2章  教会史の表と裏の中で

                          トーマス・キャンベルと

                              ご先祖さまたち

 

 

  イェスが十字架の上で人類の贖罪のためにそのいのちを捧げて下さったのち、墓に

葬られ、三日目によみがえられ、多くの弟子たちの前に現れなさったことを私たちは

福音書や使徒行伝の初めの部分から学び、また、そのように信じています。

 

  そのイェスを神はキリストとされ、私たちの主とされたことや、弟子たちの目の前

から天に挙げられて行かれたこと、そして弟子たちが心を一つにして祈っていた時に

彼らの上に、また各個人の上に聖霊が降臨したこと、そしてそこから主イェスの教会

を中心とする新しい時代、恩寵のディスペンセーション、主イェス・キリストの教会

の時代が始まったことなどを、同じように使徒行伝の初めの部分から学びます。

 

  その時からすでに二千年の長い年月が経過してしまいました。

  二千年の教会(すなわちエクレシア)の歴史の歩みの過程の中で、初代原始教会の

姿からかけ離れた多くの特定の教派教会が生まれて来ましたし、各教派独特の教義や

信条や信仰告白文が生まれて来ました。

  そしてそれらは次第に固定化し、伝統化し、こん日におよんでいます。

多くの場合、特定の教会なり教派なり教団では、その成立と存在を積極的に肯定し、

誇り、むしろ神に感謝し、満足している場合がほとんどであろうかと思います。

たとえばローマ・カトリック教会のように…あるいは日本基督教団のように…です。

 

  しかしながら、そのような傾向がキリストの教会二千年の歴史の中でいつの間にか

形成されて来てこん日に到っていることは、ことの善し悪しを論ずるのは別として、

事実ですが、一方ではそのような動きに対して常に疑問を抱き、特定の人間が作った

教派や分派を捨てて、新約聖書に示されている単純なエクレシアの姿に戻ろうとする

願いを抱いて努力をしていた無名の聖徒たちの寂しい長い努力と闘争の隠された歴史

があったということも事実なのです。

  新約聖書に示されたエクレシアの姿から離脱する動きがある限り、新約聖書教会に

戻ろうとする努力もあったわけです。  後者はしばしば「異端」としていとも簡単に

扱われて来たばあいが多いと思いますが…

 

  ニケヤ使徒信条のようなものであっても、どんなにか素晴らしい信仰告白文であっ

ても、どのように美しい信条であっても、それがしばしば或る特定の教派や教群だけ

に通用するものであったり、また更にそれが個人の信仰の自由や信仰者の良心を犯し

たり否定するような、一種の踏み絵的役割を果たしたことも事実なのです。

 

  このために、或る特定の限られた人間が作りあげたそのような信条や信仰告白文を

捨てようと訴え続けた少数派の信仰者たちがいたのも事実です。

  新約聖書に啓示された単純なエクレシアの姿からかけ離れてしまった偽りの権威や

組織を捨てて、もういちど新約聖書の教会の姿に戻ろうと願った個人や少数の信仰者

たちの聖書への復帰、新約聖書の教会への復元を求める運動もあったのです。

 

  こういう運動は、ほとんどの場合、一般教会史には紹介されることもなく、たとえ

言及されるようなことがあったとしても二、三行の短い説明で終わっているか、さも

なければ、その多くは「異端」として片づけられている場合が多いのです。

 

  このような傾向の中にあっても、根気よく努力を重ねて資料を捜し集めてゆきます

と、新約聖書に戻ろうと努力をした小さな群れや運動が二千年の教会史の中に思いの

ほか沢山あることに気がつきます。

 

  日本で入手できるそのような教会史のテキストの一つとしてブロードベントの力作

があります。  E.H.Broadbent: The Pilgrim Church です。

 

  極めて残念なことですが翻訳者たちが著者の意図を充分に理解していないことや、

翻訳者たちの力量不足が顕著です。  英語を少しでも解される方は英和辞典を片手に

原文でお読みになるようお薦め致します。  感動的な教会史の世界が展開します。

 

  原文は隠れたベスト・セラーの一つです。  読者数が限られているためなのか発行

部数が少なく、すぐに売り切れ状態となり、再版されるのに三、四十年単位の時間が

かかるようです。  初版が1931年、2版が1935年、3版が1945年です。  二、三十年

前にペーパー・バックの縮小サイズ版が出たかと思います。  御茶の水の CLC英書部

で入手できるかもしれません。

 

  日本語訳の「信徒の諸教会」は1989年初版で二千部が「伝道出版社」によって発売

されたようです。  地上に於ける交わりという視点から考えますとブラザレン教群の

方々が細々と運営されています。  183-0056  府中市寿町2-8-9   電話042-366-7760

定価は送料込みで\2500 だと思います。

 

  世田谷に住んでいた時には派手で高価な花、ビニール・ハウスで人工的に改良栽培

された花しか知りませんでしたし、それが花なのだと、そのように無意識に信じ込ん

で疑いませんでした。

 

  しかし、いろいろな事情があって1985年に世田谷を離れて八ヶ嶽南麓の原生林の中

に住むようになり、人が訪れることのほとんどない高山の森林や谷底や岩かげに静か

に咲いている無名の野の花、小さくて目立たない野草たちが気取らず、一生懸命に、

しかも悠々と育っている姿を目撃するようになって、彼らの生きかた・在り方に心を

奪われることが多くなりました。  それまでは見たことも聴いたこともない野鳥たち

のさえずりを背景に、かわいらしい野の花や山の花が創造主を讚美している姿を観察

することは感動的です。

 

  それと同じように、教会史二千年の流れの中にも数多くの秘められた美しい信仰の

ロマンに満ちた運動、人物、先輩、無数の聖徒たちが天のいのちの書にだけは確かに

名前を連ねているのです。  一般教会史のテキストに名前が出なくても…です。

  その多くは人間集団が築き上げたどのような組織や信条や信仰告白よりも新約聖書

を何よりも最も大切な信仰の規範とすることを求めた無名の聖徒たちでした。

  聖書一本槍・まず聖書だけ…の願いにいのちを賭けてイェスと新約聖書への信仰を

貫き通して御国に移された聖徒の数は私たちの想像を遥かに超えたものであろうかと

思うのです。  御国に招かれたとき私たちは彼らの讚美の大合唱を聴けるでしょう。

 

                                             

 

  そういう聖徒たちの中に、これからとり上げようとしているトーマス・キャンベル

Thomas Campbell(17631854) がいます。  スコットランド・アイルランド系の人で

す。  スコットランド教会 Church of Scotland から離脱した Secession Church

牧師でした。  私たちにとって大切な運動の先駆者となった人物です。

 

  北アイルランドを含むスコットランド教会(ある意味でスコットランド国教会)を

脱退した分離派教群はさらに内部対立を繰り返していました。  このことに心を深く

痛めていた穏健で良心的な牧師トーマス・キャンベルは彼なりに内部分裂を癒すため

に努力をしましたが結果的に健康を害し、1807年に家族をアイルランドに残したまま

医師の勧めに従い一人で先に新大陸に移住して行きました。

 

  本国でトーマスが体験していたものと全く同じ教会内の痛ましい対立を新世界でも

体験することとなります。  旧世界から新世界に同じ古い傷を持ち込んでいたからに

ほかなりません。  そのことからキャンベルは教会とクリスチャンの一致というもの

を真剣に求めるようになって行くのです。  それを新約聖書が示しているエクレシア

の姿の中に求めようとするようになって行くのです。

 

  同じようにクリスチャンの一致を訴え続けていた、全く別の長老教会のバートン・

ウォーレン・ストーン牧師たちの噂を耳にして、キャンベル親子はストーンが率いる

運動と合流して行くようになるのです。  なお、ストーン牧師とケイン・リッジ集会

のことは200412月末にみなさまに提供しました拙文を参考になさって下さい。

 

 

  さて、最初にお断りをしておくことがあります。

  それは、私がイングランド、ウェールズ、スコットランド、そしてアイルランドの

歴史を全く知らないという致命的な事実と、それらの国々の教会史も文化についても

何も知らないということです。

 

  加えて、スコットランドとアイルランドにまたがる長老教会や改革派教会のことも

殆ど何も学んだことがないという事実です。  このために文献を読みましても教会の

専門用語を日本語にどのように正確に訳してよいのかわからないということです。

 

  あるいは、別の言い方をしましと、日本にある長老教会や改革派教会で使用されて

いるこれらの教会の専門的な宗教用語に私が少しも触れたことがないという致命的な

問題があるということです。  多くの間違いを犯す可能性があります。  あらかじめ

お断りをしておきます。  お気づきの点がありましたらどうぞお教え願います。

 

 

  いきなりなじみのない名詞が飛び出して来ますので恐縮ですが…

  トーマス・キャンベルはオールド・ライト派でしかも反バーガー派で、そして更に

臣従拒否・脱退派に属するアイルランドの長老教会の牧師でした。

  私たちから眺めますと、このような複雑怪奇な長老教会内の一派は、元はと言えば

英国国教会 Church of Englandとスコットランド教会 Church of Scotland から分離

分裂を繰り返していた分派内の一派でした。  そして英国国教会は、乱暴な言い方で

すが、元来ローマ・カトリック教会から出て来たものと言ってよいと思います。

 

  キャンベルが属していた長老教会の一派は、イングランド、アイルランド、そして

スコットランドにまたがって、オールド・ライト派だの、ニュー・ライト派だのと、

そして更にバーガー派だの反バーガー派だのと、とめどもなく複雑に内部対立と分裂

を繰り返していた長老教会の一部でした。  用語の解説は順次予定しています。

 

  このように複雑な内部紛争や抗争や分裂と分断をあきることなく反復していた長老

教会史を私たち日本人が調べようとすれば、これは一人の人間の一生涯をかけなけれ

ばならないかも知れませんし、それだけの価値があるのかも疑問だと思います。

  これらの内部抗争や分裂や対立を繰り返していた長老教会諸派の背景というものが

実はキャンベルにクリスチャンたちの一致を新約聖書の規範に則って求めようとさせ

た背景なのではないのでしょうか?  内部対立の話はこの程度にしておきます。

 

  私が居住しています山麓の近くに北アイルランド出身のアイリンさんとおっしゃる

犬を保護する仲間が住んでおられます。  キャンベルの出身地をご存知の方です。

  彼女に北アイルランドの長老教会のことを尋ねようとした時、彼女は顔をしかめて

しまいました。  今でも対立と紛争の傷は深いようで(長老)教会のことは話題にも

したくないとのことでした。  どうしてそんなつまらない教会のことを調べているの

かと、反対に私に彼女はいぶかしげに尋ねたほどでした。

 

 

  トーマス・キャンベルは1763年2月1日にアイルランド東北部、ベルファスト市の

南にあるダウン郡で生まれました。  このことは後で詳しくのべる予定です。

  日本では十代将軍家治が権力の座に坐っていました。  日本訪問から帰路にあった

朝鮮通信使が薩摩藩からさつま芋の苗を入手して朝鮮にその栽培方法を伝達した年が

1763年でした。  薩摩芋は朝鮮が飢饉の時に多くの生命を救うのに役立ちました。

  英仏は植民地の獲得競争で相対抗し、カナダではフランスが英国に全領土を割譲す

るパリ条約が締結されたのも同じ年でした。  日本各地で農民一揆が盛んでした。

  本居宣長が加茂真渕に会い、四年後にはワットが蒸気機関を改良し、もうすぐ英国

は産業革命期に突入するというような時代でした。

 

 

  トーマス・キャンベルの厳父アーチボールド・キャンベルのことですが…

  まず結論的に申しておきますが、こん日に到っては、アーチボールド・キャンベル

のことを調べることは殆ど不可能だと思います。  写真も存在していません。

 

  Campbell Family Genealogy by George Miller  にトーマス・キャンベルの父母、

すなわち、アーチボールドとアリス・マックネリーArchibald and Alice McNally

名前が出ているとネブラスカ州立大学で教鞭を取られるストーン・キャンベル運動史

研究家リー・スナイダーさん Dr. Lee Snyder / Univ. of Nebraska at Kearney から

連絡がありました。  ただそれ以上のこと、すなわち出版社がわかりませんでした。

 

  大体の見当をつけてさらに捜しました。  元茨城基督教学園で宣教師として働いた

ことのある仲間のグラハム・マッケイ Graham Clyaton McKay さんを再びわずらわせ

ベサニー大学キャンパス内にあるヒストリカル・ベサニー書店から購入して頂くこと

にしました。  一月中旬に現物が送られて来ました。

 

  その本のことでマッケイさんとEメールで交信中に著者ジョージ・ミラーという人

のことを思い出しました。  199310月末だったかにわたしども夫婦はマッケイさん

の運転でキャンベル親子の活動拠点であったベサニー大学とベサニー・マンションを

訪問したことがあります。  その時にキャンベル一家の居住区(通称マンション)を

案内してくださった紳士がありました。  それがジョージ・ミラーさんでした。

 

  キャンベル・マンションの管理案内員として勤務され始めたばかりだったと思いま

す。  その前には中東レバノンにあったアメリカン・ユニヴァシティーで教鞭を執っ

ておられましたがテロリストに拉致され二年ほど監禁されたのち無事帰国されたので

した。  いくばくかのまとまった献金を個人的に差し上げたことを覚えています。

  その後も引き続きキャンベル親子の研究を続けておられるようです。  レバノンに

赴かれた時には確か長老教会員であったと思います。

 

  21センチと28センチ、五十余頁の家系図の内容は、四世代にわたるキャンベル家の

家計を詳細に記録したものです。  日本の戸籍謄本に相当するもののようで無味乾燥

なものです。  現物を手にしていささか失望したというのが正直な気持ちです。

 

 

  上記のほかにオーソドックスなキャンベル親子に関する資料源三点を推薦しておき

ます。  日本人にとって読み易すい順番に、また内容面からも、易しいものから順番

に紹介してみましょう。  ほんとうは一番むつかしくて分厚い三番目がお薦めです。

 

  まず、英語の苦手な日本人にとって手軽な資料源として次の古文書があります。

  第一章で八頁にわたってトーマスの生い立ちが記されています。  その中でも少し

ですが両親について、特に父アーチボールドに触れています。

 

          Thomas Campbell, Seceder and Christian Union Advocate

    by William Herbert Hanna, Standard publishing Co., Cincinnati, 1935

 

  著者ウイリアム・ハーバート・ハンナは1872年(明治5年)1月2日ミズーリ州で

生まれペンシルヴェニアで育った人物です。  キャンベル親子設立のベサニー大学で

古典学専攻でAB学位を取得後、シカゴ大学、南カリフォルニア大学、カリフォルニア

クリスチャン大学で学んでいます。

  その後は故郷ペンシルヴェニア州ニュ-・キャッスル、カーネギー、ワシントンで

牧会しています。(ワシントンは後述のキャンベル親子の活動拠点でもありました)

 

  1900年(明治33年)エリノアー・フォード嬢 Elinor Fordと結婚しました。

1901年から1922年にはディサイプルズの Forge in Christian Missionary Society

宣教師としてマニラに派遣されています。  これは新婚旅行の延長のようなものだと

考える人々もいたようです。  F.C.M.S.はあとで大切な話題として説明の予定)

 

  帰国後はテネシー州ノックスヴィルやペンシルヴェニア州ピッツバーグで牧会し、

1923年には U.C.M.S. 宣教師協会の理事を勤め、ウエスターン・ペンシルヴェニア・

クリスチャン・ミッショナリー・ソサイェティーの理事を勤めてもいます。

 

  1936年ネブラスカ州リンカーンで発行された記録によればハンナはゴッドフォード

John Godfordと「十分の一献金の是非論」で反対の立場から討論会に臨んでいます。

これはまるでハンナが無楽器教群の説教者であるかのような視点から討論会に臨んで

いるわけですので戸惑います。  彼自身は北のディサイプルズの一員ですから。

 

  ハンナがトーマス・キャンベルについて書いた文献は、ミシガン州ホランドにある

長老教会と改革派協会系の Western Theological Seminary に提出した論文が底本に

なっているようです。  フーグランド博士に事実確認を依頼し説明を頂きました。

  これも、ディサイプルズであるハンナが長老教会系の神学校に論文を提出したわけ

で、戸惑います。  更に、トーマス・キャンベルに関する著書を保守ディサイプルズ

であるクリスチャン・チャーチズ系のスタンダード出版社から出しているのも戸惑い

です。  1948年(昭和23年)に帰天しています。

 

  この本の特徴は、母国の長老教会内の複雑な対立や分裂の癒しを求めたトーマスが

疲れきって体調を崩し医者の勧めもあって新世界に渡りましたが、新世界でも同様の

対立構造が持ち込まれて紛争が絶えませんでした。

  トーマスの属していた一派から派遣されて当時の西部開拓僻地ペンシルヴェニア州

西端で主の食卓、いわゆる聖餐を執り行った時に、同じ長老教会でもその信仰告白の

内容理解に多少違いのあった他の長老教会員たちや、どうやらメソジスト教会の信者

なども主の食卓に招いたことでトーマスは叱責され宗教裁判にかけられたことがあり

ました。

 

  その時のチャーティアーズ長老会(地域小会) Chartiers Presbytery やシノッド

(総会・大会)Associate Synod とトーマスとのあいだの厳しいやり取りなどをよく

調べて書いています。  その点でハンナの著書は貴重な資料源です。

  何しろ二百年近く前の不便な僻地開拓地域で起った事件ですから当時の宗教裁判の

記録が残っている可能性は殆どありません。  タイプライターという便利な筆記用具

もなかった時代です。  万年筆もなかった時代です。  白鳥の羽をけずってインク瓶

にペン先を漬けて書くという時代です。  筆記する紙も貴重品でした。  裁判記録も

秘書がなるべく手をかけないで、最低限必要な記録だけを書き留めた時代です。

 

  これらの厳しい条件下にあった当時の宗教裁判の記録を忍耐して丹念に調べて書き

あげた著書としてハンナの著書は貴重な文献です。

 

  またさらに、すぐあとで紹介しますリッチャスンのアレキサンダー・キャンベルの

回顧録は貴重な資料源ですが、記憶に頼って書き残した文献ですので、不正確だとの

そしりを免れない点が多々あるのです。  この点に於いてもこれらの欠点を補足する

ハンナの記録は大切なのです。

 

 

  次の文献として下記を推薦いたします。  ある程度英語を読んでみようという意志

があれば、字引を片手に、忍耐すれば、基本的な情報を得られるでしょう。

  第一章の Years in Ireland and Scotland  にはトーマスの生い立ちが三十五頁に

わたって紹介されています。  その初めの部分にはトーマスの両親のことを紹介して

います。

 

  Thomas Campbell, Man of the Book by Lester G. McAllister, Bethany Press,

St. Louis, Missouri, 1954

 

  著者のマッカリスターは私たちに馴染みの深いハーディング大学の所在地から近い

アーカンソー州リトル・ロックで生まれています。

  ケンタッキー州レキシントン市のトランシルヴェニア大学を1941年(昭和16年)に

優秀な成績で卒業、1944年には私たちの先駆者スナッドグラスやマッケーレブも嘗て

学んだことのあるカレッジ・オヴ・ザ・バイブル(現在のレキシントン神学大学院)

1944年に卒業し、1953年に神学博士号を Pacific School of Religion で取得。

その他にもケンタッキー州立大学やカリフォルニア大学でも学んでいます。

 

  1944年にディサイプルズ教群のミニスターとして按手を受け、同教群の重鎮の一人

として活躍し、特にディサイプルズ教群では青少年教育に造詣が深く、また WCC世界

協会協議会でも活躍し、世界各地を訪問された指導者であると理解しています。

 

  1953年以降はベサニー大学で宗教学の教授や学生部長を勤めていました。

1961年からはインディアナポリスにあるクリスチャン・セオロジカル・セミナリーで

1983年の退職まで教授職を勤めていました。  たしか同校は、かつてバトラー大学と

呼ばれていたかと思いますし、大阪聖書学院の故マーチン・クラーク学院長も同校を

卒業されたと思います。  1964年にはアーカンソー大学から表彰されています。

 

  野村仮私訳で米国教会史協会や米国宗教学院でも奉仕されていました。  執筆活動

も盛んに行っていました。  1979年にはインディアナ州宗教史協会の会長に選出され

てもいました。  ロサンゼルスの東50粁のクレアモント Claremontにお住居です。

  1月8日、土曜朝に御本人に電話を差し上げ約二十分間お話を伺うことができまし

た。  数冊の著書を自由に使って良いとお許しを頂きました。  話がはずみいろいろ

な人々の名前が出て来ました。  トム・オルブライト博士やリロイ・ギャレット博士

のお名前も出てきて、共通の先輩を有していることで話が更に進みました。

仲々の好好爺の先輩とお話しできて、楽しい感謝の気持ちで一杯になりました。

  博士がお住居になる老人専門施設の所在地クレアモントには福音誌の先駆者紹介欄

で紹介済のカーメ・ホステッター・スマイザー夫人の墓があると言及しましたところ

「それは知らなかったので、クレアモントのディサイプルズの神学校の生徒に早速に

調査させてみる」ともおっしゃっておりました。

 

  同師の著作「聖書の人・トーマス・キャンベル」(題は野村の仮私訳)は1954年に

ミズーリ州セント・ルイス市にあるディサイプルズ教群の出版社ベサニー・プレスで

発行された約三百頁の文献です。

  第一章 Years in Ireland and Scotland  野村仮私訳で「幼青年期のアイルランド

とスコットランド」にトーマスの生い立ちが三十五頁にわたって紹介されています。

  その初めの部分にトーマスの両親のことを紹介してあります。  大学生レヴェルの

英語の読解力がある方なら字引を片手に何とか読めるはずだと私は思っています。

  ご本人からは自分の著書をどのように使ってもよいとの航空便も頂きました。

 

 

  しかし何といっても最大の資料源はトーマスの息子アレキサンダー・キャンベルの

側近による回顧録でしょう。  最初は二巻に別けて書かれていたものです。

  復刻版は一冊にまとめられていますが、ほとんど七百頁もある分厚い文献です。

脚注部分は一ミリ四方の細かい活字がぎっしり詰まっています。  余りにも細かい字

がぎっしりと詰まっていますので見るたび読むたびに私は英語嫌悪感に襲われます。

最初の部分でキャンベル家の御先祖さまのことを述べています。

  1897年発行版を入手することは相当に困難です。  心当たりがありますので尋ねて

見ました。  保存状態にもよりますが「送料別で 250ドル欲しい」とのことです。

  復刻版そのものも古文書扱いになりつつあると思いますが、それでも入手するのは

まだ可能です。  歴史学者アール・ウエスト Earl Westの手によるものです。

  貴重な資料源としてのこの本の最大の欠点は、すでに述べましたが、記憶に頼って

いる点が多いので、不完全であるという点でありましょう。

 

  Memoirs of Alexander Campbell by Robert Richardson, Vol.1 and Vol. 2,

    Religious Book Service, Indianapolis, Indiana, n.d.   1897年の復刻版

 

  この分厚い古文書はロバート・リッチャスン Robert Richardson  1868年に初版

を発売し、翌1869年に第二版を発売しました。  著者はキャンベル親子とは血縁関係

がありませんが、とにかく詳しく正確に記録されているので、アレキサンダーの後妻

セリナ・ハンティングトン  Selina Huntington がその内容の豊富さと正確さに驚い

たほどだそうです。  しかし、トーマス・キャンベルに関する研究が進み、最近では

すでにすぐ上に述べましたように、年老いたリッチャスンの記憶に頼ることが多いの

で必ずしも正確でないという厳しい見方もあるようです。

 

  しかし、英語を母国語としない私たちにとっては、一ミリ半四方の活字がぎっしり

詰まった七百頁を読破することは「駱駝が針の穴を通るより困難」なことだと思いま

す。  残念ならが日本で読破に挑戦し、成功した人は未だないだろうと思います。

 

  しかし著者ロバート・リッチャスンに関して十七章からなる三百頁弱の文献を二人

の学者が書いていますから相当な人物であったのでしょう。  古文書として販売され

ています。  Home to Bethphage by Cloyd Goodnight and Dwight E. Stevenson

  私もインターネットで入手したものを所持していますが読破していません。

 

  今回あらためてトーマス・キャンベル伝を書き始めましたのでトーマスの関連資料

を収集し始めました。  トーマス・キャンベルに関する資料は息子アレキサンダーに

関する数多い文献と比較してみますと、アンバランスなほど少ないものです。

 

  先週 Memoirs of Elder Thomas Campbell, by Alexander Campbellという古文書を

入手すべく交渉しました。  息子アレキサンダーが父トーマスを回顧したものです。

  この本は、「息子がおやじのことを書いた」という点で資料源となりますが、余り

にも多忙な生活を送ってしまったアレキサンダーが、その晩年になって「致し方なく

おやじさんのことを想い出しながら書いた」ということです。  内容的にトーマスの

生き生きとした面に欠け、思いのほか不評に終わり、再版要求はありませんでした。

  その意味では貴重な本となりました。  復刻版を昨日入手することができました。

二ミリ四方の字がぎっしり詰まっている三百二十頁ほどの本です。

 

  そのほかにもテネシー州ナッシュヴィルにあります仮訳でディサイプルズ歴史協会

The Disciples of Christ Historical Society には二、三年前に帰天されたラサー

女史 Eva Jean Wrather の手になる数多くの研究資料が遺されているようです。

彼女がその七十年をかけて調べて書いた八十万語からなる大作だそうです。

  その中に私が捜している情報が隠されている可能性がありますが、何しろ膨大な量

の資料のために同協会でも整理に何年もかかるだろうと言っています。  今回のこの

紹介文用にはとうてい間に合わないと思っています。  後続研究者に託します。

(追加情報です。  2005年5月になって同上協会から$25で発売されました)

 

  いまのところ、北米、カナダ、そのほか英国に居住するストーン・キャンベル運動

(復帰運動)研究者たちも以上の文献のほかにトーマスの生い立ちやキャンベル家の

それ以前のことを知る資料源を見いだしていないようです。

 

  なお、上記ですでに申しましたが、数多くあるアレキサンダー・キャンベル関連の

資料や出版物の数に比べて、父トーマスに関する書籍は、すでに上記で紹介しました

もの以外に、個人的な手紙などを除き、存在していないのです。  そして個人的メモ

や書簡類は交信相手も帰天された人々ですので、まず入手不可能か存在不能であろう

かと思います。

 

  しかし、そのことは、息子アレキサンダーがディサイプルズ運動の指導権を握った

あとは、トーマスは何もしなくなったということを意味しているのではないのです。

  父トーマスは息子の後ろから息子を支え、助言を与え、なお運動に大きな影響力を

行使していたということです。  トーマスはその死の瞬間まで、運動を指導する息子

アレキサンダーとは硬貨の両面の関係にあったのです。

 

  あとでいずれ触れますが、野村仮私訳で「宣言と決意 Declaration and Address

の作成と発表に父トーマスは大きな関わりと影響力を持っていたのです。

Declaration and Address of the Christian Association of Washington」という

題で、トーマス・キャンベル Thomas Campbellとトーマス・アチスンThomas Acheson

1809年に書き上げて署名しています。  復刻版をご希望の方はご連絡下さい。

 

  宣言文との関連では、前述のインディアナポリス市にある Christian Theological

SeminaryDon Haymes  から贈られた論文集が参考になると思います。

   The Quest for Christian Unity, Peace, and Purity in Thomas Campbell's

  Declaration and Address. Text Studies edited by Thomas H. Olbricht and

  Hans Rollmann, The Scarecrow Press, Inc., Lanham, Maryland, London, 2000

 

  トーマスとアレキサンダーの関係はただ単に二人が父と子であったという間柄だけ

ではなく、アレキサンダーが運動の指導者としての立場を得たあと、父のトーマスは

隠れてしまって見えなくなったように誤解されがちですが、決してそのようなことは

なく、トーマスのアレキサンダーへの影響は、たとえば「ルターとメランヒトンとの

関係などより遥かに濃いものであった」と、上記フレデリック・カーシュナー教授は

1935年に述べています。

 

  その他に、ディサイプルズの重鎮の一人アーチボールド・マックリーン Archibald

 McLean がキャンベル親子を賞賛して書いた Thomas and Alexander Campbellという

文献もあるようです。  いろいろと手を尽くしてこの本を捜しています。

  その後アビリン・クリスチャン大学のアーマ・ジーン・ラヴランド女史のご好意で

2005年5月に入手することができました。 (Erma Jean Loveland, Abiline, Texas)

Fleming H. Revell Co., 1908 1955年に復刻した四十六頁ものです。

 

  ピッツバーグ・ジーニア神学院 Pittsburg-Xenia Theological Seminary の図書館

の古文書には、トーマスとチャーティアーズ長老会や総会・大会が争った宗教裁判の

記録も含まれているようです。

 

  厳父アーチボールド・キャンベルの写真もずいぶん努力をして尋ね当たりましたが

18世紀時代を生きた普通の人が自分の姿を写真機に納めておくなどはあり得ないこと

でした。  ナポレオンか島津のお殿様でもない限り、またよほどの権力者でなければ

自分の姿を撮影させるとか肖像画を描かせるということはできなかったはずです。

 

  アーチボールドの写真なり肖像画をもしも発見できるとすれば世界中のストーン・

キャンベル運動の教会史研究家が騒ぎ立てることは間違いありません。

  さらに、トーマス・キャンベルの父アーチボールドがストーン・キャンベル運動の

中に於いて占める価値や貢献度を現在のところ誰も見いだしていないのも事実ですか

ら、アーチボールドの写真なり肖像画は存在したことがないのかも知れません。

 

  おおむね以上がトーマス・キャンベルと、その父アーチボールドに関する現在入手

可能な資料の総てのようです。  これ以上の資料は今のところ世界中を捜して廻って

みても出て来ないだろうというのがどうやらおおかたの学者たちの見方のようです。

 

                                                                  20050118

 

  以下も追加情報です。

 

  日本ではとうてい考えられないような理由で、すなわち印刷工員たちの重なる休暇

ということで、発行が相当に遅れていました(野村仮私訳)「ストーン・キャンベル

運動百科事典」the Encyclopedia of the Stone - Campbell Movement が三月になり

ようやく入手できるようになりました。  八百数十頁のもので、三派の三百人の学者

たちが執筆にかかわり、約六百項目を網羅し、二百枚前後の珍しい写真も掲載されて

います。 ストーン・キャンベル運動の研究には必需品でしょう。 宝の山です。

 定価は$50です。  米国のアマゾン通販社を通せば安く入手できます。

  当然のことですが相当数の頁を割いてトーマス・キャンベルや息子アレキサンダー

を扱っています。  しかし基本的にはすでに紹介しておきました資料源を超えること

はできないようです。

残念なことに日本関連の内容は不均衡でお粗末すぎます。 次回改訂版発行の時に

は必ず私たち日本側に相談をしてからにして欲しいと注文をつけておきました。

 

                                                       20050318