れた教育を受けることができたのは幸せなこと

だったと思います。  差し詰め日本なら中高校生時代に徹底的に国語や漢文学、更に

日本の古典から近代文学までを学んだことに等しいとでも言えるのでしょうか。

 

  教育のおかげで、四人ともまだ若いころからシープブリッジ村Sheepbridge のそば

にあった学校で教鞭をとり始めました。  ニューリーの町から北に約三キロの地点に

確かにそのような橋が蛇行するニューリー川をまたいで現在でも存在しています。

  ニューリーの中心地内東側にあるアイルランド教会のセント・パトリック教会付属

墓地にはトーマスの弟イーノスの墓があります。

 

  学校で教え始めたのはまずトーマスでした。  そのあとから二人の弟、すなわち、

ジェームズとアーチボールドが続きました。

  しかし、ジェームズは落ち着きがない人であったのか、枠にはめ込むことができる

ような人物ではなかったのか、それとも、自由を切望しなければならなかったような

何らか理由があったのか、親兄弟と別れてカナダに移住して行ったそうです。  故郷

を離れたのちのことについてはいっさいわからなくなってしまったとのことです。

 

  弟のアーチボールドとイーノスの二人は、そのことがあったあと、ニューリーの町

でアカデミーを開いたそうです。  アカデミーというのは、今の日本の学校制度から

見ますと、幼稚園から高校までに相当する私立学校であったと思いますが、その当時

のアイルランドに幼児教育があったのかどうか疑問ですので、私立の小中高校だった

と考えるのが妥当ではないかと思います。  二人の兄弟はその学校で長いこと教えて

いたように記録されています。  アカデミーのその後のことは調べていません。

 

  二人はそのころから、英国国教会からの分離派教会 Secession Church / Seceder

Churchの反バーガー派 Anti-Burgher 教会に出席するようになっていたようです。

  分離派教会とそのバーガー派および反バーガー派については最低限の説明を、すぐ

あとで加えたいと思っていますが、私自身どのていど理解できているのか全く自信が

ありません。

 

  1782年になってその群れのレイング Mr.Laing 牧師が、教会用に相応しい大きさの

不動産を入手するのに成功して、それが「ニューリーのダウンシャー・ロード教会」

Downshire Road, Newry の誕生につながっていったようです。

 

  父アーチボールドの四人の息子たちの中で長男トーマスが父にいちばん親しかった

そうです。  温和で勉強家のトーマスは、父アーチボールドに良い影響を与えていた

ようです。  父のそばにいたトーマスは父の短気な性格から来る問題をたびたび目撃

し、そのたびに恥ずかしい思いをしていたようです。  そのような父を賢明に優しく

トーマスはたしなめていたのかも知れません。  頑固一徹な父アーチボールドも息子

トーマスの言うことには耳を傾けることが多かったのかも知れません。

 

  思慮深いトーマスは、幼い時から聖書の学びに興味を抱いていたようです。

きわめて敬虔な態度で神さまのこと、信仰のこと、聖書のことなどに臨んでいたよう

です。  また、忍耐強い青年であったようです。  そのように宗教心の強いトーマス

には英国国教会の礼拝形式というものがどうも気性に合わなかったようです。

冷たくて形式的な儀式中心の雰囲気をどうしても好きになれなかったのでしょう。

 

  トーマスも、ほかの三人の弟たちも、父アーチボールドが願ったように、「議会を

通過した決議に従って」神に仕えるということを受け入れなかったようです。

  英国国教会よりも、長老教会主義を厳密に維持するために誓約を結んだ群れ、霊的

なものを大切にする、仮私訳で「盟約者・誓約者・契約者グループ Covenanters」に

惹かれていったようです。

  そのほかにも、あとで述べる予定ですが、長老教会から脱退したホールデン兄弟や

グラスが提唱していた単立の群れも影響を与えていたものと思います。

  そのようなことがあって脱退分離派長老教会 the Seceder Presbyterian のなかの

一つの群れと交わりに接近して行くことになります。

 

(いくどかすでにお断りをしていますが、スコットランドとアイルランドにまたがっ

ていた当時のスコットランド教会の詳しい勉強をしていない私には、スコットランド

の長老教会や、その内部の複雑な分裂・対立史を上手に説明することができません。

  にわかスコットランド史の学徒にとって、1560年ジョン・ノックスによる宗教改革

運動によって国教会がスコットランドでは長老教会(改革派教会)になったことから

始まるスコットランド教会の制度や、制度に対する賛否の対立・分裂の複雑な歴史を

理解するのは実に困難なものです。

  またさらに、米英独仏伊などにともすれば目が向きがちな東洋、特に脱亜入欧論が

明治以来この国を支配し、先の太平洋侵略戦争を敗戦で迎えたのち、主として米軍に

占領されたこの日本に住む私にとって、スコットランドやアイルランドのことを学ぼ

うとする私には初めから大きなハンディキャップがあると感じています)

 

  1712年にスコットランド教会が傘下の教会の牧師を各教会自身が選ぶことに制限を

加えた福とからこれに反対する群れが同教会内に起りました。  「臣従拒否・脱退派

長老教会」という表現で福音誌の「先駆者紹介」欄には書いておきました。

 

  英国国教会からの伝統を引きずっていたスコットランドの教会でも、教会所在地の

有力者たちが教会政治を牛耳っていたようです。

 

  もともとアングロ・サクソン時代に地主など有力者が自分の所有・支配する広大な

領地に教会を建て、祭司なり牧師Priestを備えて農民たちに提供するということから

始まった制度でした。  教会堂を建て祭司をあてがうというこの習慣は司教なり主教

Bishopの許可なり承認を要したものでしたが、司教なり主教、ビショップもまた同じ

ように自分の領地に教会堂を建設し、そこに祭司を雇い入れていたのです。

 

  このように、領地内に住む農民たちに教会堂と祭司を備え与えるという習慣のこと

をパトロンとか Patronage制度と呼んでいました。  当然のことですが領地との関係

でそこには莫大な利権や巨額の収入というものがつきまとっていました。  必然的に

それは地方政治権力と教会側との力の対決を招き入れるものでした。

 

  古い修道院制度というものが消滅したあとでも、この利権を伴うパトロン制度だけ

は残ったのです。  英国国教会時代になってからパトロン制度は大主教や主教たち、

裕福な個人、大学、財団、大聖堂聖職者、王位に坐す者、聖職禄所有者、司教区司教

などがその権利を維持してさらに拡大されていったようです。  複雑怪奇なパトロン

制度を専門家でない素人の私が理解した上で、さらに説明を加えようと試みることは

まことに困難なことなのです。

 

  万が一にもパトロン席が空いたときには、これまた複雑な条件や問題があったよう

ですがこれ以上の説明を省略します。  この制度は現在でも英国には残っています。

 

  すぐ前に列記しましたこれらの人が占める職責・地位のことをパトロン Patron

またはアドヴォウサン advowson とも呼んでいたようで、ある辞典ではローマ・カト

リック教会から英国国教会に受け継がれた古い慣習であると説明してありましたし、

また別のいくつかの辞書によりますと「英国の法律で世俗権力者の聖職者推挙権」と

説明してありました。

  もともと聖職者を教区に振り当てる権利や聖職者の禄高を決めることができるよう

な権力とその権威を有する者を指す教会用語のようです。  すでに説明しましたが、

その権利は売買の対象ともされていたようです。  ローマ・カトリック教会や英国

国教会のことを全く学んでいない私にはまことに理解し難い制度・習慣です。

 

  これがスコットランド教会にも持ち込まれていたのです。

もともとイングランドのパトロン制度であったものがスコットランドに持ち込まれた

のですから、スコットランドではこの「政治の教会への介入」に対して、当然ですが

激しい抵抗勢力が起こったことは容易に理解できます。 

新約聖書の中にそのような制度を認めるような記述がないということも抵抗の理由の

一つでもありますが、イングランドへの反抗というものもあったのではないかと私は

思います。 このパトロン制度は、のちになってイングランドでは、仮私訳ですが、

「忠誠・献身・臣服・臣従の誓約」 the Oath of Allegiance と呼ばれたようです。

イングランドとスコットランドの聖職者たちは国家から財政支援を得ていたのです。

このことを善しとしなかったグループ、国家権力からの金銭を受けるのを拒んだ群れ

のことをアンティ・バーガー派the anti-burgher ministers と呼んだのです。

金銭を受け取るときに、当然のことですが、国の宗教制度を支持し、これに対し忠誠

を誓うという義務を伴っていたからです。 この誓約義務を拒否した群れを指したの

でした。 トーマスが「臣従拒否派」だったと福音誌に紹介しておいた理由です。

なおThe Oxford Dictionary of the Christian Church はよい資料源の一つです。

 

  このようにパトロン制度という伝統の下で教会政治のために選ばれた一部の政治的

経済的に優位な地位にある人々を、教会側が支持するか支持しないかということで、

教会内に賛否両論が噴出したのでした。

 

  これらの特権で選ばれた人々、バーガー Burgee/Burgher が、教会に関与するとき

に誓う誓文 civil Burgess Oath 、仮私訳で「市民誓約」の是非をめぐり激しい賛否

両論を招いたのです。  上記 Oath of Allegiance の別の呼び方でしょう。

  イングランドとスコットランドの教会を巻き込んで生まれた「ウエストミンスター

信仰告白 The Westminster Confession」との関係で出てきた、スコットランド教会

こそが「まことの宗教である true religion」と誓約することの是非が論争の中心点

であったようです。  さらなるこれらの研究はあとに続く後輩研究者に譲ります。

 

  スコットランド教会から分離脱会した群れにとって、そのような誓約文に署名する

という制度に抵抗せず賛成する群れをバーガー派、そのような制度は聖書に記された

ものではないし、せっかく分離脱会した群れにとって不必要なことであると主張して

誓願文を強いることに反対した群れをアンティ・バーガーanti-Burghers 派と呼んだ

のでした。  のちに到って二つの分派は再び統一をみることになります。

  この反対・抵抗運動の主要指導者にエベニーザー・アースキン Ebenezer Erskine

という人物がいました。  日本の主だった宗教事典は簡単に紹介しています。

 

  またさらにこの市民誓約文をめぐって二つに対立し分裂をした分離脱退派長老教会

は、さらに国家権力の教会への介入といいますか、国家と教会との癒着と言えばよい

のでしょうか、そのことをめぐっても賛成派と反対派に別れていました。

  もう少し大胆に説明を試みますと、治安判事職者または治安判事権を有する者たち

が人々に「正しい信仰true faith」を負わす義務・職務がある…とする制度なり慣習

に賛成するか反対するのかということで分離脱会派の長老教会はさらに二つに分かれ

たのです。

  わかり易く言えば、語弊があるかも知れませんが、日本の警察官や裁判官のような

職務にある者が、あるいは市町村役場の公務員たちが、私たちにある特定宗教を強い

たうえ、私たちにその宗教を信じると誓わせようとすることの賛否をめぐって教会が

二つに割れたとでも理解したらいかがでしょうか…

 

  このことに問題を感じないで賛意を表した人々をオールド・ライト Old Lights

と呼んだのです。  The Auld Lichts と綴っている辞典もあります。  保守派とでも

呼べばよいのでしょう。  オリジナル派 Original とも呼ばれていました。

 

  「新しい光りを見たために」、すなわち古くからのこの慣習を聖書から照らし合わ

せて聖書的な慣習ではないと賛成せず反対の意を表した人々のことをニュー・ライト

The New Lights 、進歩派、革新派、と呼んだのです。

このスコットランド長老教会の中にトーマス・キャンベルがいたのです。

 

  (なお、1801年のケンタッキー州ケイン・リッジ集会を主催したストーン牧師らが

属していた長老教会のニュー・ライト派は、このスコットランド長老教会のニュー・

ライト派とは同じ呼び名ですが、二つの群れが置かれていたそれぞれの環境も内容も

異なります。

  厳格な信条によって縛られていた新世界の長老教会の伝統から見れば「情熱や騒音

や無秩序や混乱」あるいは「聖霊の異常な働きを容認する」ような、リヴァイヴァル

集会を肯定するような一部の長老教会牧師たちのことをニュー・ライト派と呼んだの

です)

 

  そして、厳父アーチボールドが信奉する英国国教会に幻滅を覚えていたトーマス・

キャンベルは、このアンティ・バーガー派に属する臣従拒否・分裂脱会派長老教会に

対して親しみを覚えて接近するようになって行ったのです。

 

  結果的にトーマス・キャンベルは、オールド・ライト派のアンティ・バーガー派の

分離脱会派(シシーダー)のスコットランド(改革派)長老教会に身を置くことにな

ります。  そしてシシーダー長老教会は1733年に英国国教会から分離したものです。

またさらに英国国教会はといえば、ローマ・カトリック教会から分離したのです。

 

  ほんとうにむつかしい背景を抱え込んだトーマス・キャンベルの勉強ですね。

 

                                                              2005年4月13