或る後輩伝道者への私信 

                    《ガラテヤ書5章22  御霊の結ぶ実》

 

  五十余年も前に最初の留学先のケンタッキーで聖書を三年間毎日学びました。

その時にガラテヤ書5章22節の「御霊の結ぶ実」という聖句をほとんど毎日のように

聞かされていました。  耳に胼胝ができるほど聞かされました。  馬耳東風でした。

 

  それから三十年もして現在の八ヶ嶽南麓原生林のド真ん中に移住して来ました。

雪が私の背丈ほど降り積もったことも初めて体験しました。  深々と雪が降る暗黒の

深夜にバシッと音がするのを聞きました。  樹木が凍って立ったまま割れるのです。

  地面はコンクリートと同じように固まったままです。  保護した老犬たちが厳寒期

になると何匹も死にました凍土のために墓を掘ることができず困りました。  積雪の

重みに堪え兼ねて鉄骨ガレージの屋根を支える部分の鉄骨が何本も歪みました。

  それでも遅い春が海抜1050メートルのベタニヤ・ホームに登ってきますと、地面の

中から草花の芽が出て来るのです。  感動的です。  もぐらも活動を開始します。

 

  梅雨のころなりますと、時には降雨量が少ない年もあります。  またその反対に

多過ぎる年もあります。  寒冷地で農作には厳しいこのあたりの農民たちはその度に

困っています。  野菜の成育が止まってしまったり、ベト病という病気が流行ったり

するようです。  梅雨があけて夏が来ても山岳地帯で気象条件が安定しないので農家

は空を見上げる日が多いようです。  秋が来て颱風襲来の季節となるとふたたび天気

との闘いです。  稲刈りにも影響します。  颱風が過ぎ去ったあと、20メートル以上

もある唐松が根っこから倒れているのをあちこちで見ます。  植物と農民たちは共に

天候や気象条件に大きく左右されているのを移住後に初めて体験したのです。

 

  それに加えて人工的な問題もあります。  宅地開発という問題です。

樹齢を重ねていたはずの立派な樹木が片っ端から伐採されて行きます。  野生動物が

直接に多大の被害を受けますし、加害者の人間自身が同時に被害者にもなります。

 

  さて、ガラテヤ書が言う『御霊の結ぶ〈実〉』ということです…

東京・神奈川寄りの山梨県は葡萄と桃の名所として知られているようです。

  一個の桃が、一房の葡萄が、グラス一杯の葡萄酒が私たちの口にやって来るまでに

どれだけの仲間の桃の木や葡萄の木が枯渇して死んだり、腐って死んだり、切り倒さ

れて死んだり、地滑りで死んだことでしょうか?

  どれだけ多くの桃が出荷前に虫に食われてしまっていたのでしょうか?

葡萄は?  キャベツは?  かぼちゃは?  トマトは?  林檎は?  薩摩芋は?

 

  ガラテヤ書5章22節がさりげなく語っている「実」という単語を、私たちは熟考

したことがあるのでしょうか?  一個の柿が私の食卓にやって来るまでには、何千年

もの年月と何万本もの先輩や仲間の柿の木と何十万個もの先輩や仲間の柿があったと

思うのです。  時間をかけて、悪い気象条件に耐えて、農夫たちの祈りやあつい世話

があって、柿の実一個が私の食卓に登って来たのではないのでしょうか?

 

  主イェスへの信仰というものも、使徒パウロがガラテヤ書5章22節で、わざわざ

植物を例にとって語っているように、想像を遥かに越えるような長い長い時間と忍耐

と、もろもろの体験と祈りと服従というものががあって、少しずつ徐々に形成されて

行くものではないのでしょうか?

 

  硬貨を入れれば即座に飲料水が出て来たり、熱湯を加えれば即座に麺類が出来る

というインスタント時代に慣れてしまっている私たちですが、ことイェスをキリスト

として信じるという信仰生活に「即席信仰」というものはあり得ないと私は確信して

いますし、いま流行中の「ハレルヤ絶叫」ほど安っぽいものはないと思っています。

魂がこの世を去る瞬間にこそ「ハレルヤ」の一言を唇に遺したいと願っています。

 

  『神を知る、神を体験する、神の恩寵を体験する、福音の素晴らしさに触れると

いうことの余りの少なさに悔しい思いをしているのです』と、愛するある後輩伝道者

が書いて電子メールを送って下さいました。  今朝のことです。

  イェスとの信仰生活は、他の人間関係と同様に、「一緒にいることで」尊敬と信頼

と愛情が増すように、頭の中の知識ではなくて、体験を通してでしか学ぶことができ

ない性質のものだと思います。  己の一生を賭ける生涯最大の事業だと思います。

  焦らず、気張らず、なまけず、ゆっくりと、一生懸命にイェスのみを見上げて日々

の生活を通してイェスの素晴らしさを発見し続けて行くことだと思います。

 

  今の世代は、『より早くおとなになりたい』という欲望が渦巻く時代です。

早く大人になって、何でも出来るだけたくさん手に入れたいと願う時代です。

  健康を犠牲にしてまで大人になった時、私たちは稼いだお金で失った健康を取り戻

そうと薬に頼り、学童にもわかるような子供じみた愚かなことをやっています。

  早く早くと将来を目標に走り続けて過去と今という大切な時を見失ってしまってい

ます。  走り続けていた者が老人になって気づくことは、その人には、過去も現在も

未来も実はなかった、生きていたのかどうかすら、わかっていなかったということで

はないのでしょうか?  教会までこういう風潮に冒されてしまっているようです。

 

  若者が急いでも年を取れるわけでもありませんし、年寄りが若者に語れることは

「君は君で大丈夫だから急ぐな、焦るな、ゆっくりと」、「自分を他人と比較したり

人真似の誘惑に陥るな」、「主を待て」ということぐらいしかないかと思うのです。

  急がないで、焦らないで、樹木が育つように、恩寵の中に己を委ねて、善き羊飼い

主イェスとの人生を楽しみながら、一歩一歩進むことが、ヨハネ伝1010節が語って

いる「豊かないのち」だと思うのです。  ハレルヤはそのように告白することです。

  御霊が結ばせて下さる実の内容は、世界一のエゴイストの自分が一方的なご恩寵に

よって愛の人に創り変えられ、愛から歓喜、平安、寛容、慈愛、善意、誠実、柔和、

そしてセルフ・コントロールという、そのどれ一つとっても人の手では生み出せない

豊かなクリスチャン・キャラクター、品格が生まれ育つと示されているのです。

 

  最後に私の好きな讚美歌をご紹介しておきます。  日本では未知の讚美歌です。

    険しいドロミテ・アルプス山中の孤絶寒村で歌われていた昔の讚美歌です。

            英語訳のタイトルは Not So in Haste, My Heart! です。

 

           Not so in haste, my heart! Have faith in God, and wait;

             although He linger long, He never comes too late.

 

               He never cometh late, He knoweth what is best;

              vex not thyself in vain; until He cometh, rest.

 

          Until He cometh, rest, nor grudge the hours that roll;

            the feet that wait for God are soonest at the goal.

 

          Are soonest at the goal that is not gained with speed,

        then hold thee still, my heart, for I shall wait His lead.

 

    そんなに急ぐな焦るな、吾が魂(タマ)よ。  それより静かに主を待ち望め。

          主の時は遅く見えるけど、主が遅れなさることはないんだよ。

      主は一番よい主の時をご存知なんだ。  だから焦ったりするんじゃない。

      時が来ないからと文句たらたら言うんじゃないよ。  主を待つんだ。

      主を待つ者の足は遅いように見えるけど、一番早く着く足なんだよ。

              目標に一番早く着く足はスピードじゃないんだよ。

                  だから吾が魂よ。  主を静かに待ち望め。

 

      ★意味はこういうことになりましょうか…  楽譜希望者は野村まで★

  北米のメソジスト教会の古い讚美歌の中から何年か前に見つけ出したものです。