《教会は箱じゃないんです》

 

  今までにいくどか同じ主題で私見を述べたことがあるのですが、あえてふたたび

同様主旨のことを述べてみたいと思います。

  すなわち、教会とはいったい何かということです。

 

a.  教会とは「箱」「容物」ではないということです。

 

「西洋式の建物で尖ったてっぺんに十字架の飾りがつけられている建物ではない」と

いうことです。  立地条件の良い広い土地があって、たっぷりとした駐車スペースが

あって、車椅子が自由に出入りできて、冷暖房設備が完備していて、ステンドグラス

の窓から柔らかい光線が差し込んでいて、オルガンがあって、たくさんの人々を収容

できる建物のことではないのです。

 

b.  次に、牧師という職業的宗教人が、主イェスの名前を騙ったり利用して、自分の

むなしい自己顕示を試みるための実験場として教会があるわけでもありません。

牧師や伝道者が自分の奇抜な個人的発想や願望を教会員を断れないような状態に追い

込んで、しかも主イェスの名を使って、強引に押しつける工場でもありません。

 

  プログラムの数を増やしてみたり、献金高を強調してみたり、出席数だの献金額を

グラフ用紙に掲示してみたり、教会堂の拡張や新築を強引に試みてみたり、牧師館が

なければ伝道奉仕ができないと錯覚してみたりするのは、これすべて職業的宗教人の

落とし穴なのです。  主の御名を利用して正当化するのですから困ったことです。

 

  また、牧師に「イエス・サー」とへつらったり、牧師を持ち上げたりする教会役員

たちというのも、仕えるべきはずの伝道者牧師を担ぎあげるのですから、これら役員

も同罪だと思います。  恐ろしいのは仕えることを忘れた宗教集団、宗教組織です。

 

  先日のローマ教皇逝去と新教皇選出の時に全世界に中継されたテレビ放映で私たち

も観覧したように、職業的位階聖職者たち、職業的宗教人たちが、赤や黒のガウンを

まとって、あたかも主イェスとそのエクレシアを代表するような顔をして、イェスが

ご存知ない宗教行事や儀式を営んでいるのを目撃していました。

 

  主イェスのエクレシアとは、十字架の贖いを信じ、そのことを感謝して受け容れた

者たちが、各自の信仰告白をして、罪の赦しの為のバプテスマに与り、聖霊の賜物を

頂き、この歪みきった世から救い出された者たちによって構成されているものです。

 

  教会とはローマに集まっていた職業的聖職者たちによって支配されるようなもので

は決してエクレシアは在り得ないものです。  牧師や組織が主イェスの名を利用して

自分たち権力集団に都合のよいようなことを中心に算盤を弾いて多くの善意の人々を

利用するために在るのではありません。  主イェスの名前を使って結果的に主イェス

の御心を痛め傷つけるような宗教的指導者が牛耳るものではありません。

 

  そのようなことを主イェスの名前を使って営むための建物が教会ではないのです。

赤や白や金の帽子や、赤や黒のガウンと帯を着用した、職業的聖職者たちを中心とし

て「箱」に集まっている人々だけを指して教会と呼ぶのではあり得ません。

 

  牧師とは「箱」の中で「アーメン・ソーメン教の教会ゴッコ」を操るショーバイ人

であってはならないのです。  「僕仕 ボクシ」なのです。  人に仕えることで神に仕え

ることを神から示され、そのことを喜びとする下僕でなのです。  教会員に勤労奉仕

を要求したり、金銭を要求したり、人々を支配する職業的ショーバイ人ではないはず

です。  そのようなことは聖書にもイェスにも全く関係のないことなのです。

 

  実際、教会堂、集会場というものは初期原始教会時代にはなかったもの、新約聖書

はそのような「箱」「容物」を知らないのです。  「家庭集会」が中心でした。

  ローマ帝国の支配者たちがその権力の維持拡大のためにキリスト教を利用した方が

よいと判断した時から集会用の絢爛豪華な「箱」という発想が生まれ始めたのです。

「箱」が出現すると職業的宗教人としての「祭司」や「牧師」が出現したのです。

 

  また、使徒たちも主イェスのすばらしい喜びと希望の福音を人々に伝えることだけ

に命を賭けた・懸けるために選ばれ、そのことのために命を捧げた人々でした。

彼らは決して赤や白や金の帽子をかぶり、黒や赤のガウンを着用していたのではない

のです。  そのようなことを主イェスは決してお考えにもならなかったはずです。

 

c.  使徒行伝2章1節以降をじっくりと読んでみますと、ペンテコステの日=五旬節

の日に、クリスチャンたちが一緒に集まっていた時、彼らの上に、それはグループと

して、そしてまた個人個人としての一同の上に聖霊が下りエクレシアが生まれたこと

を学びます。  そして特に36節~47節では初代原始教会の活き活きとした姿が描かれ

ていることに気づきます。

 

  ペテロや十一人の弟子たちの言葉を受け入れバプテスマされエクレシアに加えられ

たクリスチャンたちの数は、その日だけでも男が三千人以上いたようです。

  クリスチャンたちは弟子たちが語る十字架の出来事の意味の説明に聴きいり、共に

交わりを大切にし、愛餐を共にし、祈りを共に捧げていたと記されています。

 

  そして、お互いに畏敬の念が生じ、使徒たちによって奇跡がなされたのです。

人々は自分の資産や僅かな所有品を売り払い、信望愛に満たされ、お互いにお互いの

必要に応じて分かち合い、心を一つにして集会に出席し、自宅では人々を招き入れて

愛餐を共にし、神を讚美し、周囲の人々に好感をもたれるような日常生活をしていた

のでした。  そしてますます多くの人々が救われ、エクレシアに加えられていったの

です。

 

  そこには職業的宗教人が中心になって「アーメン・ソーメンの教会ゴッコ」をやる

必要もなく、そのようなことが行われていたと聖書は語っていないのです。

  あくまでも神の一方的な恩寵により、イェスを神の御子、救い主と信じ、公に告白

し、バプテスマされ、罪の赦しを頂き、聖霊の賜物を頂戴し、この歪み曲がった時代

から救い出された者たちが、とこしえの命を頂いたその喜びをからだ全体で表現して

いたのです。  エクレシアとは救われて祝された人々のこと、人々の状態のことなの

です。

 

  日々の生活の中で、生活の場で、イェスの恩寵によって救われたのだという喜びを

共にすることなのです。  決して「箱」や「容器」の外見的な大小や貧冨さではない

のです。  罪の縄目から救われたクリスチャン一人ひとりが中心であって、一握りの

職業的宗教人としての「牧師」や「司祭」を頂点とする組織や制度や宗教儀式が中心

ではないのです。  そのようなことを神の言葉である新約聖書は知らないのです。

 

  『教会(=教会堂なり集会場)に行く』というのではないのです。

私たち自身が、私たち一人ひとりがエクレシアを構成しているのです。

私たち自身がエクレシアなのです。  この世から「呼び出された者」なのです。

私たち自身が教会なのです。  このことを忘れたり、軽く考えないで下さい。

 

  『時間になりましたから「礼拝を」始めます』ではないのです。

私たち自身の在り方そのものが主イェスに対する礼拝そのものなのです。

ロマ書12章1節~2節には、何が本当の礼拝なのかが明瞭に記されています。

 

  コロサイ書3章17節は、「言葉であれ行為であれ、すべてのことを主イェスの名に

よって行い、そのことをとおして父なる神に感謝を捧げなさい=神を礼拝しなさい=

神に仕えなさい」と教えているのです。

 

  始まりと終わりの時がある一定の短い期間だけを「礼拝時間」とするようなことを

新約聖書は知らないのです。  「教会ゴッコ」は礼拝そのものではないのです。

 

  神への礼拝とは、日常生活の場で各自が一番よい方法で捧げるべきものです。

「教会堂」というゲットーに集まり、世間の人々から自分自身を切り離し、世間の人

を除外し、あるいは同じ会場に居合わせている兄弟姉妹と心を交わすことなく、兄姉

の存在を無視して、自分だけ形式的に「アーメン・ソーメン・ゴッコ」を繰り返し、

自己満足するのが礼拝ではないのです。  何のための主の食卓なのでしょうか?

 

  あくまでも私たちクリスチャン一人ひとり、主の恩寵によってその罪を贖われた者

たち一人ひとりが中心なのです。  私たちが信望愛を総動員して仕え合っている心の

状態を「教会」というのです。  終末が接近しているこの時、私たちは目覚める必要

があります。  皆さんはどのようにお考えでなのでしょうか?    次回に続く