「新生児イェスには生まれて来る場所がなかった」

   =いわゆるクリスマスといわれている季節に際してのひとつの想い=

 

 

    幾週間かに亙って『聖なる民になる』ことに就いて学んで来ました。

11月後半部からは人為的行為によって人が救いを得られるというものではなく、ただ

神からの恩寵に依るということを考えてみました。

 

  私たちが何か行為を『する』とか、その反対に何も『しなかった』ということで、

私たちが「聖なる民」になるとか、なれるとか、なれなかったというようなものでは

ないことを考えて来ました。  それは神さまの恩寵によるものだと学んで来ました。

 

    私たちの先週の行動を考えてみても、昨日の言動を思い出してみても、私たちは

実は神さまを喜ばすようなことは殆ど何もしていないのです。  忙し過ぎるのです。

目を覚ました瞬間から床に就く時まで、「イェスさまのことなど本当は考える余裕は

全くなかった!」というのが正直な私たちの姿ではなかったのでしょうか?

 

    ルカ伝2章7節は、出産を控えたマリヤがイェスさまを産もうとしていた大切な

時なのに『宿屋カタルマイ にはイェスを迎える場所トポス がなかった』と語っています。

 

    「カタルマイ」というギリシャ語の名詞が「宿屋」を意味しているようなので

一応ギリシャ語の辞書で調べてみました。  名詞カタルマイは動詞「カタルオ」から

派生した単語のようです。  「カタルオ」は「物を投げる」とか「台無しにする」と

いうような意味を持つ動詞であるとも知りました。

 

    即ち、不特定多数の人々がふらりとやって来て、自分の持ち物をドッコイショと

投げ捨てるように置いてひとときの休みをとり、しばらく憩いの時をとった後、また

再び起き上がって何処かにフラッと出かけて行くcそのような場所を指している単語

だと学びました。  駅やバス停でチョットだけ腰を下ろして休み、列車かバスが来れ

ば、またそこから旅を続けて行くcという意味の、「誰であっても、いつでも、どこ

からでもフラリとやって来て、持ち物をポイッと投げ出し、しばらく休むことができ

る場所」というような意味が「カタルマイ=宿屋」だと知りました。

つまり、誰でも気軽に利用できる「公共の場、公共のスペース」という意味です。

 

    そのような「誰でも気軽に休める場所」が、今まさに生まれてこようとしていた

嬰児イェスにはなかったと聖書は語っているのです。  これは衝撃的なことです。

  道理でヨハネ伝1章11節で『キリスト・イェスは自分の所に来たのに、自分の民は

キリスト・イェスを受け入れなかった』と証言しているのです。

 

    それでは次に、私たちのことを考えてみましょう。

  まず、そのような「誰でも気軽に休める場所」というものが私たちの日々の生活の

場にあるのでしょうか?  そのように言われてみれば、そのような気軽な場所という

ものを見つけることは案外にむつかしいようですね。  職場にありますか?

 

    それなら家庭ではどうでしょうか?  居間というのがそれに近いでしょうかね?

忙しい夫婦が、すれ違いの多い親子が、それでも気軽にポイッと自分の持ち物を投げ

出して、警戒心なしで安心して憩える場所といえば、日本の場合は居間でしょうか?

 

    しかし、もしそうだとしても、そこでイェスさまが語られ、イェスさまのことを

考え、イェスさまのことが思われるのでしょうか?  私はそうは思いません。

  居間でイェスさまが思われ、考えられ、祈られ感謝されることは滅多にないと私は

思うのです。  私たちは余りにも忙し過ぎるし、物や金に追われっぱなしなのです。

 

    讚美歌 124番にありますように『御国をも宝座をも後にして降りにしイェス君を

受くる家あらず』なのです。  私たちは日曜朝に「教会ゴッコ」をしているのです。

「アーメン・ソーメン教ゴッコ」をしていることが殆どのようです。  イェスさまの

場所は私たちの生活の座にもないのです。  これは恐ろしい現実です。

 

    改めて書いてみたいと思いますが、そしていつも事あるごとに私は申しているの

ですが、聖書が全く語っていない1225日前後をイェス・キリストの誕生日だなんて

いうことにして、私たちは商業主義に冒されて、ドンチャン騒ぎをやっています。

  これも困ったことです。  燦多久朗寿だの、デコレーション・ケーキだの、カード

だの、クリスマス・ツリーだの、いろいろな色の電灯の飾りだの、プレゼントだの、

ジングル・ベルだのホワイト・クリスマスだのとc馬鹿騒ぎです。  異教徒の太陽神

の祭りをクリスチャンまでがその教会堂にまで持ち込んで来て騒いでいます。

  そして、そこに本当のイェスさまはおられず、神さまの計画の中で、豫言に従って

生まれられたイェスの誕生の意味を考えることもないのです。  イェス不在の狂気の

季節です。  そこにも「イェスの場」はないのです。  私たちは貧しく愚かです。

 

    コリント後書8章9節を読んでみますと、そのように貧しい私たちの為に豊かな

神さまが貧しい人の姿を採ってこの地上に下り、十字架の上で極悪人と共に贖罪の死

を遂げて下さり、そのことを通して貧しい私たちが豊かな者となれる道を開き備えて

下さったと、そのように教えられるのです。  これが十字架の恩寵というものです。

 

    今朝、私たちができることは、十字架の贖罪の主イェスを覚え、怖れ戦きつつ、

そして感謝と感動と感激に満たされながら、主の聖晩餐に与り、救われたことを感謝

するしかないのです。  このような者をも祝し清めて御用に用い給えと祈り願うこと

ができるのです。  心の中にイェスさま御自身の場所を備えるためにです。