2003年3月30  八ヶ嶽南麓  野村基之

 

 

    その事が私の生い立ちと関係があるのかないのか、その判断は心理学者に委ねる

事として、私は子供が大好きなのです。  嘗て幼稚園のブロック壁の穴から園児らを

撮影して誘拐犯と間違えらそうになった事もありました。  スーパー・マーケット等

ではカートに乗せられた幼児を見かけると彼等に手を振るのが楽しみの一つです。

  イラク戦争の重苦しい雰囲気の中に全世界がある時、幼児の微笑み、幼児の紅葉の

ような手、幼児の瞳を眺められる事は私には大きな救いです。

    主イェスもマタイ伝18章3節、同1913節〜15節、マルコ伝1013節〜16節、

ルカ伝1815節〜17節で幼児らを祝された事実を淡々と語っています。

 

    幼児は純粋で、彼等の瞳には裏表や邪気がないからでしょうか?

その事と、主イェスがマタイ伝5章8節で仰った「心の清い人 The pure in heart

の「清さ・ピュアー  pure」、「大人の清さ」とは同じなのでしょうか?

 

    主イェスが仰った「心の清い」=原語では kathapoi te kardia というものは、

「潔さ、純粋、汚れていない、宗教的・道徳的・法律的に罪を犯していない潔白さ、

誠実さ、偽りのない、ありの儘の、真っ直ぐな、公平な、正直な、高潔な、有徳な、

廉直な、悪が入り込めないような状態」を意味するものです。

  嬰児・幼児のあどけなさ、純粋さとは、これはおのずから意味が違うようです。

余談ですが、こうなりますと、私も、私を含めた多くの人間も、もしかすると皆さん

も、ブッシュもブレアーもフセインも、シラクもプーチンも、小泉首相も金日正も、

拘束中の鈴木胸汚大疑士? も、主イェスが仰った「清さ」には到底届きません。

 

    主イェスが仰った「清さ・清い」という意味は、勿論、私が主から直接に伺った

  わけではありませんから推測の域を出ませんが、神さまとの交わりというものを

最大限の意識と努力によって保ちたい、聖霊のお助けを得て、ご恩寵の中で、何とか

して維持したいという、神さまとの交わりを絶えず意識してこそ語れるものではない

のでしょうか?

 

  マタイ伝7章13節で主イェスがお使いになった「狭い」という言葉と関係があるの

ではないかと思います。  この「狭い門 tes stenes pules 」という単語については

改めて述べてみたいと願いますが、「狭い」と訳すよりも「絞られる・搾られる」と

訳した方が良いと私個人は考えています。  安易な信仰の道などあり得ない筈です。

 

    私たちは神さまの御旨を知り、御旨に従いたいと願っています。

それでも私たちの心の中には錆が発生し、汚れが湧き出てしまうことが多いのです。

  私たちは余りにも誘惑に弱いのです。  サタンが例の真っ黒な装束を纏って尻尾を

付け、手に槍を持って私たちを襲ってくるというのであれば私たちはサタンに対して

警戒し、防御することでしょう。  神さまの助けを求めて神さまのお傍に行くことで

しょう。  しかしサタンはそのような姿で私たちを襲うことはないのです。  むしろ

日曜日の朝を含めた日常生活の中で、いろいろな正当に思える理由を付けて、私たち

が神さまから離れること、神さまの御旨を求めないようにすることをサタンは絶えず

努力して私たちに仕掛けて来ているのです。  そして大概の場合に於いて、私たちは

サタンのそのような罠に嵌り込んで負けているのです。

 

    そのような時に、神さまは私たちの弱さを自動的に保護して下さるということで

  はないと私は思うのです。  むしろ日常生活の中での沢山の小さな弱さの連続に

私たち自身が気づいて、自らの願いと意志と努力で神さまの御顔を仰ぎ見られるよう

に「清い」心を維持することを求めておられるのではないでしょうか?  神さまは

私たちを決して過保護にはなさらないと思うのです。  私たちが私たち自身で自覚と

自立を養うことを求めておられ、そのように助けて下さるのだと思います。

 

    サタンに打ち勝つということは、これは人間だけの努力、基督者だけの努力に

よって得られるというような筋のものではありません。  どうしても恩寵という賜物

を深く感謝して理解し、覚え、内在されている聖霊の助けを得る必要があります。

  そのような特権、即ち、恩寵や内在される聖霊が私たちに与えられているのだと

いうことすら気づいていないとなると、ここにサタンに対して私たちが私たち自身の

最大の弱さを提供しているということになります。

 

    恩寵によって私たちは絶えず神さまの御顔を仰ぎ見ながら、祈りながら、清い心

を求める祈りと努力をする必要があるのです。  それは私たちの生涯を賭けるに充分

に価値がある一大事業だと思います。  ロマ書12章以下やガラテヤ書5章22節〜26

が指摘している価値ある人生最大目標の一つだろうと思います。

 

    それらは独りで闘って得られるという性質のものではあり得ません。  常に他者

との関係の中で問われ続け、試され続ける問題です。  他者とどう生きて行くのかと

いうこと、子供のことで、子供の教育のことで、PTA や運動会やその他の学校行事と

の関係で、妻との関係で、夫との関係で、親子との関係で、親族との関係で、職場と

の関係で、隣人や隣組や自治会との関係で、教会の仲間との関係で、金銭や健康との

関係に於いて…あらゆる分野での人間関係に於いて問われ続けて行く問題です。

 

  即ち、『この私は神さまを一体どうしようとしているのか?』という問題です。

『キリストといわれるイェスをどうしたらよいのだろうか?』(マタイ伝2722節)

という問題です。  そして「問題」であるかぎり「私の回答」が要求されています。

 

    然し大概の場合に私たちはいろいと妥協して、神さまを「いい加減に・適当に」

扱って、神さまに対しては実に自分勝手な「何とかかんとか適当な言い訳」を述べて

みてその場その場を凌いで逃げ回っているようです…  そして、そのようなわけです

からサタンが常に勝利者なのです!  サタンに打ち勝った!という体験も自信もない

のがこの私であり、基督者だ、善男善女だと自称・他称している私たちなのです。

 

    もうそろそろこのような不誠実で表面上だけの他者との付き合い方を放棄して、

「己と他者と神」との関係を整理する必要があると思います。  「自己と神と他者」

に対して「ほどほど」にとか「適当に」という付き合い方を整理整頓して、主イェス

  が仰ったような意味での「清い心、誠実な心、邪気のない心」で己と神と他者に

付き合う必要があると思うのです。  新春の四月がもうすぐ訪れようとしています。

  衣替えにも時期があるように、四月は心を入れ替えるのに良い時期だと思います。