《ある讚美歌史   Some day the silver code will break

                          =讚美歌 518、聖歌 640

 

 

  讚美歌 518番と聖歌 640番は8千編から9千編の、特に神を讚美する作詞や作曲

を遺して帰天したファニー・ジェーン・クロスビー Fanny Jane Crosby 18201915

の名曲の一つ、Some day the silver code will break の邦語訳です。

  一部にはフランシス・クロスビー Frances Jane Crosby  とも綴られていますし、

フランシス・J・クロスビー・ヴァン・アルスタイン F.J. Crosby Van Alstyne 

盲人オルガニストだった夫の姓をつけたものもあります。  愛称はファニー。

 

  少し詳しくなり過ぎるかも知れませんが、邦訳された以下の讚美歌は彼女の作品

が如何に私たちの信仰生活に深くかかわっているかを示すものです。

 

  まず聖歌から列挙してみましょう。

 

            232 (罪とがをゆるされ)、396 (十字架のかげに)、

        404 (イェスはなれを呼びたもう)、407 (見よわれは立ちて)、

          419 (あなたの持てる悩みは)、  434 (来たれ、たれも)、

              435 (罪はひのごと)、444 (我に聞かしめよ)、

        468 (歌えどつきせぬ主のほまれ)、479 (聖なるわれらの主)、

          484 (たたえよ救い主イェスを)、495 (イェスのみ腕に)、

              505 (この世の旅路に)、506 (岩なるイェス)、

            526 (罪に沈むなが友に)、540 (主よ、わが傍をば)、

              590 (救い主イェスと)、591 (怖れなく近よれ)、

    599 (イェスよ、わが身を)、610 (ああイェスきみ、こよなき友よ)、

          616 (カルヴァリ山より)、640 (いつかは「さらば」)と、

          646 (わざをなし終えて)、728 (いつ主は来たりたもうや)

 

  次に讚美歌から見てみましょう。

 

      210 (きよきところをつくれよと)と 492(神のめぐみはいと高し)

                  以上二曲はクロスビーが作曲したものです。

 

        489 (きよき岸辺にやがて着きて)、493 (罪の淵に陥りて)、

          495 (イェスよ、この身を)、498 (あぁ、み霊よ下りて)、

              517 (我に来よと主は今)、518 (いのちの絆の)、

            524 (イェス君、イェス君)、529 (ああ嬉しわが身も)

                    以上はクロスビーの作詞したものです。

 

  興味深いことは、讚美歌編集者たちの志向なのでしょうか、思考なのでしょうか、

讚美歌の場合、彼女の歌のほとんどは「天国」と「雑」の部に納められています。

 

  讚美歌第二編では 194番に(おおみ神をほめまつれ)で紹介されています。

  讚美歌21に彼女の作品の掲載はありません。  韓国の讚頌歌には多いです。

 

  ここで種明かしをしておきます。  欧米讚美歌の中でも特に英米讚美歌の解説書

は数多く出版されています。  私はまだ十数冊だけしか所有していませんが、それら

の解説書のいずれもクロスビーのことをいろいろな角度から紹介しています。

 

  今回のクロスビー夫人のことは、その中でも特にミシガン州グランド・ラッピズに

本社があるクリスチャン音楽やディヴォーショナル関係の参考書を専門に取り扱って

いるクレーゲル出版社の数種類の讚美歌物語の中の一冊で、ケネス・オスベック著の

101 More Hymn Stories 」がいちばん詳しく紹介していますので、これを資料源と

しました。  Kenneth W. Osbeck / Kregel Publications, Grand Rapids, MI, USA

  もちろん、ほかの資料源も用いていますし、私自身の調査資料も加えています。

 

  クロスビーは1820年(文政3年、伊能忠敬の大日本沿海輿地全図完成は翌21年)

3月24日にニュー・ヨーク州サウス・イーストで生まれ、1919年(大正8年、野毛山

教会設立宣教師ローズ夫妻来日の年)2月12日にコネチカット州ブリッジポートから

九十五歳で帰天しています。

 

  なお、蛇足ですが、上記「サウス・イースト」という地名を、所有しています詳細

な地図数冊で何回も調べてみましたが、そのような地名を見いだせませんでした。

ニュー・ヨーク市内「南東部」という意味であろうかと、ほとんどそのように思って

います。  ミュージカルに「ウエスト・サイド物語」というのもありましたし…

 

  生後一ヶ月半にして、何らかの不適切な「医療的ミス」があったようで、視力の

ほとんどを喪失してしまいました。  何となくぼんやりと明るいものを感じることが

できる、何となく昼と夜が識別できるていどの視力だけが残っていたようです。

  しかし彼女は「視力を失った者であっても、そうでない人と同じように物事を完成

することができる」と確信していたようで、視力を失ったことを不利な条件とか障害

だとは決して考えていなかったのです。  背後に偉大な母の存在を感じます。

 

  視力を失っていない私たちにとって、彼女にそのように言われてみれば、私たちの

方が見なくてもよいこと、知らなくて済むのであれば知らなくても良いような、最近

の世界や国内で繰り返されている残酷で痛ましい出来事を見過ぎたり、知り過ぎて、

神さまのすばらしい世界を心の目で見ることが全くできなくなっているのだと思いま

す。  その点で、クロスビーのほうが確かに祝された聖徒であったのでしょう。

 

  幼児期を過ぎ幼少年期に入ると、彼女は「リスのように木登りもやったし、裸馬

にまたがって走ることもできた」と書き残しています。

 

  そのように私たちから見れば、ハンディキャップを負いながらも肉体的に活発な子

であったというようなことではなく、大切なことは視力を失ったがゆえに彼女は聖書

を丸暗記できたということでしょう。

  モーセの五書、ルツ記、詩編、箴言、ソロモンの雅歌、四福音書…などは特に得意

だったようです。  「旧新約聖書のすべてが私の魂と人生を豊かに養ってくれた」と

死の床で語ったそうです。

 

  このことを私個人として更に考えてみますに、彼女の両親、特にお母さんのことを

知るすべが現在の私には全くありませんが、ヘレン・ケラーの場合とおなじように、

彼女の母親のなみなみならぬ隠された信望愛の祈りが常にあったものと推測できて、

深く感動させられます。  信仰深く、愛と忍耐に強く、賢い母親という点です…

 

  青少年時代に入って、十二年間をニュー・ヨークの盲人学院に学びました。

卒業後の1847年から1858年を教師として同校で働き、言語と歴史を担当しています。

 

  彼女は身長百五十センチ弱、体重四十五粁弱だったと言われています。  こん日の

日本女性の中でも痩せた小柄な人のサイズと同じではなかったのかと思います。

  また、記録によりますと、決して「見目麗しい女性」ではなく、むしろその反対の

婦人であり、外見的・身体的には「決して魅力ある女性」ではなかったそうです。

  長い顔つきで、いわゆる「出っ歯」で、しかも二つの突き出た歯が漢字の八の字の

ように左右に分かれて伸び、二つの歯の間隔が開いていた…というような記録が残っ

ています。  また、肩までかかる多過ぎるほどの頭髪を無造作に二つに別けてうしろ

に束ねていたとのことです。  濃い色の長方形の眼鏡をかけていました。

 

  しかし、彼女は美しいソプラノの声の持ち主でした。  そしてカリスマ的な人物で

あったようで、彼女が顔を上にむけて語り始めると人々は魅せられたそうです。

  ギターやハープやピアノとオルガンを上手に操ることができ、クラッシック音楽の

造詣も深かったようです。  彼女自身が作詞したものに曲をつけることもあったよう

ですが公表することをほとんど好まなかったようです。  どうしてなのかその理由の

詳しいことはよくわかりませんが、「私が作曲したものを普通の人が歌おうとしても

複雑すぎてむつかしいだろう」と考えていたようです。

 

  同じ学校で働いていた盲人音楽教師のアレキサンダー・ヴァン・アルスタインと

いう人物(Alexander Van Alstyne )と1858年に結婚しています。

  夫君となったこの人は、ニュー・ヨーク市周辺でオルガニストとして知られていた

人だったということ以外に、今もって全く何もわかっていないようです。

 

  また、翌年には二人の間に嬰児が与えられたことと、その幼児が幼くして死亡した

とのことです。  クロスビーは、その生涯においてヴァン・アルスタインとの結婚の

ことと、幼くして死亡した子供のことをほとんど誰にもいっさい語らなかったようで

す。  そのようなわけで、その子供がお嬢ちゃんであったのか、坊ちゃんであったの

かすらも不明のままです。

 

  これらのことを考えてみますと、結婚生活・家庭生活は、おそらく寂しいものでは

なかったのか、恵まれていなかったのではないかと、そのように私は推測します。

  また、目が見えなかったということ以外に、誰にも打ち明けたくなかったそれらの

体験が彼女の心をイェスに向け、イェスにより頼む信仰を深め、讚美の詩を生む動機

となって行ったのではないかと、そのように私は個人的に想像しています。

 

  子供のころから敬虔な信仰を抱いていた、きわめて宗教的な婦人でしたけれども

1850年(嘉永3年)1120日にメソジスト教会が主催したリヴァイヴァル集会席上で

「劇的な宗教体験 dramatic conversion experience を味わった」そうです。

  すでにイェスに対する信仰を抱いていた者が「改宗経験・改心経験を得た」と直訳

することに少なからず抵抗がありますので、「宗教体験を味わった」と、このように

書いておきます。

 

  「私の魂は天上の光りで満ち溢れた。  主は私の人生に星を置いてくださった。

それ以降、黒雲がその光を曇らせたことは一度たりともなかった」とその時の経験を

あとになってから語っていたそうです。

 

  「その時になって初めて気がついたこととは、それまでの生きかたは、いつもこの

世界を自分の片手の中に納めてやろうと心がけて来ていたし、そしてもう一方の手で

主イェスの手を握ろうとしていたのだった」と告白していたのだそうです。

  「だれも二人の主人に兼ね仕えることはできない…  神と富とに兼ね仕えることは

できない」というマタイ伝6章24節の聖句が彼女の心を照らしたのではないのかと、

私はそのように勝手に想像してみるのですが…  いかがでしょうか?

 

  別の讚美歌史の解説書によりますと、冒頭ですでに述べましたが、クロスビーは

その生涯において八千から九千の詩を書いたともいわれています。  もちろん作曲も

していますし、日本語讚美歌 210番と 492番がそれに当たると述べておきました。

 

  若い時には世俗の歌もたくさん書いたそうですが、1865年に到って、すなわち彼女

が四拾五歳になった時から讚美の詩を書き始めたのだそうです。

  これにはウイリアム・ブラッドバリー William Batchelder Bradburyという、当時

たくさんの讚美の詩を書いていた人物の勧めと励ましがあったようです。

 

  この人の作った讚美歌は、たとえば日本の讚美歌では、51 133168199271280

294310354434461476477507 番です。

  それらの中でも、たとえば133 番の(夜はふけわたりぬゲッセマネの園に)、

      168 (イェス君の御名にまさる名は無し)、199 (我が君イェスよ)、

271 (いさおなき我を)、280 (我が身の望みは)、294 番の(み恵み豊けき)、

  310 (静けき祈りの)、354 (飼い主わが主よ)などはよく知られています。

  特に461 番(主われを愛す)は、世界中で老若男女を問わず一番よく歌われている

歌でしょう。  476 (ややに移りし)や 507(深き御旨を悟り得せず)なども日本の

教会の多くが愛唱する讚美歌だろうと思います。

 

  聖歌の方では、164219236254262272332363418469479552651655685

724 とあります。  ここでは省略しますが上記番号でお調べください。

 

  この多作者ブラッドバリーの進言を受け入れたファニー・クロスビーは、それ以降

もっぱら讚美の詩を書くことが自分の使命であると深く自覚したようです。

 

  良き母を得たのちに、成人して善き友、優れた師を得るということが神さまの栄光

のためにどれだけ幸いなことであるかを、一見してハンディキャップを負っていると

思われていたクロスビーを一例にとってみても、充分にわかることです。

 

  主イェスを讚美する詩を作詞することに使命感を覚えただけではなく、ホーム・

ミッション(地元伝道)にも使命感を覚え始めたようです。

ニュー・ヨーク市内のいわゆるバワリー通り the Bowery で伝道活動に従事したので

す。

 

  私の足りない知識ですが、もともとこの地域は、オランダ人農民移民たちが働いて

いた地域から発展した地区で、安ホテルや安呑屋や安食堂が集中するようになった所

です。  別の言葉で言えば、スキッドロー skid row とも呼ばれていたドヤ街のこと

で、いわゆるホームレスの人たちがたむろする場所のことです。

  現在のニュー・ヨークはその昔ニュー・アムステルダムと呼ばれており、オランダ

の植民地であったのです。  オランダ貧困移民たちの農場がそこにあったのです。

 

  いわゆる落後者部落に住む男たちを、ほかの言葉で言えば貧民窟の住民を、彼女は

マイ・ボーイズと愛情をもって呼んでいたそうです。  ここで働けるのは世界で一番

すばらしいことだと誇っていたそうです。  人々が求めているのは愛だ…愛だけだ…

とも語っていたとのことです。

  私もかつて1970年代前半にソウルで最大の、韓国最悪の清渓川(チョンゲチョン)

スラムで、品川バプテスト教会「僕仕」日隈光男さんご夫妻の絶大な後方支援を得て

何年か仕えたことがありますので、何となく雰囲気がわかるような気がします。

(普通は牧師と書くのでしょうが、ご夫妻はとりわけ無名の弱者たちに対して徹底的

に仕えるということで神に仕えておられる謙虚で優れた福音伝道者でいらっしゃるの

で、私はあえて「僕仕」ボクシと意図的に書いたしだいです。  大切な余談です。)

 

  そのほかにも、「ファニー Fanny」と愛称で呼ばれていた彼女は、彼女の讚美歌

を使ってなされた個人伝道によって人々が主イェスのもとにやって来たという報告を

聞くのを楽しみにしていたのだそうです。  彼女の祈りは、神さまが彼女の讚美歌を

用いて人々に影響を与え、そのことによってより多くの魂がイェスのもとに戻って来

るようにということであったそうです。  救霊の祈りの人でもあったのです。

 

  さらに「ファニーおばちゃん」は、子供たちに対しても大きな愛情と関心を抱いて

いたといわれています。  年老いたのちにも、教会で乞われて話をするような時には

必ず子供たちを念頭に置いたわかりやすい話をしていたと言われています。

 

  彼女自身はメソジスト教会に籍を置く人であったようですが、「イェスと聖書を

信じ愛する人なら誰でも」喜んで受け入れていたとのことです。

  ブルックリンにあったプリマス・コングルゲーショナル・チャーチを訪れ、彼女の

大好きな説教者ヘンリー・ワード・ビーチャー Henry Ward Beecher 牧師の話を聞い

ていたのだそうです。 Plymouth Congregational Church

  そのほかにも、ニュー・ヨーク市内の五番街長老教会や三位一体聖公会を訪問し、

フィリップス・ブルック Phillips Brooks牧師の力強い説教を聞いていたそうです。

     the Fifth Avenue Presbyterian Church & the Trinity Episcopal Church

 

  クロスビーをよく知っている人々の証言によれば、彼女はとっても愉快で明るく

陽気な女性であったとのことです。  機転が利き、頓智に溢れたユーモアーのある人

であったそうです。  彼女が証や奨励や説教をする時には、面白い話を混ぜることも

あったようですし、予想もつかないような逸話や、だれも知らないような秘話なども

含まれていたので、彼女の話を聞く人々をいつも魅了していたそうです。

  また彼女の説によりますと、人々に苦言を呈したり、人々を批判したりするような

時には、人々を笑わせながら、その笑いの中で彼ら自身に考えさせるのが一番よい‥

としていたようです。

 

  彼女が晩年に到ると、彼女を講師として招きたいという依頼が国中から殺到した

そうです。  そういう時には人手を煩わせず独りで旅行したようです。

彼女なりの他者への思い遣りと、彼女自身の勝ち気な性格を私は感じるのです。

  今の日本の福祉という理解では、過保護でおせっかい過ぎるということと、障害の

ある方々の独立精神を尊重しながら一歩退いたところから暖かく見守るという区別が

できないのかも知れませんね。

 

  多くの講演会で彼女を紹介する最初の言葉に、(ローマ・カトリック教会の聖人に

対してだと私は思いますが)「プロテスタントの聖人」とか、「生きているいちばん

素敵な人」などという形容詞が司会者たちによって使われたのだそうです。

 

 

 

  アメリカ合衆国が旧宗主国イギリスから「独立」を勝ち取り、「自由と解放」を

手に入れたことを記念したのが1776年7月4日でした。

 

  当時の新世界・新大陸の新生国家アメリカ合衆国の民族精神の一つに、「われらは

人が治める制度ではなく、神を信ずる in God we trust」というのがありました。

  そして人々は、教会と政治が混ざりあって汚れきっていた旧世界とその教会と政治

の久しい支配と抑圧から「独立」し「自由」となり「解放」され、黙示録に約束され

ている「新しい天と地、新しいエルサレム」を我々の手で建設するのだ…という決意

を固めていたのです。  基本的にいわゆる前千年王国論的理解と待望姿勢でした。

 

  不幸にして、南北間の地域的条件の差や、農業立国を目指す南部と工業立国を指向

する北部との間の利害関係、各地域の自治を求める南部と連邦制統治を模索する北部

との利害の差などが、いわゆる南北戦争 the Civil War、新生国を二分する内乱闘争

を招いてしまいました。  内乱は結果的に理想主義的傾向の強かった後千年王国論の

衰退をみることになりました。  キリスト再臨を待望する傾向は強まりました。

 

  不幸にして起ってしまった南北間の血肉の争い(18611865)の後遺症がほとんど

まだ癒されていない内に建国百年目を迎えることになりました。

  キリストの再臨を切望する気運は強く、モルモン運動、エホヴァの証人運動、各種

アドヴェンティスト運動、そのほかにも、日本ではほとんど知られていないグループ

にクライスト・アデルフィアンズ運動というのもありました。  前千年王国論を基調

としたキリスト再臨待望信仰の中で活発に活動していたのです。  ムーディー伝道隊

やクロスビーが活躍していたのはこういう社会的気風・エトスの中でのことでした。

 

  このような時代にあって、すなわち建国百年という一つの節目に、北米や英国で

活発な伝道活動をしていた伝道者がムーディー Dwight L. Moodyで、彼を音楽面から

支えていたのがサンキー Ira D. Sankeyでした。  有名なコンビ伝道者たちです。

そして、このコンビ伝道隊に優れた讚美歌を提供していたのがクロスビーでした。

 

  サンキーはその晩年において、「自分たち二人の伝道が成功したのは、ファニー・

クロスビーの作詞してくれた、多くの聴衆の胸の奥底までも揺さぶる讚美歌があった

からだ」と、そのようにクロスビーを高く評価する証言をしていたのです。

 

  ファニー・クロスビーが作詞した讚美歌がどんなにか優れたものであったのかは、

日本語に翻訳する時において余りにもいろいろな制約や問題や不利な条件があり過ぎ

るにもかかわらず、冒頭で紹介しました讚美歌や聖歌からも充分におわかり頂けると

思います。  讚美歌にせよ聖歌にせよ、翻訳者たちにはただただ脱帽あるのみです。

 

  その中でもクロスビーが「私の魂の歌  my heart' song」と呼んで愛していた詩

があります。  それはクロスビーが七十五歳の時に作詞したもので、ただただイェス

の一方的な恩寵によって救われたのだ Saved by Grace という彼女の確信を筆に託し

たものでした。  ムーディーの大衆伝道集会後期で最も頻繁に歌われたものです。

 

  彼女が親しくしていたある牧師が帰天したあと、牧師が書き残しておいたトラクト

を誰かが彼女のところに持ち込み代読したのです。

  「もし私たちがキリストの恩寵によって救われたという事実を理解し、その恩寵に

忠実であるなら、その恩寵は私たちがどのように生きたらよいのかを教えてくれる筈

だし、そしてその恩寵は私たちがどのように死んで行けばよいのかをも教えてくれる

筈だ…」というように、トラクトのメッセージを読んで貰った年老いた盲人作詞家は

考えたようです。

 

  そしてその思いを基礎に Some Day を作詞したのです。  彼女はその詩をとりわけ

気にいったようで、すでに書きましたが My heart' song と呼んだのです。

  日本語讚美歌 518番には「そのとききたらば…」と上手に意訳してあります。

ただし元の詩が持っている意味がやや弱められているように私は感じています。

  聖歌 640番のほうは「いつかは…」と余りにも単刀直入に直訳されているので詩的

美しさを欠くのではないかと、個人的ですが、そのように思います。

 

  詞を作ったあと、ファニー・クロスビーは、いつものように取引のあった出版社

Biglow-Martin Company に詩を送り、報酬として額面二ドルの小切手を受け取りまし

た。  一方、出版社は詩をファイルに納めたものの、そのあと何もしないで放置して

いました。

 

  1894年(明治27年)の夏が来ました。  マサチューセッツ州ノース・フィールドで

クリスチャン・ウヮーカーズ・カンファレンス Christian Worker's Conference

いう集会が開催されました。  1879年にムーディーの呼びかけで始まったキャンプ=

修養会だとでもご理解下さい。

  この催し物会場に「かの有名な盲人作詞家ファニー・クロスビーさんが来ている」

と誰かが気づきました。  さぁたいへんな騒ぎになりました。  彼女は身分を隠して

ほかの人々と同じように会衆の中に身を隠して潜り込んでいたのでした。

 

  当然のことですが人々は彼女に壇上に上がることを勧めたり求めたりしました。

最初のうち彼女は頑固としてうなずきませんでした。  自分はこのようにたくさんの

立派な先生がたの集まりに出たこともないし、偉い先生がたと同席したこともない…

と断り続けたようです。  しかし、とうとう求めを断りきれず壇上に上がりました。

  そうすれば、当然のことですが、次の要求は、彼女がひとこと何かを述べるという

ことになります。  同じように辞退しましたが結局は断りきれなかったようです。

 

  そこで記憶力抜群の彼女は、彼女がハート・ソングと呼んで覚えていた Some Day

の詩を、その美しい声で、万感の想いを込めて、語ったのです。  朗読したのです。

  初めて聞いた美しい信仰告白の詩に触れた会衆のたくさんの目から感動と感激の涙

がとめどもなくこぼれ始めたと、そのように記録されているそうです。

 

  感動したサンキーは、その夜になって彼女にいつごろどこでその美しい詩を作った

のかと尋ねました。  そこで彼女は作詞は三年前のことで、詩はとある出版社に売却

してしまったと答えたのです。  そして、その後、誰もその詩に曲をつけていないと

も説明しました。  さらに彼女は、「今日のような日のためにその詩を胸にしまって

おいて、必要なときに読み上げるようにしよう」と語ったそうです。

  そしてさらに彼女は、「私は私のハート・ソングをあなたがた音楽家たちに決して

渡さないわよ」ともつけ加えたのだそうです。

  ということは、彼女のハート・ソングに誰かが曲をつけ、それを音楽家が歌って、

自分の大切にしている詩が広く歌われるようになることを好まない…  私は私だけが

それを大切に皆さんの前で読み上げるだけにしておきたい…  という意味でした。

 

  しかし会場にロンドン・クリスチャン・ペーパー the London Christian Paper

という新聞社の記者が出席していました。

  彼女が願い考えていることなど全く知らなかった記者は、年老いた盲人がとうとう

と読み上げた感動的な詩をメモ用紙に速記しました。  こうして誰も想像しなかった

かたちで彼女の願いに反して、ロンドンであるクリスチャンの定期刊行物に掲載され

世に出てしまったのです。

 

  掲載されてしまったファニー・クロスビーの詩に目をとめたサンキーは、大急ぎで

有名な讚美歌の作曲家ステビンズ George Cole Stebbins に連絡をとり、「あの時の

修養会でファニー・クロスビーが朗読した美しい詩が出回ってしまったので曲をつけ

てくれないか」と依頼したのです。  早速ステビンズは詩に曲をつけ、折り返し部分

といえばよいのでしょうか、コーラス部分をつけたのです。  こうしてクロスビーの

美しい詩に私たちもよく知っている曲がつけられたのでした。

 

  ステビンズが手がけた讚美歌は、日本語讚美歌 261433448487517518528

あります。  聖歌では 295395404422493511531553640に掲載されています。

  これらは、今回の主題とは直接に関係がありませんし、紙面の制限もありますので

各番号に付けられた翻訳題名の紹介を残念ですがはぶきます。  列記しました番号を

開いてご自分で確認なさってください。  皆さんがご存知の有名な曲が多いです。

  ステビンズ自身はバプテスト教会員で、優れた讚美歌の作曲者でした。

フィリップ・ブリスの悲劇的事故死のあと、ムーディー伝道隊と組んで大きな働きを

とげた人物です。

 

  ファニー・クロスビーの美しい詩、彼女のハート・ソング、 Some Day あるいは

Saved by Grace  「いつの日にか」と「おめぐみにより救われたり」は、のちほど、

ムーディーにとってもサンキーにとっても忘れることができない讚美の歌となったの

でした。  愛唱歌の一つになってしまったそうです。  勿論、ムーディー・サンキー

伝道集会では必ずクロスビーのこの讚美歌が歌われたことは言うまでもありません。

 

  ムーディーの大衆伝道集会も回を重ね、年老いたムーディーが壇上に用意されてい

た椅子に坐って会衆がこの讚美歌を歌っているのを聞きながら、うつろな目で遠くを

眺めていることが多かったそうですが、いつも彼の目にはこの歌が歌われるごとに、

必ず涙が流れ出ていたそうです。  主イェスの一方的なご恩寵や、近づいている主の

お召しの日を深く覚えていたのではないかと、私はそのように解説書を読みました。

 

  そして、ムーディーがこの讚美歌を会衆に歌わせる時、しばしば同僚のサンキーに

頼んで、会衆を二つに別け、たとえば左右とか男女とかに別けて、詩も二つに分けて

歌わせたとのことです。

  いわゆる交唱 antiphony、相互応答交唱式とでも言えばよいのでしょうか、多くの

教会で昔から司式者と参列者たちが交互に詩編を交読して朗読して来たのと同じ形式

で歌うスタイルのことです。

  古くは旧約聖書時代に民の指導者と会衆との間で神への約束ごとを交互に唱えたと

いうことから始まったと伝えられている、とても古くからの伝統に基づくものだと、

そのように私は理解しています。

 

  たとえば、脱線ついでですが、出エジプト記15章や19章から32章までに、モーセ

とイスラエルの民との間にそのようなやり取りがあった筈だと私は考えています。

  私たち日本の教会では讚美や讚美の時間が、公同礼拝の中で占める意味や時間との

関係で、余りにも少なく、また、軽視・無視され過ぎていると私は考えています。

  このような交唱形式を積極的に取り入れますと、「公同礼拝に自分も参加している

のだ」という意識が全員のあいだに高まるものと容易に理解できます。

  少なくともこの点においてムーディーは優れた説教者だけでなく、卓越した牧会者

でもあり演出家でもあったと、私は解説書を読みながらそのように思いました。

 

 

  ムーディーは公同礼拝の優れた演出家であったと私が理解している理由をあえて

ここで述べてみたいと思います。  脱線をお許し願います。

 

  日本の多くの教会の礼拝に出席して感じることの一つは、「宗教的儀式が機械的に

職業的宗教人の手で主の御名を使ってこなされているだけ」ではないかということで

す。  週報に印刷されている式順序に機械的にしたがって、ベルト・コンヴェヤーに

乗ったような、形式的な「礼拝ゴッコ」が無表情・無感動にこなされているだけで、

主イェスにまみえ、主イェスにつながっているのだという意識に欠け、十字架上の主

イェスから与えられた「とこしえのいのちの脈動」を感じることができないことが多

いのではないか…ということです。

 

  このことは、牧師と自称他称する職業的宗教指導者も、教会指導者たちも、そして

「平信徒」という反聖書的位置づけ、非聖書的名称に甘んじている教会員たちにも、

共に責任があることだと、私は絶望的な悲しみの中でこのように考えているのです。

 

  主イェスを喜んで讚美する筈の時に、讚美する者たちが下を向いたままで、無感情

な姿勢でいるということは、主イェスに対して失礼千万なことだと思います。

  下を向いたままで、まるで最後の審判の時に神さまに叱られて、これからとこしえ

の滅びの国に送られる寸前のような姿勢で、讚美の詩が語っているメッセージも考え

ないで、嬉しくも楽しくもないような、酸欠状態の金魚の断末魔の姿と同じです。

  このような姿勢と心の在り方を主イェスの御名によって歌い、「そのとおりです、

アーメンです」と終わりで皆で唱えているのです。  楽譜が読めるとか読めないとか

ピアノやオルガンの伴奏がないから歌えないなどの次元の問題ではないと思います。

讚美する者たちの心の在り方が問題だと思います。

 

  またさらに、もともと神への讚美というものは、人々が心から自分の心の中の感謝

と讚美と願いごとの気持ちを言葉に表して口を使って神に捧げたものであった筈だと

思います。

  いろいろな種類の楽器が次第に人々の日常生活の中に浸透し始めるようになってか

ら教会の礼拝にもいくつかの楽器、特にオルガン、そしてピアノが導入されるように

なって来ました。  基本的にそれらの楽器は人々の神への讚美を補佐するためのもの

として導入されたと思います。

 

  もちろん、たとえばバッハのように、オルガンを用いて神を讚美するという形式が

一部の地域、たとえばドイツなどで発達したことを否むものではありませんが、楽器

は人々の神への讚美を補佐するために教会堂の中に導入されたものだと思います。

 

  最近は日本でも「ア・カペラ  a cappella」という種類の歌いかたが定着し始めた

ようです。  「ア a」とは「~に従ってaccording to」という意味のイタリヤ語で、

「カペラ」はチャペル、すなわち「教会」という意味です。

  「ア・カペラ」とは「教会の風習に従って」ということで、公同礼拝における讚美

とは、人々の感謝と讚美の声を神に捧げていたものです。

このことからも、伴奏される楽器が讚美の中心的存在ではなかった筈です。

 

  しかし多くの場合、教会であれ神学校であれ、いろいろな集会であれ、伴奏する筈

のピアノの高音だけがガンガン会堂に響きわたったり、オルガンだけがボウボウ鳴り

渡ったりで、肝心の讚美する人間の声がほとんど聞こえないという事態が生じている

のを私は目撃しています。

  会衆の口はほとんど開いておらず、顔は天空を見上げるというのではなく、まるで

お通夜の席に出ているように下を向いたままです。  下を向けば生理的に喉が塞がれ

て声は出なくなります。  伴奏とは主奏者、すなわち公同礼拝に参加して神に讚美を

捧げている会衆の讚美を補佐するだけのものである筈です。  主奏者がほとんど口を

閉じたようなままで、伴奏音だけが目立ってしまうというのはおかしなものです。

司式者も伴奏者も会衆も何を考えているのでしょうか?

 

  また、神を讚美するは全会衆であるというのが本来の姿でしょうが、会衆一同が神

を讚美する喜びと感謝の声を挙げないで黙り込み、一部のプロなりセミ・プロなりが

聖歌隊のようなものを結成して、少数の人だけが神を讚美するという姿勢や伝統も、

本来の公同礼拝ということに照らし合わせて考えますと、これもおかしなことだと私

は素朴な疑問を抱かざるをえません。  出席している会衆一同が神への感謝の讚美を

歌詩や歌曲を使って捧げるというのが好ましいと、そのように考えています。

 

  日本の教会に「讚美は主を誉め讚える礼拝の重要部分である」という理解がいつに

なれば浸透するのでしょう?  ムーディーは優れた牧会者で演出家だと思うのです。

  それで優れた演出家としてのムーディーを引き合いに出して、あえて苦言を呈して

みました。  「余言者」の失礼を詫びながら皆さんがたが参加なさる讚美の時がより

感謝の体験を重ねるもとなるようにとせつに祈る次第です。  本題に戻ります…

 

  サンキー自身も彼が死の床にあった最後の時、クロスビーの美しい詩 Some Day

Saved by Graceを口ずさみながら静かに目を閉じ、安らかに帰天して行ったと伝えら

れています。  きっと御国でその続きを今でも讚美し続けていることでしょう。

 

  主イェスが主催なさる王国晩餐会、主の聖晩餐会の席上で、先に召された数知れぬ

聖徒たちが捧げる讚美の歌声と共に、やがて私たちも私たち自身のハート・ソングを

それぞれ心の底から主イェスに捧げ、主を誉め讚え続けたいものだと願うのです。

 

            =以上20050306日週報「ベタニヤつうしん」に掲載=

 

  関連参照聖句

 

    1.  詩編1715    『私は義にあって御顔を見、目覚める時に御姿を見て満ち

                          足りる』

    2.  詩編4814    『世々限りなく我らの神であり、永遠に我らを導かれる』

    3.  伝道の書12章6節  『銀の紐 the silver code  は切れる』  =詩の主題