《主の道はつむじ風と嵐の中にもあり》

                  God's Way in the Whirlwind and the Storm

 

                              ナホム書1章3節

        マタイ伝8章23節〜24節、マルコ伝4章35節、ルカ伝8章22節〜25

 

    10月には優れた讚美詩人ウイリアム・クーパーが辿った厳しく寂しく辛い人生を

簡単に紹介しました。  更に詳しく紹介する計画で現在鋭意関連資料収集中です。

  11月にはクーパーを助けた讚美詩人で嘗ての奴隷船船長ジョン・ニュートンの生涯

  と、二人が住んでいたオルニー村に関する情報や、今では知らない人がいないと

考えられているアメージング・グレイス曲に纏わる情報を紹介しておきました。

 

  先週になってアメージング・グレイスの詩に全く別の曲が付けられていた具体的な

楽譜を二種類捜し出すことに成功しました。  世に出るまでの二人の詩人にも曲にも

知られざるさまざまな事情や背景があったと知り、苦悩の意味を考えざるを得ません

でした。

 

    晩秋には嘗て東京YMCA英語学校でご一緒に勉強し、旧八幡山基督之教会集会にも

出席されていた或る方が八ヶ嶽まで遠路遥々態々お訪ね下さり、今回は人生の複雑な

一面を共に改めて考え祈る折を与えて下さいました。  感謝でした。

 

    戦後10年程した頃には、フルブライト上院議員提案のフルブライト奨学金による

米国留学制度の恩恵を受け得た優秀なエリート日本人青年たちが渡米し始めました。

  けれども海外旅行や海外留学などは、当時の殆どの日本人にとっては不可能な時代

でありました。  余程のエリートか、金持ちの子供か、政治家や実力者の子供か、

頭脳明晰な者でない限り、米国留学など夢の中の夢のような話しでした。

  そのような時代に、神さまの不思議な一方的な恩寵によって、名も財も地位もない

私が聖書の勉強の為に渡米できたのは奇蹟だったと思います。

 

  20余日の船旅の後に目撃した米大陸沿岸に建つ絵本の中に出てくるような住宅に

先ず驚き、上陸して驚き、40日間のバス旅行中に目撃した景色に驚きました。

  戦前と戦中、そして敗戦直後の厳しさを潜り抜けた私にとって、絶対的物質量で

遥かに豊かな米国はただただ驚愕の国、敗戦国の惨めさを連続痛感する日々でした。

 

      然しそれらの体験の中でも、つむじ風・竜巻・トーネードーの規模の大きさも

ド肝を抜かれる体験でした。  突如として青空が真っ暗の闇に豹変し、サイレンが

一斉に鳴り響いて人々は恐怖心に駆り立てられていました。  住宅が巻き上げられ、

車が飛ばされ、太い樹木が根本からもぎ取られ、人々は全く無力でした。

 

  ケンタッキーでの三年間の学びを終えてロサンゼルスに移り、更に二つの神学校で

赤貧留学生生活を続けましたが、今度は西海岸特有の大規模な山火事の連続自然発生

に驚かされました。  一週間も二週間も燃え続ける炎の前に人々は絶望的でした。

 

      数百人の奴隷を満載してアフリカ西海岸から新大陸に向かって大西洋を横断中

であった奴隷船の船長ジョン・ニュートンを改心に到らせたのは荒れ狂うハリケーン

の大波とつむじ風であったのです。

 

  ニュートンが助けたクーパーも幼くして母親を失い、厳しい父親の下で辛い寄宿舎

生活を強いられ、学生たちにいじめられました。  就職時の圧力から精神を病むよう

になり精神病院に収容されました。  その総てはクーパーが自ら求めたものではあり

ませんでした。

  ニュートンも同じ年頃に母親を病で失い、その後の人生は基本的に同じような辛い

厳しいものとなって行ったのです。  どうして人に苦難が襲うのでしょう?

 

      災害=悲劇と私たちは捉えますし捉えがちです。  私も幼い時に父を喉頭結核

で失いました。  それが家族の崩壊に繋がりました。  辛いことが多過ぎました。

未だに毎晩のように恐ろしい夢、怖い夢を見ます。  やっとこの年になって少しずつ

災害の意味を考えられるようになり、苦悩の目的を理解し始めたと思っています。

「神の一方的な恩寵という定規」が存在することに気づき始めたからだと思います。

 

      どうして人には災害が突然のように襲ってくるのでしょうか?  その意味は、

その目的は一体全体何なのでしょう?  これは人類がこの世に生存している限り続く

質問であり、回答を得るのに一番困難さを覚える問の一つだと思っています。

  コリント前書1013節にはこのことを解く一つの単語「逃れの道」という言葉と、

それが示唆する意味が隠されているように思っています。

  遥か昔の旧約聖書のヨブも、『選るに選ってどうしてこの自分だけに次から次へと

苦難が襲いかかって来るのか』と真剣に悩み苦悩しています。

 

        私は私なりにその答を見いだそうと、マタイ伝8章23節〜27節とマルコ伝

4章35節〜41節およびルカ伝8章22節〜25節の記録を紐繙いてみました。  その時の

状況をマルコ伝とルカ伝が詳しく語っています。

 

  主イェスの弟子たちは、その日もイェスにくっついて歩き回っていたようです。

  そしてイェスと弟子たちの後には多くの人々が、恐らく男性だけでも数百人が、

ぞろぞろとついて歩いていたものと私は想像しているのです。

 

  巡回されるイェスがユダヤ教の会堂でユダヤ教の指導者たちとは違って正しい信仰

を説き、無知な大衆に希望を与える福音を語り、群衆のあらゆる肉体的疾病と精神的

  または人の心の奥底に潜んでいる煩いや欲望を癒し愛を与え続ける主イェスの姿

(マタイ伝4章23節〜25節と「信望愛」に留意)を間近に目撃し、評判の高いイェス

と共に一日中行動していた弟子たちは、何か自分たちもいつの間にかド偉い人間に

なったかのように錯覚し始めていたのかも知れません。  国会議員秘書たちや北朝鮮

の金正日の取り巻きらが悪事をしがちなのも、このような錯覚からなのでしょうか。

 

      一日の巡回の業が終わりに近づいた時、イェスは「弟子たちに向かって」船で

ガリラヤ湖を横切ることを提案されました。  付いて来ていた多くの群衆をあたかも

無視するかのようにです。  弟子たちにしてみれば『やれやれ』と解放感に捕らわれ

ただけではなく、『おいらは奴らとは違うんだ』とますます思い込み、置いてきぼり

を食らう羽目に陥った、疲れ切った大衆に対しては『ざま〜みやがれ』と秘かに心の

中で叫んだのではないかと思います。  私だったら多分そう思うだろうと思います。

  聖書は何も語っていませんが、一日中くっついて歩いた末に夕暮れになって湖畔で

捨てられることに結果的になった群衆にとってもそれは不満なことだったでしょう。

 

  弟子たちのこれらの反応は私の推測から出たものあって、聖書が語っているもので

はありませんが、『この世の奴らは滅びに到るのさ。  だけど俺さまはイェスを信じ

ているんだから大丈夫なのさ!』と思いこんでいるこん日の私たち「クリスチャンと

自称している者」たちにどこかで共通しているように思うのです。

 

  昔むかし日曜学校に通っていたからとか、昔ミッション・スクールに行っていたか

らとか、有名な〇X牧師に洗礼をして貰ったからとか、X〇教会に行っているから‥

エトセトラを自慢げに語る人があると思えば、私は凸凹福音教会に行っているからと

か、私はあの丘の上に新築されたデッケ〜ィ教会に行っているから大丈夫さ‥と豪語

して、この世の中のあらゆる出来事に関心も興味も示さないだけではなく、神の愛を

知らないだけではなく人間として最低限の尊厳も受けられないでいる世界中の多くの

人々の存在にすら憐れみの心を抱かぬ「自称クリスチャン」たちが圧倒的に多いので

はないかと私は考えています。  『私は大丈夫。私は天国に行けるのさ!』です。

  そこには『救いはイェスに在り、神から一方的に恩寵として与えられるものだ』と

いう基本的な理解も感謝も感動の一かけらもないのです。

 

      さて話しを戻して『これでやっと向こう岸に渡って暖かい夕食にあやかれる』

と弟子たちは考えたに違いありません。  何しろ主イェスと一日中歩き回ったので

もうくたくただったからです。  イェスは船に乗り込んだとたん熟睡してしまいまし

た。  その後に起ってくる恐ろしい体験も、またその裏に秘められていた深い意味も

察知出来なかった弟子たちは、『先生もお疲れになったのさ』と単純に考えたに違い

ありません。  ところがそこで事件が起ります。

      ガリラヤ湖は山脈を隔てた西側の地中海を経由して大西洋から流れ込む気流の

影響を含め、周囲の立地条件から突然に気象が急変し時化となることが多いのです。

弟子たちはイェスに出会うまではガリラヤ湖で漁をしていた漁師たちだったのです。

湖のことを一番よく知っていた人たちだった筈ですが、そのことをすっかり忘れて、

時の人イェスと一緒になっていることに有頂天になっていたのでした。

  空は暗くなり、風は激しく吹き寄せ、高波が船を遠慮会釈なく襲いかかり、船は

まるで木の葉のように揺れ、水が船の中にどんどんと侵入して来ました。

 

  吹き荒れる突風と船中に流れ込む荒波を目撃した漁師だった弟子たちが、イェスが

共に乗船されているということをすっかり忘れて、慌てふためく様子を聖書は淡々と

語っています。  余程ひどい時化となったのに違いありません。

 

      「自称クリスチャン」であれ、謙虚に恩寵を感謝して主イェスに従いたいと

願う者、キリストの弟子になりたいと願う者であれ、私たちの人生にも突然予期せぬ

嵐や暴風や時化が襲って来るのです。  それが「世の常」(コリント前書1013節)

というものでしょう。

 

  頭の中が真っ白になっていたのか、それともどうしてよいのかわからなくなって

いたのか、弟子たちは船の中に押し寄せる湖水を一生懸命に素手で全員が総動員して

汲み出そうとしていました。  そのようなパニック状態の中で、緊張状態のド真ん中

で彼等がふと見ると舳トモ(船頭部)で熟睡しているイェスの姿があったのです。

『先生、私たちの船が沈没して、私たちが死んでも、どうなってもいいんですか?』

 

      こうしてここで、『俺たちは主イェスの弟子たちだと』自称し、そのことを

誇りに思っていた弟子たちの本性が暴露したのです。  本当の姿が露見したのです。

  信仰者だ、信奉者だ、弟子だ、忠実なチャーチ・ゴーアズ church goers だなど

の化けの皮が剥がされてしまったのです。  『おいらはお前らとは違って主イェスの

弟子で天国直行組なんだ』と、岸辺に取り残された群衆を見ながら心の中で豪語して

いたものが名目上の信仰で、張り子の虎だったということがバレタのです。

 

  『私は善良なクリスチャンです。  私も昔むかしは日曜学校に通っていました。

中高校はX〇ミッション・スクールで、たまにはチャペルにも出席していました。

結婚式はキリスト教式でした。  凸凹福音教会に行っています。  献金もしてます。

〇X牧師に洗礼を受けました…』と同じ肉の信仰、見かけだけの鍍メッキ 信仰者です。

ここでは総て『自分が何をしたか、何をしているか』が中心の発想だからです。

      自分自身の内に潜んでいる恐ろしい罪、人間の罪の深さと恐ろしさ、罪の前に

置かれた人間の弱さ脆さと直面し、人には人を救うことなどできないという絶望感を

体験せず、人がもし救われるとするのであれば、それは自力本願・行為義認ではなく

唯ただ一方的に神からの恩寵によるのだという、魂の奥底からの悔い改めと救い、

十字架の恩寵を己自身のものとして体験することなしに、頭の中だけで、宗教儀式に

週一回が年に二回か三回参加するだけで、それで自分は善良なクリスチャンだなどと

錯覚している者には、あるいは『俺は教会の牧師だから天国行きは間違いないのだ、

僕は教会の役員で他の一般信者たちとは違うんだ』などと錯覚している者にとって、

この弟子たちの姿はどう写るのでしょうか?

 

      イェスに就いていくら知っていても、イェスを己の人生の舳先だと口先だけで

主張していても、それが己の人生に突如として襲ってくる試練の免疫剤になる訳では

ないと思うのです。  飾り物として、あるいは魔除けのお守りのようにイェスを人生

  の舳先に飾っておけばありとあらゆる苦難から守られるなどと錯覚している自称

クリスチャンが多いのではないかと私は考えています。  そして予期せぬ深刻な問題

が起った時に弟子たちと同じように慌てふためいてしまうのではないでしょうか?

 

      主が傍にいらっしゃることはわかっていても、そのお方が救い主であるという

確固とした信仰上の認識が私たちに欠落している場合が多いと思います。  観念的な

信仰、チャーチ・ゴーイング信仰、宗教儀式参加信仰の場合に、そのような時に人生

の危機が突然襲って来ると、弟子たちと同様にパニックになってしまうのです。

 

  総ての後ろに神さまがいまし、神さまの御旨があり、神さまの時間があり、神さま

の恩寵があり、神さまの計画があり、神さまの遣り方があるということを考えるだけ

の信仰上の余裕を失ってしまうのではないのでしょうか?  自分の人生は神さまの

御旨と愛の中にあるという基本的なことを忘れて、『選りに選ってどうしてこの私に

こんな問題が起こらなきゃなんないの!?』となってしまうのではないでしょうか?

 

  『なぜこの私にこのような嵐が起こったのだろうか?  神さまは私に何を教えたい

とお考えなのだろうか?  神さまの御旨は何なんだろうか?』と、謙虚に静かに御旨

を求める祈りの姿勢を執ることができないのでしょうか?  神さまの摂理の中に自分

は確かに居るんだから、今の苦しみの意味とその奥に秘められている神さまの私への

御心は何なのであろうかと、静かに問うことがどうしてできないのでしょうか?

『汝、静まりて我こそ神たるを知れ』と詩編4610節は諭しているのですが…

 

  また、どうしても答がわからない場合には静かに神さまを待ち望む姿勢を執ること

ができないものでしょうか?  『吾が魂は主を待ち望む』と詩編3320節は語り、

『主を待ち望む者は新たなる力を得る』とイザヤ書4031節は説いています。

 

      神さまの御旨を忘れること、神さまの愛が充分であることを忘れ去ること、

救い主の存在そのものを忘れてしまうこと…これこそ嵐がもたらす本当の恐ろしさ、

つむじ風の怖さではないのでしょうか?

  目と鼻の先にいらっしゃる睡眠中のイェスの姿を見ていても、それが自分にとって

かけがえのない救い主であり、創造主であるという信仰を完全に弟子たちは失って

いたのでした。

 

  結局のところ弟子たちの信仰は半信半疑の中途半端な信仰だったのではありません

か?  それなら私たちの「信仰」というものはどうなのでしょうか?

  弟子たちはその時そこで初めて『主よ、救って下さい。  私は滅びそうです!』と

告白したのでした。  悔い改めに到る道が与えられ、より完全な信仰に近づく道が

備えられたのだと私は考えます。  神の御旨を知ること、神の御旨を知りたいと願う

こと、これよりも大きな願いはないのではないかと私は教えられるのです。

 

      ピリピ書3章10節には『キリストを知る』ことの大切さが書かれています。

聖書が言う「知る」とは、「体験を通して知る、経験を経て知る、親密な関係を媒介

として知る」という意味であって、頭の中だけで「1+1=2」というように知識と

して知るという意味ではないのです。

 

  ガリラヤの湖の嵐は、驕慢であった弟子たちの信仰の成長に必要なステップであっ

たのです。  そこにも主イェスの彼等への愛のご計画の一部を読み取ることができま

す。  感謝なことだと思います。  ピリピ書1章21節の使徒パウロの信仰を讚美歌

 337『吾が生けるは主にこそよれ、死ぬるも吾が益、また幸なり』と謳っています。

 

  『神よ、どうか私を探って私の心を知り、私を調べて私の総ての思い煩いを知って

下さい。  私の心の奥底に悪い道があるかないかを調べ、私を永遠の道へと導いて

下さい』と詩編 13923節〜24節は祈ります。  主の御旨を知ることが第一です。

 

                    20021215  八ヶ嶽南麓  野村基之