2003年3月23  八ヶ嶽南麓  野村基之

 

 

      礼拝時讚美『成し給え汝が旨』の原文 Have Thine Own Way, Lord に就いて

        (便宜上邦文と原文の歌詞は8頁に縮小して添付してあります)

 

  この讚美の作詞者の Adelaide Pollard アデレイド・ポラードさん(18621934

は巡回聖書教師として著名な人であったようです。  アフリカ伝道を願っていました

が必要な旅費が充分に集められず失意の内にある祈祷会に出席したそうです。

 

  そこで無名の老婦人が『主ょ、私どもの願い事など結局はどうでもよいような種類

のことなのです。  それよりも主ょ、ただ唯あなたさまの御旨が成りますように…』

と、このように祈ったのを聞いたのです。  この老婆の純粋な祈りの言葉がポラード

さんの胸にグサット刺さったのです。

 

  多くの場合、私たち多くの者の祈りというのは、よぉ〜く考えて見ますと、結局は

わがままな祈り、『〜して下さい』式の身勝手な祈り、ご利益宗教の祈りと殆ど何も

変わらないような自己中心的な祈り、物質界に関する祈りが多いのです。

 

  しかし、この老婆の祈りは、神さまの御旨が成り立ちますようにという純粋なもの

でした。  旅費募金が上手に集まらないということでクシャクシャしていたポラード

嬢にとって、有名な巡回聖書教師だと他称・自称していた彼女にとって、無名老婆の

祈りはガ〜ンと頭を叩き割られたような衝撃を与えたのに違いありません。

 

  アデレイド・ポラードの魂を根底から揺すぶった祈祷会からの帰路、彼女は老婆の

祈りをメモ帖に書き留め、それを元に『成し給え、汝ナ が旨』を作詞したのでした。

  その日の内に現在の原文どうりの歌詞4節を書き終えたのです。  エレミヤ書18

3〜4節の聖句を心の中に思い浮かべながら完成したそうです。  詩に曲が付けられ

て発表されたのは1907年(明治40年)のことでした。  もう既に百年近くも世界中で

歌われ続けていることになります。

 

  尚、このアデレイド・ポラード嬢は、当時極めて霊的で敬虔な婦人であったことは

良く知られていたのですが、彼女自身の個人的なことに就いては神秘的なヴェールに

包まれていて詳しくはわからない婦人であったとも言われています。

 

  1862年(文久2年)アイオワ州東南部のブルームフィールドで生まれています。

両親は彼女にセィラ Sarah(アブラハムの妻と同じ名)という名を付けたのですが

その名を好まず、自分でアデレイドと変えたのだそうです。  演説・朗読法と体育学

を若い時に習得したそうです。  1880年代に到りシカゴに移住し幾つかの女学校で

教鞭を採ったそうです。  この時期に巡回聖書教師としての頭角を表したと考えられ

ています。

 

  また、この時期に、スコットランドのエジンバラ生まれの会衆派教会の牧師で豪州

に渡り伝道をしていたジョン・アレキサンダー・ドーゥイ John Alexander Dowie

1890年にシカゴに再移住し、神癒伝道・説教者として活動を始めました。

(この伝道者に就いは以下省略。 Dictionary of Christianity in America, IVF

  アデレイド・ポラード嬢はこのドーゥイ牧師の神癒伝道助手として働きました。

ドーゥイ牧師によって糖尿病を癒されたと信じたからだと言われています。

 

  その後、更にサンフォード Sanfordという牧師の伝道活動に関与することになり、

サンフォード牧師と共に差し迫っているキリストの再臨を強く説いたそうです。

 

  (尚、このサンフォード牧師に就いては幾つかの手持ち資料で調べてもわかりませ

んでしたが、同じ姓でリベラルな信仰の持ち主の牧師 Elias Benjamin Sanford

同じ時期に存在し、エキュメニカル運動を促進していました。  資料源は上記辞典)

  亦、新世界では米国建国時から新大陸に新しいエルサレム、新しい天地を建設する

のだというエトスが強く存在していたのですが、1840年前後から第一次世界大戦前後

までの新大陸のどの教派においてもこの傾向は著しい盛り上がりを見せていました。

 

(エホヴァの証人であれ、モルモン教であれ、各種アドヴェンティスト教会であれ、

キリストの再臨は米国教会の重要な関心事であったのです。  これらの運動が興る約

半世紀も前には英国からシェーカーズという女性教祖を中心とする再臨強調運動体が

渡米して大きな影響を与えていました。  ミラーという男は聖書を読んでキリストの

再臨の日時を豫言し新世界の基督教界は大混乱に陥りました。  豫言は2度とも外れ

ましたが、ミラーの影響を受けた人々がアドヴェンティスト諸運動=諸教派を形成し

てミラーの影響は残りました。  エホヴァの証人も、モルモン教も、セヴェンスデー

・アドヴェンティスト教会、更に日本では殆ど知られていませんがクライスト・アデ

ルフィアンズという群などが現在でもミラーの再臨信仰を保持して残っています)

 

  話しをアデレイド・ポラー嬢に戻しますが、アフリカ伝道計画が資金面で頓挫し、

数年間を宣教師養成訓練所で教師として過ごした後、第一次世界大戦直前に短期間ア

フリカに渡り、戦時中はスコットランドで過ごしました。  大戦集結後帰米し、健康

を害していましたが、ニューイングランド地方で伝道活動に従事していたそうです。

 

  アデレイド・ポラード嬢は実に沢山の讚美詩を作詞したようですが、名前を記すの

を好まず、頭文字のAAA とだけ付けただけであったので、「成し給え、汝が旨」だけ

がはっきりと彼女の作品として認識できるものとして残っているそうです。

作曲者に関しては誌面の関係でこれも今回は省略いたします。

 

  年の暮れが迫った1934年(昭和9年)の12月の半ばに72歳のアデレイド・ポラード

はニューヨークのペンシルヴェニア鉄道の駅でフィラデルフィアでの講演会に講師と

して参加するためにフィラデルフィア行きの切符を購入して待合室のベンチに静かに

腰を下ろし、ほかの多くの乗客と一緒に列車の到着を待っていました。

 

  列車の到着を伝えるアナウンスがあり、乗客は一斉に立ち上がり、ぞろぞろと列車

に向かって歩み始めました。  やがて最終アナウンスがあり列車はフィラデルフィア

に向けて出発しました。  一人だけベンチに残された老婦人を誰も気づきませんでし

た。  神さまが、良く闘って生きたアデレイド・ポラードを、フィラデルフィアでは

なく、天国に迎えて下さったのでした。  それから一週間後、アイオワ州フォート・

マディスンに友人たちが彼女の遺体を土に戻すために埋葬したのです。