《いわゆる「イースター」について》

 

  毎年この季節になりますと複雑な気持ちに襲われます。  同じような気持ちになる

ことが年末にもあります。  いわゆる復活祭とか降誕祭と世界中の多くの人々が騒ぎ

立てる季節のことです。  特にキリスト教徒や教会が騒ぎ立てる時です。

 

  いわゆる「クリスマス」に関しては、同じような思いをしている仲間がいることを

偶然に知りましたので、昨年1216日に《いわゆる「クリスマス」について》と題し

たディック・ソウルさんの翻訳文章を翻訳許可を得た上で紹介しておきました。

 

  同時に、ビル・シェリルさんの《オザーク山脈のクリスマス》と題した、異なった

視点からクリスマスを眺めた文章も公平に紹介しておきました。

 

  これらの2点は私のホーム・ページ http://www.bible101.org/nomura に掲載して

ありますが、パソコンをお使いにならない方には印刷したものを提供致します。

 

  同じディック・ソウルさんが「イースター」と題して私の戸惑いと同じような内容

を彼が主宰する Ekklesia....Then & Now 誌に発表されましたので本人の許可を得て

ここに要旨だけを紹介いたします。

 

  要旨だけと言う意味は、ディックさんの主宰する電子雑誌が対象としている読者層

は米国教会内でもある程度の聖書関連知識やキリスト教全体に対して意識のある人々

であり、日本のように「非ユダヤ教・キリスト教文化圏」の読者を対象としていない

点にあります。  そこで私の方で本文を補う情報を提供しますので、純粋の翻訳文で

はなくなり、一種の共同作品に近いような文章となるだろうという意味です。

 

  さて、今回のディックさんの題目は『 Easter: Pascha or Eostre?』です。

  Pasch または Pascha は古い英語です。  Passover 過越の祝い」の意味を含める

いわゆる復活祭のことを意味しています。  Eostreという単語は私が所有しています

分厚いランドム・ハウスの英英大辞書にも出ていませんが、古い英語でイースターを

表すものと私は推測していますが、英語への「外来語」だと思います。

 

  フランス語では Ostern とか Paques と呼ぶようですが、本来はヘブル語の過越を

意味する単語 pesah、すなわち、出エジプト記2314節~17節に記載の、聖所に巡礼

する春の祭りから派生したもののようです。  あとになって、出エジプトを記念する

過越の祭り(出エジプト記12章)となり、更にマルコ伝1412節~26節に記載されて

いるように、「最後の晩餐」を経て、私たちが守っている「主の食卓=聖晩餐」へと

繋がっているようです。

 

  Eostreはゲルマン民族の春の女神 Austro に由来するとも言われているようです。

但しEostreを独和大辞典に見ることはできませんでしたが、 Ostern はフランス語と

同じで、キリスト教の復活祭とあり、更にユダヤ教の過越の祭りと出ていました。

  いずれにせよPaschaはキリスト教会の伝統的な暦の中では最古の祝日のようです。

 

  さて、原文はインターネットで発信されているもので、兎さんがいろいろな色彩に

塗られた卵を鼻先で押しあげている動画が左に現れ、その右側、画面の中央部に近い

所に十字架に架けられたイェスの動画があり、『なぜ、どうして兎が十字架と関係が

あるのか?』との質問が紹介されて本文が始まっています。

 

  キリストの復活、よみがえり(黄泉より帰る)を祝う祝日に関して新約聖書は何も

いっさい語らず沈黙を守っています。  いろいろな日本語訳の使徒行伝12章4節には

「過越の祭り」と Pascha を訳しています。  1611年の欽定訳はこれをイースター、

すなわち Easter 「復活祭」と誤訳していますが、改定欽定訳は Pascha Passover

「過越の祭り」と修正してあります。  なお原語のギリシャ語は「pascha=パスカ=

Passover=過越」を使っています。

 

  コリント前書5章7節~8節に『新しい粉の塊になるために古いパン種を取り除き

なさい。  あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。  私たちの過越 Pascha

の仔羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。  ゆえに私たちは古いパン種や、

悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種の入っていない純粋で真実なパンをもって

祭りをしようではないか』と書いてあります。

 

  しかし、ここにパスカという言葉が使われているからと言って、当時の教会の中に

クリスチャンたちに独特の過越の祭り=復活を祝う日がすでに確立されていたとする

根拠にはならないという点です。

  キリストの復活を祝う日がすでに当時の初代教会にとって重要なものであると仮定

するならば、新約聖書は曖昧な書き方をしないで、もっと具体的に何かを語っていた

であろうと思われます。  しかし新約聖書は何も具体的に語っていないのです。

 

  これらから考えても、一世紀の初代教会がイェスの十字架の処刑された日を覚えて

特別にお祭りや記念行事をしたという根拠はありません。

 

  イェスが死なれ、そして復活された後の数世紀の間の初代教会にとっては、イェス

の処刑されたことと、復活されたことを覚える季節をパスカ Pascha 「過越の祭り」

と呼んでいたのです。  初代教会にとって、イェスの処刑と復活、すなわちパスカは

ペンテコステと共に覚えられた三つの記念の時であったのです。

 

  オリゲネスがケルソス著「真の言葉」に反駁しつつ AD248年に展開したキリスト教

弁証論 8.22 を縷々ディックさんは紹介されていますが、紙面の関係で詳細を割愛し

ます。  オリゲネスはその箇所で初代のクリスチャンたちが「主の日」や「備え日」

や「過越の日」や「ペンテコステの日」を覚えていた事実を語っていますが、それら

の「日」というものが「他の普通の日」と比べて「何か特別な意味を持つ日」として

扱われていたことはなかったと、そのようにディックさんは註を付けています。

(「備え日」は安息日の前日、すなわち金曜日=グッド・フライデーのことです)

なお、ケルソスのことで更に詳しくお知りになりたい方は個人的にご連絡下さい。

 

  アレキサンドリア学派の代表的な神学者(AD 185年頃~AD 254年頃)オリゲネスの

時代になりますとパスカ Pascha 「過越の祭り」はキリスト教世界では定着していた

慣習であったようです。

  「定着して来た」ということになりますと、「過越の祭り」(これはモーセが引率

してイスラエルの民が出エジプトをした時の「過越の祭り」と同じではありません)

の日にちについていろいろな意見や論争が既に出ていたということでもあります。

 

  有名な教会教父イレナエウスによりますと、小アジアのスミルナ教会監督(主教)

ポリュカルポスは 153年頃にローマを訪れローマ教会監督アニケトゥスと会見してい

ます。  そこで両者は当時の関心事であった Pascha を論じましたが、両者は合意に

達することができませんでした。  まぁ強いて言うならば、両者は Pascha の日にち

に関して「お互いに不同意であるということで同意した」ということになります。

  Pascha を祝う者も祝わない者も、全教会の安寧と秩序の内に、両者はお互いに

平安の内に別れたc』とイレナエウスは 180年頃に「断片」に書き記しています。

 

  ポリュカルポスに関する上記の文章の持つ意味ということですが、ポリュカルポス

は、伝説によれば、使徒ヨハネの直弟子であったという点でしょう。

  ヨハネは西暦 100年前後まで生き永らえた使徒であったと言われています。

その晩年をエペソで過ごしたとも言われています。  一方、ポリュカルポスは69年に

スミルナで生まれたとされています。  スミルナはエペソから約50キロほど離れた所

にあった町です。  当時の町や村は大ローマ帝国が築いた道路によって隅々まで便利

に結ばれていました。  スミルナとエペソの間の交通は決して不便ではなかったはず

でした。  このことは充分に考慮に入れておいてよいことだと思います。

 

  イレナエウスは、『ポリュカルポスがパスカ Pascha を祝う慣習は主イェスの弟子

ヨハネや、ポリュカルポスが交わりを得ていた他の使徒たちによって常に順守されて

いたものである』と「断片」に書き残しているのです。  このことから判断しますと

パスカ Pascha を祝うことは使徒たちが教えたことであるということになります。

 

  しかしながら、ポリュカルポスとアニケトゥスの両者が示した一致の精神は、残念

ですが普及しませんでした。  むしろ Pascha をいつ祝うのかという暦のことで教会

の間では論争が生じて行くことになりました。

 

  次にディックさんはポリュクラテース書簡というものの内容を詳しく引用していま

すが、私はそれを翻訳してここに紹介するよりも、ポリュクラテースとローマ教会や

教皇との間に存在していた復活祭論争を説明した方が日本人にはわかりやすいであろ

うと、そのように判断しますので、ディックさんの本文から逸れて、論争そのものを

紹介しておきたいと思います。

 

  ある人々は(クリスチャンということですが) Pascha はユダヤ教の過越の祭りの

日、すなわち春の正月ニサンの14日に祝われるべきであると主張しました。

  ニサンは元来バビロニア暦の第1月で、捕囚後にユダヤ人の第1月となったもので

す。  ネヘミヤ記2章1節やエズラ書3章7節を参照して下さい。  古代カナン暦の

ビブで、太陽暦では3月から4月に相当します。  ユダヤ人の過越の祭りはこの月の

半ばごろに守られたとされています。

 

  しかし、ニサン説を採用しない別の人々は日曜日であればそれでよいとしました。

ある特定の日曜日というわけではなく、日曜日であればよいとしたのです。

  このことに関して復活祭 Pascha 論争の火種があったのです。

 

  エペソの監督(主教)ポリュクラテース Polycrates 190年頃の没年前にローマ

教皇のヴィクトル1世とローマ教会に宛てた書簡で過越の祭り(いわゆる復活祭)を

順守するかどうかに関して、すなわち復活祭論争書簡を書き残しています。

  ポリュクラテースは小アジアのニサンの月の「14日遵守派」の初期指導者でした。

14日が何曜日に当たろうと Pascha 復活祭を守るべしと主張したのです。

  上述のように、ポリュカルポスは使徒ヨハネからの伝統を継承しているのだcとの

主張が大前提になっていることを記憶しておいて下さい。

 

  その一方、教皇やローマ教会はニサン14日後の第1日曜日が Pascha 復活祭である

と主張していたのです。  まぁ最初は東の小アジアの教会と、西のローマの教会との

伝統に関する理解や習慣の違いなどから発生した見解の違いであったのでしょう。

 

  しかし次第に権力を伸ばし始めていたローマにとっては、何といっても使徒たちの

伝承を自分たちは受け継いでいるのだという誇りの上にいたのですから、使徒パウロ

や使徒ペテロの伝統に立って Pascha は日曜日であるcと主張したのです。

  カイザリア、ポントス、コリントス、ローマにこの件に関しての教会会議を召集し

てローマの慣習に従うことを決議したのでした。

 

  こうなりますと小アジアの監督(主教)たちは、ポリュクラテースを初めとして、

サルディスのメリトーンなども、使徒ヨハネ、使徒ピリポ、更に使徒ヨハネの直弟子

であるとされていたポリュカルポスなどを引き合いに出して同様に使徒権を主張し、

ニサン14 Pascha 説を擁護したのでした。  教皇は破門という脅しをかけました。

(エウセビオスの教会史 24.2-8 参照)

 

  論争は神学上の異論でもなく信仰上の異端でもないということでエイレーナイオス

の仲介によって結果的に分裂は回避されたのです。

 

  ポリュクラテースが教皇ヴィクトル1世に宛てた Pascha に関する書簡によります

と、『既にこの世を去った使徒ピリポとその娘たち、使徒ヨハネ、ポリュカルポス、

ラオディキアの監督(主教)で殉教者のサガリス、調査してもわかりませんでしたが

パピリウス Papirius 、サルディス監督(主教)のメリトーンら先覚者が、ニサンの

14日に Pascha を祝っていたように、また福音書に従って、これらから逸脱すること

もなく、これにつけ加えることもなく、我々は几帳面に、正確に Pascha 14日の日

に祝っている』cと主張しています。

 

  更に西暦 390年前後に編纂された仮私訳「聖使徒たちの慣行 5.3」によりますと、

『キリストの貴い血潮によって贖われた者たちの責務として我々が復活の日を、春の

彼岸に従って、正確にそして細心の注意を払って守り祝うことは当然のことである。

  しかし今や我々はユダヤ人と付き合いがない以上、我々が彼らの祭日をこと細かく

守る必要はもはやない。  ユダヤ人たちは、自分たちは日にち計算では完全であると

信じ切っているが、彼らは日にちの計算を誤ってしまっているc

  あなたがたは無知無学のゆえに過越の祭りを年に2回も祝っているし、または主の

復活の日を日曜日以外の普通の日に祝っているc』との記録があります。

 

  少なくとも西の教会では 325年のニケヤ教会会議でクリスチャンのパスカ Pascha

過越の祭り、すなわち現在風にいう復活祭の日にちに関する問題は、最初の満月後の

次の日曜日とするということで解決されました。  そうでなければ3月21日の春分の

日の次の日曜日とすることで同意を見ました。

  もちろん、ニケヤ会議の決定が聖霊の導きによらず、従って完全なものではなかっ

たということは、その後に起って来るある問題が証明しているように思えます。

 

  その理由と言いますのは、時々ですがユダヤ教の過越の祭りがキリスト教のパスカ

Paschal 復活祭の公式な日と重なる時があります。  しかし、そのような場合のこと

についてニケヤ公会議が決めたこととは、クリスチャンの復活を祝う日を一週間だけ

遅らせればよいということでした。  そのようにすることで教会は忌まわしいユダヤ

人の群衆と出会うこともなく、ユダヤ人たちと一切関係を持たなくてもよくなるから

だと、このように布告したのです。

 

  最近のことになりますが、具体的には2001年の過越の祭りは4月8日の日曜日でし

た。  その日は春分の日の後の満月の後の最初の日曜日でした。  そこで4月15日に

復活祭が祝われたのでした。  このように、極めて露骨で見えすいた反ユダヤ主義に

基づいたニケヤ会議の決定の悪い影響が、イェスの愛を象徴する日曜日にまで及んだ

ということは、これは実に不幸なことであったと言わざるを得ません。

 

  復活を祝う日をいつにするのか、どうするのかという日にち論争はこん日にまでも

続いているのです。

 

  「オマケ」情報になりますが「4月馬鹿  エプリル・フール April Fool's  Day

にも関係して来るのです。

  これはユリウス暦に関係があります。  西暦前46年に太陽暦が90日もずれていたの

でカエサル・ユリウスはアレキサンドリアのソシゲネスを招いて暦の改革を試みまし

た。  平凡社の大百科事典5巻の暦に関する欄に詳しく説明されていますが、一口で

言いますとユリウス暦にも欠陥があり、4年間で44分の進みが生じ、 128年目にまる

1日余分な日が「狂い」として生じることになってしまったのです。

 

  そのような狂いを放置しておきましたので16世紀に到って狂いは何と10日分に達し

てしまったのです。  このためローマ教皇グレゴリウス13世が1582年に暦学者たちの

智恵を借りて暦を修正し、誤差の修正が容易にできるグレゴリオ暦を採用しました。

 

  ユリウス暦で狂ってしまった10日分をグレゴリオ暦で修正するために、158210

4日の次の日を5日の代わりに何と1015日とし、それまで蓄積されていた10日間を

処理したのです。

 

  また、グレゴリオ暦のもう一つの特徴は、それまでの新年元旦であった4月1日を

1月1日としたことでした。  しかしこの大きな改革・変化をすべての人々が歓迎し

たわけではありません。  それまでと同じように4月1日を新年元旦として祝い続け

た人々も大勢いたわけです。  そのようなわけで、西の教会でそれでも古い暦に執着

する人々のことを「4月馬鹿、エプリル・フール」と呼ぶようになったのです。

 

  しかしながら、東のオーソドックス教会では、それまでどおりユリウス暦を使って

復活祭を割り出していました。  他の地域の多くの教会では西のローマの教会と同じ

ようにグレゴリオ暦を使い始めていました。

 

  しかし、復活祭の日にちがどうであれ、西の教会にも東の教会にも兎さんだの卵は

登場していませんでしたし、「イースター、Easter」という単語も全く知られていな

いものでした。  今の私たちは「イースター」しか使わなくなってしまっています。

 

  しかしこれはおかしいのです。  そこでこのことで更に考えてみましょう。

  Easter  イースター」は異教徒の祝日でした。  もう少し具体的に申しますと、

古代ギリシャ・ローマ時代やユダヤ教・キリスト教の世界から見て「異教徒」とか、

いまだにキリスト教に改宗していない未信者や未開人のことを「ペイガン pagan」と

呼んでいたのです。  それですから「イースター」という祝日は非キリスト教のもの

で本来あったということです。

 

  8世紀のイギリスの聖書学者で有名なイギリス教会史の叙述者でもあったベーダー

(Beda  673頃~735 尊者 Venerabilisの敬称)によりますと、Easter  イースターと

いう呼称はチュートン族(アングロ・サクソン)の春の女神で豊饒と曙をあらわして

いた Eostre に由来するとされています。

  そしてこの女神礼拝から切り離せない異教徒の信仰や慣習であった兎や鶏卵も付随

して来たと理解されています。

 

  この Eostre に関連があるのかどうか素人の私には全く判断がつけられませんが、

ギリシャ神話に Eos  という曙を意味する女神があり、ローマでは Aurora と呼ばれ

ていた女神と同じだと米国の百科事典には紹介されています。  女神オーロラは天馬

に曳かれて海の中から現れ、地球に曙の光りを輝かすcと信じられていました。

  両者ともに光や曙に関係のある名前ですし、Eostre Easter east も「太陽が

昇る東の方」とか「東から昇る生命の源である輝く太陽」などで共通点があるように

素人の私には思えます。

 

  Encyclopaedia of Religion and Ethics「宗教と倫理の百科事典」とでも仮私訳を

しておきますが、世界的に権威のある事典を所有しています。  その9巻や12巻には

この Eostre Aurora Eosなどを互いに関連づけて詳細に説明しています。

  そして更に当時のギリシャ、ラテン世界だけでなく、広くドイツや北欧の太陽神と

その息子たちや娘たちとの関係をも述べています。

 

  さて、ディックさんが『現在では Now』と題している後半部に移ります。

 

「イースターの兎さんthe Easter Bunny」に関することからですが、これは Eostre

女神自身に関係があるようです。  女神 Eostre の傍に早い時期から野兎のシンボル

が用いられていたそうで、多産・繁殖力・豊饒・肥沃などを表すものと考えられてい

たようです。  ヨーロッパ大陸、特にドイツ地方の農業神信仰では、春を祝う習慣と

の関係で野兎が古くから用いられて来ていたようです。  それをヨーロッパ移民たち

が新大陸・新世界アメリカに持ち込んできたとディックさんは述べています。

  北米では南北戦争が終わってしばらくした頃から「イースター・バニー」は米国の

復活祭に徐々に登場するようになったそうです。

 

  ディックさんがイースター・バニーについてある女性と話し合っていた時、彼女は

『仔兎はおとなしいし、人に害を加えるような凶暴な動物ではないし、無邪気だし、

純潔を象徴しているのではないかしら。  仔兎って可愛いしc』と語ったそうです。

 

  しかしながら、神さまを礼拝するということは、私たちた考えていることと同じで

はないということです。  むしろ、神さまが何とお考えになっているかということが

重要だと思います。

  仔兎が見た目にはどんなに可愛い小動物であっても、バニーが異教徒たちの信仰や

宗教にその始祖なり根拠を見いだすものであれば、そして悪魔が異教神信仰の黒幕で

あると考えてみれば、バニーは悪魔の考案品・発明品であるということになります。

 

  キリストの時代よりも遥かその前の原始時代から人間は太陽が再び戻って来ること

を、すなわち、長い冬が明け始めて、日が少しずつ長くなり始めたと感じ始める3月

下旬の春分の日の頃になりますと、人々はそのことを祝ったのです。  そして人々は

神々にその年の農作物の無事な成長と豊饒を願い祈ったのです。

 

  また、ある部族では闇の中で焚き火を焚いて恐ろしい暗黒に打ち勝つ光りの勝利を

祝ったのです。  これらはイースターの早朝礼拝の先行行為だと考えられています。

  原文では sunrise services です。  直訳しますと、太陽が水平線から戻って来る

時、昇って来るその瞬間に合わせて拝む宗教的行為ということになりましょうか。

  それは「富士山頂での御来光を拝する」という宗教行為や「伊勢の二見ヶ浦で元旦

に昇る太陽を拝む」宗教行為と言えば日本人にもよくわかることでしょう。  これが

「イースターのサン・ライズ・サーヴィス」という意味です。

  ここでいうイースターは農業女神 Eostre から派生した英語で、クリスチャンたち

が祝う主イェス・キリストの復活を喜び祝う Pascha とは異なるものです。  為念。

 

  次に鶏卵、玉子、広く欧米の教会で日曜学校の子供たちに派手な色彩に染め上げた

玉子を復活祭の日に配ったり、教会の庭に隠しておいて子供たちに捜させる茹で卵、

the Easter eggs のことです。  教会や家庭によってはチョコレート製の兎さんや卵

もあります。  私たち夫婦も若い時、熟慮せず、わざわざ米国から特別な染料を取り

寄せ、土曜日には沢山の鶏卵を茹であげ、染色して日曜学校の子供たちに配ったこと

があります。  伝統と言ってしまえばそれまでですが愚かであったと今は思います。

 

  さて、鶏卵も、多くの民族やその文化の中で、豊饒と肥沃、あるいは再生や復活を

あらわすしるしとして用いられて来ました。

  玉子に色をつけて楽しむという慣習も、イェス・キリストの時代より遥か古くまで

さかのぼることができます。

  エジプトやペルシャでは春分の日になると、新しい季節の到来を祝って色どられた

玉子を友人に配るという習慣があったようです。

 

  これらの伝統は、地域を遥かに越えて、言語や文化を超えて広く人々の間に伝えら

れ、受け継がれていったようです。

  スラヴ民族の間では金色や銀色に染められた鶏卵が用いられているそうです。

ポーランドやウクライナでは色も柄も単純なものが好まれているようです。

オーストリアの玉子には小さな植物の図柄が好まれて用いられているそうです。

ドイツでは、ドイツ人が大好きなハムを添えないで、緑色に染めた玉子が好まれて、

復活祭直前の木曜日、これはイェス・キリストが弟子たちの足を洗ったという伝説に

基づいた「洗足式 Maundy Thursday」の木曜日に配られるそうです。

アルメニアでは中身を抜いた殻に宗教的図柄を描いて用いる習慣があるとかです。

 

  更に、復活祭で最も人気のある伝統行事に「玉子捜し the Easter Egg hunt」とい

うものがあります。

  19代合衆国大統領ヘイズ(Rutherford Birhard Hayes 1822-1893年)が在任中の

1878年にホワイト・ハウスで「玉子捜し・玉子転がしegg roll」を主催したことから

有名になった慣習です。

 

  このような偽偶像崇拝・邪神崇拝もどきの行為を正当化しようとする理由・動機は

「卵がキリストのよみがえりを象徴するものだから」とか、「キリストの復活の時に

墓の大きな石扉が転がされたことを象徴するからだ」ということだったそうです。

 

  北米各地でこの時期になるとよく見られる光景の一つに町ぐるみの「イースター・

パレード the Easter Parade」という行事があります。  米国独特のものです。

  南北戦争勃発直前の1860年にニュー・ジャージー州アトランティック・シティーの

目抜き通りで始まったものです。  お金持ち連中が新しい春の到来を祝って新調した

服装を見せびらかす目的で練り歩いたことに発端があります。

 

  私が留学していた時にも、イースター当日になりますと、ご婦人たちが、若い人も

そうでないと思える人も、競って新しいドレスや帽子を纏って教会堂に集まっていた

ことを思い出します。

 

  しかし、初代原始教会時代には、復活祭の前の週にバプテスマに与ることがよいと

されていたようです。  信仰に入ることを願った者たち、すなわちバプテスマを希望

する者たちへの準備として教会は教会の教えの説明会を主催していました。

  いわゆる教理問答・カテキズムを受講する者たちは新しい純白の衣服を纏って教会

の教える教理の学びに臨んだのです。  ここからホワイト・ウィーク White Week

いう言葉が出てきて今でも残っているのです。

 

  更に、のちの時代になってヨーロッパのある国々ではイースターの日曜日に新しい

衣服を纏うと「幸運が訪れて来る」と信じられるようになったそうです。

  これらの慣習や言い伝えがアメリカの「復活祭行列・イースター・パレード」にも

新しいドレスや帽子を競って被るということにまで伝わっているのかも知れません。

 

  イースターのいろいろな伝統というものは必ずしも残留している異教神崇拝だけに

限られているというわけではありません。

  何世紀にもわたってローマ・カトリック教会はイースターの季節にいくつもの塗り

重ねを繰り返して来ました。

 

  4世紀~5世紀のスペインの裕福な婦人に巡礼者で修道女エゴリアと Egeria いう

人がありました。  別名はエテリア Aetheria など、いろいろな綴り方があります。

  聖地を3年間にわたって巡礼し、場所や風景を克明に記録たものを遺しています。

聖努日課や公現祭や復活祭をめぐる季節ごとの典礼、講話のしかたなど、当時の教会

生活を知る上で貴重な資料で、現在のカトリック教会の典礼刷新、特に聖週間の典礼

に大きな影響を及ぼしています。

 

  1884年になって彼女の日記の一部がイタリヤで発見されました。

その記録から、エルサレムでのイェス・キリストの受難と復活の週を覚え祝っていた

行為が克明に判明したのです。

  長文で割愛しますが  http://www.ccel.org/m/mcclure/etheria/etheria.htm  

詳しく紹介されています。

  仮私訳で「キリスト教歴史院 Christian History Institute」はエゴリアの日記を

Glimpses #129 で要約しています。  更に詳しく学びたい方は調べてみて下さい。

 

  こん日ではイースターの季節はイースターの40日前のレント・ Lent から始まりま

す。  日本ではレントという単語は殆ど知られていませんが、四旬節とか受難節とか

呼ばれており、「聖灰水曜日 Ash Wednesday」からイースター前夜までの日曜を除い

40日間を指します。  四旬祭・レントの始まる前日で謝肉祭・カーニヴァルの最終

日に当たる告解火曜日を Fat TuesdayMardi gras)と呼び、フランスのパリや米国

南部ルイジアナ州ニュー・オリーンズでは馬鹿騒ぎをします。  受難週に入る直前に

自己耽溺をするわけです。  しかしこの日に貪欲に飲食する人たちが翌日から禁欲の

生活をするかとなれば甚だ疑問です。

 

  この間の「聖週 Holy Week」中の毎日は何か特別な意味を持っていることになって

います。  キリストのエルサレム入城を記念する棕櫚の日曜日、キリストが弟子たち

の足を洗ったことを記念する洗足木曜日、キリストの受難を記念する聖金曜日、更に

復活祭そのものなどがあります。

  更にある人々にとっては、イースターから50日目の聖霊降臨祭・五旬節、すなわち

ペンテコステまでの期間を「聖なる週」「聖なる季節」として続けるのです。

 

  これらイースターの祝日なり季節を特別なものとして守り従うということに対して

ある人々は非難します。

 

  たとえば「ウォッチマン・マガジン The Watchman Magazine」で著者の J.R.Price

は今回この号で私が取り扱ったものと殆ど同じ情報を網羅していますが、プライスが

結論づけていることは、『主の是認と祝福を求める者は、人間が作りあげたそのよう

な儀式的慣習に従事するべきではない』と主張しています。

 

  プライスが主張することには正当なものが多くあります。  いくつかのあやまちも

あります。  しかし私はプライスがコロサイ書2章16節、すなわち『あなたがたは、

食物と飲み物とに関し、或は祭りや新月や安息日などについて、誰にも批評されては

ならない』を引用して非難している点に矛盾と言いますか、皮肉を感じます。

  コロサイ書で聖書が語っていることは、イースターであれ、祝祭日を順守するとか

しないとかは、それは個人の良心にかかわることであり、そのことを誰も「やれ」と

か「やってはいけない」と言っているのではないという点です。

 

  結論  Conclusion

 

  「クリスマス」と同様に、「イースター」というものは数多くの異教神信仰・崇拝

に深く根づいたものであることは間違いありません。

  しかしながら、クリスマスとは異なって、ニケヤ会議以前の初代原始教会における

キリストの復活を毎年祝うという慣習には数多くの証拠があります。  使徒的権威に

基づくものであるとすら言えるのかも知れません。

 

  更にまた、イースターは聖書が語る過越の祭りと極めて密接な関係があります。

それは、神さまがご自分の民を仔羊の血潮によって容赦なさったという十字架上での

出来事と結びついているからです。  福音と明白に匹敵するものを見落とすことなど

できないからです。

 

  しかしその一方で、キリストの教会が、異教徒たちの信奉する女神の名前をつけた

ラベルを張りつけたもので神さまを誉め称え礼拝するということは、これはできない

相談だと思うのです。  また、異教徒たちが信じ崇拝する偶像神の傍にあり、異教神

の象徴でもある卵だの兎といった汚染されたシンボルを用いて、私たちの真の神さま

を讚美するというのも全くおかしな話なのです。

 

  また、自分はクリスチャンであると告白する者たちが、そのような祝日だけ教会堂

に集まって来て神さまを喜ばせようとすることも、おかしなことなのです。

  新約聖書が教える単純明解な教えというのは、イェスを主キリストと信じる者たち

が少なくとも週ごとに集まってお互いを励まし合うことですし、それがエクレシアだ

と思うのです。

 

  そのような訳で、私は「イースター」という非聖書的な名前を主イェス・キリスト

の教会から拭い去り、どこにいるクリスチャンであっても仔兎だの染めぬいた卵だの

を拒否することを勧めたいと思うのです。  それらは毎年やって来るキリストの復活

パスカ Pascha を祝うことと全く何の関係もない異教の女神と異教徒たちのものだか

らです。

 

  その代わりに私は聖書的根拠と伝統に基づいて、復活祭をパスカと聖書的に呼び、

世界の隅々にまで及ぶクリスチャンたちと共に、過越の祭りの日曜日かそのすぐ後の

日曜日を復活の日とし、その日を厳粛に、そしてまた心から喜びの日として祝い守る

ことを提案したいのです。  世界のどこにいてもその日にクリスチャンたちが集い、

共に祈りを捧げ、讚美を捧げ、聖書を拝読し、神さまが私たちに与えて下さった比べ

ようもない賜物を感謝し、神さまと感謝の内に和解させて頂く機会とし、罪を完全に

赦して下さったことを覚え、究極的にキリストと永遠に一つとなることを覚える時と

するように訴えたいのです。

 

          デイック・ソウル Dick Soule <dick@peculiarpress.com>

 

                                         

 

  最初にお断りしておきましたように、今回の翻訳作業では私の方で数多くの資料を

補足して、日本の読者に著者の意味することをわかり易くする努力をしました。

殆ど共同著作に限りなく近いような翻訳文となりました。  ご容赦を。  野村基之

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