《新しい身体、新しい体験》

 

  先週号紙面で述べておいたことですが、「死」=「永久離別」では決してなく、

主イェスに在る者の「死」=「復活」への入口であり、「復活」=「再会の喜び」で

あると述べておきました。  そこには喜びこそあれ怖れはあり得ないのです。

 

  コリント前書15章を初めから終わりまで、声を出してゆっくりと読んでみるのが

善いかと思います。  そこには主イェスに在って死ぬ者たちが、新しい朽ちることの

ない、この地球衛星上での脆くて壊れ易い肉体ではない、天的なからだを頂くことに

なるのだ‥ということを読むことができます。

 

  すなわち、私たちは私たちがこの世を離れる時、私たちは神の御国に転居するの

です。  お引っ越しをするのです。  そして主イェス・キリストが主催される王宮の

聖晩餐式、文字通り「主の食卓」に招待されて陪席するのです。

  そこでは私たちを主イェス・キリストとその恩寵を知ることができるようにと先に

いろいろな犠牲と執り成しの祈りを捧げていて下さっていた先輩聖徒たちと再会する

ことができるのです。  すばらしい喜びと感動の再会の瞬間です。

 

  問題は、それでは、私たちはその聖晩餐会の席で、私たちの救いのために犠牲と

なって下さっていた無数の先輩聖徒たちを認識できるのであろうか?という点です。

  もちろん私は天国に行って、再びこの地上に戻ってきたわけではありません。

それですから確かに断言できる筈がないではないか!‥と問われますと百パーセント

自信があるわけではありません。  そのような僣越なことを言うことはできません。

 

  しかし、私には、その一方で、ある種の確信があるのです。

  それは私たちがこの地球惑星を去って神さまの御国に移った時、すでに先に召され

ていた何十億万人もの人々、あるいは私たちの想像能力を遥かに超えるほどの無数の

聖徒たちと御国で再会して、共に主を讚美する時に、そこで初めて出会う者たち同志

が、お互いがお互いをあたかも何十年も知り合っていたように認識できる‥と、その

ように私個人は確信しているのです。

 

  それはマタイ伝17章1節以下にしるされている、いわゆる「主イェスの変貌」と

呼ばれている出来事から判断していることなのです。

  主イェスが弟子のペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて高い山に登ら

れた時のことでした。  イェスの姿が変わり、その顔が太陽のように輝き、衣装も光

のように白く照り輝いた‥と聖書が語っている箇所に注目したのです。

 

  三人の弟子たちは、変貌されたイェスがそこに出現した旧約聖書のモーセとエリヤ

とに語り始められたのを目撃した‥と、そのように3節は語ります。

  そして4節は、ペテロがイェスに対して三つの天幕(借屋)を設定しましょうか‥

と提案したとしるしています。  一つはイェスのため、一つをモーセのため、あとの

一つをエリヤのために‥と、そのように申し出たとマタイ伝17章は書いています。

 

  ペテロが生きていた時代より遥か以前のモーセとエリヤのことをペテロは正確に

認識した上でイェスに三人分の天幕の設定を申し出ているという事実です。

 

  モーセはペテロよりも約二千年も前にこの地上で生きた人でした。

エリヤはペテロよりも約千年も前に生きた人です。

ペテロがモーセとエリヤの二人に出会ったということは在り得ないことでした。

  それなのにペテロは、一度も出会ったことのない二人のことをどうして実に正確に

言い当てたのでしょうか?

  ここに私は天国で私たちが、この地上で一度も出会ったことのない、先に召されて

御国に移っていた聖徒をお互いが正確に認識できると信じる根拠を見いだすのです。

 

  この朽ち易い、壊れ易い地上を離れて(死を経てという意味です)、ヨルダン川

を渡って(彼方の御国の岸辺に移るという意味です)、朽ちない天的なからだに復活

して、そこでおびただしい数の聖徒の一人ひとりと出会い、お互いを認識しあって、

会話して、神さまの救いの御計画のすばらしさを改めて覚えて、讚美を捧げることに

なるのです。

 

  天国は再会の場であって、決して永遠に耐えられない孤独で希望のないところでは

ないのです。  先に召された方々と共に歓喜と感謝と讚美が終わることのない楽しい

状態が続くのが御国だと私は確信しているのです。

 

  主イェスはヨハネ伝1125節で『私はよみがえりでありいのちである』と語られて

います。  『私を信じる者は、たとい死んでも生きる。  私を信じる者はいつまでも

死なない』とも約束されています。  復活とは再会の喜びにつながっているのです。