《遥かに天の御国を偲ぶ  その1》

 

  私は父を5歳の時に喉頭結核で失いました。  父の顔を全く覚えていません。

うつろに、かすかに覚えていることが二つあります。  京都の竜安寺の近くに住んで

いた時に近所の煙草屋に饅頭を買いに行かされ、店番が手渡したゴールデン・バット

を饅頭の代わりに持ち帰り、こっぴどく叱られたことが一つと、父の亡骸が火葬され

る日に、京都市内南東部にあった蓮華谷に十数台の円タクが隊列を組んできつい坂道

を登っていった光景だけです。  皆さんも五歳以前の鮮明な記憶がありますか?

 

  それでは、次の質問です。  今朝さっき見たはずの夢を正確に覚えていますか?

夢は総天然色でしたか?  何色でしたか?  誰と誰が傍にいましたか?  動物は?

  夢もまた、はかないものですね。  記憶があるようなないような…

 

  次にいくつかのことを先に申しておきます。

聖書は開かれた本です。  これが一つです。  開かれた本である以上、世界中の無数

の人々が、いろいろな背景や体験の中で、聖書を読む人々それぞれがいろいろな読み

方をするということです。  これが二番目に確認しておきたいことです。

 

  聖書を読む内に、少なくとも最初の四書、すなわち福音書を読む内に、なんだか

わからなくなる自然なことは、いわゆるイェスが神の子なのかどうか、イェスが人の

子なのかどうか、イェスは神なのか、人なのかという、本当に率直な疑問です。

これを神学では「キリスト論」と言います。

 

  次に使徒行伝とかロマ書とか、残りの部分を読んで行きますと、もう一つの疑問

に出会います。  教会が言う「三位一体」というものです。  聖書にそのような言葉

を見つけ出すことは不可能です。  どこにもそのような言葉は書いてありません。

  すなわち、神が「父」であり、神が「子」であり、神が「聖霊」であると説く教え

です。  一人の神が三人いらっしゃるということです。  三人が一人だという教えで

す。  真剣に考え始めますとますますわからなくなってしまいます。

 

  以上の二つの疑問は、キリスト教が始まってしばらくしてから教会を悩まし始め

た問題で、その後の二千年の間、わかったようなわからないような状態で来ていると

いってもよいでしょう。  ニケア会議など一連の会議もこのことで開催されました。

 

  さてこれらのことを含みおきながらですが、それでは天地万物が創造される以前

からイェスは存在していたお方なのかどうかということを考えてみましょう。

  あるいは、天地万物が創造される前から存在されていたとしても、どこかの時点で

イェスは創られたお方なのでしょうか?  それとも神と一緒に初めから存在されてい

たのでしょか?  こういうことはむつかしい質問ですね。

 

  さて、最初の幼児期の記憶と、夢の話しに戻りましょう。

イェスが天地創造の以前から存在されていた pre-existed  プリ・イクジステッドな

お方であると一応しておいて、イェスはこの世に来られた時、ガリラヤの湖畔で弟子

たちを集められた時、天国の想いで、記憶があったのでしょうか?  どうでしょう?

 

  また、イェスは弟子たちに天国のことを話されたことがあるのでしょうか?

四福音書を読むかぎり、そのような具体的な例はないように思えるのです。

  何故なのでしょうか?  イェスに天国の記憶がなかったのか、うつろにしか覚えて

おられなかったのでしょうか?  それとも話したくても話しようがなかったのでしょ

うか?  それとも、仮に天国のことを話せたとしても、弟子たちには理解できそうに

なかったから話されなかったのでしょうか?  いろいろな可能性がありますね。

 

  何万人もの群衆が常にイェスの後ろからぞろぞろと付いてあるき廻っていた時、

イェスは独りになるために、静かな寂しい所に退かれたと福音書は書いています。

祈るためであったと考えられています。  それではイェスは何語で神と会話なさった

のでしょうか?  イェスと神だけにしか通じない天国語だったのでしょうか?

  十字架に架けられる直前に、ゲッセマネのオリーヴ樹園で神に祈られた時の祈りの

内容を除いて、イェスと神との会話=祈りの内容を聖書は全く記していません。

  不思議です。  どんな会話の内容だったのでしょか?  何語だったのでしょう?

天国語というのがあるのでしょうか?

  どうしてイェスは愛する弟子たちに天国のこと、神さまのことをひとことも話さな

かったのでしょうか?  イェスは天国の記憶がなかったのでしょうか?

 

  脱線ですがイェスが何語で神と会話、すなわち祈りをなさったのだろうかとか、

天国語だったのだろうかとか、そういうことは私たちが知る必要もないことです。

  今の私たち、あたかも科学万能のように錯覚している時代に生きる私たちにとって

こういう質問をしたくなるのかも知れませんが、何でもかんでもすべてのことを把握

していなければならないとか、何でも知りたいという必要は実はないと思います。

 

  知らなくてもよいこともあるのです。  また、そのような質問は僣越という世界に

属するものです。  人が神のことを知る必要もないし、知ってはいけないのです。

  私たちのちっぽけな脳味噌で神に属することを知ろうなどとんでもない発想です。

無理です。  私たちの限界を越えた世界の問題です。  何語で話されたのだろうかと

か、前述のような疑問、すなわち、いわゆるキリスト論や三位一体論などは、信じる

という世界の問題、私たちの心を使う世界の問題であって、限られた脳味噌を使って

知ろうとむなしい努力をするような性質のものではないと私は考えています。

 

  そうでないと天国に行く楽しみが減りましょう。  神御自身からいろいろと直接に

ご説明を受けて神の恩寵の摂理を初めて理解するという喜びと感激は、それは天国に

たどり着くまで楽しみにお預けにしておいたほうがよいのです。

 

  たしかにヨハネ伝1章1節~18節にはイェスと神との関係が書いてあります。

しかし、イェスが弟子たちと一緒だった時には旧約聖書だけが存在していたのです。

  新約聖書は、イェスが十字架で死なれてから遥かあとで編集されまとめられたもの

です。  十字架からひとつき半もたってペンテコステ、すなわち五旬節の日に教会が

生まれたのですが、そのときに新約聖書が完成したわけでもありません。  はるかに

あとのことです。  ヨハネ伝1章に書いてあるような表現は神学的なものです。

それは、相当あとになってイェスへの信仰が神学化されて書かれたものです。

ヨハネ伝1章に書いてあるようなことを弟子たちは知るよしもありませんでした。

 

  ヨハネ伝8章58節には『アブラハムの生まれる前から私は存在している』という

イェスの発言がありますが、そのような神学的発言とその内容をその時の弟子たちが

理解できるはずはなかったと思います。  まして、天国のことなど、理解できなかっ

たであろうと思います。  たとえイェスが説明しようと試みても‥です。

 

  同じことは、ヨハネ伝13章2節以下にもあると思います。

『父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて

神に帰ろうとしていること』を思われていたのですが、6節以下を読んでみますと、

弟子たちにはイェスのつぶやきを理解することは不可能であったようです。

  天国だの、神だのということを、旧約時代に生きていた、しかも基本的な宗教教育

すらなかった底辺労働者であった弟子たちが理解することは不可能なことでした。

 

  今かりに、イェスが私たちに語られたと仮定しても、私たちに天国語も理解でき

ず、天国のことを理解する能力も、当時の弟子たちと同じように、出来るわけがあり

ません。  蟻が人間を理解できないのと同じでしょう。  蚊がパソコンを理解できな

い以上に困難なことでしょう。

 

  もしも、仮にですが、イェスのこと、イェスが思っておられること、天国のこと

を、神の王座のことなどを、もしも私たちが理解できるとすれば、私たちはこの世を

離れたいと騒ぎ立てることになるでしょう。  この地の上で私たちが日々営んでいる

苦悩と涙とため息ばかり多い仕事など馬鹿らしくなって止めてしまうでしょう。

  それですから、イェスは弟子たちに対しても、天国のことを語られなかったのかも

知れません。  天国に到着するのを楽しみにするようにというお考えなのかも知れま

せん。  何でも総てを先取りするというのは、苦悩の人生の中で恩寵を理解できなく

なる可能性を含みますから、よいことではないのではありませんか?

 

  そのような理由から、コリント後書12章2節以下には、説明したくても説明する

ことが不可能な世界、説明も描写もこの地上の限られた智恵知識の範囲ではとうてい

できそうもない世界のことなのかも知れません。  また、語ることができたとしても

語ってはならない性質のものなのかもしれないと、そのように読める聖書箇所です。

  イェスも弟子たちに対して、天国のことを語りたくても弟子たちにはとうてい理解

ができなかった事柄なのか、あるいはイェスも天国のことを地上の人に話してはいけ

ないことであったのかも知れないと、そのようにコリント後書12章は読めるのです。

 

  イェスは天国のことを弟子たちに多く語られなかったようです。

具体的なことは何ひとつおっしゃらなかったのです。

  しかし、弟子たちにもわかりやすい方法で、イェスが天国のことを語られた箇所を

マタイ伝1810節は記録しています。  『あなたがたはこれらの小さき者の一人をも

軽んじないように注意しなさい。  あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあっ

て、天に居ます私の父の御顔をいつも仰いでいるのである』と‥

 

  ヘブル書という書は新約聖書正典に組み込まれるのが一番遅かった書だと言われ

ています。  著者もよくわからず、最初から論争点の一つとなっています。

ペテロ後書3章15節やヘブル書1323節などを根拠に使徒パウロだと主張する学説も

あります。  イェス・キリストが処刑されたのち少なくても三十年ほどして書かれた

ものだとも言われています。  それらをここではこれ以上触れないことにしますが、

1章14節を読んでみましょう。  『御使たちは総て仕える霊であって、救いを受け継

ぐべき人々に奉仕するため遣わされたもの‥』と説明しています。

 

  前記マタイ伝18章に書かれているのと同じで、天使は仕えるために神が創られた

存在のようです。  天父と地上の「いと小さき者たち」や「今まさに救いを受けよう

としている者たち」、すなわち今まさにこの地上を離れようとしている魂のために、

天の父とそれらの魂との間を自由に瞬時に往復しているとも推測できる文面です。

  このことを注意深く考えてみますと、この地上と天の国、神がいます御国との間は

極めて近いことがわかります。  私たちの想像や理解を遥かに越えて、すぐおとなり

に天の国があると理解できるはずです。

 

  1962年7月に軽井沢で聖書講座があり参加したことがあります。

カリフォルニヤのフラー神学大学院主催の日本出張講座でした。  講師はホイートン

大学の神学者M.C.テニー博士でした。  ヨハネ黙示録の講義などがありました。

 

  葉山へ帰宅途上、熊谷郊外で不思議な交通事故に巻き込まれ、緊急入院した病院の

医師の見落とし処置ミスによって左腎臓を摘出せざるを得なくなりました。

  一時期生命に危険が及んでいたようでした。  そして何とも説明することが不可能

な夢を見たといいますか、表現不能の体験がありました。  それを臨死体験というの

かどうか今となってはわかりません。  不思議な、厳粛な一種の宗教体験でした。

 

  順子さんのお母さんが帰天される直前に病床で「奇麗な世界を見た」というような

ことを具体的に順子さんに説明されたことがあると聞いています。

 

  今この瞬間にも世界中で多くの方々が病床でこの世の末期を迎えておられます。

多くの場合、それらの人々は、医者に言わせますと、「昏睡状態に在る」という説明

なり診断が下されていると思います。  この世の医学では正しい判定でしょう。

 

  しかし、前述のヘルブ書1章最後の節によれば、人間の医学が「昏睡状態に在る」

と診断していて、人智では計り知れない世界・状態におられるそれらの方々が、天使

を媒介として、「神との交わりの世界に在る」のかも知れないと、個人的に私は感じ

ているのです。  否定も肯定もできませんが、ヘブル書1章14節が含蓄することを、

私はそのようにも解釈できると考えているのです。

 

  もしこのような理解が可能ならば、天国はそれらの人々にとって、実に身近な現実

であると言えると思います。  帰天とはお引っ越しにしか過ぎないでしょう。

 

  人智に限りのあるこの世の医学の診断によれば、「昏睡状態」とか「危篤状態」と

しか説明できないような状態に在る人は、すなわち、ヘブル書1章の説明によれば、

「今まさに救いを受け継ごうとしている」魂は、神さまの御国に移る前の準備段階に

在り、「仕える天使」が天国と病床に在る魂との間を往来している状態に在るのかも

しれないと、私はそのようにヘブル書1章14節を読むことができると思うのです。

これもまた、最後の最後まで示されている一方的な神からの恩寵だと思います。

 

  取り乱して悲嘆に泣き悲しまなければならない状態ではなく、厳粛な瞬間、天使を

媒介とする神との交わりの瞬間をむしろ感謝と共に静かに見守ること、讚美をもって

静かに見送ること、そして再会を信じて送り出すことを学ぶべきかと思うのです。

  『神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の為には、すべてのこと相アイ

働きて益となるを我らは知る』とロマ書8章28章は強く証言しているのです。

 

  そのことをイェス御自身が断言されている所があります。

ルカ伝2343節です。  今まさに十字架の上でその使命をまっとうされ、父なる神の

御国に戻られようとしておられるイェスが、隣の十字架に架けられていた強盗の一人

に『汝、今日われと共にパラダイスにあるべし』と断言され約束されているのです。

  イェスはその内容について何もいっさい説明をされていませんが、断定されている

のです。  天国は信じる者が行く所であって、頭で論じるものではないのです。

 

  それですから、天国は私たちが恐れたり怖がったりする必要などまったく不要で

身近な所にあるのです。  死は手ぶらでお引っ越しをするにしか過ぎないのです。

  カトリック教会では、死んだ霊魂は天国と地獄との間にある煉獄という場所に行き

炎火によってその罪を浄化させられるなどと教えているようですが、私が聖書を読む

限り、天国に私たちはただちに移ることができるとしか読めないでいます。  これは

恩寵で感謝です。  そうでないと上記の聖書箇所がおかしいということになります。

 

  それよりもマタイ伝5章3節以下6章を通してゆっくり熟読し、「天国」という

句に注意を払うとよいのではないかと思うのです。  天国を身近に感じるもう一つの

別な方法です。

 

  とりわけマタイ伝6章21節には『あなたの財宝がある所に、あなたの心がある』

とイェスは断言されているのです。  そして24節では更に厳しく明白におっしゃって

いるのです。  『誰でも二人の主人に兼ね仕えることはできない。  神と富みと両方

に兼ね仕えることはできない』と明白に忠告し、率直に警告なさっているのです。

 

  このことをさらに具体的例を挙げてイェスはおっしゃっています。

ルカ伝1433節で『あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨てきる者でなく

ては私の弟子となることはできない』とおっしゃっています。  この聖句に従えば、

聖歌 433の「弟子となしたまえ  Lord, I want to be a Christian」これは簡単には

歌えない信仰告白となりますね。  しかしこれが天国と直接に関係があることです。

 

  このことはマタイ伝192122節とマルコ伝1022節の聖句で決定的なものとな

ります。  律法学者かユダヤ教の神学生ではなかったかと思うのですが‥

  イェスに永遠の生命を受けるには、すなわち天国に行くには何をどうすればよいの

ですか?と訊ねました。  律法のすべてを厳密に守る順法者であるとの自信をもって

いた青年だったのでしょう。

  イェスは彼に『あなたには一つだけ足りないものがある。  帰って、持ち物=財宝

をすべて売却して貧しい人に無条件で施しなさい。  そうすれば天に財宝を積むこと

になる』とおっしゃったのです。  青年は悲しい顔をして立ち去ったそうです。

『たくさんの資産をもっていたからだ』と聖書は説明しています。  それですから、

天国とは、一部の人にとっては、そう簡単に入れない場所のようですね。

 

  また、「主の祈り」と言われている箇所がマタイ伝6章10節にあります。

そこを気をつけて読みますと『御心が天に行われているように、地上でも行われます

ように』とあります。  天国というものが、神の御心というものが、この地上に於い

ても行い得る‥と読めるのです。  私たちの在り方によって、天国が私たちの日々の

生活の中においても行い得る、実践でき得ると、イェスは祈りの中で教えておられる

ように読めるのです。  讚美歌90番「ここも神の御国なれば」です!

  それですからルカ伝1721節で『神の国は実にあなたがたのただ中にあるのだ』と

驚嘆するような爆弾宣言をなさっておられるのです。

 

  コリント後書4章1718節や5章6節~8節には、そのように天国をこの地上で

生きる者に対して述べられている態度があります。  この地上に在りながら、この地

に属さない意識を持った生き方です。  天国を日々の生活で意識した生き方です。

それをピリピ書1章23節は言うのです。  『私たちの国籍は天に在り』と…

 

  ヨハネ伝14章1節~15章~16章~17章にかけて、十字架を目前にしたイェスは、

いろいろなことを弟子たちにおっしゃりたかったようです。  14章の初め部分です。

  しかし弟子たちには理解しにくかったようです。  『私の父の家には住まいが多く

ある』と事実だけを述べられています。  内容説明は避けておられます。

おそらく話してみようと試みても、弟子たちには理解できなかったことでしょう。

 

  以上、いろいろと天国を偲んでみました。  要は私たちに天国に戻りたい意志が

あるのかどうかということです。

  そのために私たちは日常生活の中で天国貯金というものをまじめに考えてみる必要

があるということです。

  そのために私たちは主の祈りにあるように、御心をこの地上で実践しようと努力を

しているかどうかということです。

  「仕える天使」が天と地を自由に往復していることを考え、御国を常に覚えて生活

しているかどうかということです。  「いと小さき者」に仕えているかどうかという

ことでもあります。  もっと身近に天国を意識して信望愛の生活を送りたいですね。