『私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりは彼らと同じようでありたい』

                            《民数記2310節》

 

  『門松や、冥土の旅の一里塚』と謳った俳人がありました。  実に名句です。

  西暦二千年の元旦だというのに『死』を語るとは何事だとお叱りを受けそうです。

然し、この珍しいミレニアムの新年に生を頂いているのですから、これほど相応しい

話題はないと思います。  主に在る者として真面目に考えなければなりません。

 

  私が尊敬している81歳におなりの師がいらっしゃいます。  リロイ・ギャレット

博士 Dr.Leroy Garrett です。  198311月にテキサスの御自宅から世田谷の拙宅に

お招きし、御茶之水教会をお借りして講演をして頂いた優れた学者で霊的指導者でい

らっしゃいます。  ハーヴァード大学で宗教哲学博士号を取得され、ご自分で長い間

雑誌 Restoration Review を発行されてもいました。  Stone-Campbell Movement

題する米国教会史をも出版されました。  世界各地で講演もなさっています。

『良き師に出会わずば学ばじ』という言葉がありますが、そのとうりです。

 

  先日、『リロイ・ギャレットが死んだ』というニュースが全米を駆け巡りました。

全米に散らばる生徒たちが慌てましたが、これは同名異人である事が判明しました。

  それを機会に同師は『我々は死について語れるか? Can We Talk About Death?

と題する小論文を発表されました。

  本日朝(西暦2000年正月最初の日曜日)同師に電話をして翻訳許可を得ました。

日本の読者に無関係な部分を割愛し、補足的なものを補って、御紹介致しましょう。

 

 

 

  私が死んだ…というので、先日、確認の為の電話が鳴りっぱなしでした。  電話口

で私が応答に出たから相手は驚いていたようでした。  同名異人の死だったのです。

  妻のウィダと二人で大笑いしましたが、妻が言うには『今回は誤報だったが、その

内に本当の事となるわよ』という事でした。

 

  それは、あなたにもやがて遅かれ早かれ、いや、思ったより早く起る事なんです。

主の再臨が先になければ、青ざめた馬に跨がった死は、私たち総ての者を公平に万遍

なく訪れて来るのです。  でも、私たちは死に就いて語る事が出来るのでしょうか?

 

  私たちの多くは自分自身の死に就いては否定的な態度を採るようです。  人生設計

や人生計画を立て、長期ローンを組み、恰かもこの地上の命は無制限であるかのよう

に考えているようです。  人々にとって彼等自身の死というものは彼等の計画の中に

組み込まれていないのです。  死に就いて語ったり、思ったりするのを拒否するので

す。  (訳者注:日本や韓国の駐車場、ホテル、病院では「4」を忌み嫌います。)

 

  私は、病的になるほど死の思いに捕らわれろとか、死の恐怖症になれ…などと言っ

ているのではありません。  然し、私たちは死に就いて考え、死に関するあらゆる面

に就いて話し合う必要がある…話し合わなければならない…と申しているのです。

 

  私たちが愛する者に対し、私たちを愛してくれる者たちに対して、私たちは私たち

自身の死をどう考えているのかを知っておいて貰う必要があります。

 

  そして、「その時」が来た時に、どう対処して貰いたいのかを、私たちは愛する者

たちと充分に話し合っておく必要があります。  それは、私たちがいなくなった後で

も、愛する彼等は、妻は、夫は、子供は、子供の連れ合いは、友は、この地上で彼等

の生活を続けて行かなければならないからです。

  「その時」が来てから、悲しみと取り込みのド真ん中で、彼等だけで、ひとつ一つ

テキパキと判断をする事など出来なくなるのは火を見るより明らかだからです。

  葬儀だ、遺書だ、出費だ、オカネだ、記録だ、連絡だ、誰が何をどうするのか…、

たくさん沢山やらなければならない事が次から次に出てくるのですから、予め充分に

話し合っておく必要があるのです。

 

  夫が他界する前に夫と充分な話し合いをしておかなかったために、多くの婦人たち

が夫の他界直後に戸惑う事が多いのが現実です。  寡婦となった人々に突然に大きな

いろいろな問題が一時に押し寄せてきます。  そして彼女らはどうしてよいのか途方

に暮れるのです。  どこから手をつけてよいのか、どう始めたらよいのか、独り困惑

するだけなのです。  借金があったなど初めて知る場合もあるのです。

 

  事務所では事務を完璧に果たす社会人としての夫であった筈なのに、自分自身の事

となると、全く何も準備をしていないという事が屡々あるのです。  とりわけ自分

自身の逝去となるとです…。  多くの人は誰も自分の死に就いて話したがらないので

す。  話そうとしたがらないのです。

 

  他の人々が口に出したくないような話題を時には敢えて口に出すような人でさえ、

死という話題になると、『まあ適当に…』とか『お任せしますよ』式な態度を採るの

です。  家族は、一同が集まって、坐って、死が訪れる時に備えて、詳しく打ち合わ

せをする必要があるのです。

 

  妻のウィダと私はと申しますと、私たちはこの地球という惑星からの旅立ちに就い

て或る程度の話し合いをしています。  ここで、夫婦が話し合った事を皆さんに少し

紹介してみたいと思います。  参考になさって下さって、皆さん自身の旅立ちの準備

に役立つようならとても幸いに思います。

 

  皆さんがたも私たちと全く同じように準備をなさらなくてはならないと、そのよう

に申しているのではありません。  申し上げたい事とは、皆さんが今この時点で準備

をなさらないのなら、後になって、誰か他人が皆さんのために、誰か別の人が皆さん

の代わりになって準備をしなければならなくなると、そのように申しているのです。

  そして、誰か別の人が後になってやる事は、もしかすると、皆さんの期待や希望に

反するようなものになってしまうかも知れないという事です。  ですから、今という

時に皆さん自身が準備をなされば、御自分の好きなように準備が出来るのです。

 

  私たち夫婦の場合、私たちの遺体はダラスの病院に献体する事にしてあります。

財布には献体カードが入れてあります。  どちらかが最初に病院に電話をかけて遺体

を引き取りに来るように依頼する事になっています。  病院で医学の研究をする者に

とっても、献体する側にとっても、なるべく早く遺体が病院に届く事が肝心です。

  また、検死官の出動も同時に要請します。  更に、医者にかかっていた場合なら、

医師にも知らせるように話し合いが出来ています。

 

  献体の目的が果たせた後、病院は火葬してくれる事になっています。  遺骨を遺族

に渡してもくれますが、遺志によっては病院側の無名公園共同墓地に埋葬してくれま

す。  私たちは後者の方を選択しました。  それは、私たちの肉体は仮住まいである

という見地からです。  私たちが肉体から離れる時、それは恰かも古い家から引越し

するようなものだと理解しているからです。  生きて遺っている者たちが先に逝った

者をなるべく利用すれば良いと考えているからです。  そしてそれで終わりです。

 

  私たちが決めた原則とはこうです。  即ち、私たちのどちらかが先に死んだ時の事

を考えて、出来るだけ少ない仕事を他の人々に遺すようにする事と、遺された人々の

手をなるべく煩わせないように生前から準備しておくという事です。

  誰かにやって頂く事になる仕事も煩いも、少なくしておけばしておくだけ、遺され

た者にとってはそれだけ有り難い事、良い段取りを遺してくれたという事です。

  私たち夫婦の場合、葬式はありません。  棺桶もありません。  花もありません。

儀式はありません。  足手纏いになる葬儀用具もありません。  斎場もありません。

(訳者注:当然ですが、もちろん写真もありません)  ですから1ドルたりともかか

りません。  私の親しい仲間で、時には一緒に仕事をする斎場主には申し訳ない事で

す。  彼には許して貰わなければなりませんね。  許してくれるでしょう。

 

  その代わり、私たちの教会で記念礼拝(訳者注:メモリアル・サーヴィスですから

正確には「礼拝」でもなく、「式」でもありませんが、ここでは一応「記念礼拝」と

しておきます)があります。  それはとっても簡単で質素なものです。  懐かしい友

や愛する者たちが記念礼拝に参加します。  ひとこと話したい何人かの者が感想を

簡単に述べてお互いに想いを分かち合います。  勿論、婦人たちを含んでの事です。

 

  書類に関して述べてみます。  私たち夫婦には私たちの経済状態を明記し、然も、

絶えず更新しているファイルを用意してあります。  この書類ファイルを夫婦で常に

検討しています。  私たち各自の遺書も常に日付けを更新していますし、それがどこ

に保管してあるのかを家族・親族の全員が知っています。  遺書と共に子供たちへの

手紙も保管してあります。  その両方で詳しい事まで判るようにしてあります。

  通知すべき友人や諸組織・諸団体のリストも用意してあります。  死亡告知文や

死亡通告文も用意しておけば、後は遺された者が日付けを書き込めばいいだけにして

あります。

 

  次に、『一文無しで死ぬ』という事に就いて考えてみましょう。

アメリカのテレビ番組に『一文無しで死ぬ dying broke』というのがあります。

番組担当者が同じ題名で本を書いていますが、その中で彼は次のような事を言ってい

ます。  『あなたが書く最後の小切手は葬儀社か斎場宛てのものでなければならい。

そして、その最後の小切手は、あなたが既に死去しているので、銀行に回された頃に

は銀行で換金拒否に遭うだとう』と。  まあ、これは冗談ですが、そのような事を

すれば葬儀社なり斎場は私を許してはくれない事でしょうね。

 

  私たち夫婦は、今は老いの時期にいます。  そしてこの時期とは、私たちのお金を

それを必要としている他の人々に分け与える時期に来ているのだと理解しています。

その中には私たちの子供も含まれています。  そして彼等の立場になって考えてみれ

ば、相続や分配を受ける時期は、なるべく早い方が良いのです。  後になって相続税

をごっそり徴収されるよりも遥かにましだからです。  このような訳ですから、もし

私たち夫婦が今後も長生きしようものなら、私たちは一文無しになってしまうでしょ

う。  そんな状況に陥った頃には、今住んでいる住宅も他人様に差し上げてしまって

いるでしょうから、二人ともホームレスになってしまている事でしょう。

 

  まあ、そのような状況に陥ったとしても、それでも年金(訳者注:日本政府の国民

年金や職場の年金の事ではない)を受けて何とかやって行けるでしょう。  私たちが

良いと考えている慈善団体に私たちのお金を献金する時に、その団体と契約を結び、

私たちが生きている限りその団体から適当な年金を受け取る事ができるからです。

  このような制度を利用して慈善団体と契約をした上で彼等に献金しておけば、一定

の年金を受け取る事が可能ですし、免税特権を行使する事が出来るからです。  この

免税特権をもっと多くの人々が利用すれば、更に多くの人々が慈善団体に生前贈与を

するだろうと思います。

 

  この制度を利用しない手はないと、説明してみましたが、それでも心配する人々も

あるだろうと思います。  そういう人々に安心して頂きたい事は、慈善団体に寄付を

したものの、後で気が変わった場合には、その金額を返還して貰う事も可能だという

事です。  その場合には、当然ですが、年金額が少なくなるか、貰えないでしょう。

  然し、本当に『一文無しでこの世を去ろう』と決意した者は、途中でそのような

変更を試みないだろうと、そのように私は考えています。

 

  次に、神さまから託された財産管理人としての勤め( Stewardship)に就いて考え

てみましょう。  大原則はこのスチュワードシップ、良き家令であるという事です。

  私たちが所有していると思っているものは、実は、私たちのものではありません。

お金も、財産も、物質も、すべて私たちがしばしの間だけ使うために託されたもの、

神さまの良き家令としての私たちに神さまから貸与されたものにしか過ぎません。

 

  託された物を、私たちが良き家令としてそれに利息を加えるという仕事も託されて

いますが、それらはやがて私たちから神さまにお返しして、今度は別の人々がそれを

神さまからお借りして使うようになっているのです。

  神さまからお借りしたこれらの事柄は、ぐずぐずしないで、出来るだけ早く他の人

に譲り渡さなければならない物なのです。

 

  こうしておけば、あなたに託された物がどこに行くのかあなたには判るし、安心で

きるのです。  これらの事を今きちんとしておかなければ、あなたの遺産を受け継い

だ者たちは、あなたが望んでいたような使い方をしないかも知れないのです。

  誰が私たち夫婦のお金を受け取るのかですって?

妻のウィダと私は、充分に祈り、話し合った末、二つの慈善団体を選び出しました。

この二つの団体に私たちの殆どの財産が贈られるようにしました。  まあ、その他に

私たちの子供たちが受け継いで良いと私たちが判断した分は彼らに贈られます。

子供たちの必要や現況などを充分に考慮した上での判断です。

 

  好奇心がおありの方々のために、ここに二つの団体名を紹介しておきましょう。

その一つはアリゾナ州に本部がある飢餓対策団体 Food for the Hungryです。

    (訳者注:アメリカの住所等を省略し、同団体の日本側の組織を紹介する)

      日本国際飢餓対策機構  Japan International Food for the Hungry

    581-0802  大阪府八尾市北本町 2-4-10   0729-95-0123    0729-94-9100

 

  この団体は国際的な組織で、世界各地で飢餓線上にある人々に食べ物を提供する事

に専念しています。  いろいろな企画を備えており、それによって恵まれない環境に

ある人々が自立できるように努めています。  例えば、農業企画によって人々が自ら

餓えを解消できるように助けるとか、第三世界の零細企業に貸付を行う事などがあり

ます。  疾病が蔓延する地域で井戸を掘り、安心できる水を供給する事は特に大切な

仕事です。  金融関係でも優れた実績を持ち、相当額のお金がいろいろな企画に注が

れています。  この組織はクリスチャンの団体であり、教派を越えたものです。

 

    もう一つはフォート・ワースにある(翻訳者仮訳で)世界聖書翻訳センター

 World Bible Translation Center です。  ここでは聖書を世界各地の20ヶ国の言葉

に読み易く翻訳しているばかりではなく、聖書を発行し配布もしているのです。

現在この組織は、ロシア語や中国語を含め、更に十数ヶ国語の翻訳に挑戦中です。

 

  このグループは、現代人が日常に使っている口語で読み易いロシア語の旧新訳聖書

を最初に翻訳したのです。  また、百万冊以上のロシア語の新約聖書を発行した実績

を有しています。  このようにして、このグループの献身的な努力で、ロシア国内で

普通のロシア人なら誰でも買える値段で、誰でもが読んで理解できる聖書を発行して

いるのです。  このグループは、いわゆるキリストの諸教会に属しており、私たちの

群の中で最も効果的で責任のある仕事をしている組織なのです。

 

  その他にも神さまのために価値ある仕事をしていると私たちが信じている組織に、

これは慈善団体ではありませんが、ナッシュヴィル市にある歴史資料館とキリストの

諸教会の世界大会本部です。  The Disciples of Christ Historical Society and

World Convention of Churches of Christ  (訳者注:この組織の住所などは省略)

  これらの諸組織を活用する段取りを取決めておけば、私たち夫婦がこの地球惑星を

去った後でも、私たちが後に遺して置いた僅かなものがまだ少しは役立つというのは

意味深い事です。  私たちが遺した僅かなもので、何人かの文盲の人々に何冊かの

聖書が届けられ、餓えた幾人かの人々にたとえお茶碗一杯の暖かい食事が支給され、

新鮮な水が湧き出る深井戸が一つか二つ増えれば、アンゴラに住む寡婦が小さな商売

を始めるのに必要な資金が借りられれば、これは意味深い事だと言えるのではありま

せんか。

 

  更に亦、医学校の教授の一人が、『ほら、この遺体を遺しておいてくれた男の人は

自分自身の事を良く管理していた人に違いないよ。  この遺体を十二分に活用させて

頂いて、この人の遺志に報いようではないか、学生諸君』と言ってくだされば、私は

本当に嬉しいのです。  私たちは、私たちが生きている時に私たちの身体を神さまの

栄光のために用いるのと同じように、私たちが遺しておく遺体をとおしても神さまに

栄光を帰さなければならないと私は思うのです。

 

  さて、ここ迄に紹介してきました物質に関する事柄よりも遥かに大切な事がありま

す。  それは、肉体的死がもたらすもう一つの側面、即ち、霊的な事に関してです。

 

  そして私が好きな比喩は聖書からのものです。

そこでは、死とはディパーチャーdeparture 即ち、日本語では、出発・出立・門出・

発車の単語が表す考え方で、別の表現を使えば exodus 日本語では「出エジプト」と

訳していますが、出発・移住などとも訳せる単語が表す思想です。

 

  新約聖書ルカ伝9章31節に出てくるイエスの変貌場面で使われている単語です。

天からの使者、即ち、モーセとエリヤの二人がこの地球惑星に遣わされて、イエスの

変貌の時に語った言葉によって表されています。

  『モーセとエリヤは、イエスがエルサレムでまさにこれから成し遂げられようと

しておられる《exodon  出発・移住・旅立・外出・船出・解放》に就いて語った』と

直訳できる箇所です。

 

(訳者注:  1.聖書協会口語訳では『栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げ

ようとする《最後》のことについて話していたのである』  2.聖書協会新共同訳では

  『二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる

《最期サイゴ 》ついて話していた』    3.いのちのことば社新改訳では『栄光のうちに

現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる《ご最後》についていっしょ

に話していたのである』…と、《最後》と意訳しているように思われる。

(数字記号以下同様)

 

  新約聖書が書かれている原語ギリシャ語では、 exhodonエクソドン という単語が使われ

いる。  これは元来、旅立・移住・出発・外出・出口・解放などの意味で、日本語訳

ではこの exhodos エクソダスを「出エジプト」記と訳して使っている。

  英語のエクソダスexhodus 、ギリシャ語のエクソドス exhodosの本来の意味は、

 ex が「外」で hodosは「道」、この二つが合体して出来た一種の合成ギリシャ語で

way out 《外に出て行く》の意。  私はギリシャ語の権威者では全くないのでこれ

以上の深入りは避けるが、日本語の聖書では《最後》と敢えて訳しているのは何とも

不可解に思える)

 

  イエスがこの世人の目前で十字架の上で死なれる時に、天から遣わされた二人は、

イエスがこの世から次の世へ《出発・移住・旅立・外出・出口・解放 exhodon》され

るのを見て、そのように《出発・移住・旅立・外出・解放》と理解したのです。

 

  このように死を出発・移住・船出・旅立・外出・出口・解放として両親が捉える事

ができれば、その家族は《移住する・船出する・旅立する・外出する・出口から外に

出て行く・解放する・解放される》と両親が死を指して言う時、どのように死を考え

るようになるのでしょうか。

 

  このエクソダス exhodos、即ち、《旅立・出発・移住・外出・出口・解放》という

言葉がはっきりと含蓄している事とは、私たち自身、私たちの存在、私たちの魂とい

うものは永遠に生きて存在するものであり、この世での肉体の死というものはただ

単に《出口・脱出口》と書かれたドアーにしか過ぎないという事です。

 

    これは使徒パウロがピリピ書1章23節で語っている1.2.《この世を去って》、

3.《世を去って》や、第2テモテ書4章6節の1.2.3.《世を去る》という形象を使っ

た主旨ともなっているものです。

  もし死がただ単に「この世からの《出発・解放》」であるのならば、死というもの

は、この世に住む一般の人々が理解しているようなものでは全くあり得ないのです。

即ち、死は、人生の終わりではなく、人生の本当の始まりという事になるのです。

 

  確かに、死という事は、死ぬという事は、厳しく苦しい体験であるかも知れません

が、死そのものは、恰かもこの部屋から隣の部屋へ移動するように、唯単なる移り

変り・移動・推移・過渡期にしか過ぎないのです。  詩編9010節はそれを、1.2.3.

《飛び去る》というように謳っています。

 

  第2コリント5章8節によりますと、私たちがこの肉の身体を立ち去った瞬間に、

この世から出発・離脱した瞬間に、私たちは私たちの本来のホーム、即ち「わが家」

にキリストと共にいるのです。  同じ聖書箇所は、その事を1.《肉体から離れて》、

2.《肉体から離れる》、3.《肉体を離れて》いる状態と説明しています。

 

  もし私たちがこの肉体から離れてしまっている状態であるのなら、後に遺した肉体

がどうなるのだろうか等に就いてそんなに気を使う必要はないのではありませんか。

「わが家」に主イエス・キリストと共に永遠に住む私たちが、私たちが地上に遺して

きた遺体の傍にいる訳ではないのですから。

 

  こういう訳ですから黙示録1413節には  1.《主にあって死ぬ死人は幸いである》

2.《主に結ばれて死ぬ人は幸いである》  3.《主にあって死ぬ死者は幸いである》

と、主イエス・キリストに在ってこの世を去る者は至福であると証しているのです。

 

  死が至福であるとされる一つの理由は、この世に在る時に私たちの肉体や魂に潜む

もろもろの勢力から私たちが解放されるという、偉大な転換・移り変り・乗り換え・

推移・過渡期だからです。

 

  このような次第で、この死という事に関して、素晴らしい良い知らせ、素敵な至福

が一杯溢れているのです。  ですから、私たちが死を語る時、実は、私たちは生命を

語り、生を語り、生きる事を語っているのです。