《ホレブの山のエリヤさんから2題》

 

  私がよく読む聖書箇所の一つに列王紀略上書17章から19章があります。

特に19章です。  エリヤと同じように私自身の人生の愚かな歩みと忍耐強い神さまの

恩寵の対比を読み取ることができるように思うからです。

  神さまのために「大きなことをやった信仰の巨人」エリヤの姿を17章~18章は語り

ます。  19章になりますと「チッポケな海老のように縮んでしまった哀れなエリヤ」

の姿を見ます。  文句タラタラのエリヤです。

 

  行為義認行為(=救いとは神によって一方的に恩寵によって与えられるものである

ということがわからず、人間の空しい行為の積み重ねによって恰かも救いが得られる

かの如くに誤解して人の業をひたすらに追求しようとする根本的に間違った姿勢)を

追い求めるいエリヤの空しい姿勢です。  私自身の姿に酷似しているのです。

 

  山頂での異常体験の中に神を見いだそうとしていたエリヤに神が静かな細い声で

語りかけられ(12節=イザヤ書3021節参照)、『日常生活を営んでいる場所に戻っ

て神の仕事をするように』と説得されました(15節)。  『生活の場に戻って働け』

です。  日常生活の場で与えられた仕事を誠実に行うことが求められたのです。

 

  せっかく苦労を重ねて登頂したというエリヤに『元の場所に戻って仕事をしろ』で

した。  異常宗教体験の中で神に出会うというよりも、日常性を超越して日常生活の

ド真ん中で神と出会うということの大切さを教えていると私は思っています。

 

  行為義認主義に人が陥りますと異常体験の中に神を求めたがるものです。

  しかし神は私たちに、神のために、神と共に、日常生活の中で神に栄光を表すよう

に求めておられます。  そのことをコロサイ書3章19節は『あなたの為すことの総て

に於いてそのことを主イェスの名によって為しなさい。  そしてそのことで神に感謝

を捧げなさい』と勧めています。

 

  若い牧師(伝道者)さんたちが燃えつきてしまって陥る誘惑がこの行為義認主義

=無意識の律法主義があります。  やれ教勢を揚げるのだ、やれ集会数を増加するの

だ、やれ献金額を倍増するのだ、やれ人寄せ行事を増やすのだ、やれアメリカの大学

から学生に来て貰って英語を使って人寄せをするのだ、やれ教会堂を建て直さないと

人が来ないのだ、やれその前に牧師館を増改築しなくっちゃ駄目なんだ、エトセトラ

エトセトラ、これが実に恐ろしい罠なのです。  本人だけが気づいていません。

 

  人は行為義認主義という見かけのよい罠に陥りますが、また同時に見かけは実に

<霊的なように見える「敬虔さ」という罠>に陥ることもあるのです。神がかったよ

うな敬虔さという自己陶酔の中に身を置いてしまう危険性もあると、山上でのエリヤ

の姿がそのことに対する危険性を示していると思います。

 

  エリヤは険しい山頂に登り着いて「神さまにお会いしてみよう」と思ったのです。

一方、モーセは山頂の大きな炎を眺めて、「その中に神を見てやろう」と、驕慢不敵

にもそのように願ったのでした。  出エジプト記3章初めにそれらのことが記録され

ています。  神のいます聖なる場所に土足で乗り込んでしまった畏れを知らぬモーセ

でした。  神に属する聖なる領域に、罪ある私たちが異常体験を求めて接近を試みる

ということは、これは結果的に実に恐ろしい僣越な発想だと思います。

 

  罪ある者が神のようになる、なれるなど、一見すると霊的な願いのように見えます

が恐ろしい冒涜です。  それは結果的に主イェスの十字架の贖罪不要論に繋がるから

です。

 

  「何ごとをするのも主イェスの御名で、御栄光のためにする」ということの中に

は私たちの日常生活が含まれているのです。  神さまは台所にも、事務所にも、車内

にも、病院にも、学校にもいらっしゃるのです。  赤ちゃんのオムツを取り替えるの

も、寝たきり老人のお世話をするのも、イェスを信じていない夫にお茶を奢るのも、

イェスへの礼拝の一つの方法だと私は前述のコロサイ書3章17節で読みます。

 

  神さまは日曜日の朝だけ教会堂の中に通って来られるというのではありません。

私たちの日常生活の中に常にいらっしゃり、私たちが日常生活の一つひとつを誠実に

こなすことで神さまに栄光を帰すようにと求めておられるのです。

 

  神はエリヤが期待していたような異常体験の中にはおられなかったのです。

エリヤが期待していた神の御姿は、人間の力や智恵が到底及ぶことができないような

恐ろしい力の暴風の中にも、大地を震い揺さぶる地震の中にも、すべてを焼き尽くし

てしまう手の施しようもない猛火の中にも見いだすことはできなかったのです。

 

  むしろ「見えない、後ろから語りかける、静かな声」でエリヤを導かれたのです。

私たちも、日々の生活の中で、主と共に、主のために、主に仕えたいものです。

(列王紀上1912節とイザヤ書3021節を参照のこと)

 

                                             

 

  もう一つ旧約聖書の中から山に関連した聖書箇所を見てみましょう。

申命記1章6節~8節の言葉です。  (申命記というのは或る意味で、第2レヴィ記

またはレヴィ記後書とも言えるのではないかと、そのように個人的に思っています)

 

  ここでも大切な言葉、今ふうに言うキー・ワードは、7節と8節に出て来る動詞で

す。  前述のように、エリヤに神さまが言われたのは、『平常の生活に戻り、行って

私が与える仕事をせよ』でした。  Go back!」という命令形の動詞でした。

  申命記1章7節と8節の命令形の動詞も「Turn and set your journey, and Go!

『身をめぐらして=方向転換をして、私が与えると約束しておいた地を求めて進んで

来ていた本来の旅路を進み行き、約束されている土地を自分の物とせよ‥』でした。

 

  神さまがイスラエルの民に仰ったことを別の表現で言うと、『お前たちはこの地、

ホレブの山に長く逗留しすぎているのだ!』ということです。  『居心地の良いこの

仮住まいの一時的な天幕を畳み、荷物を纒め、山を降り、私が与えると約束した地に

向かってさっさと荒野を歩み出したらどうなんだ!?』ということになるのでしょう。

 

  イスラエルの民は、ホレブの山に辿り着いて、そこでキャンプを始めようと仮屋を

建てたのですが、けっこう居心地が良かったのでしょうか、いつの間にか約束された

地に向かって旅行中の旅人であるということを忘れつつあったようです。

  神さまに守られ、ご恩寵によって食べ物や飲み物も毎日与えて貰っているうちに、

自分たちが旅人・宿れる者であるという身分と、到着する目的を与えられている民で

あることを忘れ去ろうとしていたのでしょう。

 

  私たちも彼等と同じように、明確な行く先、天国を目指している巡礼者なのです。

しかし、彼等と同じように、いつの間にか仮住居であるこの世の生活に慣れてしまっ

て、天国を目指す巡礼者、旅人・宿れる者であることを忘れてしまいつつあります。

 

  ホレブの山ならぬ「教会」という「聖地」を築きあげて安住しているのです。

『全世界に行って福音を述べ伝えよ』(マタイ伝2818節~20節)という使命を忘れ

『命じておいた一切のことを守るように教えよ=学べ』という命令も馬耳東風です。

  ヨハネ伝4章35節が言うように『この世の終わりなんぞありませんよ』とでも言う

顔をしているのです。  私たちは山に長く留まり過ぎたのではありませんか?

テントを畳み目的地に向かって日常生活を「歩み出す」べきではないのでしょうか?