《葬儀で思う memento mori メメント・モリ》

 

      2004年6月30日~7月1日  南柏にて故吉良淳一氏の葬儀で述べたもの

 

  メメント・モリとはラテン語です。  何世紀にもわたる教会の警告です。

 "Remember you must die!" すなわち、『汝、死すべき身たるを覚えよ』とでも邦訳

しておきましょうか…『死を覚えよ』が直訳ですが…重たい誠実な言葉ですね。

 

  旧約聖書にアモス書という書があります。  今から約2千8百年前に書かれたもの

と言われている古い本です。  その4章12節は『汝の神に出会う備えをせよ』と厳粛

に進言しています。

 

  同じように、旧約聖書民数記2310節には、次のような願いが記されています。

これは上記よりも更に古いもので、今から約3千5百年も前の言葉かと思います。

『私は義人のように死に、私の終わりは彼らのようでありたい』

 

  葬儀の式場では詩編90編1節~17節を読み上げましたが、ここでは紙面の制限があ

り全部を書くことができませんが、ぜひ詩編90編を開いて熟読してみて下さい。

  聖書には私たちの人生について沢山のことを教えています。  その中でも私たちが

「どのように死んで行くのか」ということは、「どのように生きるのか」ということ

であると教えていると私は信じています。  後世への最大遺物が問われています。

 

  前夜祭で私はルカ傳19章1節~10節に記されてある取税人ザアカイについて語りま

した。  ザアカイは「背が低かった」と聖書は淡々と語っています。  背が普通の人

よりも低かったという事実がザアカイを取税人に追いやったのかどうかを聖書は全く

語っていません。  それですから以下は私の憶測にしか過ぎないと思いますが…

 

  人は自分で自分の顔形や性や氏名や親や国籍を選んで生まれてきたのではありませ

ん。  また、人は自分で好んで自分という性質なり性格を選んで成長してきたのでも

ありません。  誰も自分という一番大切なものに満足しているわけでもありません。

 

  背の低いザアカイも、自分のことについては同じような思いや悩みをしていたので

はないかなと私は考えるのです。  そして、人々に軽蔑され、差別され、辱められた

ことから、いつの間にか社会に対して復讐心を育ててしまったのではないのかなと、

そのように私は思うのです。  憎しみは更なる憎しみを招くだけでした。

 

  そのようなザアカイも、実は、心の奥底では一人の人間として受け入れられたいと

願っていたに違いありません。  寂しかったのに違いありません。  愛されることを

求めていたのに違いないと私は思うのです。  そのような孤独なザアカイにイェスは

目を注ぎ、ザアカイに声をかけ、ザアカイをありのままで受け容れたのでした。

救うべき人を捜し求めるイェスと求められていたザアカイとの劇的な出会いです。

 

  イェスの愛に触れたとたんにザアカイ(純粋の意)は生まれ変わったのでした。

それまでとは全く違った人間が生まれたのです。  いままで知らなかった優れた価値

基準を発見して、違った人生を喜びと自信をもって歩み始めたのです。

  人にはいろいろなトラウマ、他人さまには言えない人生の重荷を背負っているもの

なのです。  喜怒哀楽の人生、寂しい人生、脛に傷を持って私たちは生きています。

 

  吉良淳一さんは社会正義感の強い人であったとおっしゃった方々がありました。

それなりに私たちと同じように喜怒哀楽の人生を体験なさったものと想像します。

  しかしその人生の終わりにおいてご自分ご自身と、そしてまた親しい方との和解と

赦しを豊かに体験されたと、そのように伺うこともできました。

 

  このような宗教的な深い体験は極めて重要なものであると私は確信しています。

そのような体験をこの世の人生の終わりに際して味わいながら安らかに他界された、

お引っ越しをされたということは誠に感謝であり、拍手喝采であったと思います。

 

  祈って貰って、納得されて、平安と喜びを覚えて、神さまの身許に移られたことは

誠に感謝であります。  私たちも同じように深い宗教的体験を体験しながら天の国に

行く備えをしたいものです。  自分の意志に反する環境の中で生を受けた私たちです

が自分の意志で神さまを選ぶことが許されているのです。  善き選択を願います。

 

                《以上は前夜祭勧話要旨を記憶から纏めたもの》

 

 

                  《人は何者なので此を御心に留め給うや?

 

  先週号6頁~7頁で『memento mori  汝、死すべき身たるを覚えよ』という教会

の警告に就いて考えてみました。  恐らく千年以上も古い警告だと思います。

  民数記2310節、詩編90編1節~17節、アモス書4章12節後半部を参考箇所として

挙げておきました。  それらの聖書箇所を開いてどうぞお読み下さい。

 

  先週半ばに千葉県柏市で吉良賢一郎さんのお父さまの葬儀があり吉良さんの依頼で

ご奉仕させて頂きました。  ご遺体を火葬に付すために火葬場にも行きました。

 

  私は記憶しているだけでも20回ほど火葬場に赴いたと思います。  最初のは父親の

葬儀で京都東山の蓮華谷?にある火葬場から始まりました。  5歳でした。

 

  火葬に付されるために炉の扉が閉められる瞬間と、1時間少々で再び扉が開かれる

時の違いほど厳粛な瞬間はなく、そのたびごとに強い印象をもって迫って来ます。

  昔の火葬場には高い煙突があって煙が立ち昇るのを目撃することができました。

今は公害問題もあり、火葬設備の近代化も進み、背の高い煙突を見ることはなくなり

ました。  (火葬熱や煙は第二の炉で再燃焼し無害無臭無煙化しているそうです)

 

  それでも、待っている間に、空の彼方を眺められるようにと、なるべく独りで外に

出るようにしています。  そのような時に私は詩編8編4節の聖句を思うのです。

『人は一体全体何者なので御心に留めてくださり、顧みて下さるのだろうか?』と…

 

  順子さんのお父さんが94歳だか95歳で他界された時に都心の日蓮宗のお寺で法事が

ありました。  その時に、私個人としては尊敬している仏僧ですが、法話の中で正直

に言われました。  『お爺さんは何処に行かれたのでしょうかねぇ?』…と。

『最初の数日間はそこいらの草葉の陰にいらっしゃるのではないのでしょうか?』

『ご遺族の功徳によって、その先の行き先が決まるのでしょう。  極楽浄土になるの

か、餓鬼になるのか、いろいろとありますからねぇ』…と

 

  正直なところ、私はこの仏僧の正直な告白をたいそう気にいりましたし、尊敬して

います。  しかし、聞く人によっては、『それはないよ。  そんなあやふやなことを

言われたんじゃ困るよ…極楽浄土に行ったと言ってくれょ』となるのでしょう。

 

  私は、イェスを信じた者は、この地球惑星を離れた魂は、すぐにそのまま神さまの

身許に行くと聖書が証していると信じています。  死とはこの世から神さまの御前へ

のお引っ越しにしか過ぎないと信じています。  死後の霊魂がどこに行ってしまった

のだろうか…などと心配する必要は全くないと信じています。

 

  それよりも、私たちが考えなければならないもっと大切な質問があるはずだと私は

確信しているのです。  そのいくつかを思いつくままに述べてみましょう。

 

  それは、私たちの魂が何処から来て、何故この世に送られて来たのだろうか?

なぜ私たちは今この世に居るのだろうか?  どのような目的でこの世に生を受けたの

だろうか?  私たちが生きて居るということはどういう意味があるのだろうか?

 

  私たちは今どのように生きて居るのだろうか?  私たちはどのようにして自分自身

の死を迎えようと生きて居るのだろうか?

  私たちが今この世に生きて居るということはどのような意味があるのだろうか?

私が今ここに生きて居るというしるしは何なのだろう?  何をしているのだろうか?

  私たちは何を遺してこの世を去ろうとして居るのだろうか?

私自身の後世への最大遺物とは一体全体何なのだろうか?  どのようなものを遺して

この世を去ろうとしているのだろうか?

  善く死んで行くということは、善く生きるということではないのだろうか?

 

  自分の遺骸が炉の向こう側に送られる瞬間に、自分の愛する家族や友人が、生前の

私の存在のことで神さまの恩寵を感謝し、神さまを讚美してくれるのだろうか?

 

  私自身は遺体がむしろ献体されることを希望していますが…

  もしも火葬に付されることになるというのであれば、炉の扉が閉ざされて私の遺体

が焼かれる時に、扉の前に立って見守ってくださるであろう何名かの親しい人々が、

民数記2310節に書かれているように、『あのどうしょうもなかった野村さんだが、

ただただ神さまのご恩寵によって神さまの身許に引っ越して行くことができたのだ』

  『それだから、「私の終わりも義人のようでありたい」と私も神さまに祈りたい』

と、そのように願って神さまの恩寵を覚え讚美してくださるような、そのような去り

方をしたいものだと願っているのです。  いかがでしょうか?

 

  「虎は死んで皮を遺し、人は死んで名を遺す」と言いますが、私たちは神さまへの

感謝と讚美を遺せるような生き方を絶えず心がける必要があると思うのです。

 

  自分の子供たちが、自分たちを生み育ててくれた父と母を導いて夫婦として下さっ

た神さまに、そのことで神さまに感謝と讚美を捧げることができるような親であった

のだろうか…ということが問われているのだと思っています。

 

  『神さま、おやじはいろいろといっぱい問題を抱えていたおやじでしたけれど、

神さまのお導きでおやじはおふくろと結婚することができました。  そして私たちが

おやじとおふくろの子供としてこの世に生を受けることができました。  そのことで

神さまのお導きを感謝します』と、このように私たちの子供たちが神さまを讚美し、

神さまに感謝してくれるような生き方を私はしているのだろうか?

私の死が神さまのご栄光を顕すものとなるのだろうか?  このようなことです。

 

  吉良賢一郎さんの亡くなった淳一お父さんの魂は今どこにいらっしゃるのだろうか

と問いかける素朴で素直な気持ちを私は理解しないというのではありません。

 

  けれども、上記に並べてみたような問いかけこそ、私たちはむしろ真剣に自分自身

に対して今しなければならない質問だと、私はそのように信じているのです。

 

  「死んだら霊魂はどこに行くのだろうか?」ということよりも、「どのように死ぬ

のか?」=「どのように生きているのか?」が大切だと思うのです。

  聖書ははっきりと私たちの魂は神さまの御前に召されると確約しています。

このことで心配することは全くないのです。  これは感謝すべきことなのです。

 

  それよりも、「今をどう生きているのか?」を自分自身に問いかけるべきです。

信望愛に満ち溢れた生活を周りの人々と楽しく感謝して送っているのでしょうか?

他者に仕えることによって神さまに仕えているのでしょうか?

 

  神さまと、他者と、自分との関係をキチッと正しく理解して生活しているというの

でしょうか?  自分と他者と神さまとの関係を、罪と恩寵との視点で絶えずチェック

して真剣に生きているというのでしょうか?

 

  愛する自分自身の家族や子供たちを、とこしえの命を引き継ぐ者となるようにと、

真剣に祈りながら慈しみ育てているというのでしょうか?

 

  どのような事柄を、何を後世への最大遺物として遺すように意識して生きていると

言えるのでしょうか?  日々の生活の中で天に宝を積んでいるのでしょうか?

  聖霊が私たちの人生で結ばせてくださる人生の実とは、「愛、喜び、平和、寛容、

慈愛、忠実、柔和、自制である」とガラテヤ書5章22節は明白に述べています。

 

  Memento mori  メメント・モリ  死を覚えよ」…あなたは大丈夫でしょうね?

 

              《以上は告別式で述べたことを記憶から纏めたもの》