《年の初めに思うこと》

 

  新年初めに際しこの地上での自分の命の短いこと、果敢ないことを、先週2日に

続いて考えてみましょう。

  そしてその儚い人生の在り方の中で、主イェスのエクレシア=教会を構成する自分

がどのように他者と一緒に信仰者として生きているのかを冷静に観察してみる必要が

あると思うのですが?  自分とイェス、自分と他者、そして自分と自分の問題です。

 

  詩編39編4節~7節は人の人生の果敢なさを語ります。  4節の「果敢なさ」と

いう単語を幾つかの訳から学んでみましょう。  詩編8947節~48節も参考にして‥

 

  各家庭の台所に包丁が一つだけということはあり得ないと思います。

少なくても二、三丁はあるはずです。  そうでないと毎日三度の料理ができません。

  しかし皆さんは翻訳された何種類の聖書をお使いになっていますか?

外国の言葉を翻訳するという事は極めてむつかしいことなのです。  I love You!

いう表現をどのように日本語に訳しますか?  いろいろな表現方法がある筈です。

  それと同じように一冊の聖書だけで神さまのメッセージをより深く味わおうという

のは無理な話です。  包丁が何丁か必要なように異なった訳の聖書を読みましょう。

 

  4節の「果敢ない」という単語ですが‥

文語訳聖書は「無情ハカナイ」、聖書協会の口語訳は「はかない」、聖書協会がローマ・

カトリック教会と組んて訳した新共同訳では「はかない」、一方いのちのことば社の

新改訳も「はかない」と訳しています。

 

  この点で、さすがに英語圏では数多くの異なった訳の聖書が出回っています。

  典型的なものとしての欽定訳(KJV) は「how frail I am」と訳しています。

frail とは「虚弱」「ひ弱」「壊れ易い」「脆い」「はかない」「意志薄弱」「誘惑

に弱い」、そして女性の「不貞」などを意味する単語です。

  すなわち、『私は何とfrail な存在なのだろうか!』ということです。

 

  次に、英語圏で訳としては極めて高い評価を受けている最新訳の聖書(仮私訳で)

「新国際版」(NIV) は「fleeting」と訳しています。

fleetingとは「駿馬のような」「快速」「飛び去る」「うかうか過ごす」「束の間」

「はかない」などを意味する単語です。

 

  仮私訳「米新標準訳聖書」(NASB)では「transient トランシェント」と訳していま

す。  ラテン語「trans =越えて」+「ire =行く」=「transit トランジット」と

いう単語も生まれています。  国際空港でトランジットという表示をよく見ます。

空港で飛行機を乗り換え、乗り継いでさらに旅行を続ける客のことで、「通過客」や

「横切る」「通過する」「越えて行く」などを意味します。

  それと同義語トランシエント transientとは「滅び易い」「はかない」「一時の」

「過渡の」「短期の」「短期の逗留」「短期滞在客」「渡り労働者」「季節労働者」

「一時期のこと」「一時期の人」などを意味します。

 

  米国ではスタインベックの作品 Steinbeckの「怒りの葡萄 the Grapes of Wrath

で主人公の季節労働者たちがカンザスの荒野から職を求めてカリフォルニアの果樹園

に出稼ぎに行き、そこで遭遇する悲惨な状態を描いています。

そのように、渡り歩く季節労働者のことを米国ではトランシエントと呼びます。

 

  脱線ですが、本来「怒りの葡萄」とは、神の裁きを意味する表現です。

すなわち、黙示録1419節に、『天使はその鎌を地に振り入れて地上の葡萄を集め、

神の怒りの大きな酒を搾る圧力器に投げ入れた…』(野村仮私訳)とあります。

 

  ここで上記 New American Standard Bible  が示唆するように、私たちの人生の

「はかなさ」を、トランシエント=「渡り歩く一時的な季節労働者」のようだと捉え

て詩編39編4節を読んでみますと、レビ記2523節、エペソ書2章19節、ヘブル書の

1113節や13章2節、更にペテロ前書2章11節で使われている「この世では通過者、

旅人、寄宿者、寄留者」という意味と殆ど同じ発想であることがわかります。

「旅人、宿れる者、居候イソウロウ 」という事です。  天に在る故郷を目指してこの地球

という惑星の上に一時的に宿り、そしてそこを通過している者という意味です。

 

  「はかない渡り歩く季節労働者」には二つの種類があると思います。

働き口を見つけようと彷徨サマヨ い歩き回りますが、仕事が見つかればそこに寄留して

一生懸命に働きます。  仕事を呉れた雇い主に対して労働を提供し役立ちます。

その代償として賃金を貰います。  こうして次から次に仕事を求めて旅を続けます。

 

  もう一つの種類の「渡り歩く人」というのは、自分では殆ど労働を提供しないで

他の人々から何かをできるだけたくさん手に入れてやろうと試みる人々です。

他人を利用しようとする人々、「ゴロツキ」とも「渡世人」とも呼べましょうか。

 

  そして、私たち信仰の世界に於いては、エクレシア=主イェス・キリストの教会を

次から次に渡り歩く人のことです。  教会を利用してやろうと試みる人々です。

自分からは何も教会とそこに集う人々に対して手を貸そう、一緒に力を合わせて共に

生きて行こうという姿勢を示さない人のことです。  教会から何をどのようにできる

だけ多く手に入れてやろうかと試みる人のことです。  自分の都合が悪くなると教会

を変えたり、点々と渡り歩く人です。  自分の教会を持たず、自分の信仰を共に賭け

ず、ふらふらと歩き回る人のことです。  職業的牧師も含まれているでしょう。

 

  日本でも米国でも、この種の「自称クリスチャン」は大勢いるのです。

「父親が病気だからお金を貸してくれ…」「母親の葬式に行きたいので金を貸せ…」

「刑務所から出てきたばかりだから帰郷費を貸して呉れ…」などが多いです。

何べんもお母さんが死んだ…ということを平気で嘘ぶく人もいます!

 

  そうでなくても、自分が大切にする群れや集会や教会を持とうともせず、あちこち

の教会を巡り歩く人もけっこう多いのです。  無責任だと思います。

  気が向いた時だけ出席して、何かを手に入れて、自分からは何も提供しないという

人も多いのです。  私は教会のために何が出来るだろうかということが言えない人、

言わない人が多いのです。   What can I do for my church? が言えない人です。

  困ったことだと思います。  こういう人ばかりが集まっているとすれば、そこには

何も誠実なもの、建設的なものが生まれません。  死んだ教会になります。

 

  二千年の主イェス・キリストの教会の歴史の歩みの中には、最初から現在まで、

このような種類の人々が多いように思います。  人が集まれば同じ問題があります。

テサロニケ前書4章11節~12節や、同じくテサロニケ後書3章10節~12節がそのこと

を証明しています。  初めからこのような人々が教会の中にはいたのです。

 

  イェスが帰天されたあとにエクレシア=教会が生まれました。

使徒行伝1章から2章にかけて、あるいは3章にかけてそのことを学びます。

  だが最初の二、三百年のあいだ初代原始教会は今日のような「教会堂」「集会場」

を知りませんでした。  まして「駐車場付きの教会」など想像を絶することです。

 

  最初の少なくとも二百年間は、それではどのように公同の礼拝を守っていたのかと

いうことです。  当時の殆どの人々は大ローマ帝国領土内をローマを中心として歩き

回っていたのでした。  兵士か行商人たち、奴隷や半奴隷たちでした。  殆どの人は

定住していませんでしたし、定住する住居など考えてもみなかったことでした。

 

  たまたま住宅を所有している人でクリスチャンであった人々が自分の住宅を解放し

て日曜の朝になると「主の食卓を中心とした公同礼拝」を守っていたのでした。

  そこでは誰彼の差別なく、身元調査をするわけでもなく、クリスチャンである‥と

いうことだけで受け入れ合っていたようです。

  殆どの場合クリスチャン以外の人々はめったに受け入れて貰えなかったようです。

一部の地方では、広い良い部屋(たとえば7~8メートル四方の部屋)に特権階級・

裕福階級が集まり、屋根のない中庭のような所にそうでない信者たちが集まったので

す。  屋根なしでは雨風が吹く時に空腹で貧乏な渡り人にはつらかったようです。

 

  それにもかかわらず貧しい信者や奴隷であった信者でも、最低一泊一食のもてなし

を受けることができたようです。  病人も治療を受けることができたようです。

  こうなりますと、怠け者の渡り者たちが自分をキリストに属す者=クリスティアン

と称して、集会やもてなしの場を提供していたクリスチャンたちの善意・好意を悪用

するのは当然のことです。  使徒パウロがこのことを厳しく警告したのです。

 

  人生の「果敢なさ」を象徴するように、これらの悪意に満ちた人々が教会や他者

を悪用するという、何ともせつない、はかない、寂しいことをやっていたのです。

  それらの人々には What can I do for you? for my church?  という語彙は欠落し

ていたのです。  『私は教会の為、あなたの為に何かお役に立てますか?』です。

  今の時代でも、主イェス・キリストの教会には、この種の人が多いようです。

 

  年の初めに際し人の命の「はかなさ」を詩編39編4節から学ぼうとしました。

そして「はかない」という単語は、英語訳聖書で読んでみますと「短期逗留者」とか

「渡り労働者」とも訳せるということを学びました。

  この地上での束の間の人生で、建築現場の労働者や果実園で実を収穫する労働者の

のように、雇い主であるイェスのために働いて次の世界、御国へと渡って通過者と、

ふらふらと人生を無駄に過ごす人やエクレシアを渡り歩いて自分のために主の教会を

利用する通過客タイプの人が存在していることを学んでみました。

 

  新しい年、私はどのようにしてエクレシアに仕え、共に歩むことを求めるのか?

これが問われているのです。  『まさか、この私が?』‥マタイ伝2622節です。