《福音を曇らせる教会》

 

  イェスが十字架で処刑され、三日目に復活して弟子たちに現れ、そのあとで昇天

したことと、五旬節の日に聖霊が降誕していわゆるエクレシア、教会の誕生を見た‥

ということを疑うクリスチャンは少ないであろう。

  そしてその後に、使徒パウロたちによって福音がローマに届くようになったという

ことまではほとんどのクリスチャンの理解するところであろう。

 

  しかしその後でエクレシア、教会というものがどのようになって行ったのかとなる

と答えられる人の数はぐっと減るものと思われる。  まぁこれが一般的であろう。

  まして、エクレシアが集会のために専門の集会場、礼拝堂をいつごろから持つよう

になったかなどと尋ねれば、答えられる人はさらに少なくなるであろう。

  最初の百年、百五十年ほどのあいだクリスチャンたちが専門の礼拝堂という建物を

持っということはなかった。  イェスを主と信じる者たちは森の中、大きな樹の下、

洞穴の中、池の傍、川岸などと、信仰者たちが集合しても安全な場所を選んで集まっ

ていた。  集会専用の建物などいっさいなかったのである。

 

  ローマ帝国領土内に居たほとんどの人々は住宅というものを持っていなかった。

ほとんどの人々はローマを中心に帝国領土内を放浪してその日その日を送っていた。

  そのような人々は、日曜朝になると、誰が言うでもなく誰から聞くでもなく、住居

を所有していたクリスチャンの所に、こん日ふうに言うアパートを借りていた労働者

の部屋に集まって、イェスとその十字架を覚える主の食卓に与るのが普通であった。

 

  土器が土器として集まり、主の食卓を中心に信望愛の交わりを深めていた。

金銀銅の礼拝専門堂を持つという発想など無かった。  皆が助け合い、励まし合って

イェスを中心とする生活、主イェス共同体を生きていたのである。  よく出来る者が

出来ない者の世話を見るというのは「ごくあたりまえ」のことであった。  家を構え

る者がそうでない者に宿と食事を提供するのも「あたりまえ」のことであった。

  世話になった者が世話をしてくれた者のできないことを手伝うのも「あたりまえ」

のことであった。  「仕え合う」ということだけが徹底的に大切なことであった。

 

  現在では「礼拝堂」を中心にした「礼拝ゴッコ」だけがあたかも大切なものとされ

てしまっている。  「牧師」という職業的宗教人が「教会ゴッコ」を取りしきってい

る。  「教会堂・集会場という入れ物」の中で「牧師」という「聖職者」なる人物が

宗教儀式という自分のショーバイに励み、「牧師」が「一般平信徒」なる集団を支配

して「教会堂」という「工場」で「教会行事」という「製造業」に励んでいる。

 

  これらのいずれをも新約聖書は全く知らない。  それらは新約聖書にしるされて

いないことであり、語られてもいない未知のことである。  土器が土器であることを

忘れて、自分があたかも金の器、銀の器、銅の器だと錯覚しているようである。

  文豪エラスムスが当時のローマ教会を痛烈に皮肉った「痴愚神礼拝ライハイ」そのもの

の復刻版である。  何が「プロテスタント=抗議する者」なんだ!と叫びたい。