《或る教会史小話    虻蜂捕らずのシドニー・リグドン》

 

  時たま中央線特急アズサ車内に清楚な服装と髪型の白人青年2人組を見かけます。

モルモン教の宣教師です。  私の方から声を掛けて話し始めたことがあります。

警戒心を抱かせないようにと、『シドニー・リグドンの話を聞きたいのですが…』と

持ちかけました。  相当に驚いた様子でした。  この日本でモルモン教の教会史上の

人物を見知らぬ老人が尋ねて来たからでしょう。  会話は新宿まで続きました。

 

  Sidney Rigdom (1793-1876) はペンシルヴァニヤ生まれのバプテスト教会の説教者

でした。  キリストの教会運動の優れた指導者アレキサンダー・キャンベルに接触し

た彼はオハイオ州マホニング・バプテスト連合に属し、キャンベルと行動を共にする

ことが多かったのです。  1821年頃からのことでした。  30歳前だったと思います。

 

  キャンベルの聖書一本槍運動が諸教派の間で有名になるに従い、イェスの弟子たち

がそうであったように、キャンベルのお弟子さんたちの間で誰が先生に一番喜ばれる

かというような低いレヴェルの激しい闘争が密かにあったようです。

 

  自信過剰で自己顕示欲が強かったリグドン、或る大会の主要講演者に選ばれるもの

と密かに期待していたのですが結局は選ばれなかったのです。  フラストレーション

や不満や失望などがますます彼の心の中に蓄積されていったのです。

 

  1830年頃に連邦政府とドンパチをやりながら西部に逃れて来たモルモン教徒たちと

偶然オハイオ川の船の上だったかで出会い、教祖ジョーセフ・スミスに見込まれまし

た。  組織神学や教理を持っていなかったモルモン教徒たちにリグドンはキャンベル

から学んだ聖書知識を伝授したのです。  教会名、バプテスマなど一杯あります…

 

  それまではいつも自分を不安定で正しく評価されていない不幸な男と思っていた彼

はこうしてようやく自分の地位を確保したと錯覚したようです。  教祖ジョーセフ・

スミスの傍にいつも侍り、教祖と共にミズリー州に逃れ、更にイリノイ州へと逃亡の

旅を続けました。  自分こそモルモン教のスポークス・マンと自称していたようです

が、モルモン教徒の中には彼を完全に信じていなかった者も多くいたようです。

 

  1844年の教祖死去に伴いB・ヤングが次代教祖に就任した時に破門・追放され故郷

ペンシルヴァニアに少数の弟子たちを連れて戻り、貧困と失意の内にその生涯を終え

たのです。  現在のモルモン教徒もこの小話を知らないと思います。  哀れです。