《教会のものさし》

 

  1958年だったと思いますがロサンゼルス市南西部クレンショー地区の傍にあった

今はなき日系人ウエストサイド教会で We've gone success crazy 、我々は可視的面

・数値面だけを追求し、それが成功のしるしであるかのように錯覚する熱に冒されて

しまったのではないか?…という主旨の説教をしたことがありました。

  可視的面で数値だけをあたかも大切なものとして追求しようとする発想を抱いた者

たちが集まって構成する米国の教会はどこかおかしいのではないのだろうか…と。

 

  何ごとにおいても「成功する」ということ自体は決して悪いことではない。

問題なのは、魂に属することを超え、霊的なことが持つ価値基準を超え、不可視的な

ものを軽視・無視し、数字だけが強調され、可視的面だけがあたかもすべてであるか

のように考え始める態度ではないのか?

  資本主義社会のセールス・マン的な基準だけで物事が計算され、判断される状態が

生じる時にイェスは喜ばれないのではないのか?

 

  教会とそれに属する者たちを判断する基準・物差しというものが「成功」という

ことであるのなら、それは聖書的な基準・物差しではないということである。

これはロマ書12節冒頭の警告の聖句と相反する基準・尺度である。

 

  何故なら神さまは屡々この世の基準に照らし合わせて見ると弱者や失敗した個人を

用いられることが多い。

 

  イェスは「成功する」とうことを決して強調されたり褒められてはいなかった。

イェス自身も、この世の基準に従えば、失敗した敗北者であった。

  「成功」「成功する」ということは、この世の基準・物差しであり、物質的なこと

の尺度でしかあり得ない。

 

    「成功」という単語は、旧約聖書の申命記2章12節、21節、22節、1229節、

  19章1節、25章8、申命記25章8節、それにヨシュア記1章8節などに於いて

「世継ぎ」ということとの関係に於いて語られている場合があるが、そのほかでは、

歴代書後書1312節、2020節、イザヤ書4712節、エゼキエル1715節、そして

ダニエル書1127節などで言及されている。  しかし、これらは主として否定的に用

いられている場合が多い。  旧約聖書も新約聖書も「成功」という基準・尺度を知ら

ないのである。

 

  それよりイェスに忠実であるということだけが大切なことではないのだろうか?

こん日の基準で測るとするなら、イェスは「成功した男」だったのだろうか?

そしてまた、初代原始教会は「成功した教会」であったと言えるのだろうか?

 

  弟子たちも、記録されている限り、この世での彼らの終わり方の多くは「殉教」

という「敗北」で終わっている。  決して「成功」した人々ではなかった。

 

  むしろ「誠実さ faithfulness 忠実さ」というものが尺度ではないのか?

  コリント前書1章9節、1013節、テサロニケ前書5章24節、同後書3章3節、

テモテ後書2章13節、第1ヨハネ書1章9節、そして詩編 11990節には「成功」と

いうことではなくて「忠実であること」「誠実であること」が強調されている。

 

  イェス自身も「成功した男」ではなかったが、イェスはイェスのために神が備えら

れた道に忠実な方であった。  旧約聖書に忠実であった。  カルヴァリーの十字架の

道にも最後まで忠実であった。  ピリピ書2章8節はそれを証言している。

 

  初代原始教会も「成功した教会」では決してなかった。

コリント後書1121節~33節、テモテ前書1章12節~13節、テモテ後書2章2節など

にも「忠実である」ということがどれほど貴いものであるかを証言している。

  「終わりまで堪え忍ぶ忠実な者」(黙示録2章10節、26節)が尊ばれると黙示録は

勧めている。

 

  教会行事回数の多寡や会員数や出席率や献金額の多寡などで各個人のイェスへの

信仰とうものが測られたり、教会の善し悪しが判断されたり、牧師の善し悪しが決め

られるというような愚かさを犯してはならない。  主イェスに対する信仰というもの

は、そのような基準・尺度・物差しで測られるべきものでは決して無い。  「忠実で

ある」ということだけが聖書的な基準であることをひとときも忘れてはならない。

 

  このようなことを40数年前にロサンゼルスの日系教会でお話ししたのでした。

  けれども、日本軍による真珠湾奇襲攻撃直後に強制収容所に一方的に収容されて、

それまでのすべてを喪失した日系人にとって、解放されたあと、再び無一文から始め

なければならなかった日系人にとって、とりわけ社会的にも経済的にも極めて不安定

であった数名の40代の二世たちには全く理解されなかったようでした。  むしろ反感

を露骨に示したと記憶しています。  まぁ、無理もない話しでした。

 

  あれからほとんど半世紀が過ぎてしまいました。

  そして日本の教会も今では同じ轍を踏んでいると私は考えています。

ファッション的なタブロイド版のカラー印刷の教会新聞が出回っています。

  ソフト・クリームのようなファッション・カルチャー・キリスト教、「ハレルヤ・

アーメン・主よ!」教(狂)が流行中のようです。  迫害が襲ってきたらたちまちに

してつぶれ去るのではないかと案じます。

 

  日系ウエストサイド教会で上記のような聖書解釈を述べた頃の私は(先日新聞を

賑わせた)ペパダイン大学院で赤貧苦学留学生として基督教思想史を学んでいました

が、必須科目の一つにエルトン・ツルーブラッド(Elton Trueblood) という人の著書

を読破するという宿題がありました。  当時の世界は東西冷戦時代でしたので、読ま

なければならなかった文献が余りにも「反共=純粋な基督教だ」という発想の弁護に

終始しているように思えましたので、外国人留学生であり、東洋人でもあった私には

お粗末な発想に思えて嫌でした。

 

  しかしこの著者が別の本の中で『世界宣教という偉業の中で、宣教を最も必要と

しているところというのはアフリカでもなく、印度でもなく、共産党が支配している

中国でもなく、現在の教会である…と述べていたのだそうです。  これは真実です。

 

  これは私たち「教会に行っている者たちchurch goers」が考えなければならない

深刻な告発だと思います。  50年近くも前に『アメリカの教会こそイェス・キリスト

の福音を最も必要としているところだ』と、そのようなことを耳にしたのでした。

  しかし、このことは今や日本の教会にも、そして私たちの小さな群れにもそっくり

当てはまる鋭い指摘・警告であると思います。  いかがなものでしょうか?

 

                          《教会のものさし  2》

 

  前回号の「ベタニヤつうしん」で「教会も成功欲望熱に冒されてしまったのでは

ないのか?  We've Gone Success Crazy! と題した文章を紹介しておきました。

  ほとんど半世紀前の1957年か58年ころ、私がロサンゼルスの日系教会に仕えていた

時に述べたものでした。  当時の原稿要旨を取り出して先週号で紹介してみました。

  以下に述べることもその時の要旨を見ながら引き続き書くものです。

 

  教会にとって、そして教会を形成している私たち一人ひとりにとって、可視的面・

数値的に成功することが大切なことではなくて、イェスに対する各自の誠実さという

ものが大切なのではないのかと、前回号でそのように問いかけてみました。

  人が『俺は一生懸命に主イェスのためにやってんだ!』と主張することが必ずしも

主イェスの基準と同じではないのではないか?と、そのように問いかけました。

 

  私たちの基準・尺度・物差しというもの、教会が主張し誇る基準というものは、

必ずしも主イェスや聖書が主張する基準と同じものではないことを私たちが納得でき

ないことが多いようです。  50年前のロサンザルスの教会も、現在の日本にある教会

も本質的にほとんど何も変わっていないように私には思えますが…如何でしょう?

 

  私たち人間が、私たち教会人=church goersが考えている成功の基準とは、福音が

語るそれと同じではないということを私たち自身が理解できないでいる場合が多いと

思います。  気がついていないのは愚かな私たちです。  私たちの愚かさです。

  究極的にどうでもよいようなことに全力・全情熱を注ぎ込んで、自己満足している

ことが多いのではないのでしょうか?  詩編 127編1節の違反です。

 

  教会はいつも私たちの説く『福音が全世界を救う』などと豪語しているようです

が、それでは世界の人々が、いわゆる世俗の人々が、イスラム圏や印度や中国に住む

人々が、教会が豪語している独り言・虚叫に対して、まじめに聞き入り、信じてくれ

ているとでも私たちが本当に信じ込んでいるのでしょうか?  裸の王様です。

 

  この世に在る人々が私たちの教会を見て、私たちの教会堂を見て、そしてこのこと

は実に深刻なことなのですが、私たちが教会内で行っているいろいろな活動や行事や

企画というものは、教会とそれに属して自己満足している私たちが、実は教会を世俗

から自らゲット化しているという深刻なマイナス・イメージとマイナス・メッセージ

を世に向かって送り続けていることなのですが、それらの活動やら募金やらバザーや

会堂建築などを世俗の人々が目撃して、さらにまた世俗の人々が私たちの日常生活を

観察して、『私たちのキリスト教会が全世界を救う』などと考えてくれているとでも

言うのでしょうか?  「宗教という酒に酔う」(エペソ書5章18節)ことほど恐ろし

いものはありません。  困った事態です。  イェスさまの溜め息が聞こえませんか?

 

  世界が深刻な状態の中に在るという時に教会が教会の中で営んでいる活動行事の

ほとんどは実は大したことではないのです。  「世光地塩」マタイ伝5章13節~16

の役目を放棄して自己満足している場合がほとんどだと思います。  形式的で無意味

で感動を伴わない習慣的な宗教儀式の繰り返しにしか過ぎないことが多いのです。

世界の深刻な叫びに全く関係のないプチ・ブルの自己満足の「教会ゴッコ」です。

 

  ある人々は、1週間 168時間の内から1時間か2時間だけ世俗から「教会堂」に

やって来て、クリスチャンという宗教ガウンを着用して宗教人に変身します。

  ある人々は、いわゆる復活祭と降誕祭の時だけ、すなわち1年 365 8,760時間の

中から2回だけ教会堂にやって来て「宗教的に敬虔なクリスチャン」に変身します。

 

  ある人々は、信仰の告白のためにも信仰者の共同体に参加するという目的にも関係

のない理由で集会場にやって来ます。  気にいれば続けて来ますが気に食わなければ

自由に止めて気にいる別の教会を捜します。  善意の人々が集まる安心できてオカネ

のかからない社交場でしかないようです。  喫茶店や無料休息所でしかないのです。

気に食わなければ「ポイ捨て」ができる、どうでも良い社交場に過ぎないのです。

 

  コリント前書1120節~22節は、集会の真の目的が主の十字架の死と臨在と再臨を

覚えることにあることを理解せず、「飲み食いする社交目的で集まっていた人々」に

対して、使徒パウロが『神の教会を軽蔑する行動である』と厳しく糾弾しています。

 

  十字架の上でこの罪深い自分のために贖罪の死を遂げ給うたイェスと出会い、同じ

ように救われた体験を共有する仲間と共に主と主が愛されたこの世の人々に仕えたい

と願う真剣な祈りの時と場と状態であるという理解は全くないのです。  イェス不在

で、自分中心の「me-ism」、自己中心的発想が教会に集う者の心の中に巣くっている

のです。  イェスさまは常に当惑されていらっしゃるように私には思えます。

 

  それでは一体全体エクレシア=教会とは何のために存在しているのでしょうか?

第一に考えられることは、エクレシアとは、すなわち十字架上で自分の恐ろしい罪を

全面的に赦して下さったイェスを神の独り子として、そして主なるキリストとして、

自分の個人的な救い主として、魂の根底から揺すぶられるような体験をした、イェス

との出会いを実体験として怖れおののきながら体験した者たちが、その信仰の体験を

一緒に告白することができるような生きた交わり、活きた有機体である…とでも言え

ましょう。  畏れ多い神さまと出会う神聖で厳粛な時と場と状態だと思います。

 

  主イェス・キリストが私たちの日々の生活の中で私たちの魂を揺す振り続けていて

下さっているのだという体験を告白し続ける状態を体験している者たちが「共に活き

て居る」という状態を表す交わりの場であると、そのように言えると思うのです。

 

  神さまの一方的な恩寵によって、実に罪深いこの自分が、全く無条件で、ありの儘

の姿で、何ら勲しのないままで、受け入れられ、赦され、愛されている、生かされて

いる、他者と共に生きて仕える事ができるという希望が与えられていることを日々の

生活の中で実感している者たちが、お互いに覚えあい、励ましあい、生かされている

ことを日々感謝し讚美する状態とそのような者たちの交わりを教会というのだと私は

理解しています。  教会堂という建物の中で職業的宗教人が司る礼拝儀式に参加する

ということではない筈です。  主体的に一人が主に出会うということが大切です。

 

  使徒行伝2章を読んでみますと、聖霊が下って来てエクレシア、すなわち「呼び

集め出された者たち」=教会の上に降臨し、そして亦、そこで祈って待っていた個人

個人一人ずつにも同様に聖霊が下り、そのようにして教会が誕生したのだということ

が良くわかります。  群れ全体と同時に各自一人一人が聖霊に満たされたのです。

 

  聖霊に満たされた者たちが、全体としても、また、個人個人としても、主イェス・

キリストを通して神に全面的な信頼を寄せたのでした。  どうして自分の責任と特権

を忘れ放棄して、一握りの職業的宗教人の手にエクレシアを委ねるなどということが

出来るのでしょうか?  各自が聖霊に満たされて神を信じ神を讚美していたのです。

 

  エクレシアとは、群れ全体としても、それを構成する自分たち一人一人が、霊的

な有機体であると、ペンテコステの時に、教会自身が深く自覚したのでした。

 

  他人任せではなく、『この自分が救われたのである』ということを強く自覚して、

「この自分がエクレシアなのである」と確信していたのです。  「他人任せ」という

ことはあり得なかったのです。  「自分と主イェス」の確立が徹底していたのです。

 

  今の私たちはどうなのでしょうか?  他人の所為セイにしているのです。  「己」

が存在していないのです。  自分の特権と責任を果たす意欲も必要も感じていないの

です。  他人任せの烏合の衆が阿波踊をやっているようなものではありませんか?

 

  ペンテコステ(pente =ギリシャ語で「5」、例=ペンタックスやペンタゴン、

すなわち五旬節、ユダヤ教の三大祭りの一つで五十日目に祝われたことに由来する)

の日に興った、イェスを主とし、神の子とし、己の罪を赦して下さる個人的な救い主

として信じて受け入れた者たちエクレシアが、『この私の大罪が赦されたのだ!』と

いう確信に満ち溢れていた交わりであったのです。  それ以外のことがら、すなわち

この世に属する事柄に対しては、全く関心がなかったのです。  驚くべきことです。

 

  教会堂建設だの、そのための募金だの、教会堂の内装なの、教会堂の中で営まれる

宗教儀式だの、形式的宗教儀式を司る職業的宗教人だの、いろいろなプログラムだの

企画だの、回数だの、集会参加者数だの、献金高だの、月定献金だのと…そのような

ことを初代原始教会は全く知らないのです。  「牧師さんの給料どうしよう?」など

を初代原始教会は知らないのです。  新約聖書にそのようなことを案じろなどと書い

てはいないのです。  喜びに満たされていた者どうしが助け合っていただけです。

 

  むしろ強く自覚していたことは、『この私の罪がイェス・キリストによって完全に

赦されたのだ!』という喜びの確信と、そのことへの讚美だけだったのです。

  お互いがお互いに対して神さまが与え託して下さっていたもの、持っている物質的

な財産所有物を共有してでも助け合い励ましあって喜びの生活をしていたのです。

  そこには『私の罪が赦されたのだ!』という確信に満ち溢れていたからでした。

 

  そしてペンテコステの日に生まれた初代原始教会は、可視的面での教会制度とか

活動にほとんど関心を抱かず、価値を見いだしていなかったということでしょう。

 

  初代原始教会が関心を抱いていたことというのは、主の十字架の出来事を覚えつつ

同じ主が再び来たり給うことに希望を抱き、主の死と再臨をパン裂き(いわゆる聖餐

・主の食卓)という形でたえず覚え、同じように救われた者たちが一緒に主イェスを

礼拝することと、主イェスの十字架の出来事の意味を使徒たちから学び、そのことを

大切なこととして守ることと、乏しい仲間の聖徒たちのために alms 今でいうならば

義援金を取り集めることなどしかなかったということです。

 

  こん日の私たちの時代の教会が「大切なこと」として心を砕いて果たすべき目標と

していることとは全く違ったことばかりです。  これは実に驚くべきことです。

  ベタニヤの寒村でイェスは『無くてならぬもの多からじ。  ただ一つのみ』と断言

されたとルカ伝1042節は語ります。  私たちにはマルタが多過ぎるのでしょう。

 

  偶像とは私たちが「良かれと思って」作り上げた虚像にしか過ぎません。

宗教という恐ろしい酒が私たちを酔わせて、神さまでないこの世のものを、神さまが

決して意図されていないこの世の基準を、あたかも神さまのもの、神さまの御自身に

属するもののように錯覚して、そのような空しいものを無意識の内に神さまのものと

摩り替えてしまってこれを拝むということだと思うのです。  「教会ゴッコ」という

ものは実に恐ろしいことです。  主の名に於いてやり遂げようとするのですから…

 

  1週間 168時間は神さまを忘れ、罪ある自分が十字架で贖われた者であることを

忘れて、日曜朝になると大慌てで聖書を捜し出して集会場に赴き、そこで2時間ほど

を過ごすに行くという姿勢を各自が吟味する必要があると思います。

 

  自らが努力をして自らが聖書から学ぶという姿勢を確立する姿勢が大切ではない

のかと、各自が自分に問い合わせる必要があるのではないのでしょか?

  日々の生活の中で十字架の贖罪の出来事を覚えて感謝する姿勢を取り戻す必要が

あるのではありませんか?  教会の牧師や教会に行っている誰々さんに頼る…という

自己不在の似非信仰姿勢を改める必要があるのではないでしょうか?

 

  各自が自分でできることを工夫してそれを日曜朝に提供することが必要ではない

のでしょうか?  自分が好きな讚美の歌を選び、自分の生活の場で過ぎた一週間の間

に示し教えられた聖句を共に分かち合うということが必要なのではありませんか?

 

  各自が自分に与えられた特権と、託された責任を果たすようにする工夫が必要なの

ではありませんか?  主イェスに対して、他の聖徒たちに対して、自分に対しても、

誠実に一週間の総括をする、総括できるような姿勢で、罪赦された者としての歓喜を

胸に抱いて公同礼拝に集う心構えが必要なのではないのでしょうか?

 

  仕えるということに喜びを見いだしている自分を主の前で感謝できるような集会に

したいと願っているのでしょうか?  そのような霊的なことこそが「成功している」

エクレシアということではないのでしょうか?  主に対して各自が誠実でありたいも

のですね。  他人頼みやこの世の基準に妥協するような名前だけの信仰者、以非エセ

クリスチャン、日曜朝だけの自称クリスチャンをもうそろそろ止めにしませんか?

  この際まじめに「教会のものさし」を見直してみたいと思うのですが…

 

                                             

 

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