オルニー讚美詩集とアメージング・グレイスを謳った

元奴隷船の船長ジョン・ニュートンの生涯

John Newton, 1725-1807, and his Amazing Grace

 

 

 

    姪の一人が先日電子メールを送って来ました。  『アメージング・グレイスが

讚美歌だなんて知らなかったんですょ』ということでした。  全くそのとうりです。

キリスト教信仰の真髄に触れる讃美歌の一つなのです。  曲は心の奥に訴えますしc

  1020日号で紹介しておきましたが、作詞家クーパーと組んで、讚美歌史の中でも

有名なオルニー讚美詩集(以下讚美歌集)を纏めた人がジョン・ニュートンという

人だと紹介しておきました。  これまでにも幾度か礼拝席上でジョン・ニュートンに

就いて説明しておきましたが、今回ここに改めてジョン・ニュートンに就いてご説明

しておきましょう

 

  ジョン・ニュートンの敬虔な母はジョンが7歳の時にこの世を去ったのでした。

  地中海航海船の船長であった父はそのすぐ後に後妻を迎えることになり、息子の

ジョンを寄宿舎付きの学校に預けてしまいました。  無分別で厳しい教師との出会い

は幼いジョンの心を痛めつけ、勉強する気持ちを無残にも踏みにじってしまったcと

ジョンは回顧しています。

 

  ジョンが10歳になった時に学校を飛び出してしまい、翌年ジョンが11歳になった時

に父親の船に乗り込んで船乗りとしての人生を始めました。  こうして船乗り人生を

始めたジョンの青春時代は、多少の宗教心を残しながらも、全体的には船乗りらしい

波瀾万丈のものであったようです。幼くして自らの意志で学校を飛び出してしまった

ジョンは、後になって読み書きに相当に不自由を感じることがあったようです。

 

  さて、ジョンにとって、船乗りとしての典型的なパターン、すなわち酒色に溺れ、

反抗心に満ち溢れた「どぅーしょーもない」船乗り人生が始まったようです。

  14歳の時にイギリス人の女の子に一目惚れの恋に陥り、それから7年間は彼女への

ひたむきな想いがジョンを守ることになります。  この出会いは彼の後の人生にとっ

て大切なこととなります。

 

  1743年、ジョンが17歳になった時のことです。  格好のいい「海軍戦士殿」に憧れ

たジョンは結果的に徴兵されてしまいました。  地中海航路の船乗りであった父は

その影響力を行使して何とか息子を兵役から免除させようといろいろと手を尽くした

のですが成功せず、そこで息子のジョンを大英帝国海軍少尉候補生にさせるようにと

段取りをしました。  この方法ならジョンが海軍将校になれると父親は考えたからで

した。  尚、父親は大英帝国海軍の艦長さんだったという説を聞いたこともありまし

たが、残念ですが、今となっては定かではありません。

 

  しかし、息子のジョンにはおやじさんの思いは通らず、反抗し、自暴自棄に陥り、

兵舎から脱走し、逮捕・投獄され、公衆の面前で鞭打ち刑に処せられるという始末で

した。  このような経過を経たジョンにとって、落ち着く先は荒れ狂った船員生活と

いうことになりました。  これら一連の荒れた青春期を体験したジョン・ニュートン

は、ますます自暴自棄に陥り、自分自身を憎み呪う青年になっていったのでした。

 

  このようにして、大英帝国海軍は「ならず者兵士」ジョン・ニュートンを名誉ある

海軍から追放するに到ったことを喜び、元大英帝国海軍兵卒ジョン・ニュートン殿は

アフリカ航路の奴隷船の船員に身を落としたのでした。  数ある各種の遠洋航海船、

漁船、貨客船などの中でも奴隷船は最低・最悪の種類の船であり、職業でもあったの

です。

 

  ジョン・ニュートンは奴隷船から奴隷船へと渡り歩き、ある時には奴隷船の船員と

して、また或る時にはアフリカ沖の島々やアフリカ大陸で直接に奴隷売買の仕事に

従事しましたし、最終的にはジョン自身も奴隷船の船長にもなるのです。

 

  また或る時にはジョンは奴隷船を降りてアフリカ大陸西端シェラ・レオネ沖の小島

で白人奴隷商人の下で働かざるを得なくなっていました。  その白人には黒人奴隷の

妻や妾たちが大勢いました。  酒色に溺れ身を持ち崩し、どん底まで堕ちてしまった

ジョンは、その奴隷商人の下で厳しい辱めの生活を強いられていました。

  満足に食べる物を得る事もできず、半ば餓えた状態にいました。  白人奴隷商人の

奴隷妻や妾婦たちの男奴隷に自分自身を売り払ってしまっていたのでした。

  耐え難い困窮状態の中で、ジョンは14歳の時に出会った祖国の少女を思い出し、

また、あれ程までに反抗し尽くした父に窮状を訴える手紙を送り、それを知った父親

や幻の恋人の努力で、他の商船の船長によって贖い出され、ようやくそのような最悪

状態から救出されたのでした。  ルカ伝15章の放蕩息子の譬と同じです。

 

  奴隷船は、例えば、具体的に、英国から鉄砲や火薬などを積み込んでアフリカに

商品を届け、代金の代わりに金塊や奴隷を(嘗て今から半世紀も前の留学時代に習っ

た讃美歌史の教科書には 600人前後の奴隷だと書かれてあったと記憶していますが)

物々交換で入手し、船一杯に積み込んだ「積荷」を乗せて大西洋を越え、新大陸、

即ち南北アメリカで奴隷を売りとばし、そこでも代金の代わりに藍や米や綿や煙草

などを積み込み、再度それらを英国に運んで利益を得るという、いわゆるバーター

取り引きをやっていたのです。  奴隷の他にも、蜂蜜や蜜蝋、染料用植物類、香料な

ども貴重な船荷だったようです。

  例えば、英国・アフリカ西海岸・ブラジル・ニューファンドランドなどを沢山の

奴隷船が回漕していたのです。  そして寄港する度に巨万の富みが蓄積されていった

のです。  今とは違い、命がけの航海だったようですから船員たちも荒れ狂った者

たちばかりであったものと想像されます。

 

  1748年3月10日、23歳のジョン・ニュートンはそのような奴隷船に乗っていた時の

ことでしたが、時間を弄んでいましたので、トマス・ア・ケンピス Thomas a Kempis

  著の(オランダの修道士で、一種の「クリスチャン共同生活兄弟団」-仮訳-を

主張した霊的指導者、13791471)『キリストに倣いて』De imitatione christi

(邦訳:由木康)を読んでいました。  霊的な本ですから皆さんにも一読をお勧め

いたします。  当日、珍しくジョン・ニュートンは酒を呑んでいませんでした。

  殆ど文盲にも等しかったジョンにとって、トマス・ア・ケンピスの本を読むことは

難しいものであったと想像しますが、とにかくこの霊的修道士の書は、それまでの

荒れすさんでいたジョンの心を激しく打ったのでした。  著者の深い霊性に触れた

ジョンは、それ迄の荒れ狂っていた生活に軌道修正を促す動機を与えることになった

のです。

 

  それから間もなくジョンが乗っていた奴隷船は恐ろしい嵐に遭遇し、難破寸前まで

追い詰められて、ジョンを改心に導く体験に到る肥料役をこの本が勤めたものと言え

ます。  神さまの摂理と恩寵、聖霊の働きだといってもよいでしょう。  嵐が船を

襲った時、ジョンは他の船員たちと共に、朝の3時から昼の12時までの間、ずっと

浸水して来る海水の汲み出しに命がけの作業を挑むことになりました。  積み荷の

殆どを荒海の中に流してしまい、嵐の後の4週間というものは食べる物が殆どなかっ

たということでした。

  更に困ったことに、遠慮会釈なく押し寄せる荒波の中で木の葉のように揺られてい

た船に乗っていたジョン・ニュートンは、情けないことに、泳げない船乗りだったの

です。  荒れ狂う波の中にあっては、泳げても泳げなくてもそれはもう大した問題で

はなかったはずですが、それでも泳げないジョンにとって、これは更なる死の恐怖

だったのです。  祈ったのです。

 

  このような瀕死体験の中でジョン・ニュートンはそれ迄の過っていた人生を悔い、

改心し、万が一にも助けて頂けるものなら、今後は主イェス・キリストに従う者と

なるとの決心を固めたのでした。

 

  そのような厳粛な体験があってから後もジョンは、まだしばらくの間、奴隷船の

船長としての生活を7年間ほど勤めました。  船上生活で荒れ狂ったならず者の奴隷

船の乗組員30名ほどを相手に、日曜日ごとに朝夕二回礼拝する時間を設けたり、彼ら

の生活態度の向上にも心を配ったようです。  船長として教養を得ようと読書する

努力もしたようです。  基礎的な学校教育から逃げ出したままのジョンにとって、

船上で読書することは決して易しいことではなかったようです。

 

  しかし、基本的に、奴隷船というもの、奴隷船の仕事というものそれ自体が、一般

社会の意識や価値基準から考えてみて、良く見られるということなどあり得ないもの

でしたし、長期の洋上生活というものは、突然に、しかも絶えず押し寄せてくる暴風

雨や嵐、伝染病、それに乗組員たちの背信や反逆、更に奴隷たちによる謀反などの

危険を孕むものであったのです。  いくどかそのような危険を髪の毛一本ほどの差で

かろうじて逃れることができたようです。  或る時には乗組員たちがジョンの奴隷船

を乗っ取る計画を秘かに立てたようですが、首謀者の内の二人が突然に病に倒れ、

他の一人も病死し、謀略が発覚し、事なきを得たこともあったそうです。

 

    このような荒れ狂った生活と、自分が従事している恐ろしい非人間的な職業に

ジョン・ニュートンは深く思いを巡らし始め、次第にそのような恐ろしい生活から

足を洗いたい、洗わねばならないと、そのように願い始めたのでした。

  久しく心に想っていたメアリーと結婚することもできましたので、奴隷船の船長を

辞めたいと心から願うようになったのです。  1750年2月12日、ジョンが25歳の時に

メァリー・カットレット嬢 Mary Catlett と結ばれたのです。  そして幸いにも船が

英国に投錨した時に、重い病に罹ったということを理由に、ジョン・ニュートンは

遂に奴隷船を下りたのです。

 

  初恋のメァリーと結婚したジョン・ニュートンはロンドンから北西約3百粁の所に

ある港湾工業都市リヴァプール(「濁った溜り水」の意)に居を構え、そこで次の

9年間を過ごすことになります。

  この町はロンドンに次いで2番目に大きな貿易港です。  伝統的に印度やアフリカ

や南北アメリカなどとの交易が盛んな港で、古くから綿花や綿製品、食料品、肉類、

穀物、木材などの輸入や機械類の輸出で栄えた港湾都市であったのです。  背後には

ランカッシャーやウエスト・ランカッシャーなどの商工業都市を控えており、その輸

入・輸出港としてなくてはならない港だったのです。  ジョン・ニュートンはリヴァ

プールで潮の干満を調査する港湾当局の仕事を得ました。  そしてまたジョンはその

時期に聖書を真剣に読み始め、教会の牧会伝道者としての準備に励みました。

 

  リヴァプール滞在中に彼はジョージ・ホイットフィールド George Whitefield

強い影響を受けることとなります。  ホイットフィールド 1714-1770は、新大陸での

第一次信仰大覚醒運動Great Awakening にも大きな影響を与えた説教者です。

  それ迄の彼は大英帝国国教会の伝統の下にあったのですが、ホイットフィールドら

  の非英国国教会的影響を受け、非国教会 the Dissenting Churchesと英国国教会

the Established Churchとの間で揺れ動くことになりますが、最終的には英国国教会

の方を選ぶことになります。

 

  更にジョンは、体制的で教会の権威や宗教儀式などの色彩の強い大英帝国国教会内

にあって福音を一般庶民の間に伝えようとして「真面目運動・キチンキチン運動」

(メソディズム運動の仮私訳)を提唱していたウエスレー2兄弟の強い影響も受けた

のでした。

  兄のジョン・ウエスレーは新大陸にも足を伸ばし、幾多の危険を冒しながら、馬上

巡回説教伝道者として活躍していました。  また弟のチャールズは「讚美歌の父」と

呼ばれている人です。 (John Wesley 1703-1791, Charles Wesley 1707-1788)

 

  日本の教会を例にとってわかり易く言えば、一般的に庶民的な教会、「ア~メン」

や「ハレルヤ」や「主よーっ!」を絶えず繰り返す教会、キリスト教信仰と言えば

自分と神さまだけ、自分の救いだけ、或は自分に関係のある身近の人々の救いのこと

だけしか考えられなくて、自分が生活しているこの世界、自分が置かれている社会の

中で起っているいろいろな事柄などには殆ど興味も関心も示さないような信仰理解を

する教派教会、例えば、その代表的なものとして、御茶の水をエルサレムとする、

いわゆる保守的で、原理主義的で、福音派と自称する教会グループがあります。

  その一方で西早稲田に本拠地を構えて、ともすれば宗教儀式が先行し、理屈や論争

がとかくお好きな日本基督教団的な教会、絶えず社会問題や社会正義や弱小民族の

人権問題などを採り上げる傾向がありながら、自分自身の魂の救いや信仰の霊性面に

は殆ど関心を示さない傾向がある教会cとでも、相当に躊躇しますが、仮にそのよう

に二つの特徴を持った教会があるのではないかcとでも申しておきましょうか。

  別な言い方をすれば「クリスチャン新聞」や「百万人の福音」を購読し、「聖歌」

を主として使う教会と、「キリスト新聞」や「信徒の友」や「福音と世界」を読み、

おおむね「讚美歌」を使う傾向のある教会‥とでも「便宜上とりあえず」そのように

大雑把に申しておきましょう。  勿論、その他にも、このどちら側にも属さない教派

や教会が沢山ありますけれどc

 

  日本のこのような現在の教会の在り方がジョンの時代のものと全く同じであったと

は申せませんが、それでも伝統的な英米型の教会では、日本の教会を含めて、基本的

にはそんなに差はないものと思います。  さしずめジョン・ニュートンは、このよう

な異なった特色があった二つの流れを汲む教会の間で身の振り方を決めかねていたよ

うです。  結果的に大英帝国国教会の方を選んだのです。

 

    さて、大英帝国国教会の監督・僧正さまの根強い反対や抵抗があったようで、

ジョンは仲々に聖職者に就くことができませんでした。  ダートマス卿の好意を得た

ジョンは、紆余曲折の末、最終的に英国国教会の聖職者として認められ、ダートマス

  卿の強い政治的圧力で、渋るリンカンの僧正さまからジョン・ニュートンは按手

(牧師になる一種の承認式のようなもの)を受け、ダートマス卿支配圏内のオルニー

Olneyに就任することとなるのです。  こうしてジョン・ニュートンはその村に

1764年から1779年まで逗留することとなります。  オルニー関連情報は後述します。

 

  尚、余談ですが、このダートマス卿 Lord Dartmouth と、米国合衆国最高裁判所の

既得権保護重視姿勢を表す判例として有名なニュー・ハンプシャー州ハノヴァー市

にあるダートマス大学との関係を調べてみましたが、私の調べた限りでは、どうやら

関係なさそうです。  英国にはダートマスという地名や人名は多いようです。

 

  元に戻って、殆ど文盲に近かったジョンが聖書を読み、ラテン語や旧・新約聖書の

原語のヘブル語やギリシャ語を習い、説教の準備をするということは並大抵のことで

はなかった筈だと思います。  彼自身の努力もさることながら、妻の隠された内助が

あったことを過小評価することはできないでしょう。

 

  その当時の大英帝国国教会の聖職者たちが滅多にやったことのない方法や手段で

ジョン・ニュートンは福音宣教に励みました。  自分の村の教会堂だけではなく、

どこでも、とにかく大きな建物があれば、そこで「改心した船長」という触れこみで

福音を語ったのです。  ジョンは晩年ロンドンに移り住みますが、ロンドンやその

近辺の大聖堂であれ小さな教会堂であれ、説教に赴く時には必ず奴隷船員のいでたち

で聖書を片手に出かけて行ったと語り伝えられています。  「親分はイェスさま」の

先駆者?だったようです。  但し、現在の日本の一部の教会のように、極めて自己

顕示欲の強い、派手な自己宣伝をやったとはとうてい考えられません!

 

  大英帝国国教会の形式ばったものを好まず、大衆の中に入って行ってジョンは福音

を語ることを得意としていました。  常に自分の罪深い荒れていた人生を語り、神が

そのような自分を憐れみ覚え、どのようにして恩寵の中で自分を創りかえて下さった

のかをわかり易く切々と説いたのです。  ダートマス卿の承認を得て、卿が所有する

荘園別荘や大きな納屋を利用し多くの人々を招いて福音を語ったのです。

  庶民・農民をこよなく愛したジョンの姿勢は、それまでの国教会の礼拝形式や伝統

に拘らず、極めてわかり易く福音を説いたので、人々の共感を得て、教勢はどんどん

増えていったようです。  集会に参加する人々が増えたので教会堂の一部を増築しな

ければならなくなったそうです。

 

  当時の(そして現在も?)英国国教会では礼拝時に定められた祈祷書や交読文を

使っていました。  しかしジョンはそのような形式的なものを中心にしたものだけに

縛られることを決して好まず、沢山の讚美の歌を会衆一同と共に大きな喜びの声で

神さまに捧げたのです。  このことは当時としては画期的だったとも言えますし、

非常識な冒涜行為だったと誤解されかねない行為であったと想像するのです。

  国教会では定められた祈祷書を用いることになっていたそうで、「朝の祈祷文や

夕べの祈祷文を読めば人々は宗教的になる」と教会は考えていたようです。

  然し、このようなことで満足するジョンではありませんでした。  ダートマス卿に

おねだりして空家となっていた伯爵家の別荘を使い伝道活動を開始したのです。

  火曜午後には子供たちを集めて聖書を教え、夕べには老人たちに福音を語ったので

した。  このような型破りなことをする英国国教会の教区司祭などジョンの他には

一人もいませんでした。

 

  既に述べましたが、英国教会の規定祈祷書として使用されていたスターンホールド

・ホプキンズ書 Sternhold and Hopkinsからの詩編斉唱をやめて、ジョンが会衆を

教え導くのに相応しい、霊的要求を満たす、福音を単純明解にほめたたえる讚美歌を

用いたり、アイザック・ワットの讚美歌を採用したり、自分で作詞したものを使って

礼拝や集会を神に捧げるものに相応しくしようと努力をしていたのです。  これには

隣人で仲間のウイリアム・クーパーの協力があったことは当然のことでした。

    ワットは今では「英語讚美歌の父」の一人として考えられています。  日本語

讚美歌には17曲、聖歌には14曲が使われています。

  クーパーと組んでジョン・ニュートンが1779年に発表したオルニー讚美歌集は、

その翌年に発表されることになるウエスレー讚美歌と並んで、その後の全世界の教会

に大きな影響を与えるものとなったのです。  讚美のためにも、詩の朗読のためにも

暗記するためにも優れた信仰告白の詩集なのです。  軽視しがちですけれどもc

 

  脱線ですが、私たちの八ヶ岳集会で私たちが神さまに讚美を捧げる時に、そして

これは日本の多くの教会に共通している好ましくない傾向だと思うのですが、私たち

の讚美する姿勢はとても良くありませんし、表情も喜びに満ちたものであるとは決し

て言えません。

  自分の好きな讚美歌や聖歌、歌いたい聖歌や讚美歌がある筈だと思うのですが、

無感動・無表情・無感覚・無関心のような印象を受けます。  神さまに対して捧げる

感謝と喜びの歌、神さまご自身を讃美する歌だというのにです。

  讃美の詩を熟読しますと先輩たちの命がけの信仰姿勢を学ぶことができますし、

一つの讃美歌が生まれてきた背景を学び想像するだけでも感動するものです。

同じ詩でも讃美歌と聖歌では翻訳が違います。  同じ讃美歌と讃美歌II集と讃美歌21

とでも翻訳が違うのです。  調べるだけでも教えられます。

 

  日本の殆どの教会では讃美することの意味や大切さが殆ど理解されていなことを

憂います。  上手に歌いたいというと、すぐに技術的・テクニック的に安易に職業的

音楽家を招いて指導を受けなければならないとか、特別に訓練されたクワイヤー、

即ち聖歌隊を結成しなければ讚美できないとか、楽器や上手なオルガニストを導入し

なければ駄目だcというように誤解する傾向があるようですが、讃美を捧げる者たち

が、少なくとも今このひととき、他の人々と一緒であれ、自分自身独りであれ、自分

は聖なる神さまの御前に侍り出て、神さまを心の底から誉め称えているのだという、

厳粛でしかも歓喜に溢れる感謝の意識を持つことが必要だと思うのです。

  また、教会指導者も教会員のすべても、いろいろな種類の、いろいろな方法で、

神さまを讃美する歌を、教会全体がなるべく多く自分たちの信仰告白の一つの表現

方法として習得することに心を砕き、公同の礼拝であれ個人礼拝の時であれ、神さま

への讃美と礼拝を更に充実したものにしたいという願いと必要性を感じなければなら

ないと、そのように思うのです。

  私たちが御国に召されるまでに、少なくとも 300 500ほどの讃美の歌を知ってい

ます、神さまを褒め称える歌を学びましたと神さまに申し上げられるように教会全体

が真剣に取り組む必要があると、私個人はそのように考え、願っています。

神さまを讚美する歌の種類や数が限られているなど私はおかしいと思うのですがc

 

  ジョン・ニュートンは、自分で自分の心の奥底の声を歌いたいと思った時に既存の

讚美歌集の中に適切なものを見いだすことが出来ないと知ると、自分で作詞して讚美

の数を増やして行ったのです。  そのような作業を手伝ったのが先月20日号の週報に

紹介しておきましたウイリアム・クーパー William Cowper でした。

 

  ジョン・ニュートンと同じように幼くして母を失ったクーパーは悲しい幼少年期を

寂しく送り、自殺未遂を3度も繰り返し、精神病院に収容され、初恋の女性とは結ば

れる事なく先に天に見送ったのです。  そのようなクーパーをジョン・ニュートンが

オルニー村に引き取って一緒に生活したと先月20日号の週報で紹介しておきました。

然し、クーパーは当時の英文学界では有名な人物でもあったのです。

 

  前述のように、1779年に到りジョン・ニュートンとウイリアム・クーパーの二人は

二人の共同作品としてオルニー讚美詩集 Olney Hymnsを世に送り出しました。  英文

讚美詩集として極めて優れた歴史的な企画が実現したのでした。   349篇の讚美詩が

収納されてありその内の67篇がクーパーの手によるもので、残りはニュートンの作品

です。  ニュートンの巻頭言によりますと讚美詩集の目的は「真面目なクリスチャン

たちの信仰を昂め慰めるもの」だそうです。  讚美詩であって楽譜はありません。

 

    オルニー村の教会での伝道牧会生活を終えたニュートンはロンドンのセント・

メアリ・ウルノス教会 St. Mary Woolnoth Church の牧会者として余生29年を過ごす

ことになります。

    ここでの牧会から東印度への宣教師として有名なクロゥディアス・ブキャナン

Claudius Buchanan や、聖書注釈者のトーマス・スコット Thomas Scott などが生れ

ています。

 

  またこの頃、英国の有力政治家であったウイリアム・ウイルバーフォース William

Wilberforce らと組んで奴隷貿易廃絶運動を興しています。

  ジョン・ニュートンのこの変化・成長は、まず最初に、過去における自分の魂の

惨めな在り方に気づき、自分の魂が神さまからほど遠い、罪の多い存在であることに

気づき、そして自分の過去の罪のすべてを赦してくださるのはイェスであると信じ、

このイェスを主キリストとして、また彼自身の救い主として信じ受け入れたのです。

このことは極めて大切なことです。  まずこの個人的救いの確信を得ていたのです。

 

  然しながら自分の人生の経験と信仰体験が深まり、広まり、高まって行くに従い、

彼は自分が置かれている社会的環境、宇宙的問題、社会正義の問題に次第に関心を

深めていったのです。  こうして彼は信仰者としても一人の人間としても奴隷制度や

奴隷貿易の悪を忌み嫌う者と成長し、嘗て彼自身が奴隷商人であったということ、

更に一時期、自分自身が女奴隷に仕える奴隷その者であったという、人さまにも言え

ないような惨めで哀れな体験を経た者であるという意識と経験を踏まえて、奴隷貿易

廃絶運動を擁護・推進する指導者の一人と変えられていったのです。

 

  これはあくまでも私見ですが、ルカ伝1025節から37節までで主イェスが仰っしゃ

りたかった点と、38節から42節までで主イェスが諭された面を、ジョン・ニュートン

はその生涯に於いて上手に纒めあげていったと考えています。

 

  神に仕えると言いながら、世の煩いに心を奪われて自分の魂を御言葉の前に決して

差し出さなかったマルタと、旧約聖書を全部丸暗記する程に精通しながら、その実、

愛の社会的行為を全く伴わなかった律法学者の在り方の両方を鋭く指摘されたイェス

の言葉をジョン・ニュートンが奴隷貿易廃絶運動指導者に成長していったことと重ね

合わせて考えるのです。  信仰にはそれら両面が必要だと私は思うのです。

 

  前述のように、御茶の水の学生会館を中心とする諸教派も、西早稲田をエルサレム

とする教団とその関連組織も、共に主イェスさまの教会の一部を担っているのです。

決して一方だけに偏ってはいけないと思うのです。  主イェス・キリストの教会とは

そのようにちっぽけな狭いものではあり得ないのです。  コリント前書3章前半部や

12章を流れている使徒パウロの訴えからそのことがよくわかります。

 

  1807年にジョン・ニュートンは帰天しますが、この年に大英帝国議会は大英帝国の

総ての領土内で奴隷制度廃止を議決しているのです。  新大陸では当時の最西端僻地

であったケンタッキー州レキシントン郊外で開催された、米国教会史上極めて有名な

ケインリッジ・リヴァイヴァル・キャンプ・ミーティングが終わって数年たった頃に

当たります。  日本では文化3年、将軍徳川家斉が松前奉行を設置した年です。

 

  1790年に到りジョン・ニュートンに40年間連れ添っていた愛妻を癌で失います。

それからの19年間をジョンは独り寂しく過ごすことになります。

  1893年になって二人の遺骸はオルニー教会墓地に運ばれて改めて一緒に埋葬されま

した。  現在でも同地には花崗岩の墓碑が立っているそうです。

 

  文学的才能が完全に欠落している私に碑文を綺麗に紹介できるかどうか自信があり

ませんが、墓碑に刻まれている言葉を概訳してみますと次のような意味になります。

 

  『嘗ては神を信ぜず放蕩三昧に身を崩しし不逞の輩、アフリカ奴隷に仕えし者なり

しが、されどわれらの主にましまし、救い主にいますイェス・キリストの豊かな恩寵

により、罪の中にありし折でさえも護られ、死せる者どもの道から生き返らせられ、

  その罪を赦され、嘗てその信仰を打ち砕かんと久しく虚しい年月を費やししが、

実にその信仰を説かんがために任命されし牧師、ジョン・ニュートンの墓』

 

  余談ですが1947年以降、このオルニー教会では面白い習慣が始まったそうです。

受難節前の火曜日になると村の婦人たちや教会の婦人たちがパン・ケーキ(日本では

ホット・ケーキと呼んでいます)をひっくり返しながら村の中心地から教会堂までを

駆けて競うのだそうです。  優勝した者に向かって一同がアメージング・グレイスや

他のオルニー讚美歌を歌うのだそうです。

 

  1807年、ジョン・ニュートンが82歳で召天するまで、彼自身の惨めで哀れであった

人生を、それほどまで劇的に創りかえて下さった「驚くばかりの神の恩寵」、即ち

Amazing Grace に驚嘆と讚美を捧げ続けていたそうです。  この驚きと感謝の念こそ

がジョン・ニュートンの改心後の生涯を貫き通したテーマであったのです。

 

  ジョンがその終焉にさしかかろうとしているのを知った教会の秘書がジョンに、

『体力も視力も衰えてきているご様子ですから、そろそろこのあたりで御隠退を』と

勧めた時、『何だって!  この嘗てのアフリカの冒涜者の私が未だ喋れるというのに

黙れと命じるのか?!』と抗議したそうです。

  また、ジョンが死の床で漏らした最後の言葉の一つに、『私の記憶力は確かに衰え

ているが、忘れていないことが二つだけある。  その一つは、私こそ罪人の頭である

ということと、もう一つは、イェス・キリストこそが最も偉大で最も素晴らしい救い

主でいらっしゃるということだ』cだったそうです。  そして、彼は「偉大な人」と

いうよりも、「良い人 man of goodness」として敬愛されていたようです。

 

  アメージング・グレイス Amazing Graceの詩は6節から成り立っているもので、

Faith' Review and Expectation と題したものです。  『信仰人生の回顧と御国への

待望』とでも意訳すれば良いのではないかと詩文の内容から私は考えています。

 

  彼は嘗ての自分の罪深い人生が、ただ神の一方的な「驚くばかりの恩寵」即ち、

アメージング・グレイスによって全て赦され創り変えられたばかりでなく、当時の

欧米キリスト教世界が共通理解として待望していた、迫り来る主イェス・キリストの

  再臨と、イェス・キリストが支配される千年王国(黙示録20章)に思いを馳せ、

御国でイェスの「驚くばかりの恩寵」を永遠に讃美し続けるのだという確信を謳った

ものと思います。  (尤も、この願望を表す節は別人が加えたもののようです)

  そしてこの詩を支える聖句は歴代志上1716節と17節です。

  ダヴィデ王は入って行って主の前に座して言った。  『エホヴァなる神、主よ。

私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を

導いて下さったのですか。  エホヴァなる神、主よ。  この私はあなたの御目には

取るに足りない小さな者でしたのに、あなたは、このしもべの家について、遥か先の

ことまで語り告げてくださいました。』

 

  この聖句からジョン・ニュートンは自分自身の悔いのみ多い人生と、それを完全に

赦して創り変えて下さった神の絶大な「驚くばかりの恩寵」、即ち Amazing Grace

を褒め讚える詩を書いたのです。  今から45年ほど前のバイオラ聖書大学留学時代に

学んだ讚美歌史で、ジョン・ニュートンのこの詩に最初は英国で別の曲がつけられて

発表されていたが、広く歌われることは決してなかったと学んだ記憶があります。

  この原曲を捜し出す努力を現在していますので来週にも目処がたつでしょう。

 

  詩が大西洋を渡って新大陸に上陸し新大陸南部の綿畑で歌われていた一種の労働歌

 Loving Lambs と合体した時から一躍人々の間で歌われ始めたと言われています。

ヴァージニア・ハーモニーという歌集の中で、現在私たちが知っている曲を付けたも

のが初めて紹介されています。

  1831年にヴァージニア州ウインチェスターで発行された Virginia Harmony です。

編集者はJames P. Carrell David S. Clayton となっています。  19世紀代に南部

で発行された讚美歌集のどれにもアメージング・グレイスは出て来ていません。

知られるまでには更に時間が必要だったようです。

 

  さて、ここでアメージング・グレイスという詩にどのような曲(楽譜)がついたの

かに関しての情報を加えておきましょう。

 

  美しいアパラチア山脈の中に住んでいる友人で、ディサイプルズ教会の讚美歌学者

ディック・ヒューラン Dr. Dick Hulan さんと、私が所属しているアメリカ・カナダ

讚美歌学協会(仮私訳) The Hymn Society in the  United States and Canada

『ジョン・ニュートンの詩アメージング・グレイスに対して一番最初はどのような曲

がつけられたのか、現在知られている曲がつく迄にどのような曲が試みられたのか』

という質問を先週してみました。  前者からは即座に返事を頂きましたが、後者から

の返事には時間がかかることだと推測しています。  組織体ですから。

 

  前者からの回答によりますと、『1825年にケンタッキーで発行された或る歌集には

現在では良く知れ渡っている曲が書かれているが、上記のメソディスト教会牧師の

James Carellが書いたものではないことがわかっている。  然しキャロルは1821年に

別の曲集 tune bookを出版しており、Songs of Zion (仮私訳で「シオン歌集」と題

したものである。

 

    そのような訳でケンタッキー歌曲集 Kentucky Collectionの編集者はこの曲を

キャロルの歌曲集から入手していた可能性を排除できない。  然し問題は現時点では

キャロル歌曲集を誰も所持していないということである。  そのような訳でキャロル

歌曲集の中身を知る者がこん日どこにも誰もいないということである。

 

  1831年発行され数冊が現存していると考えられている貴重な Virginia Harmony

一冊を私が持っているので、その中から楽譜を複写して送ってあげることは可能だ。

 

  その楽譜は Harmony Groveという名で、アメージング・グレイスとは別の歌詞が

割りつけられており、ジョン・ニュートンのアメージング・グレイスという詩に対し

て割り振られた曲ではない。  然しそれは歌詞こそ違うが曲そのものは現在世界中で

歌われている有名なアメージング・グレイスの曲そのものである。

 

  私の理解では、その Harmony Groveという曲がジョン・ニュートンの詩、すなわち

アメージング・グレイスと初めて組んで世に出たのが1835年出版のSouthern Harmony

が初めてで、その時には Harmony Grove New Britainという違った名で発表された

のだ。  それも送ってあげよう。

 

  野村さんが訊ねてきた Loving Lambs という曲名は初めて聞いたもので今までその

ような名を聞いたことがなかった。  キャロルの歌曲集以前にもジョン・ニュートン

のアメージング・グレイスの詩にいろいろな曲がつけられて歌われていたようだが、

『これが最初の曲だっ!』と断言するのは正しくない。  最初は唯の詩でしかなかっ

たわけだから。  初期に歌われていたと思われる曲・楽譜の幾つかを捜してそのうち

にそちらに送ってあげよう』cと、このような返事でした。

 

  このような訳ですからディック・ヒューラン博士やアメリカ・カナダ讚美歌学協会

から新しい資料が届けばその時点で追加情報としてご紹介致します。

 

  尚、私が所有している約30冊のいろいろな英語讚美歌集でアメージング・グレイス

曲を比較し、そこに記入されている脚注を調べましたら、アーリントンという曲名で

歌われたていたと知りました。  聖歌 517「十字架の兵士たる」の曲でも歌っていた

ということになります。  Thomas A. Arne (1710-1778)が作曲したものです。

 

  また別の讚美歌集には、1829年に発行された Columbian Harmonyという歌曲集にも

アメージング・グレイスが掲載されていたようです。  この歌集では New Britain

いう名で編集されていたものと推測しています。  編集者は Shaw's and Spilman

なっていました。  歌曲集はケンタッキー州マディソンヴィルで発行されたものだと

その後の問い合わせにヒューラン教授が教えて下さいました。  Southern Harmony

は無関係だそうです。  この歌集に Shaw Spilmanの名を付けるのは、それより前

1825年にオハイオ州シンシナティで同じ名で出版された歌集があるからだそうで、

その方はテネシー州レバノンの人が編集したものだそうです。  混乱を避けるために

後から世に出た歌曲集にはショウとスピルマンの名が付けられています。  ショウと

スピルマンの名を付けた歌曲集で現存するものは1冊だけだそうです。

 

  義息チャック・パウロス Chuck Poulos さんの協力で知り得たホーム・ページから

入手した資料を含めて、ここでやや蛇足的脱線になりますが、オルニーやウゥーズ川

の情報をご紹介した後で、再びアメージング・グレイスの結論部に戻ることに致しま

しょう。

 

 

  

Top, left, John Newton.  Top, right, Newtonfs church at Olney.  Bottom, Plan of slave ship, drawn c. 1790.  Every available foot was used, giving a capacity of up to 600 Negroes.  This is only half the shipfs lower deck.

 

 

留学時代の教科書The Gospel in Hymns 125頁から

左上:ジョン・ニュートン 右上:オルニー村の教会堂

1790年頃の奴隷船下層船倉内での拘束奴隷の配置計画図

(図は前部のみで後部も同じような収容計画。上層部船倉も同じ)

 

 

Amazing Grace (2kb midi)

Amazing Grace (3.44 mb mp3)