《イェスを知らないで死んでいった人々はどうなるの》

 

  30数年もお交わりを頂いている或る方から最近になって連絡がありました。

  私たちが生きた人間である以上それぞれいろいろな事情というものがありますが、

今回ご連絡を頂いた方の弟さんが癌で最近他界なさったという内容でした。

  そのことに関して、私が愛するこの方は私を信じて胸襟を開き、その悲しみの胸中

を打ち明けて下さいました。  私を信頼して打ち明けて下さったこの方のことを感謝

しましたし、書簡を読む内に私は落涙しました。

 

  そして涙するこの兄弟と、貰い泣きをした私の傍で、おそらく主イェスはこの兄弟

の嘆きを知り給うて共に涙して下さったであろうし、その後で更にこの兄弟を優しく

抱擁なさったのではないかと強く覚えた次第でした。

 

  1960年代後半から70年代初頭にかけて、疲弊しきっていた韓国各地で多くの人々

から多くを学ぶことができました。  とりわけソウル市内を流れる清渓川チョンゲチョン

下流の堤防に添って乱立していた人口6万人と言われていた清渓川貧民窟の中に居た

時には人々が涙する姿を殆ど毎日毎晩のように目撃し、私も涙していました。

 

  香港やフィリッピンや印度でも同じように涙するスラムの人々を多く見ました。

そしてその度ごとに私は涙される主イェス、イェスの涙というものをアジアのスラム

の中で考えました。  地団駄踏んでイェスに抗議したこともしばしばありました。

「イェスさまの涙」というのが私の心に焼き付いたままで現在に到っています。

 

  今回この愛する或る兄弟からの私信を頂いた私は「イェスさまの涙」をふたたび

見たように感じました。

  イェスの愛を知らないままで生きて居る人々は世界中に何十億人といます。

そしてその多くは独裁政権や独裁宗教や大資本が支配する地域に住んでいます。

世界中に憎しみに凝り固まった紛争や大量殺戮の報道が満ち溢れているのです。

それを私たちはゲームを見ているように瞬時にしてテレビ画面で無感動・無感覚状態

で目撃しています。  慣れてしまって哀怒の感覚すら失ってしまっています。

 

  虫けらのように犠牲になって行くそれらの人々のほとんどは、その生涯において、

聖書を読む機会もなければイェスの愛を知る機会すら与えられていないままです。

  万が一にも読むことができたと仮定しても、それは厳しい処分、恐らく死刑を意味

すると思います。

  イスラム圏諸国や共産主義が絶対支配権を振るっている中国大陸や北朝鮮などでは

聖書というものを手にすることすらが自分と愛する家族の生命や財産を自ら放棄する

ことを意味しています。

 

  その一方、そんなに外国の方に目を向けなくても、日本国内にも多くの考えなけ

ればならないこと、教会が答えなければならない問題が山積していると思います。

 

  たとえば、生まれながらにしていろいろな肉体的精神的障害を負わされている人も

あります。  途中で障害を背負い込まされた人もあります。  自分で選んでそのよう

になったわけではありませんし、いったんそのような状態になってしまうと、完全に

世間から忌民・棄民・厄介者として基本的な人権すら無視されたまま放置されます。

  そのために聖書を読めないし、イェスのことを知る機会も与えられないまま、生き

たままでいわれのないさまざまな差別を受け続けて、最後には独り寂しく死に到って

しまう弱い立場の人々がほとんどだと思うのです。  最愛の従兄弟がそうでした。

  私ごとで恐縮ですが、息子は大学卒業後こん日まで心を病む仲間に仕えています。

そういう関係で、ここで述べましたことを、私は個人的に肝に銘じているのです。

 

  あるいは在日コーリアンや中国人、その他のアジア各国やいろいろな国をもともと

母国としていた人びとも、この形式的民主主義国家日本で差別を受けています。

「韓流」などとテレビで表面上は騒ぎ立てていますが、留学生がアパートを捜そうと

しても韓国からの留学生だとわかると空き部屋が急に「満室」になるのです。

  アジア以外の中南米やアフリカからの留学生や商社員たちも同じような体験をして

います。  日本には西欧米白人だけを優遇するという人種偏見が根強くあります。

 

  最近までハンセン病の患者として差別隔離されていた人々とその家族もあります。

ベタニヤ・ホームで休息中の古い足踏みオルガンの所有者、宣教師アリス・ミラー嬢

や「東洋のナイチン・ゲール」と慕われたロダスカ・ワイリック嬢などは「癩患者」

として言語を絶する酷い差別に苦しんでいた人々を百余年前にすでに見舞って介護の

手を差し延べていました。  しかし現在でも殆どの教会は不当に差別され続けている

人々から目を背け、耳を閉じたままでいます。  そしてハレルヤと絶叫しています。

 

  また不幸にして実に一千年以上の長期にわたって時の権力者や為政者たちによって

不当に辱めを受けたままこん日に到るまで実質的に差別されて来た人々もいます。

  これらの方々に対してほとんどの教会は無知・無関心・無感動の状態にあります。

気がついたとしても、多くの場合、教会はその目を閉じ、聴く耳を持たず、もろ手を

差し出すことをせず、一切の関わりを拒んで来ているという事実があります。

  これらの人々を理解しようと学ぶ姿勢や、これらの人々に仕えるという姿勢を教会

は知らないのです。

 

  映画「ベン・ハー」の最後部で、不当に差別され生涯隔離されたままている人々が

住む薄暗い不潔な洞窟の中へ母と姉を捜し求めてベン・ハーが掟を破ってまで下りて

行くという感動的な画面がありました。  あの場面をイェスが私たちのために御国を

離れ十字架を目指して降りてきて下さったというお姿と重ねて見ますと、愛を動機と

した仕えるということがどれほど貴いものであるかを教えられ感涙したものです。

 

  これらの不当に虐げられている人々が聖書に接し、イェスの愛に触れるチャンス

はほとんどないのです。  主イェスは福音を伝播するために『全世界に出て行け』と

命じられました。  マタイ伝2819節の問題です。

 

  しかしイェスの教会はその教会が置かれている社会から自らをゲットー化して出て

行かないのです。  『教会堂に来い』と世の中の人々に呼びかけますが、人々の所に

出て行くこと、人々の必要を求めて出て行くことをしないのです。

  前述のように、イェスは『全世界に出て行って福音を宣べ伝えよ』とイェスの弟子

たちに託されたのですが、私たちキリスト者はほとんど動かないのです。  せいぜい

教会主催の特別伝道集会などというものをたまに企画して、『お前たち教会に来い』

とごまかしているのが現状です。  自分の腹を痛めることはいっさいしないのです。

  それですから、とりわけ虐げられている弱い立場の人がイェスの愛に触れる機会は

極めて限られているのです。  いつまでも救いのない状態に放置されているのです。

 

  創造主でいらっしゃる神が、クリスチャンでないそれらの人々にも、私たち信者

と同じように公平に生命をお与えになってこの世界に送られたのだと、そのように私

たちがもし本当に信じているのであれば、その同じ神が同時にそれらの国々や地域に

住む者に聖書を読む機会を与えないままで、或は現在の日本という形式的民主主義の

国の中に在って障害や差別を受けているが故に聖書を読む機会がほとんどないという

状態に生きている同胞たちが、聖書を読めないまま、イェスとその愛を知らないから

という理由で、神が彼らを裁かれ、そのあげくに永遠の滅びに送られるのだ!という

ように説いている多くの無責任な、聖書を浅く自分に都合の良いように解釈している

自称・他称「キリスト教徒」と多くの「イェスの教会」に対して、私は限りない絶望

感を味わうのです。  そこに私は「イェスさまの涙」を見るのです。

 

  このたび、私が親しく愛する或る兄弟から久しぶりに書簡を頂いて、その弟さんが

イェスの本当の愛を知ることなしに、体験することなしに、癌で先日逝去されたこと

を伺い、ご一家の置かれていた厳しい状況を思いながら、久しぶりで私はイェスの涙

を垣間見たように思ったのです。  イェスのものと自称・他称しているキリスト教会

に対するイェスの限りない失望・絶望の涙を見たように思うのです。

 

  ロマ書2章を殆どのクリスチャンも、そして多くの教会の牧師や指導者たちも、

深く考えないままで、職業的宗教人、すなわち、デスク・ワーカーの牧師の説明する

教会の説教台から、あるいは同じように教会の役員や先輩から、説かれたことを鸚鵡

同然に鵜呑にして信じ込み、『自分はクリスチャンになったんだからもう大丈夫』と

安堵し、聖書を自分で読んでみるという特権と責任を放棄している場合がほとんだと

思うのです。

 

  ロマ書2章で使徒パウロが説くことは、イェスの福音を聴いて信じて受け入れた者

たちが、イェスを知らない人々のことをどのように捉え、接したらよいのかという点

だと思います。  そして、それらの人々を神さまご自身はどのように公平に愛を持っ

て接しなさるかということを謙虚に学ぶことだと思います。

 

  『裁かれることのないのは私たちクリスチャンでよかった!  裁かれるのはイェス

のことを知らない人なんだ』などというような安易で身勝手な狭い了見の聖書解釈が

神さまの前には全然通じないということを肝に銘じるために書かれた章であるという

ことでしょう。

 

  今回の私に送られて来ました或る兄弟からの切々とした書簡をいくども読み直し

て「イェスさまの涙」を私は改めて再び考えることができました。

  私たちの創造主なる神は、私たち自称・他称クリスチャンという、とかくゲットー

に住む傾向のある独りよがりなけったいな人種が想像しているよりもはるかに大きな

お方であり、憐れみと公平とに満ち給うお方であろうかと、そのように考えなければ

ならないと私は思うのです。  ロマ書2章を皆さまはどのようにお考えでしょうか?