《何を目標に私たちはこの世を生きているのでしょうか》

 

  主イェスに在る或る一人の愛する兄弟から実に久しぶりで先日お手紙を頂いたと

先週号週報にしるしておきました。  もう30余年も前に知り合った兄弟です。

  頂いたお手紙の内容は、その兄弟の弟さんが癌で他界されたことに関して、兄弟が

弟さんへの複雑な想いを正直に綴られたものでした。  そして私も落涙したのです。

 

  また更に別の或る姉妹から、県内にお住居の信仰の友で、癌に冒されておられる

姉妹のことで連絡を頂いています。  その他に、これもまた別のご夫妻のお母さまと

お姉さんが病の床にあると伺っています。  高齢者のお母さまは病を得てというより

も自然に老衰状態の中にいらっしゃると理解するほうが正確でしょうか…

 

  そういう私も40余年前に左腎臓を失う交通事故に遭遇し、その折の大量の輸血に

よるC型肝炎感染と、その結果として現在は肝硬変が着実に進行中の状態にいます。

 

  先々週には、私の肝硬変ウイルス増殖を抑制する定期的な強肝剤注射をして下さる

80数歳の中山医師ご自身が肺炎を患い入院されてしまいました。  従って少なくとも

来週までは注射を受けられない状態が続くものと思います。  いろいろとあります。

 

  何かことが起りますと一斉に集中的にそのことだけが取り上げられ、騒ぎ立てる

傾向が私たち日本人にはあるようです。  尼崎電車脱線転覆事故以降もそうです。

ここ二、三日はレッサー・パンダが二本脚で立ち上がったということで大騒ぎです。

 

  それと同じようにイェスの時代のユダヤ人にとっての関心ごととは、数世紀もの

あいだ外国によって占領されていた母国イスラェルの解放であったと思います。

ユダヤ人たちはそれを「時のしるし」として捉えようとしていたのです。

  そのことについて弟子たちはイェスの受難直前にマタイ伝24章3節で熱心に訊ねて

いますし、イェス復活直後には使徒行伝1章6節で再び同じことを訊ねています。

 

  また当時のイスラェル宗教界に属する神学者や聖職者たちにとって「永遠の命」

ということが最大関心事のひとつであったことをルカ伝1025節は語っています。

  主イェスご自身も、ヨハネ伝3章初頭のニコデモとの会話の中において、あるいは

17章3節において、「永遠の命」を得る方法を祈りの中で口にされています。

 

  しかし、敗戦後60年を迎えたこん日の我が国においては、何が本当に国民の最大

関心ごとであるのでしょうか?  いろいろと挙げる項目があるでしょう。  しかし、

私は現在の日本人にとって、飽くことを知らない自己の物質的・動物的欲望の追求が

最大関心ごとではないかと思います。  余りにも次元の低い関心ごとだと思います。

 

  道徳的、倫理的、精神的、知的な求心力を見いだすことができない我が国の状態は

旧約聖書士師記25節に記載されている一言、すなわち『そのころ、イスラェルに王が

なかったので、おのおのが自分の目に正しいと見るところを行った』と全く同じだと

思います。  王とはその国をまとめる求心力のことです。  不幸にしてこの日本には

国をまとめる求心力がないのです。  どれほど物質だけを貪欲に追求し、確保できた

としても、国民の心の中はいつも空虚状態なのです。  共通の道徳基準も倫理的観念

も精神的価値基準や善悪の判断基準もない状態だと思います。  恐ろしいことです。

 

  この国の道徳的、倫理的、精神的、知的求心力をどのように確保すればよいのか…

などを考えることができない動物的次元で、すべての物ごとを損得勘定だけ決めると

いう基準しか持たない国民です。  クリスチャンや教会までが汚染されています。

 

  そのような中にどっぷりと浸かっている国民、現世の刹那的快楽とその追求だけ

がすべてという私たちにとって、ものごとを深く考えることができない私たちにとっ

て、この自分という存在がこの世に遺すべき最大遺産を考えることができない風潮の

中にあっては、来たるべき世界、神との世界など考えられないことなのでしょう。

これは国にとって極めて不幸なことであり、不幸極まりない国民だと思います。

 

  我々はこの世に(We are in the world) 生きながら、この世の(but we are not

of the world) 者ではない…というコリント後書4章18節や5章6節~7節の聖書の

素晴らしい教えにクリスチャンと自称している者ですら馬耳東風状態にいるのです。

私たちの視界、関心ごとは常に「この世のこと、オカネだけ」なのです。

 

  私たちがこの世に生きて居る(We live in time) ということは確かなことです。

多くの人は、『私たちは永遠のために生きて居る(We live for eternity)のだ』とか

『私たちがこの地球惑星でいま生きているということは永遠に繋がっているのだ』と

いうことが少しもわかっていないようです。  ここに教会の弱さがあります。

 

  使徒パウロはテモテ前書4章8節で『今の生命と後の世の生命』と語ります。

パウロのこの言葉を何度も熟読しますと「今の生命」と「後の生命」とは結びついて

いることがわかります。  同じ一つの生命が永遠の神の国へとまたがってつながって

いるのです。  これは主イェスを信じる者に与えられている永遠の命なのです。

  それは、たとえば、幼稚園があれば小学校があるということとおなじでしょう。

小学校があれば中学校があるということです。  中学校は高校を示唆します。

そして高校は大学や専門学校をです。  大学となれば、当然、大学卒業後の社会での

活動へと繋がります。  それと同じように「今の世」があるので「後の世、神さまと

共なる世界」もあるのが自然なことです。  すばらしい約束と保証だと思います。

 

  日本でも「この世」と「あの世」という言葉があります。  しかしそれを真面目

考えることはありません。  無縁で遠くてしかも恐ろしい場所、閻魔大王がいる地獄

という考えが私たちの文化の中に深く浸透しているからでしょうか?

 

  しかし、聖書は神の国、人が神の民となり、神が人と共にいます国と捉え教えて

います。  黙示録21章には約束の国、人の目に涙がない国、死も悲しみも苦悩の叫び

も痛みもない新しい国と教えています。  「今のこの世」は「神との世界」に直結し

ているのが聖書の教えです。  肉体の死は「お引っ越し」にしか過ぎません。

「今の生命」は「次の生命」へと続いているのです。  「今の世」という待合室から

「神さまと共なる招待席」、すなわち、私たちがもともと居るべき場所に戻るだけの

ことであり、いわば「本籍地」に帰るだけのことなのです。  怖れは不要なのです。

 

  私たちがヘブル書11章をよく読んでみますと、苦悩と涙と溜め息で満ちあふれて

いる「この世」に在って私たちは「旅人・宿れる者」だと教えられています。

私たちは「揺るがぬ土台の上に建てられている都」を待ち望んでいる者なのです。

  「約束のものはまだ受けていないが、信仰によってはるかにそれを望み見て喜んで

いる旅人・寄留者・宿り人」であり、「さらにもっと良い、天にある故郷を望む者」

なのです。  ヘブル書11章は、そのような明るい肯定的で希望に満ち溢れた次の世の

現実を約束しているのです。  死とはそのためのお引っ越しにしか過ぎません。

 

  使徒パウロはピリピ書3章20節で『私たちの国籍は天にある』と明白に言明して

います。  そういうわけですので私たちは「この世から消え去る」というのではなく

て、私たちのために神さまがイェス・キリストを通して用意して下さっている天国、

「私たちの故郷に戻る」のです。  この世での生活は、来たるべき神との生活のため

の準備期間なのです。  「この世の私たちの在り方」が「かの国にかかわっている」

のです。  これは実に大切なことですが、教会も基督者も共に見落とし勝ちです。

 

  いろいろな予期せぬ不幸な事件が最近は多過ぎるように思います。

犠牲になる人の数も増えています。  いろいろな人が犠牲になっています。

そのたびに『御冥福をお祈り致します』という型きり文句を耳にします。

 

  しかし私は思うのです。  主に在って死ぬ者、「この世」を去る者は、ただちに

御国に移っているのです。  『汝きょう我と共にパラダイスに在るべし』ルカ伝23

43節です。  遺された者たちにはつらいことですが召された魂が瞬間にして主の御前

に召されていることは確かなことです。  信仰者はこのことを確かなものとして理解

する必要があります。  希望がないような嘆き悲しみの激情の中に主イェスへの自分

の信仰を失ってしまってはよくないのです。そのような必要はないのです。

 

  召される方法はいろいろあると思いますが、主の御前に魂が召された事実は感謝し

て受け止め、主の恩寵の深さに想いを馳せるべきかと思います。  お召しを頂く方法

はいろいろとあると思いますが、召されたのは神さま御自身だという事実です。

  この地上での生命を自然に、静かに終えて御国に移る魂もありましょうし、そうで

はなく、人の目にはつらいような終わりかたもあるかと思いますが、召して下さるの

は、「神さまの恩寵の御旨と神さまの時の中で」、神さまご自身なのです。

  どのような場合であっても、私たち主イェスの恩寵を信じる者たちは、このことを

決して忘れてはならないと思うのです。  教会はこのことを確かに告げるべきです。

 

  ヨブは『主が与え、主が取られたのだ。  主の御名は誉むべきかな』(1章21節)

とその信仰を告白しています。  どのような召されかたであれ主の豊かな恩寵と御旨

を信じる者にとって、このヨブの信仰告白は何も特別なものではなく、それは信仰者

としてノーマルなことなのです。  マタイ伝2639節の主イェスの祈りと同じです。

 

  それですから私たちは常に『memento mori  メメント・モリ=汝、死を覚えよ』

を肝に銘じて主のお召しに備えをする必要があるのです。  教会の責務でしょう。

 

  どのような召されかたをするのかということよりも、むしろ「どのように今のこの

世に在る間に」「どのように御国へ移る準備をしておくのか」ということを覚えて、

そのことを常に意識し、主を信じる信仰を確かなものにし、与えられている「今」を

「どのようにして神さまと他者と自分のために生きようとしているのか」に心を尽く

し、思いを尽くし、全力を尽くす(ルカ伝1027節)よう常に祈りを注ぐべきであろ

うかと思うのです。

 

  「どのように生きるか」ということは「どのように死んでゆくのか」ということで

あり、「どのように天国に備えられている恩寵あふれる自宅に戻るのか」ということ

でしょう。  この世の基準に押し流されて、上にある希望を見失い、あわてふためく

ことはイェスの信仰者としても主の教会としても共に避けたいものです。

 

  「次の世=自宅に戻る」ことに関して私たちはどのような準備を「この世にいる

間に」しているのでしょうか?  「人生の目的は何か?」という質問も大切ですが、

「次の世、永遠の国での神と共なる生活」のために、私たちは「この世に居る間に」

どのような準備をしているのでしょうか?  私たちは余りにも「この世」の誘惑やら

雑音に惑わされ過ぎて、物資の所有欲や損得だけを物差しにして、「次の世、自分の

本籍地に戻ってからの生活」をすっかり忘れてしまって、右往左往しながら付和雷同

生活を何となく無意味に過ごし過ぎているのではないでしょうか?

 

  私たちは、「この世を離れた瞬間」に、「神さまと共なる生活に移る」のです。

そのことに備えて「今というこの時」に、あなたは何をされているのでしょうか?

  私たちは、「アーメン・ソーメンの教会ゴッコ」を時々やるくらいなもので、実際

の生活は「この世」の人とほとんど変わらない生き方をしているのでしょうか?

  「天国に戻り」「神さまと共に永遠に住まう人生」への準備が出来ていると言える

のでしょうか?  教会は「人生の目的」をどのように教えているのでしょうか?

 

  いつも私たちには謙虚に悔い改めれば、私たちには助け主なるイェス・キリスト

がいらっしゃり、助けてくださると、第1ヨハネ書2章1節は約束しています。

  主の前に心を入れ替えることが大切です。  主の食卓でそのことを改めて覚えたい

ものです。  どう生きているのかを吟味する最善の時と場所の一つだと思います。

 

  『祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、私たちの救い主キリスト・イエス

の栄光の出現を待ち望むように…』と、テトス書2章13節は教えます。

  『あなたの神に会う備えをせよ』と旧約聖書アモス書4章12節も勧めています。

みなさんは次の世、神さまとご一緒の世への準備ができていますか?  いかがです?

 

  イェスとその一方的な無条件の恩寵をを信じていらっしゃる方がたは、そのこと

に相応しい、感謝で満ちたりた、静かで落ち着いた生活を満喫しながら(テサロニケ

後書4章11節)、さらに『良い行いをし、良い業に富み、惜しみなく施し、人に分け

与えることを喜び、そのようにして、「真のいのちを得るために、未来に備えてよい

土台を自分のために築き上げる」ように…』(テモテ前書6章18節~19節)との聖書

の教えをもう一度かみしめて見てはいかがでしょうか?