The Mayflower


                            《感謝祭に寄せて》

 

 

    欧州の白人たちが考えた新大陸・新世界アメリカ大陸で最初の感謝祭がもたれた

のは1621年のことでした。  今から 382年も前のことです。

  獨逸では30年戦争でした。  当時の日本は元和7年、徳川秀忠(台徳院)が将軍で

後水尾ゴミズノオ が天皇の時代でした。  京都ではキリシタン信者が火炙りの刑に処せら

れ、桂離宮や日光東照宮陽明門などの完成がまぢかく、狩野探幽が幕府の絵師として

二条城の襖絵を描いていた時代です。

 

  (勿論、アメリカ大陸への先着先住民側から見れば突然の侵入者ということになり

ますが、「新世界・新大陸」とは西欧からの白人移住者から見たという意味です‥)

  新大陸・新世界へのプリマス植民地でピルグリム・ファーザーズ Pilgrim Fathers

(神の新しい国を捜し求める巡礼者達の父祖とでも訳せばよいのでしょうが‥)たち

が上陸後に直面した最初の幾多の困難な厳しい冬を乗り切った翌年秋の収穫期に神に

感謝を捧げたことから始まった喜びと感謝の礼拝と祝いの日でした。  その後も毎年

この日を覚えて感謝祭が守られ、1789年には大統領ジョージ・ワシントンが新政府の

感謝の祝日と定めたものです。  今では米国の二大祝日です。  その直後が降誕節。

 

  新大陸で白人移住者たちが初めて目にした野生の七面鳥や、野生のクラン・ベリー

や、野生のカボチャや、鹿肉などを使って食材としたようです。  それらを使って、

先住民たちを招いて三日間に亙って祝ったことから、こん日に到るまでアメリカでは

内蔵をくり貫いて詰め物をした丸焼きの七面鳥に、クラン・ベリー・ソースを添えて

食べるという伝統が続いています。  日陰や酸性の強い砂地にも耐えるイワナシ類の

低木が群生しているのを発見したので利用したそうですが、私にはそれをどのように

先住民や入植者たちが利用したのか未だ調べていないのでよくわかりません。

 

  カボチャでパイを作ったようですが味の点から余りおいしくなかったのかも知れま

せん。  今ではハロゥインの時にカボチャの中身をくりぬいて、中に蝋燭を灯して、

玄関先に飾る習慣があります。  食べるより実用的なのかも知れません。

 

  何年か前にベタニヤ・ホームで学童たちのために丸焼きの七面鳥とクランベリー・

ソースの食事を用意したことがあります。  ベタニヤ・ホームのオブンが小さ過ぎる

ので七面鳥はホテル・オークラに注文しました。  東京までの特急往復料金の他に、

小さな七面鳥の割りに目玉が飛び出すような料金を請求されたのを覚えています。

これは余談です。  米国では感謝祭以外にも、クリスマスの晩餐に七面鳥とクランベ

リー・ソースの組み合わせが同じように用いられ、食卓の中心になっています。

 

  さて、巡礼者たちを載せた 180(英屯?)の帆船メイフラワー号 The Mayflower

1620年8月4日・15日にイングランド南のサザンプトン港 Southampton, England

出港しました。  日にちの違いは、当時使用していた旧新カレンダーの違いです。

(トンには大トン=英屯と、小トン=米屯と、メートル屯ありメイフラワー号のトン

が英屯なのか米屯なのか調査不足で現時点では不明。  多分英屯。  お許しを乞う)

 

  メイフラワー号より一回り小型の帆走船スピードウェル号 the Speedwellが伴走し

たことを今では知る人は少ないようですが、酷い浸水のために8日目にダートマス港

Dartmouth harborに両船は引き返してしまいました。

 

  8月22日・9月2日、両船は再度大西洋横断に挑戦しましたがスピードウエル号は

遠洋航海に適していないとの最終判断でプリマス港 Plymouth に再び戻り放棄されて

ました。  この時、乗客たちの一部は大西洋横断と新世界移住の夢を諦めてしまいま

した。  これも余り知られていない事実です。  その後どうしたのでしょうかね?

 

  9月5日・16日に到り、メイフラワー号だけが三回目の大西洋横断を試みるために

プリマス港を後にしたのです。  乗客と船員合計 102名が乗船していました。

新大陸・新世界到着まで66日間の長い厳しい航海でした。

 

  メイフラワー号は11月8日・19日に現在のマサチュセッツ州ボストン市の東南部に

ある竜の落とし子のような姿をしたケイプ・コッド Cape Cod 半島、コッド岬を目撃

したのでした。  出発してから大西洋横断に2ヶ月もの長い苦しい期間を要したので

した。  半島突端がくるっと内側に巻いている湾内の天然港、今は上陸記念地として

保存されているプリンスタウン湾Princetown Haborに入港したのでした。  入港日は

1110日・21日でした。

 

  上陸用の小舟を修理し、水と薪を積み込み、沿岸一帯の調査を開始しました。

調査の結果1210日・21日に到って現在で言うプリマス港が上陸定住地として最適で

あろうとの判断が下され、その五日後にメイフラワー号の投錨となったのでした。

 

  翌年1621年3月25日・4月5日にメイフラワー号は帰路につき無事ロンドンに戻り

ました。  1624年に同船がロンドンにあったことまでは記録されていますが、その後

の消息は途絶えました。  今では天国の歴史資料館に展示されているのでしょう。

 

  メイフラワー号に乗船していた家長男性客は、氏名は省略しますが、41名でした。

これに召し使いの男性?(奴隷?または半奴隷?)が14名いました。

  その中で半数の男性が長い航海と上陸後の極限状態の中で死去し、翌春には半分の

50名しか生きていなかったそうです。  その内の4名が女性だったそうです。

  生き残ることができた男性の殆どは20歳代と30歳代の若者たちだったと記憶してい

ます。  女性不足といいますか女性不在といいますか、最初の数年はいろいろな面で

極めて厳しく困難な日々であったのだろうと推測します。

 

  それ以上の詳しい記録を記してあったメモを迂闊にも最近紛失してしまいました。

米国の或る仲間にこの件で問い合わせたいのですが、今は感謝祭休暇期間が始まった

ばかりで「全米の全民族の大移動の季節」です。  それでも私のおぼろげな記憶では

乗客 102名のうち子供が確か  ほどいたと記憶していますし、翌年春まで生存できた

子供の数は20名前後ではなかったかと記憶しています。

  長い航海でヴィタミン不足などの栄養失調に陥り病死した人たちもいたようです。

上陸できた人の殆どは飢えに苦しみ、体力を使い果たしていたようです。

 

  先住民たちから見れば、今までに見たこともない人種の人間を発見したのです。

しかも衰弱しきっている状態で突然に色白な人間集団が忽然と出現したのです。

  然し先住民たちは、今までに見たこともない上陸者を遠慮会釈なく殺戮したという

のではなく、言葉が全然通じなくても、暖かく救いの手を差し伸べたのでした。

このようなことを語る書物は少なく極めて残念なことだと思います。

 

  先住民たちは侵入者たちに食事を提供し、食べられる植物や動物を教え、新世界で

の農耕方法を教え、狩猟の仕方を教え、居住区の建築を手伝ってくれたのでした。

  先住民たちの援助がなかったならば、移住者たちは、恐らく差し迫っていた最初の

厳しい冬を乗り越えることは到底できなかったことでしょう。

 

  移住して来た白人たちで、かろうじて何とか生き残れた者たちが最初の厳しい冬を

乗り越え、春から夏に畑を耕し、秋になって待望の最初の収穫を迎えることができた

ので収穫感謝のひとときを迎えたのですが、その席に先住民たちを招いたということ

は、彼らのそのような暖かい援助に対する感謝の念が込められていたのでした。

 

  残念なことですが、この恩義を白人移住者たちは間もなく忘れ去り、先住民を蹂躙

することになるのです。  彼らの土地を奪い、彼らの地から富みを奪い、先住民たち

の多くを殺し、動植物を奪い去るという暴虐の限りを尽くしたのです。

  悲しいこの歴史を今のアメリカ合衆国という国に住む白人たちは完全に忘れ去って

いるようです。  自分たちの先祖が侵入者であったことを忘れています。

それは、私たちがアイヌの人々にして来た多くのことと同じなのでしょうけれど。

 

  余談になりますが、1919年(大正8年)来日のローズ先生 E.A.Rhodes のご先祖の

一人は先住民に対して尊敬と理解と愛を持って接した数少ない牧師でした。  ローズ

一族の歴史を記した The Roads Back Eastに確か記載されていたと思います。

 

  さて、乗船・渡米・定着民の殆どは元来イギリスの分離派のピューリタンたちでし

た。  英京ロンドン北方約百四、五十粁のあたりにあるノッティンガム Nottingham

地方の中にあるのだろうと思いますけれども、私が所有しています数冊の分厚い地図

帖には、寒村のためか、ノッテンガムシャーのスクルビーという部落名を見いだせま

せん。

 

  平凡社の百科事典によりますと、農民たちはジョン・ロビンソン牧師や地元の名士

ウイリアム・ブルースターらの影響の下で信仰を養いましたが迫害に会い、オランダ

のライデン(これも地図帖での発見は不能)に亡命したようです。

  然し、オランダでの生活苦や婦女子の教育問題で悩み、ライデンの住民たちの希望

者と共についに新世界・新大陸への移住を決意するに到ります。  渡航にはロンドン

の富豪の援助を得ることができました。  これらの人々40名(その内35名は教会員)

が渡米したのでした。

 

  上述のように新世界到着後の最初の厳しい冬を越せないで死亡した者は半数に達し

ました。  指導者ブラッドフォードが自らを「旅人・宿れる者・巡礼者」と自称して

いましたので、一同にもピルグリム・ファーザーズという呼称が与えられたのです。

 

  最後に、清教徒と邦訳されているピューリタンたちのことですが…

1640年〜1660年にかけての一時期、英国では君主制が否定され共和制となったことが

ありました。  英女王エリザベス1世の英国国教会中心主義 Anglicanism、ローマ・

カトリック教会とスイス・ジュネーヴの宗教改革者カルヴァン(カルビンとも呼ばれ

ている)が唱えた改革運動との中間を採りたいとした動きを、不十分・不徹底な宗教

改革と考えて、スイスの宗教改革のように徹底した宗教改革を英国にも導入しようと

した運動の中心的役割を果たしたプロテスタント(抗議者)に付けられた、どちらか

というと蔑視的な渾名アダナ のことで、「浄化者」「潔め派」「糞真面目派」などとも

直訳できるかなと思える呼称のことです。

 

  新大陸に渡ったピュリタンによって持ち込まれたこの清教徒革命の理念は、英米の

近代文化と思想の形成に重要な役割を果たしました。  特にカルヴァン主義の予定説

や開拓者精神と一緒になってアメリカ文化や建国精神(=開拓精神)に多大の影響を

与えることになって行きました。  新政府の民主主義、人権意識、信仰の自由や宗教

的寛容さ、社会契約観念、資本主義の形成などに大きな貢献を果たしたとされていま

す。  ピューリタンたちの運動とその思想は長老教会、改革派教会、バプテスト教会

などにも大きな影響を与えたと思います。

 

  また、そのような開拓者精神は、米国1ドル紙幣の裏側左側に刻印されている奇怪

なピラミッド型の絵とその周辺部分にも実はよく表されています。

 

  飽きることを知らぬ開拓精神は、1845年7月にニューヨークのデモクラティック・

レヴュー誌にオサリヴァンJohn L.O'Sulliva(1813-1895) が寄稿した論文にも明白

に示されています。  有名なマニフェスト・デスティニー Manifest Destiny 天命・

明白な運命・拡張の宿命などと邦訳されている米国中心の覇権主義、拡張政策擁護論

によっても明白です。

 

  アングロ・サクソン白人米国の信念や主義や領土や信仰などを北米全土に拡大して

行こうというだけではなく、周辺の「劣等諸民族」をアングロ・サクソン白人米国の

政治的・社会的・経済的・宗教的影響力を限りなく拡張強化して、周辺の劣等民族を

感化し、支配して行くのがアングロ・サクソン白人米国市民の責務と特権である…と

主張したのです。

 

  メイフラワー号から始まったこの獲得精神は、1853年(嘉永6年)ペリーの黒船の

来日から現在沖縄に駐留している米軍の存在を含め、全世界主要拠点に展開している

米軍戦略基地や、宇宙探索や全宇宙支配欲にまでも及んでいると私は見ています。

  また、いろいろな理由が付けれれていますが、アフガニスタンやイラクへの一方的

な先制侵略軍事行動にも同じような影を見るのです。

 

  更に、主イェスの『全世界に赴いて福音を宣べ伝えよ』とのご宣託が、この米国の

全世界制覇欲と政策に取り込まれ、米国白人教会指導による世界宣教と混ざり合うと

これは複雑なことになるなぁと、そのように個人的に感じることも多いのです。

 

  ピューリタン、ピルグリム・ファーザー、メイフラワー、最初の感謝祭…いろいろ

と歴史が教えてくれます。  教会史を含めて、歴史の勉強はおもしろいですね。

 

 

                        《メイフラワー号  その2》

 

  1130日の週報に「その1」を掲載しました。  今回は「その2」ということで、

主として英国側の資料を中心に、所有資料をも併用して、更に書いておきましょう。

 

  ピルグリム・ファーザーズ(神の新しい国を捜し求めて信仰の旅を続ける者たちの

父祖・先駆者の意)を英国から現在の米国東海岸マサチューセッツ州プリマス湾まで

運んだ帆船をメイフラワ−号と呼んだことは前回すでに紹介したとおりです。

  正確には現在のプリマス湾というよりも、その東側のケープ・コッド岬の突端部と

言ったほうがよいのでしょう。  その一帯は現在では国立海浜公園になっています。

  プリマスを中心に1620年に恒久的な植民地をピルグリム・ファーザーたちは設立し

たのでした。  プリマスにはメイフラワー号のリプリカが展示されているそうです。

 

  メイフラワー号はもともと葡萄酒を運搬する帆船であったようです。

この帆船をロンドンにあったLondon Adventurersが「画期的航海」と謳って借り上げ

たようです。  「冒険投資企画」とでも取り敢えず仮私訳しておきましようか。

 

  11月末の「ベタニヤつうしん」でメイフラワー号の記事をお読みになったKさんは

『その船をプリマスで見た』とおっしゃっていました。  「ベタニヤつうしん」でも

船影を挿絵に使いました。  しかし、すでに書きましたように本来のメイフラワー号

1624年にロンドンに停泊していたという記録が最後となり、それ以降のことは不明

となりましたので、実際のメイフラワーがどのような格好をした帆船であったのか、

それは永久に謎に包まれていて、それ以降のことを知る人は一人もいないのです。

 

  しかし、有名な海洋考古学者のアンダースン R.C.Anderson が、その当時使われて

いた最も一般的な帆船を数多く考察して、メイフラワー号も多分このような姿をして

いたのであろうと推測し、実際に180 トンの帆船を再現したのでした。

 

  アンダースンによりますとメイフラワー号の長さは90フィート(約28メートル)、

船底の中央部を船首から船尾にかけて通した竜骨と呼ばれている主要部分(キール)

64フィート(約20米弱)、船の最大幅で甲板を支える船梁(ビーム)が26フィート

(約8米)、船倉(ホールド)が11フィート(約3米半)ではなかったのかと言って

います。  横帆艤装で、舵柄(チラー)に取りつけられていたフイップ・スタッフと

いう17世紀の帆船に用いられていた特殊なレヴァーで舵柄を操っていたようです。

  そして12(インチ?)大砲を積載していたようですが、船舶に関する知識が皆無の

私にはそれ以上のことを知るすべがありません。

 

  前回号で紹介しましたが、当時は二つの旧新暦が混在併用されていたようです。

新暦で1620年8月15日に英国南岸中部のサウサンプトン港(サザンプトン港と発音す

る人もあるようです)を出港しました。  船長はクリストファー・ジョーンズさん。

  前回号で触れましたが、同伴船スピードウエル号はオランダから新大陸・新世界に

向かう船客を乗せていました。  しかしスピードウエル号は浸水してダートマス港に

戻り、二度目の浸水でプリマス港に再び戻りました。

  そして遠洋航海に適せずとの判断で放棄され、同船の装備品の一部と、更なる航海

を希望する船客をメイフラワー号に移した後、新暦の9月16日、乗客と雑役夫の合計

 102名で画期的な大西洋横断の大航海に挑むことになったのです。

 

  最初の数日間の航海は実に穏やかな天候に恵まれて楽しいものであったそうです。

しかし、天候が急変し、恐ろしい嵐が船を襲い、甲板を支えていた船梁の一本が折れ

てしまうという予期せぬ深刻な事故に遭遇することになりました。

  乗客と船員たちは折れてしまった船梁をどうするかということと、航海を続けるか

どうかを真剣に協議し、船梁を補修して航海を継続すると決めたのです。

 

  こうして新暦の1121日に遂にこん日で言うマサチュセッツ州プロヴィンスタウン

のケープ・コッド岬に到着したのでした。  66日という実に長い辛苦に満ちた大航海

は召し使いの青年一人と船員一人を失うだけでその目的を達成したのでした。

 

  その一方、航海中に乗客エリザベス・ホプキンズさんが男の子を出産しました。

オシアヌス Oceanusと名づけたそうです。  また、メイフラワー号がケープ・コッド

に投錨した時にスザンナ・ホワイトさんが男の子を産み、ペレグライン Peregrine

命名しました。  英国式発音から推測しますとピルグリムを実際にはペレグライムと

発音すると思いますので、識字能力の低かった当時の普通の人のことをも考えますと

ペレグラインは自分たち巡礼者ピルグリムを記念して名づけたものと推測します。

 

  航海中に遭遇した大きな嵐のために、ヴァージニア会社が約束・保証していた地に

投錨できなかった新植民地開拓者たちは現在でいうマサチュセッツに上陸したのでし

た。  メイフラワー号は1226日に乗客をプリマスで下船させ、その冬は上陸客たち

と一緒に留まったのです。  翌年4月5日に英国に向出航したメイフラワーは一ヶ月

後に無事英国に戻り、次いでロンドンに回漕され、そのからその消息は消えました。

 

  一方、メイフラワー号がケープ・コッド岬に到着し、上陸の日が近いということに

なりますと、一部の乗客の中から同じ乗客の何人かが謀反や謀略を企てるのではない

かという不安が生じました。

 

  そのために、乗客たちは、下船する前に契約書を作成することを決めました。

「メイフラワー誓約」と呼ばれているもので、アメリカ最初の社会契約として極めて

重要なものです。  新暦で16201111日、プリマス上陸に先立って船内で集まり、

一種の政治契約共同体を設立し、「公平で平等な法律」を制定し、これを厳守すると

お互いに誓いあったのです。  1691年にマサチューセッツ植民地に合併されるまで、

これはプリマス植民地の基本的憲章となったのです。  家長的な乗客男性と船員たち

41名がこれに署名をしたそうです。

  契約内容は、「神の名によって、アーメン」という言葉で始まっていますが、今回

はその詳しい内容を紹介するのを省きます。  ご希望の方にはお知らせします。

 

  ピルグリム・ファーザーズたちは、それでは、どのようにして大航海の巨費を捻出

することができたのでしょうか?  ロンドンの商人たちや冒険企画家たちからのよう

です。  商人や冒険家たちは、その前にすでにヴァージニア会社に投資していたので

すが、どうも自分たちが期待していたような結果を得ることが出来なかったのです。

 

  ピルグリムたちと商人や冒険投資企画家たちは一種の約束、契約をしたのです。

商人たちや冒険投資家たちはピルグリムたちに船の費用、航海と日用必需品の費用を

提供し、ピルグリムたちは協力者という形で彼等から株を所得し、実際に航海に出る

ことを約束し、上陸後は植民地を開拓・設立し、漁業に従事したり交易をして利益を

あげ、得た収益を開拓者たちが共同で管理・保管して、七年を経過した時点で収益を

ロンドンの商人たちや冒険投資家たちと平等に二等分するという約束を交わしたので

す。

 

  しかし、大航海中に次から次へと災害が乗客を襲い、上陸後の開拓生活に於いても

経済的に順調な発展を望めず、1624年になりますと開拓者の間に挫折と幻滅の空気が

濃くなり、1627年に到り遂に開拓者たちとロンドンの商人や冒険投資家との間で交渉

が行われるようになり、そののち長年に亙り紛争の種を残すことになりました。

 

  Kさんが『見た』とおっしゃった、現在アメリカ東海岸プリマスに展示されている

メイフラワー2世はアメリカ人が設計し、英国 Brixhamブリッカム?ブリックサム?

で建造されたものです。  詳細は略しますが最初の船と殆ど同じような大きさです。

  主な違いは、新しい船は操舵室の舵輪で操作され、発電機と無線装備を持ち、船員

33名という少数で船を操ることができたという点です。  初代メイフラワーが新世界

に到着してから 337年後の1957年に造船されたもので、英国プリマス港を4月20日に

出港し、53日かけて 5,400海里を航海した後に米国側のプリマス港に到着したそうで

す。  エリザベス朝時代の水兵服に身を包んだ船員たちはピルグリム・ファーザーズ

たちが最初に上陸した港で開拓者の末裔のアメリカ人らの大歓迎を受けたそうです。

  歴史の勉強は心が躍る楽しいものですね。  =おわり=

 

 

                20031215  八ケ岳八ヶ嶽南麓にて  野村基之

 

  408-0031  山梨県北巨摩郡長坂町小荒間1381    0551-32-5579  FAX:32-4999

          motofish@eps4.comlink.ne.jp      www.bible101.org/nomura

 

 

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