ルカ傳15章1節~32

                      パリサイ人・学者ら呟きて言ふ…

                    『この人は罪人を迎へて食を共にす…』

 

          放蕩息子の譬から「父なる神の赦しの範囲を熟考してみると…

 

  イェスは聖書の明白な教え(詩編1編)を敢えて犯してまでa.罪人たちを招き、

b.罪人と共に食した(=交わりを持った)とルカ伝15章の冒頭は語る。

 

  聖書に精通する神学専門家も聖書を厳守する法律専門家も、神の法律を犯している

このイェスを目撃して言葉を失うほどに戸惑ったとルカ伝は語る。

  Church goersである私たち「教会に通う者たち」が同様場面に直面すれば、学者ら

と同じように戸惑い、そしてイェスを非難する側に廻るであろう。

 

  神の独り子自身が神の掟を破っている現場を真面目な人々が目撃しているのだ…

神が神自身が設定した常識や道徳基準や律法に反した行動を採っているのだから…

それでは神自身が放蕩したことになるのではないか?

 

  神の赦しと愛の大きさを覚えない読者はいない筈であるが…

1.  神、放蕩息子の譬では父が、それではどの時点で放蕩した息子を赦したのか?

2.  息子が父の足下に平伏して詫びを乞うた時点で息子は赦されたのか?

3.  戻って来た息子を両腕を広げて受け容れ抱擁した時に赦したのだろうか?

4.  戻り来る途上にある姿を目撃した瞬間に父は息子を赦したのだろうか?

5.  豚の飼育中の息子が「本心に立ち戻った」時点で息子は赦されたのだろうか?

6.  オヤジのカネを要求して、カネを受け取った時点で赦していたのであろうか?

7.  息子が生まれて来た瞬間から息子は赦され受け容れられていたのだろうか?

8.  新しい生命が母体に宿ったと知った瞬間から赦し受け入れていたのだろうか?

 

  神の赦しは:a.  条件付なのであろうか?  b.  それとも無条件なのか?

    神の赦しの範囲、広さ、高さ、深さ、幅とはどういうものであろうか?

 

  聖歌 593番の原文『私の罪とがを遥かに超える、愛する救い主の大きな恩寵…』

  が示すように、また、聖歌 229『どうしようもないこの惨めで哀れな私をすらも

救って下さる驚くべきばかりの恩寵 amazing graceの偉大さ…』が語る神さまの偉大

なる赦しの恩寵を「聴き慣れて無感動になっている私たち教会人  church goers」は

どうしたらよいのであろうか?

 

  主の聖なる食卓・聖餐に、我々はどのように与ろうとしているのだろうか?