教会成功病に取り憑かれた?

 

                    八ヶ嶽南麓  200010月1日  野村基之

 

 

  ロサンゼルスのウエストサイド教会に奉仕していた時 We've gone sucess crazy.

という題で一世の方々にお話しをした事があります。  『我々はみんな成功病に取り

憑かれてしまった』とでも訳したら良いのでしょうか、40幾年も前の事になります。

 

  先日その時のメモを出して読んでみました。  主の教会の全部がとは言いませんが

資本主義世界にある教会の多くが同じ病魔に現在でも冒され続けているという点では

ちっとも変わっていません。

 

  1.  今の世の中は成功する事、統計や数字で物事を計る時代である。

  2.  a.成功するという事、その事自体はちっとも悪くない。

      b.目に見えない世界の価値を無視・軽視して、可視的面、統計的面のみを強調

        しようとする態度にこそ問題がある。

      c.セールスマン的発想と基準だけで物事の成功・不成功を決めるのを神さまは

        必ずしも喜ばれないだろう。

      d.神さまは、人間的視点から見れば完全に失敗・不成功と見える事柄を通して

        でも神さまの御旨をば遂行なさる事がある。

      e.主イエスも、教会の可視的面での成長というよりも霊的成長面で主に我々が

        如何にに忠実であるのかを御覧になるであろう事。  何故なら成功は物質面

        を扱う言葉であり、忠実さとは霊的内面を表現する言葉であるから。

      f.成功とあう言葉は、例えば申命記25章6節を英語欽定版で読むとわかるが、

        日本語でも「継ぐ」という形で出て来ている。  また、イザヤ4712節、

        エゼキエル1715節、ダニエル8章24節と1127節、歴代誌後書1312節と

        2020節に出て来る。  新約聖書には「成功」という言葉はないと思う。

        即ち、新約聖書は「成功する」とか「成功しない」という単語を重要視して

        いないようである。

      g.新約聖書には、然しながら、忠実とか誠実という単語が出て来る。

        コリント前書1章9節、1013節、テサロニケ前書5章24節、同3章3節、

        テモテ後書2章13節、第1ヨハネ1章9節、それに詩編 11990節。

  3.  主イエス・キリストは「成功者」だったのだろうか?

      a.この世の基準では「No」 だが、b.神さまに対しては「忠実」な方であった。

        例えば、ルカ伝9章51節で、イエスは御自分に与えられた責務に忠実であり

        聖書に対して忠実であり、カルヴァリの十字架に対してもそうであった。

        それに反し弟子たちは十字架と復活の出来事の後に到ってすら地上的な王国

        の夢幻を追っかけていた事を使徒行伝1章6節以下で読む事が出来る。

  4.  初代教会は「成功した」ものだったのだろうか?  答は同じく「No」だった。

        コリント後書1121節〜33節、テモテ前書1章12節、テモテ後書2章2節

  5.  主イエス・キリストの判断基準は、「成功」とか「成功する」ではなく、忠実

        である事、誠実である事だと信じる。  それが聖書的基準である。

 

 

  このような事を43年ほど前にロサンゼルスの日系人教会でお話しした事がありまし

た。  今一見しただけでは宣教忘却地帯・宣教不毛地帯とも見えるこの八ヶ嶽南麓、

基督教に必ずしも友好的ではない部落に入植して16年目に到り、ロサンゼルスで一世

の先輩基督者たちと共に学んだ事が決して誤りではなかったと考えています。

 

  16年かかって僅か4名のバプテスマだって?』とか『16年もたってたったの10

前後のクリスチャンしか集まらないんだって?』『あの人は何やってたんだ?』など

と秘かに心の中で問う人が必ず出て来る筈だと私は思っています。  アメリカの教会

の多くの人々は、このような疑問を抱くような誘惑の中で生きていると思います。

 

  それは目に見える「成功」を大切な事と考えている社会に住んでいるからです。

そういう人には、外面的に、数字的に、統計的に「成長」というものが全く見えなく

ても、多くの困難や一種の社会的迫害の中で、それでも主イエス・キリストの弟子と

して生きようと日夜努力をしている聖徒たちの内的な強さや成長を見抜く事が出来な

からです。

 

  アメリカでは考えられないような厳しい社会的・経済的・文化的な困難さや間接的

な迫害の中に在って、日本で、しかも寒村僻地で、踏まれても蹴られても、とにかく

主イエス・キリストを信じて生きようとする魂は、主の恩寵の中に、日々の困難さの

中で、主から沢山の祝福を受けているのです。  そこには内的な成長があるのです。

逆境の中に在るからこそ主イエス・キリストに忠実・誠実で在り得るのです。

これは恩寵です。  パチンコ球を一つだけ穴に入れて百個の球、千個の球を期待する

ような御利益宗教としての「ア〜メン・ソ〜メン」をやっているのではないのです。

成功とはそのような尺度で計るもの、計れるものではないと考えています。

 

  そこでもう一度ご一緒に僻地での「教会の成長」という事を考えてみましょう。

  神さまの御国の成長する事を願うのは決して悪い事でも罪でも驕慢でもないと思い

ます。  またそう願って、私たちがその為に祈ったり働いたりする事も、決して僣越

な事でもないと思います。(まぁ厳密に言えば、神さまのお仕事に私たちが手を貸す

なんて言う発想自体が極めて僣越で驕慢な事で神さまに対して大変に失礼なのすが)

 

  それですからその事を願う時には聖書の原則に添ったものでなければなりません。

そうでないと、私たちは兎角この世の基準を無意識に神さまの霊的な教会の中にまで

  導入する愚かな過ちを冒してしまうかも知れません。  ロマ書12章1節〜2節、

コロサイ書3章1節〜3節〜5節が霊的な教会の実質的内容を示しています。

 

  エペソ書2章21節、4章14節〜15節、ペテロ前書2章2節、ペテロ後書3章18節等

を読んでみますと私たち基督者が個人的にもエクレシア全体としても霊的に成長する

ように勧めています。  但し、一つひとつの教会が、群が、エクレシヤが、集会が、

統計的に、数の上で増加するようにと聖書は勧めていない点に留意したいものです。

 

  イザヤ書61章3節やヨハネ伝15章8節は、霊的な成長は神さまの栄光であると教え

ています。  そしてそのような成長の源とは神さま御自身であるとコリント前書3章

6節〜7節は明かしています。  そして更にそのような成長の方法とは、キリストと

  の一致、主イエス・キリストと一つとなる事であると、ヨハネ伝15章1節6節や

エペソ書4章16節やイザヤ書6111節は説明しているのです。

              ヨウィド

  韓国ソウルの汝矣島に自称「純福音教会」というのがあります。  主の福音には

不純なのと純なのがあるのでしょうか?  自分だけが「純」だなんて、自分だけが

福音の純な部分だけを一方的に独占しているなどと妄想に捉えられている群にイエス

さまも苦笑されている事でしょう。  何万人もの人が宗教儀式に酔っ払っている様は

異常だと思っています。  何万人もの人が集まれば「成功教会」なのでしょうか?

 

  代々木八幡教会を乗っ取ったボストン運動者が主催する宗教儀式には数百人の若者

が集まっているそうです。  それが「成功教会」なのでしょうか?  実に異常です。

 

  また、深い考えもなく、或は一種のコンプレックスに苛まれている一部の日本教会

(都会教会)では、韓国人やアメリカ人を呼び寄せて、教会によっては大学生に来て

貰って、福音の土着化を真剣に考える事もなく、外国の異文化と混じり合った福音を

用いて、やれ伝道だ、やれ宣教だ、やれ教会成長だと、お祭り騒ぎをしています。

  外国の文化や宗教習慣と主イエス・キリストの福音が混ざったままで、二者の分離

を考える事もなく、従って福音の土着化には程遠い雰囲気と結果を招いています。

 

  『福音を伝えてやっているんだ』という無意識の驕慢さを来日する若い大学生たち

の間に育て、日本文化を学ぶ事もなく、日本という文化や慣習の中で日本教会がどの

ように努力しているかを学ぶ事もなく、来日者には優越感を、日本人側には劣等感を

育てているようです。  お祭り騒ぎを主催する教会指導者がこれらに鈍感な事です。

 

  更に悪い結果は、「日本人側が常に客席側に坐って祝福を受けるだけ」という傾向

を増長し、「分かち合う」とか「与える」という福音の大切な要素を少しも養って

いないという事です。  刺激された日本人青年が全世界にもアジアにも「出て行く」

事もないのです。  数は増えても全人格的信仰は育っていないようで残念です。

 

  この点で少し脱線しますが、或る外国人宣教師を忘れる事が出来ません。

  テキサスから来日直後、超高額サポートを得ていた独身貴族の彼は、青山だったか

麻布だったかの豪華な高級マンションに最初は住んでいました。

  或る時、全国から牧師さんたちが大勢集まって聖書を一緒に学ぶ折がありました。

余りにも日本人の牧師さんたちと物質的に恵まれて掛け離れた生活をしていましたの

で、その宣教師は多くの日本人牧師たちとの交流もなく孤絶しているようでした。

そこで仲間の日本人牧師たち数名が、交わりの為に、宣教師に朝の奨励を依頼しまし

た。  そして当日の朝が来ました。  彼がどのようなメッセージを取り次ぐのだろう

かと30人前後の日本人牧師らは関心を抱いて彼が担当する集まりに出席しました。

 

  恰幅の良い宣教師は、片手をズボンのポケットに入れたままの姿勢で声高に日本人

牧師たちを糾弾し始めました。  『あなたがた日本の伝道者たちは怠けていて福音を

語っていません。  だからあなたがたは主から祝されていないのです。  あなたがた

は生活の為だと言ってアルバイトに多くの時間を割き過ぎています。  だから主は

あなたがたを祝さないのです。  だから日本の教会は成長しないのです!』

 

  『あなたがたが御言葉を語り(preach the Word) 、語り、語り、語り、語れば、

主はあなたがたを祝し(bless you) 、祝し、祝し、祝し、祝すでしょう』

    『あなたがたが御言葉を語り、語り、語り、語れば、主はあなたがたを祝し、

  祝し、祝し、祝すでしょう If yu preach, preach, preach, preach the Word,

then the Lord will bless, bless, bless, and bless you!』と説いたのです。

  そして、段々と『御言葉を説く』ことと『主が祝すでしょう』の回数を減らして、

最後にこう言って彼のメッセージを閉じたのです。

 

  『あなたがたが御言葉を語れば主はあなたがたを祝すでしょう。  だけれども、

あなたがたの問題は、あなたがたが御言葉を語らず、アルバイトに時間とエネルギー

を浪費してしまっているので、主もあなたがたを祝さないのです!』

 

  これは、パチンコ式宗教だと私は直感しました。  英語の because of 宗教です。

『〜だから〜』という条件付きの宗教です。  私たち日本人伝道者の殆どは、実に

乏しい中から、それでも福音宣教の業に感謝の念を持って参加させて頂いているので

す。  厳しい現実にも拘らず(in spite of) 忠実に恩寵に応え、御言葉と教会に誠実

に仕えようとしているのです。  そこでは可視的統計上の数は問題ではないのです。

 

  このような御利益宗教を主イエス・キリストの福音と混合するのは困った事です。

このような御利益宗教を、主イエス・キリストの恩寵に応答しようと、反キリスト教

の土壌の中にもかかわらず、主イエス・キリストと信じてその福音を伝えようと努力

をする信仰と、ごっちゃ混ぜにして貰っては困るのです。  迷惑千万な話しです。

 

  さて、話しを元に戻しましょう。

  群の、集会の、エクレシヤの、教会の「成功」とか「成長」とは統計上の数が大き

いとか多いなどではなくて、むしろその群が主イエス・キリストへどれだけ忠実なの

か、どれほどに誠実であのかで計られるべきだと思うのです。数で計るというのが基

準・物差しなら、それではローマ帝国の迫害時代の初代キリスト教会の殆ど総ては家

庭集会や、樹木の下や、岩窟で集まっていたのですから、出席者の数は少なかったの

で、全部が「成長していなかった教会」「成功していなかった群」という事になって

しまいます。

  こん日の大都会で、日曜日の朝の一時間前後の集会の為に、何百・何千坪の土地を

確保し、数拾台の車が停れる駐車場を確保し、百人から数百人の参列者を収容出来る

建物を建て、更にそれを維持管理補修してゆくなど、到底不可能な事は明白です。

  それをやる群、それを出来る集会が「成長し成功した教会」だなんて言う論理が、

仮にもまかり通るなら、それを出来ない群は、同じ論理で行けば、「駄目な教会」と

いう事になってしまいますし、「家の教会」などは「駄目の駄目の群」となります。

 

  使徒行伝1212節、コロサイ書4章15節、ピレモン書1節〜2節を、それではどう

読めば良いのでしょうか?  家の教会に関する記録です。  使徒行伝1212節の集会

には「大勢の人々が集まって祈っていた」とありますが、コロサイ書やピレモン書は

そこに集まっている人々の数字を一切書いていません。  それではそれらの家庭集会

は「失敗した駄目の中の駄目な劣等生教会」だったのでしょうか?

 

  使徒行伝2章47節、5章14節、 1124節を読んでみますと、大都会で集まっていた

ある特定のエクレシアが神さまに祝されて、そこに大勢の人々が集まっていた集会で

あった事がわかります。  大都会にいろいろな人が集まるのは昔も今も同じです。

 

  然し、また同時に、神さまは、その御旨に従って、群を拡散された事をも聖書から

学べます。  使徒行伝8章1節以下の数節には迫害に遭遇した群を描写しています。

そして、迫害の結果として、福音が周辺に撒かれた事を私たちは学びます。

  マタイ伝6章33節に命じられているように、私たちは先ず神の国と神の義を求めな

ければならないのです。  後の事は御旨に従って時間をかけて徐々に示されます。

 

  次に考えて見たいことがあります。  私たちは「教会成長」を、それでは一体全体

どんな基準で、どのような物差しで決めるのでしょうか?  一つの教会からもう一つ

の教会に地上的な「籍」を移せば良いのでしょうか?  隣の教会の羊(=信者さん)

を盗んで来て自分の教会に「入籍」させれば良いのでしょうか?  クリスチャンでは

ないという人を「改宗」させればそれで「教会が成長した」と言えるのでしょうか?

 

  標高が高いベタニヤ・ホームの周辺では、或る特定の樹木以外に、良い樹木が余り

育ちません。  海抜1050メートルだからとか、冬が寒過ぎるからなどが理由ではない

のです。  八ケ岳の噴火爆発で流れ下った溶岩流が残した無数の岩石が地表を覆って

いますから、樹木がその根を深く地中に下ろす事が仲々に出来ないからです。

  エレミヤ書18章8節には、水の傍に根を張る樹木は夏の旱魃の時にも枯れず、暑さ

を知らず、いつ迄も実を結ぶ…と記されています。  エクレシヤの成長も同じです。

  ガラテヤ書5章22節〜23節には御霊の結ぶ実という表現があります。  主イエス・

キリストにあって成長する者に御霊がもたらして下さるものです。

 

  私たちのエクレシヤにおいてはどのような事が大切なメッセージとされ、語られ、

説かれているのでしょうか?  集会に集まる私たちの最大関心事とは何でしょうか?

  証や奨励や説教をする者たちが何を一番重要なものとしているのでしょうか?

主イエス・キリストとその十字架が証や奨励や説教の中心点でしょうか?

  それとも何か道徳的なもの、倫理的なもの、精神的なものなのでしょうか?  或は

ラッキョウか玉葱のようなものでしょうか?  ラッキョウも玉葱も、幾ら剥いても

剥いても皮ばかりで中心核がないのです。  そのような道徳訓話なのでしょうか?

 

  主イエス・キリストを語り、証し、主イエス・キリストが私たちの内に内在されて

いる事を私たちの生きざまを通して示しているのでしょうか?  主イエス・キリスト

を語り主イエス・キリストを生きるという事が私たちの最大関心事なのでしょうか?

  それとも、そのような事は、エクレシアがカネを払って雇っている職業的宗教人や

位階制度にあぐらをかく牧師にやらせておけば良い事なのでしょうか?

 

  それとも自分が日曜日の公同礼拝を守っている集会で、讚美を通し、祈りを通し、

語られる聖書の言葉を聴き、主の聖晩餐に与る事を通し、そこに集まる聖徒どうしで

祝され、慰められ、励まされ、エネルギーを得て、充電され、蓄電されているという

のでしょうか?    集会に集まる者たち一同が、そこに神さまの御臨在を覚えて畏れ

おののきながらも喜びに満たされているというのでしょうか?  上述のガラテヤ書の

御霊の実が集会に集まっている人々の中に溢れているのを、出席している者たち自身

が感じていると言えるのでしょうか?  愛と平和と赦しを感じる事ができますか?

 

  そこに集まる者たちは、生活の場でも、職場でも、学校でも、主イエス・キリスト

の恩寵を示しているのでしょうか?  自分が出席している集会、エクレシヤの出席者

の数などにかかわらず、集会の席で主イエス・キリストの恩寵と平安が、そこに居る

者たちがお互いに感じ合って主に感謝を捧げ、主に栄光を帰しているのでしょうか?

主の誠実さに対して、そこに集まる者たちも、主に対して忠実な弟子たちでいるので

しょうか?

    テトス書2章13節に明白に書かれているように、主イエス・キリストの再臨を

「祝福に満ちた希望」として集会に集まる者たちが待望しているのでしょうか?

いつ主のお召しがあっても、用意が出来ている者たちの集まり、群なのでしょうか?

「教会の成長」、改めて皆さんと御一緒に考えて見る必要があります。  如何です?