2002年全国伝道者研修会  主題  「μαραναθα  マらナた」

        《キリストの諸教会に於ける再臨理解の歴史的概観》    レジュメ

                                  野村基之

 

1.  歴史を導かれる神

      παντοκρατωρ(コリ後書6章18節、黙示録1章8節と4章8節)

      創世記1章1節    黙示録2221

        創世記3章15    初臨と再臨?

          聖書の三分の二は豫言だと言われているが…

 

2.  教会史に於ける再臨(黙示録)理解

 

3.  産業革命前後の旧世界から南北戦争前後迄の新世界

      $1紙幣裏面左側ピラミッドが表すもの

 

4.  ストーンとキャンベル

      前千年王国と後千年王国

 

5.  深南部に於いて

      ストーン、ファニング、リプスコム、ラリモアー、ハーディング、ボール路線

        a.  ボールとガスペル・アドヴォケイト誌

        b.  フォイ・E.ウォーレスの出現

        c.  狂気の対前千年王国論者撲滅魔女狩運動

        d.  その後

 

6.  戦前・戦後の日本に於いて

 

  ディスペンセーション論(Dispensation)教材は参考資料として現在作成中。

    希望者は個人的に申し込まれたい。  バイオラ大学のクラス・ノートがある。

    但し、野村がこれを全面的に支持している訳ではないが、興味ある学びである

 

        2002年度全国伝道者研修会  主題『μαραναθα  マらナた』

              《キリストの諸教会に於ける再臨理解の歴史的概観》

                      6月10日午後5時~6時  野村基之

 

1.  個人的体験  a.満州事変、上海事件、国際連盟脱退、満州国帝政実施

                b.太平洋全面戦争突入と耐乏生活

                c.敗戦、連合国による占領、復興と混乱、冷戦構造下の日本

                d.米国若手宣教師との出会い、律法主義・千年王國との出会い

                e.渡米後の赤貧苦学留学と非情な千年王国論争を体験

                f.米情報機関介入と留学断念帰国、不可解な交通事故と左腎臓喪失

                g.これらを通して摂理理解と恩寵体験    人生観・終末観の形成

 

2.  教会分裂の愚  in essential, unity …(ーty で一致・自由・愛の語呂合わせ)

                  in non-essential, liberty

                  in all other things, charity    の筈だったが

 

3.  聖書をどう読むのか

      a.  読まれるべき書としての聖書ならいろいろな読み方があるのではないのか

            人の解釈・釈義に絶対的なものはあり得ないのではないのか?

            聖書の前に、神の前に、聖書を読む総ての人は対等・同等ではないのか

      b.  revealed things vs. un-revealed things  どう解釈するのか?

            啓示されているものに無知でいるのか、気がついていないのか?

            啓示されていないものを人が憶測を挟んで読もうとしているのか?

      c.  聖書の三分の二は豫言から成立しているとも言われている。

            例:  創世記3章15節を初臨(十字架)と再臨(審判)と見るのか?

          初臨の豫言が文字通り成就したのならば、再臨の豫言も文字通り成就する

            のではないのか…という素朴な信仰がある。(注:豫言と預言は違う)

 

4.  キリスト教世界・教会史の世界では、殆どの人々が何かの形で単純な千年王国説

      を抱いていたようである。  「無千年王国説」というのはあり得なかった。

                                 a-millennialism

5.  ストーンやキャンベル親子たちが訴えた「キリストの諸教会」指導者たちも元来

      穏やかで単純な前千年王国論者または千年王国論者たちが殆どであった。

 

      B.W. Stone, Moses E. Lard, David Lipscomb, T.B. Larimore, J.A. Harding

      R.H. Boll, George Klingman, S.P. Pitman, H.L. Olmstead,

 

        北(ディサイプルズ系)では後千年王国論者が多かった。  彼らの多くは

        最初は「前」であったが新大陸の発展と共に「後千年王国論」に移行した。

 

        Alexander Campbell, Walter Scott  (7~8頁参照)

 

6.  「無千年王国論  amillennialism」というものは今まで嘗て無楽器教群の中には

      存在したことがなく、「前」か「*前的な黙示的・天啓的」なものであった。

      「前千年王国論  premillennialism」か「後千年王国論 postmillennialism

      しかなかった。  (*apocalyptic を黙示的・天啓的と仮訳してみた)

 

      1935年~45年頃から「無千年王国論」という新しい聖書解釈論が台頭し始めて

      それ迄の伝統的な聖書解釈から離脱する結果を無楽器教群主流派にもたらした

 

7.  異なった千年王国論理解が「交わりの条件  test of fellowship」になることは

      一度もなかった。  救いの条件とは全く無関係で、意見の違いとされていた。

 

8.  それではどのような経過を経て深南部教群・無楽器教群には終末論理解の違いが

      教群を割るほどの「大問題になって行った」のであろうか?→  19頁以下参照

 

    北のディサイプルズ教群と、そこから派生して生まれたクリスチャン・チャーチ

      教群では「千年王国」解釈を巡る紛争は起ったことがないし、起らない。

 

9.  当時の世界(西欧州と新世界)の趨勢はどうだったのだろうか?

    a.  18世紀中期頃に起った産業革命がもたらしたさまざまな進歩と人類の戸惑→

          対終末危機感と、新生国アメリカの誕生(1776)が終末切迫観をもたらした

          $1ドル紙幣裏面左側のピラミッド図形は何を証言しているのか?

        欧州からの諸思想の侵入  (例:ダーウィニズム Charles Robert Darwin

    b.  南北戦争敗北南部農村側の混乱と動揺、虚無感と絶望感    前千年王国論

                戦勝北側の支配と開発意欲、進歩進展への自信    後千年王国論

 

        Robert Sandeman 17181771  グラス派説教者  初代教会への復帰を訴える

          単純な前千年王国論者

 

        Ann Lee Stanley 17361784  シェーカーズ創始者リーの渡来と教勢増大

          千年王国接近意識の独特な集団が各地に続出。  ケンタッキーのストーン

            教群が狙われ背教者が続出。  ジェファソン大統領が賞賛と敬意を払う

 

        James McGready  17581817  長老教会独立説教者

          ストーンの知人  西部開拓者の間で「地獄の炎」の説教で悔い改めを迫る

 

        Robert Haldane  17641842  弟ジェームズと共に欧州・英国で巡回伝道し

          前千年王国論を含めた聖書逐語霊感説を説く。

 

        James Alexander Haldane 17681851  兄と共に幕屋伝道に専念。

          前千年王国論に立脚する。

 

        Barton Warren Stone 17721844  独立戦争時に成長し、奴隷制度に反対し

          ケイン・リッジ信仰復興運動を興し、前千年王国理解に立脚し、極度の

          赤貧に徹しつつ福音伝道と基督者の霊的一致を訴え続ける。

 

        William Miller  17821849  アドヴェンティズムの創始者

          1843年に再臨があると豫言し全米大混乱、次に1844年に再臨がある再豫言

 

          Alexander Campbell  17881866  アイルランドから渡米し、父と共に

          再臨切迫を説き、その為に総ての教派教義を破棄と基督者の一致を訴える

 

        John Nelson Darby 18001882  名門出身の優秀な法曹界の学者

          前千年王国説に立脚した經綸学説(ディスペンセーションDispensation

          を発表し、北米と西欧州のファンダメンタル諸教派に大きな影響を与え、

          現在でも世界中の福音派に多大の影響を与えている。

 

        Joseph Smith  18051844  モルモン教の創始者

          キャンベルの同労者リグドンを招き入れ組織化に成功する。

 

        John Thomas   18051871  クライスト・アデルフィアンズの創始者

          キャンベルから多大の影響を受け、「再臨信仰こそ福音の根本」と説く。

 

        George Muller 18051898  獨逸人で英国に渡りダービー設立教群の牧師に

          就任。  ブリストルで孤児院を設立した事と、赤貧に甘んじながら莫大な

          献金が彼の懐を通過したことでも有名。  伝道熱心で晩年には東洋伝道を

          試みる。  前千年王国論者としても有名。  その生きざまはリプスコムや

          ハーディングにも大きな影響を与え、二人から影響を受けた教師たちから

          留学中にミュラーの生き方を繰り返し教えられ強烈な印象を受けた。

 

        Benjamin Wills Newton   18071899  プリマス・ブラザレン教群で学んだ

          霊的指導者で前千年王国論者。

 

        Charles Russell 18521916  「ものみの塔」創始者

          再臨は1874年に起り、世の終わりは1914年に来ると説く。

 

        William Eugene Blackston  18411935  南北戦争に従軍した実業家

          ユダヤ人やユダヤ教徒の保護に尽力する  イスラェル政府が感謝する。

            再臨関連出版物の少ないのを嘆き Jesus is Coming  を著作し出版、

          現在でも全世界中に翻訳され読まれている前千年王国論に立つ出版物。

          日本語では森渓川訳「キリストの再臨」1981年版が現在でも入手可能。

 

        その他に、メノナイト派、モラヴィア兄弟団、プリマス・ブラザレン教群、

          クエーカー教群など、数多くの霊的集団が欧州の教会史上で活躍をしてい

          たが、その殆どが前千年王国論に立脚した教群であった。

 

          亦、教会史の中ではローマのクレメンス、アンテオケのイグナチウス、

            殉教者ユスティーノス、エイレーナイオス、テルトゥリアーヌス、

          モンターノス、オーリゲネース、アゥグスティーヌスなど、列挙できない

          ほどの教会教父達や、ローマ・カトリック教会が「異端」と烙印を押した

          聖書を守ろうとした教群や基督者が前千年王国論または千年王国論を信奉

          していた。

        中にはミュンスター千年王国騒動などに見られるように、極端な運動集団も

          不幸にして存在したこともある。

 

        「前千年王国論 pre-millennialism」とは、キリストの文字どおりの再臨は

          文字どおり千年王国をキリストがエルサレムに設立される「前」に来ると

          説く説である。  時としては  millennialism 千年王国論とか、chiliasm

          キリアズム至福千年王国説などとも呼ばれることもあり、millenarianism

          ミレナリアニズムと呼ばれる時もあるが、これはアドヴェンティスト運動

          創始者(前述) William Miller ミラー運動との関係で用いられる場合が

          多いようである。  前述 Russellism などと呼ばれる時もあるが…

 

            プリ preとは「前」を表す言葉であり、ミレニアムのミリとかミレは

            「千」を表す言葉で、ミリ・メーターとかミリ・リットルとかミリ・

          グラムなどで我々は日常的に使っているし、この間始まった新しい21世紀

          をミレニアムと呼んでいたのは記憶に新しい。  アムとかアンは「年」を

            表す言葉で、記念年のアニヴァーサリーとか、歳とか年次とか年鑑の

          アニュアル、馴染みの深いものでは西暦をADで表してアンノ・ドミニ

          すなわち「主の年」として使っている。

 

          前千年王国論または前千年王国説の内容とは、人間の心は次第に悪くなり

          人間は人間の悪に向かう行いを制御できないとする悲観論的理解である。

          キリストの再臨と千年の支配と、邪悪な者への最後の審判があって王座を

          神に返されるという考え方、聖書理解である。

          黙示録の一部はローマ帝国によるクリスチャンへの迫害などで成就された

          が、4章以降の記述はこの世の終わりに際して実現される豫言であると、

          大旨そのように理解する聖書解釈である。

 

          更に、前千年王国説の特徴を二、三挙げてみると、聖書の言葉をなるべく

          文字どおりに受け取るということがある。  勿論、ヨハネ伝10章1節から

          9節にかけての「門」や「門番」とか、同14章6節の「道」とか、同15

          の「葡萄の木」など、文脈から考えて見て、それらが比喩的なものである

          場合には文字どおりにとらないことは言うまでもない。

 

          キリストの再臨の日時が具体的にいつになるのかは、使徒行伝1章7節に

          明白に語られているように、人間にはわからないが、人が思っているより

          も遥かに切迫した imminent なものであるとする他にも、例えばロマ書11

          25節~26節に語られているように、イスラェルの回復というものがある

          と、前千年王国論者たちの殆どは共通理解として共有している。

 

          旧約聖書に記録されているように、ユダヤの民は、アッシリヤやバビロン

          更に新約聖書時代に入っても、ローマによって国土を奪われ、祖国を追放

          されたまま現在にまで到っていると理解している。  このイスラェルが

          国土を含めて文字どおりに回復される、という豫言の理解・解釈である。

          この理解は、「後千年王国論」者や、特に「無千年王国論」者になると、

          とうてい受け容れられない豫言解釈であるということになるだろう。

 

          終末論以外にも、この単純な千年王国説・前千年王国論を信奉する者たち

          の特徴は、神の摂理、神の恩寵、神への信頼、内在される聖霊、祈りの力

          への確信などの他にも、教派を超越してキリストの御身体は一つである…

          などの霊的共通理解があったように思っている。

          これは無楽器教群主流派から放逐されたままの前千年王国説のキリストの

          教会に継承されている顕著な特徴であるように思える。  ファックス師や

          Leroy Garrett リロイ・ギャロット師もこの点を評価されている。

 

          ストーンやリプスコムなどは、単純な前千年王国論者であった。

          深南部の無楽器教群に起った論争は、後述資料で説明するが、それまでの

          キリスト教界で信じられていた単純な千年王国説または前千年王国論より

          も、ディスペンセーション Dispensation という新しい聖書理解に基づく

          前千年王国論が機関紙的な雑誌を通して教会に紹介されたと感じた人々が

          このことを表面上の攻撃材料にして、後述のようにRHボール排斥運動を

          展開した不幸なことから始まったのである。

 

          然し野村個人の理解では、「建前」とは別に、獨逸移民青年でありながら

          教会の有力誌の論説委員に着任し、その聖書解釈で人気が出て来たボール

          への人種的偏見や個人的羨望などが「本音」としてあったようである。

 

        「後千年王国論  post-millennialism」は、古くは、1260年に伊太利亜人

          フィォーレのヨアキム Joachim of Fiore が説いた事もあるが、19世紀の

          新生米国の北部を中心に改めて台頭して来た黙示録の楽観的な解釈である

 

          キリストの再臨前に、神の許しと助けを得た人間が、人間の努力によって

          世の中をどんどんと改善して行き、この地上が平和と反映と善意とで満ち

          溢れるようになると理解した楽観論的な聖書解釈論である。

          更に、教会の伝道によって世界中の人がクリスチャンとなり、最後の一人

          が救われた時にキリストの再臨があるとする、基督教会の黄金時代を謳歌

          した聖書解釈説である。

 

          アレキサンダー・キャンベルなどはこの無千年王国説を信奉していたが、

          前述ロマ書1125節~26節に書かれているイスラェルが約束の地に戻り、

          彼ら自身の国を復元することを強く信じていたし、ユダヤ人たちがやがて

          イェスを彼らのメシアとして信じて受け入れるであろうとも信じ、これら

          の出来事を通して「イスラェルの回復」を確信していたのは興味深い点で

          ある。

 

          1.千年王国、2.イスラェル国家の回復、3.ユダヤ人の改宗という3点は

          前千年王国説を信奉する者には共通する強調点であるが、Aキャンベルも

          これらの点で、前千年王国説を採っていたストーンと同意していたのも

          興味深い点であろう。

          この意味で、キャンベルや彼の同労者たちは、「後」千年王国論者という

          よりも曖昧で漠然とした意味で、単純に「千年王国論者」であったとも

          考えられる。  現に一部の教会史研究家たちは彼らを「前」千年王国論者

          と紹介しており、そのような文献に出会う度に戸惑いを感じた事があった

 

          ストーンとキャンベルらによる我々の復帰運動史の中に名を連ねる有名な

          指導者のバークレーDr.James T. Barclay や、サマー Daniel Sommerらも

          同様な理解を持っていた。  ディサイプルズからエルサレムに最初に送ら

          れた宣教師バークレーは、最初は「後」千年王国論者であっが後になって

          「前」千年王国論にその理解を変更した。

 

          南のブレンツ T.W. Brentsは「前」千年王国論者であったが、イスラェル

          国家の回復とユダヤ人がイェスをメシアとして信じて改宗するであろうと

          いう部分の解釈には懐疑的であった。  ブレンツは多くの教会を設立した

          こととでスーパーマンとも呼ばれており、救いに関するカルヴァン主義の

          誤りを指摘したことでも知られていた聖書の生徒であった。  ブレンツの

          理解した前千年王国説という意味では、ハーディング James A. Harding

          もブレンツに類似したものであったと思われる。

 

          ラード Moses Lard はこれらとは違った解釈を抱いた「前」千年王国論者

          であった。  イスラェルがイェスの福音を聞いて改宗することは信じたが

          エルサレムを中心とする約束の地にイスラエルが戻るということは不同意

          であった。

          後述予定のボール R.H. Bollだけ、あるいはバークレーも含めて、大きな

          患難時代が来る「前に」教会が携挙されると信じ、上記の他の指導者たち

          は反キリストによる迫害期の「終わりに」教会の携挙があると信じた。

 

          スコット Walter Scott は豫言の科学的分析に夢中になり、前述のミラー

          同様に歴史的前千年王国説の再臨論を説いた時期もあったが後千年王国論

          に戻った。  そうこうする内に前述のバプテスト系のミラーがキリストの

          再臨の日時を1843年に設定し再臨はなく、次に1844年に再臨があると説き

          これも失敗して全米が大混乱に陥ったことがあった。  スコットは騒動の

          中で振り回され、更に1861年から始まることになる南北戦争勃発の機運が

          高まるに従って後千年王国説を捨て去り、猫の目のように変説し続けた。

 

          ミリガン Robert Milligan  も豫言に関して莫大な数を書き残している。

          1850年代後半に彼がキャンベルのミレニアル・ハービンジャーに投稿した

          一連の豫言関連記事は、スコット同様に、北のディサイプルズのミリガン

          が後千年王国説理解を採っていたことを示している。  然し彼もユダヤ人

          のイスラェルへの帰国とイェ・スキリストへの改宗を確信していた。

 

          ここで注目しておきたい重要な点は、豫言の解釈や見解の違いというもの

          は、復帰運動史の中においては各自が自由にそれぞれの主義主張を堅持し

          ていたが、それが「交わりの踏み絵  test of fellowship」には一度たり

          ともならなかったことと、意見が異なっても自由にキリストにある交わり

          が成立していたという事実である。

 

          事態の急激な変化は、フォイ・ウォレス2世 Foy Wallace, Jr  の登場に

          よって1915年以降に起り悲劇的な結果を招くに到った。  このことは更に

          詳しく12頁以下で説明の予定で、今回発題テーマの中心点の一つとなる。

 

          さて元に戻って、ポスト post とは「後」という意味で、キリストの再臨

          は千年の王国の「後」にやって来るという意味である。

          この場合の「千年王国」とは、もちろん文字どおりの千年ということでは

          なく、比喩的な、象徴的な意味であると捉える。

 

          すなわち、ペンテコステの日に教会が誕生し、その時からキリストが教会

          を通して全世界、前宇宙を支配され始めたし、千年とは長い年月のことで

          文字どおりの千年では在り得ないと、このように「千年王国」を理解する

          説である。  キリストの支配によってこの世はどんどんと良くなって行く

          という理解で、教会が王国であるとする説。

          讚美歌90番「ここも神の御国なれば」の3節にもその思想が伺われる。

 

          しかし、第1次世界大戦後にこの夢は消え去り、殆どが「無千年王国論」

          に移行し、こん日では「後千年王国論」を唱える者は殆ど存在しない。

 

        「無千年王国論 a-millennialism」は、キリストの教会内では、1915年から

          始まった一連の前千年王国説を信奉するものを根こそぎ根絶してしまおう

          とした主流派 mainline churches of Christによる恐ろしく非人間的・

          反基督者的な魔女狩運動の産物であり、また、この後の半世紀ほどの間に

          生まれてきた律法主義と科学万能主義時代の落し子的なものだとも言える

          旧約豫言や黙示録に対する理解であり、主流派教群にはそれ以前には存在

          していなかった新しい聖書解釈説だとも言えるのではないだろうか。

 

          無楽器教群主流派が Foy Wallace, Jr. らによる狂気じみた魔女狩騒動に

            教群の殆どが総動員される形で「前千年王国論 pre-millennialism

          信奉者を教群の中から放逐した後の、予期せぬ反動的副産物的聖書解釈論

          として新たに生まれて来た預言解釈とも言えるのではないかと、間違って

          いるかも知れないが、そのように野村個人としては捉えている。

 

          ダニエル書2章  31節~45節や黙示録20章の解釈を巡り、文字どおりの

          千年王国の設立などあり得ないと主張する。  従って、黙示録の豫言は

          象徴的なもの、比喩的なものであり、文字通りに解釈すべきものではない

          と主張している。

 

          「無千年王国説」によれば、神の国とは教会のことだ…と説く。

          しかし「前千年王国説」によれば教会は確かに神の国の一部ではあるが、

          神の国とは、もっとその高さ、広さ、深さにおいて、教会をも含めるが、

          教会を遥かに超えた規模のものであると主張する。

          それは、ルカ伝1721節にも記されているように、神を信じる人々の間に

          も存在するし、教会もまた神の国であるが、そして究極的には、キリスト

          の再臨によって完成を見るという規模の大きなものであると主張する。

 

          然し、「無千年王国論」によれば、イエス・キリストが教会を設立された

          ことで教会を通してキリストは現在全世界を治められていると解釈してい

          るので、教会が千年王国・神の国を継いだのであって、今この教会時代に

          我々キリスト者がキリストの王国・神の国にいるのだと理解している。

          それだから、アブラハムとの間で結ばれた土地に関する契約やダビデとの

          間で結ばれた王座に関する契約を初めとして、黙示録20章も文字どおりに

          受け取る必要はなく、比喩的象徴的なものとして理解するべきだと説く。

          従って旧約聖書に約束されている「ダビデの王座」とは、教会を意味し、

          今この現在キリストが教会を通して全世界を支配されていると説く。

          改革教会系やルーテル教会などはこの立場を採るものが多いようだし、

          ある意味では前述のアゥグスティーヌスにもそのような解釈の要素を見る

          ことができる。

 

          この「無千年王国論」に従えば、初臨は旧約豫言の成就として文字通りに

          受け取るが、再臨となると文字通りに受け取るべきものではないとして、

          豫言解釈に矛盾が生じ、また更に、それよりも遥かに深刻な問題として、

          再臨信仰や再臨待望感や緊張感を教会内で紛失してしまう危険性がある。

 

          「御国は既に来たのだから主の祈りを唱える必要はもはやない!」と説く

            無楽器教群主流派では、これらのことと律法主義が融合し、恩寵理解

          や聖霊の内在や働きに関する教えも希薄となり、神の摂理への絶対的信仰

          がいつの間にか人の業による行為義認主義信仰によって摩り替えられると

            いう悲劇的なことなどが、「前千年王国論」者抹殺運動の結果として

          主流派教群の中に入り込み、すでに半世紀以上の時間が経ってしまった。

 

          戦前派宣教師、マッケーレブ、アンドリュース嬢、ビクスラー、ローズ、

          ファックス兄弟、モアヘッドなどに見られた信仰の質と、敗戦後来日した

            若手宣教師たちの殆どの人々の信仰の質には本質的な違いがあるが、

          これは千年王国論か前千年王国論的理解と、無千年王国論的理解の差異が

          歴然と現れていた証拠ではないかと野村個人は捉えている。

          すなわち、この差はマッケーレブ、ビクスラー、ローズ、アンドリュース

          などに影響を与えた教師たちの信仰理解と、戦後派に接したジョージ・

          ベンソンなどの信仰の違いが如実に現れたものと考えられる。

          ローズは生涯を通して前千年王国論者であったが、マッケーレブや、

          アンドリュースやビクスラーやファックス二兄弟らは千年王国的雰囲気の

          中でその生涯を過ごした宣教師たちであったと野村個人は理解している。

 

    c.  ナイアガラ会議 Niagara Conferencesという一連の聖書研究会があった。

 

          1868年に紐育市で8名の基督者が集まって聖書研究をしていた。

            The Believers' Meeting for Bible Study  という名で集まっていた。

            いずれも前千年王国論を信奉する者たちであった。

 

          1875年にシカゴ市内でも同じような小規模な聖書研究会が持たれていた。

 

          両者が合流しカナダのナイアガラで毎年夏に聖書研究会を開催することを

            決め、1883年から1900年までの間、聖霊の人格や働き、どのように聖書

            を学べば良いか、恩寵、そして再臨などが主だった研究課題であった。

 

          この会議は当時の世界の福音主義・根本主義を信奉する多くの教派や教団

            に大きな影響を与えるものとなった。  R.A.トーリ、D.L.ムーディ、

            ムーディー聖書学院、バイオラ聖書学院と King's Business誌などなど

 

            1878年開催のナイアガラ会議に関して The Gospel Advocate誌上で

            リプスコムはこの会議を採りあげ肯定的評価を加えている。

            『そこで語られた内容を読むかぎり、それらは良い精神に基づくもので

            あり、神の御言葉の名誉に叶うものである…』

 

          プリマス・ブラザレン教群や伝道旅行をするダービーがこの会議に大きな

            影響を与えていた。

 

          1878年に採用されたナイアガラ会議の信仰内容を表す条項の第14条による

            と、この世の堕落と、キリストの再臨の切迫性と、キリストによる地上

            での文字どおりの王国設立と支配と裁き、イスラェルの回復、地上に主

            の知識が文字どおSЛ"GET http://www.bible101.org/images/goo7;ことなどが謳われ、前千年王国的再臨が

            「祝福に満ちた希望」(テトス書2章13節)であると、説かれている。

 

10  「キリストの教会」内での終末論の歴史的概観

 

      前述8.を受けて「前千年王国論争 pre-millennialism」とは何であったのか?

 

    a.  前述7.:ストーンは前千年王国論者、キャンベルは後千年王国論者だったが

              意見の差、見解の違いが交わりを断つことにはならなかった。

            『救いに関すること    エッセンシャルでは一致 unityを、

              意見に関すること    ノン・エッセンシャルでは自由 libertyを、

              その他の総てのことにおいては愛 charityを』

          すなわち、教群の中には「前」または「後」千年王国信仰が存在していた

          「無」という発想は存在していなかった。  現在は「無」が圧倒的である

 

    b.前述9.b.  世界の(基督教世界)の趨勢・エトスに前千年王国論があった。

                  特にダービーが紹介したディスペンセーション説や、ナイアガラ

                  会議、加えてスコーフィールド聖書などが福音派・根本主義派に

                  与えた影響は日本の基督者には想像できないほと大きいと言える

 

    c.  ローマ・カトリック系獨逸移民青年ボールRobert Henry Boll  1875 1956

 

        1875年6月7日  獨逸南部 Black Forest Max and Magdelena Boll

          両親とするローマ・カトリック教会の信者の家庭に生まれる。

        親族にフライバーグ Freiberg のカトリック教会大司教がいた。

        父は放浪癖があり定住しなかった。  母は美人で知的で崇高な理念の女性。

        10歳で父を亡くし、妹の一人も同じ年に亡くす。  息子を司祭にしたかった

        11歳で学校に通い始める。  読書家。  学業は厳しい。

        14歳で母マグダレーナは再婚。

 

        義父との仲が悪く1890年9月15歳で叔母や知人たちと渡米。

        オハイオ州ザンズヴィル Zanesville, Ohio のホテルで給仕を始める。

        音楽家か芸術家か著作家を志望したが実現せず。

 

        南下してテネシー州中部スマルナの農家で数年間を肉体労働に従事する。

        尚、Smyrnaはナッシュヴィル南東約40キロにあり、日産自動車工場がある。

 

        初めて非ローマ・カトリック教会の雰囲気の中で聖書を読む事を勧められる

        Lavergne, Tennessee Prof. T.E. Allen に接し聖書を真剣に読み始め、

        ローマ・カトリック教会の就縛から自由になりキリストに命を捧げる決意を

        固め、1895年4月14日(日)コロンバス・ブリティンの池でサム・ハリス

        によってバプテスマに与る。    Columbus Brittain's pond    Sam Harris

        入信前に読んだ列王紀上13章の主の言葉に反した神の人の死に関する記録と

          マタイ伝7章24節~27節の神の言葉を聞いて実行しない人の譬を読んだ

        ボールは心に激しい衝撃を受けたという。

 

        然しそれまでのボールの生涯は、母親の強い祈りと願いもあり、少なくとも

        渡米までのボールは、ローマ・カトリックの司祭になることに目標を置いて

        いたので、新約聖書の教えることだけに忠実でありたいとか、どの教派にも

        属さずに、ただクリスチャンだけでありたいというような発想に対しても、

        あるいはキリストの教会という、教派でない事を謳いながら実際には教派で

        あるのではないかというような疑惑が次から次に湧いて来るので、そう簡単

        にローマ・カトリック教会で培われてきた信仰理解を捨て去る事ができず、

        相当な心の葛藤があったのは当然のことであろう。

 

        ボールが聖書を熱心に読み、祈る人であったことは、私個人も良く知ってい

        た。  朝の2時、3時まで書斎に電気が点いていたのを記憶している。

 

        1895年、ボールがグーチ夫人 Mrs. Gooch の畑で馬を使って耕していた時、

        休憩時間になると馬を休ませ、自らは聖書を読んでいたという。

 

          グーチ夫人の勧めでハーディング J.A. Harding が校長であった当時の

        ナッシュヴィル・バイブル・スクール(現デイヴィッド・リプスコム大学)

        で聖書を学ぶことを決める。

 

        身寄りのない獨逸移民青年、一文なしのボールは雨の中にハーディング宅を

        訪問した。  学校で学びたいという一心であった。  同様状態の青年たちが

        ハーディング宅をしばしば訪問していた。  ハーディングはボールに向かい

          『もう満席だ。  来年また来なさい』と告げた。

        悲しそうに雨の中を立ち去って行くボールの後ろ姿を見てハーディングは

          『自分は何ということをしてしまったのか』と自責の念に駆られ、ボール

          青年の後を追いかけてハーディングはボールに優しく声を掛けた。

          『君はズブ濡れだね』  『ハイ』  『君の馬車には幌がないのか』

          『馬車はありません。  私は40キロほど向こうの田舎から一人で歩いて

          先生のところにやって来ました』  『エッ?  そうなのか。  君は本当に

          勉強したいんだね。  『ハイ』  『わかった。  寮に行ってダッドさんに

          話して部屋を何とかして貰おう。  『お金はなさそうだね』  『ハイ』

          『そうか、まぁいいだろう。  神さまが何とかして下さるだろう』

        このようにしてハーディングとボールの神の摂理への信頼と、お互いへの

        麗しい師弟愛関係が開始された。  有名な話である。

 

        ボールは在学中に借りた借金を後日全額返済したが、その生涯を通して恩師

        ハーディングへの恩と神への感謝の念を忘れることがなかった。

        在学中にも厳しい肉体労働を続けた。  授業開始の鐘を鳴らし、ストーヴに

        石炭を注ぎ、便所掃除など出来ることは何でもして学費捻出に努めた。

        深夜、暖房用炉室に人影を感じたハーディングが覗き見すると炉の光りで

        ボールが読書している姿を発見、静かに戸を閉めて立ち去ったこともある。

 

        ハーディングもまたボールを賞賛し、百万ドル支払ったとしても得がたい

        聖書と祈りの生徒であったと述べている。

 

        ボールの最初の説教実習はナッシュヴィルの牢獄であった。

        その後も先輩や教師たちに勧められ、獨逸訛の発音で福音説教を続け体験を

        重ねた  学校で祈祷会をしばしば催した。  出席者中には下記人物がある。

        David Lipscomb, E.G. Sewell, T.W. Brents, J.A. Harding, J.W. Grant

        J.W. Shepherd らがその中にいた。  黙示的信仰者が多かったのが特徴。

 

        とにかくどこででも説教をしたのがボールだった。

        納屋で、学校内で、教会堂内で、街角で…

 

        在学中に獨逸に残していた最愛の母親が死去したとの知らせが届いた。

 

          1900年、ナッシュヴィル・バイブル・スクールを去り福音説教者として

        テネシー、ケンタッキー、テキサスを含む深南部に足を伸ばした。

 

        同年、学校と共同で伝道説教を継続し、聴衆を魅了し、平均一時間半前後の

        説教を続けた。  説教後しばしば翌早朝までボールは祈った。

        個人的趣味や社会的娯楽に時間を費やさず、専ら聖書の勉強に殆どの時間を

        費やしていた。  とにかく聖書をよく読んだ。

 

        説教をする時、説教壇上を歩き回り、黒板をしばしば使用した。

        説教壇上から床に降りて聴衆に語りかけることも多かった。

        説教は優しい口調が多かった。

        『馬は鞭打ちでは養えない、餌で養うのだ』が口癖で、説得力のある説教は

        肯定的で聴衆を勇気づけるものが多かった。

 

        190310月にケンタッキー州ルイヴィル市のポートランド街キリストの教会

        を初めて訪問した。  1904年1月に同教会に戻った。  一年間をテネシー州

        ローレンスバーグで過ごした以外、ボールはその生涯をポートランド教会で

        説教者として過ごした。  ローズやビクスラーやファックスを支えた教会。

 

        ルイヴィル滞在中に南部バプテスト・セミナリーでヘブル語とギリシャ語を

        習得し優等生扱いを受けた。

        ルイヴィルで Villette Schang  嬢と出会い結婚、三児を得るが長女は二歳

        で死去。

 

        ボールは力強い説教者であり教師であったが、同時に筆の人としても才能を

        発揮した。

 

        最初はハーディング J.A. Harding Christian Leader and the Way 誌の

        編集を約五年間に亙って副編集長として手伝った。

 

        1903年と1904年にかけて、これはすでにちょうど百年前のことになるが、

        Joe S. Warlick Jesse P. Sewellと共にGospel Review 誌の編集作業を

        テキサス州ダラスで行っている。

 

        1909年になると David Lipscomb Gospel Advocate誌の編集を他の者らと

        共に手伝うことになった。

 

        キリストの教会は、テモテ前書3章に明白に規定されているように複数形の

        長老によって治められている単立の教会の群である。  各教会の自治権限を

        越えるような組織が新約聖書には存在しないという聖書理解があるので、

        従って、日本の我々が考えているような、諸教会を拘束する機関紙という

        ようなものは存在し得ない。  これは我々の福音誌にも同じことが言える。

 

        このことを念頭に置いてのことであるが、ガスペル・アドヴォケイト誌は、

        それでも多くのキリストの教会で読まれている雑誌である。  1855年7月に

        タルバート・ファニング Tolbert Fanning  William Lipscomb David

        Lipscomb17ヶ月年長の兄)によってテネシー州ナッシュヴィルで設立され

        た月刊誌で、1861年に南北戦争の勃発まで欠かすことなく出版されていた。

 

          内戦中の発行はナッシュヴィルも戦乱に巻き込まれて不可能であったが

        内戦終結と共に1866年から再刊されることとなり、弟のデイヴィッドが兄に

        代わりタルバート・ファニングと共同で復刊させたもので、現在まで続いて

        キリストの教会中道主流派で愛読されている刊行物である。

 

          デイヴィッド・リプスコムは深南部無楽器教群の優れた指導者となり、

        それに従いガスペル・アドヴォケイト誌もキリストの諸教会に広く浸透した

 

        一文なしの獨逸移民青年がハーディングと出会ったのが1895年、そのボール

        は教群の中でも尊敬を集め、ガスペル・アドヴォケイト誌の論説委員とでも

        訳せば良いのか Front page editorの名誉と重責を与えられることとなり、

        その雑誌の一部に Word and Workというコラムを割り当てられ、その名誉と

        特権と責任を担うこととなった。  1909年のことであった。

 

        1910年4月からボールは黙示録の解説を担当し始めた。

        こうしてこの欄を担当したボールは今や各地の多くのキリストの教会に広く

        知られる存在となった。

 

        既にナイアガラ会議の項で触れておいたが、予期せぬ南北戦争の勃発という

        事態と、内戦がもたらした悲劇、そして、戦勝側で工業立国を目指していた

        北部にとっては南とは違った雰囲気の中にあって、19世紀後半部になると、

        根本主義信仰というか原理主義信仰というか、福音主義信仰というものが

        米国教会の中に大きなうねりとなってほとばしり出て来た時代であった。

 

        更に加えて、1876年は独立してから百年祭を迎えることとなり、大衆伝道者

        ムーディーと讚美礼拝指導者のサンキーが組んで大きなクルセードを全米で

        盛んに開催していた。

        これはビリー・グラハムの集会の雛形だったとも言えるだろうし、ケイン・

        リッジ信仰復興運動集会の流れのようなものと捉えられるのかも知れない。

 

        それは、『ただ信ぜよ! Only believe!』という標語が流行した時期でも

        あるし、聖書解釈においては「聖書をできる限り文字どおりに読む」という

        風潮が蔓延していた時でもあった。

 

        このような時代的背景もあり、前千年王国説が広く受け入れられていた時代

        でもあった。  前述のブラックストーンによる「Jesus is Coming 」の出版

        が当時の英語圏世界に与えた影響は計り知れないものがあった。

 

        また、前述のミラー William Miller が、彼なりに熱心にダニエル書から

        キリスト再臨の豫言を研究し、1843年に再臨があると発表した。  この事に

        全米は勿論、カナダや西欧のクリスチャンたちの多くが動転し、家財道具や

        財産を教会に寄贈したり処分して再臨に備えたが再臨は実現しなかった。

        1844年に再度ミラーはキリストの再臨を豫言したが再び外れた。

        ミラー運動はその後にセブンスデー・アドベンチストや神の教会を形成。

        この運動は当時の米国社会に計り知れない恐怖心と不安感を煽ったが、当時

        はそのような千年王国切迫感と待望感や危機感に満ちていた。

 

        このような時代的背景や、また野村個人の理解であるが、『ただ信ぜよ』式

        信仰理解に対して、スコットの五本指式福音理解を唯一聖書的なものとして

        強く説いていたキリストの諸教会にとって、これら根本主義教派・福音諸派

        の動きは余りにも歓迎されない風潮であったのかも知れない。

 

        旧世界のサライェヴォでは1914年6月28日に皇太子が殺害されるという兇変

        が起り、7月28日には第一次世界大戦が勃発した。

        南北戦争時にも、第一次世界大戦時にも、新兵器が開発され、大量殺戮が

        各地で目撃され、マタイ伝24章3節~12節でのイェスの警告がヨーロッパで

        現実化されていると人々は感じ始めていた。

        ダニエル書2章31節~45節の巨大像の解釈を、「時の徴」を急変激動する

        ヨーロッパの状況から人々は熱心に読み取ろうとするようになっていた。

 

        昨年9月11日にニューヨークなどで起きた自爆テロ事件直後から世界中の

        多くの人々が「時の徴」(マタイ伝24章3節)を求め始めたのと似ている。

 

        ナイアガラ会議でキリストの再臨が論じられ、ダービーの綸学説が普及し、

        ブラックストーンの「Jesus is Coming 」が出版され、スコーフィールド

        Cyrus Ingerson Scofield 18431921)が1909年に発表した前千年王国論

        の經綸学説に基づく引照解説付き聖書が発売されるとたちまち全世界に普及

        するという時代であった。  現在でも福音諸派の中では根強い人気がある。

        そういう世俗の激動異変が教会の中にまで浸透してきていた時代であった。

 

        (尚、旧新約聖書を七つに分けて理解しようとするこの經綸学の学びを聖書

        の興味深い学び方との一つとして紹介したいと願い現在作成中であるが、

        今回の全国伝道者研修会開幕までに間に合いそうもない。  この学説の再臨

        部門に関して野村個人は必ずしも肯定しているわけではないが、それでも

        聖書全体を通して流れる神の人類に対する救いの御計画を理解するためには

        極めてわかり易い優れた勉強方法の一つだと理解している。  經綸学に関心

        のある方は個人的に野村まで連絡を賜りたい。  後日教材を提供する予定)

 

        このような時代的流れの中にあって、ボールは黙示録の解説を連載し始め、

        旧約聖書の未完成豫言部分の解説、新約聖書が言う「奥義」の解説をした。

        このような時代的背景の中にあってのボールの黙示録の解説に人々は興味を

        抱き、ボールの人気を高めることになったのではないかと考えられる。

 

        然しこのことは、それと同時に、その欄でボールが担当していた聖書解釈の

        内容の故に、その欄を愛読する人々の増加と共に、ボールを嫌う人々の増加

        をも意味した。  黙示録への興味や関心と不安感があったからである。

        特に仲間の編集委員たちの間でボールは次第に不人気者となっていった。

 

    d.  1915  終末論に関する一連の論争の開始

 

        1910年4月にボールがガスペル・アドヴォケイト誌の Word and Work  欄に

        黙示録概論を開始した。  その時ボールは読者に対し、『総ての聖書注釈書

        に目を通したり耳を傾けず、聖書から直接に学ぼう』と訴えて、黙示録研究

        シリーズを開始した。  ボールが最初に読者に訴えた点を要約すると:

        1.  出来るかぎり文字通りに聖書を読もう。

        2.  充分に根拠のある理由がない限り比喩的・象徴的には読まないでおこう

        3.  象徴的なもの(シンボル)に対しては聖書全体から神さま御自身に説明

            して頂こう。

        4.  神さまの御心に我々の心を屈服させ、我々の意に神さまの御意志を屈服

            させるようなことはしないでおこう…と、このような点であった。

 

        こうしてボールは黙示録の釈義シリーズを続けた。

        このことに対して案じる声も出て来た。

        1915年が近づくに従いボールは黙示録概論シリーズを始めると予告した。

 

        1915年1月26日号が発行され、ボールの新しいシリーズが始まってから、

        スリグリー  Fletcher B. Srygley とスミス Fletcher Walton Smithらが

        反対を唱え始め、ボールにガスペル・アドヴォケイト誌(福音擁護誌の意)

        を辞するように迫ることになった。  「馘首」要求があったという人もいる

 

        前述のミラー運動の生々しい記憶があったので、ボールの詳しい解説に仲間

        の編集論説員たちは、「戸惑った」とか「案じ始めた」と言えば格好がつく

        のかも知れないが、辞任を迫ったことに変わりはない。

 

        このことに対する野村個人の見解はすでに述べておいたが、「建前」の他に

        「本音」というものがあるのが世の常のようで、ボールへの評価の高さや、

        読者の黙示録解説への関心の強さへなどに対する嫉妬、獨逸移民青年が重要

        ポストに就任したことへの妬み、また人種偏見があったことも否定できない

        と個人的には考えているし、そのような多くの個人的証言を聞いている。

 

        ボールが聖書に極めて精通した青年で、しかも祈りの人であったことを否定

        する人は殆どなかったが、それでも『羊の毛皮を纏った悪魔だ』と酷評する

        人も出て来た。  フォイ・ウォーレス・ジュニアー Foy E.Wallace, Jr.

        特にそうであった。  実はその後ろに別の影の黒幕的人物がいたようだ。

 

        前述のバプテスト系の農民伝道者ウイリアム・ミラーによるキリスト再臨の

        二度に亙る日時設定と失敗から、人々は黙示録の解説に対しても、興味を

        抱きながらも警戒するという複雑な感情の中にあったようである。

 

        聖書が明らかにしていない、聖書に隠されていること un-revealed things

          をボールが教えていると仲間の編集論説員らは抗議したが、ボールは

        皆さんは明らかにされていること revealed things  に気づかず、学んで

        いないだけなのではないのか…と反論した。

 

        「憶測や推測を聖書に持ち込むな」という抗議に対してボールはスコットの

        五本指式入信段階の教え、すなわち、福音を聞き、悔い改め、主を告白し、

        バプテスマされ、聖霊の賜物を受けるということよりも、キリストの再臨に

        関する記録の方が新約聖書には遥かに多いのだ…啓示され、明らかにされて

        いることなのに我々が気づかず、学んでいないだけなのだ…と反論した。

 

    e.  幻のガスペル・アドヴォケイト誌での誌上討論とその前後

 

        ボールはケンタッキー州ルイヴィル市のポートランド街教会の説教者。

        ガスペル・アドヴォケイト誌はテネシー州ナッシュヴィルで発行されている

        キリストの教会(無楽器教群主流派)に根強い読者層を有する信仰誌

        ボールがナッシュヴィルまで通うというのは当時の交通状況から多くの難儀

        を乗り越えてのことであった。  直線距離で 180マイル、約 300キロ、現在

        でも車で4時間ほどかかる距離にある。  当時は二頭馬車か列車で通った。

 

        ボールと彼の黙示録解説に好感を抱く読者と、その反対の読者もあった。

        ボールの馘首に反対する声、ボールを呼び戻せと要求する声も多かった。

        既に述べたが、ボールに辞職を要求し、ボールの馘首を是認する声もあった

 

        このような理由から討論会を開催するよりもガスペル・アドヴォケイト誌面

        での終末論を巡る討論ということで或る種の同意というか妥協が成立した。

        誌上討論でボールの黙示録釈義に反対する意見を提出する者として、前述の

        二人、すなわち、スリグリーとスミスが選ばれることになった。

 

        スリグリー(18561900)はアラバマ州で生まれテネシー州で没した説教者

        で、「恩寵とは聖書の命令に従うことで得られるもの」というAキャンベル

        の信仰理解が当時の無楽器教群に普及していた時に説教者になった人物。

        この理解は無楽器教群の典型的な行為義認の律法主義を培う根源を形成した

        尚、マッケイさんと同じ教会に通う家族にスリグリー家の孫たちがいる。

        スミス(18581930)はテネシー州に生まテネシー州で没している説教者。

        ガスペル・アドヴォケイト誌面に定期的に投稿していた人物で、こん日の

        我々が考えれば相当に律法主義的な典型的な無楽器教群の説教者であった。

        流暢に話す人であったが、同時に遠慮会釈なく語る毒舌家でもあった。

 

        これに対してリプスコム David Lipscomb やラリモアー Theophilus Brown

        Larimoreやブルーワー Grover Cleveland Brewer、リプスコムやラリモアー

          の弟子で私にも親切にして下さったチェンバーズ Stanford Chambers

        オームステッド Harold LeRoy Olmstead(共に前千年王国論者)らは、恩寵

        というものは人間の行為によって得られような筋合いのものでは絶対にあり

        得ず、むしろ恩寵とは神からの一方的な賜物であると強く主張した。

 

        ブルワーはベッツさんも個人的に知っておられ、『リプスコムと我々の時代

        の中間的位置を占める穏やかな紳士であり、アームストロングなどと同じ

        信仰路線の指導者であった』と、私の個人的な確認質問に答えておられた。

        エシャロン・マッケイさんの高校時代の友人にブルーワー家の子女が多い

 

        ハーディング James Alexander Hardingやアームストロング John  Nelson

        Armstrong などもストーン Barton Warren Stoneから続いていた同じ恩寵

        理解の神学を継承していた。

        無楽器主流派の律法主義的傾向はストーン路線からというよりも、皮肉な事

        に北のディサイプルズのアレキサンダー・キャンベル Alexander Campbell

        の聖書に対する科学的、理性的な接し方に負うところが大きいといえよう。

 

        スリグリーとスミスがボールの前千年王国理解に対して誌上討論を挑むこと

        になったが、スミスのボールとオームスッテッドに対する礼を失した発言が

        原因で誌上討論は実現に到らなかった。

        『ボールもオームステッドも、神の言葉を教えないで、彼らは自分たち自身

        「何も知らないこと」を恰かも知っているようにゴリ押しして読者に教えよ

        うとしている…』式の発言がスミスから投げかけられた。

 

        幻に終わったガスペル・アドヴォケイト誌面上での討論の後、ボールは同誌

        を「解任」「馘首」「辞任」(受け止め方によって用語が変わるが…)し、

        ルイヴィルから引き続きワード・アンド・ワーク The Word and Work  誌を

        発行して豫言関連の文章やパウロ書簡解説書などを書き続けた。

 

        野村の手元にもその殆どが保存されているが、主だったものとしては:

        1916  Russell and The Bible 「ものみの塔」創立者ラッセルと聖書

        1922  Kingdom of God  神の王国  再臨と王国設立に関する論説

        1947  The Revelation  黙示録

        1047  Lessons on Hebrews  ヘブル書研究

        1953  Lessons on Daniel   ダニエル書研究

        他に発行年月不詳のパウロ諸書簡研究書やパンフレット類多数あり。

        パンフレット類を中心に現在ローズ宣教師の甥が復古版を作成中で、希望者

        は個人的に野村に連絡されたい。

 

        1927年5月19日号から11月3日号までで、幻の誌上討論の後で、ボールズ

        Henry Leo Boles (リプスコム大学長で穏やかな紳士)とボールが、互いを

        尊敬しあいながらも黙示録に対する見解の相違を述べ合う紙上討論を行った

        このガアスペル・アドヴォケイト誌にシリーズの形で紹介された討論は、

        1928年に一冊の書物の形で出版された。

 

        また両者は仮私訳題で「未成就豫言」Unfulfilled Prophecy, a Discussion

        on Prophetic Themes とする出版物を1954年にガスペル・アドヴォケイト社

        から発行した。  ダニエル書2章34節から44節を中心に論じたものである。

 

        誌面での討論を終了した時点でボールズはボールのことを評して『豫言関連

        でボール兄弟とは意見が違うが、彼は立派なクリスチャン・ジェントルマン

        で、尊敬と敬愛に値する人物である』と語っている。

 

 

    f.  テネシー州中部 vs ケンタッキー州中部という地方的論争が全米教会に拡大

        フォイ・ウォーレス・ジュニアー Foy E. Wallace, Jr.の出現

 

          ここ迄は無楽器教群内での、テネシー州中部とケンタッキー州中部の、

        いわば「個人的」また「地域的」な「南北討論戦争」であったとも言える。

        然し、テキサス州のフォイ・ウォーレス第二世の登場で無楽器教群の殆どを

        巻き込んだ前千年王国論者排除という魔女狩の悲・喜劇が始まった。

 

        ウォーレス家は、もし野村の記憶が間違いでなかったならば、ストーン運動

        のケイン・リッジ時代にストーンの群の中で生きたウォーレス Wallis 家の

        末裔で、テキサスに移住した家族であったと思う。

 

        父フォイ・ウォーレス Foy E. Wallace, Sr.は極めて脅迫的説教者として

        有名であった。  キリストの教会の交わりの中で、少しでも彼の意見や見解

        と違う者がいれば、ウォーレスは遠慮会釈なく徹底的に攻撃した人物で、

        強烈な性格を備えた討論家、出版編集長、説教者であった。

 

        息子フォイ・ウォーレス・ジュニアーも父と同様に極めて律法主義的説教者

        で、1930年代から1940年代の無楽器教群を震撼させた人物である。

        父も息子も、大恐慌時代を背景に、強力な独裁的指導力を発揮した、典型的

        なテキサス西部荒野の開拓者精神に満ち溢れた荒くれ男であったと言える。

        このような時代的背景と地域文化社会学的な背景を無視できないと思う

 

        「復帰運動がミシシッピー川を渡りテキサスに入った時から運動が変質して

        律法主義的になった」とかねがね言われているが、ウォーレスにその典型的

        な凡例を見ることができると考えている。

 

        フォイ・ウォーレス・ジュニアーは、キリストの諸教会から前千年王国論者

        を徹底的に壊滅することが使命であると豪語していた極めて律法主義的発想

        の人物であり、時としては師であるリプスコムにすら闘争を挑んだほどの人

        であった。

 

        また、ハーディング大学長アームストロングが前千年王国論者に対して、

        終末論の解釈の相違ということを問題にして交わりを絶つという態度を採ら

        なかったということで、ウォーレスはハーディング大学とアームストロング

        を執拗に激しく攻撃し、遂にアームストロングをハーディング大学から撃退

        させるというような行動をすら採った人物である。

 

        ウォーレスの出現以来、北米の殆どのキリストの教会は一種の恐怖政治体制

        にあったとも言えよう。  それは1950年代初頭に全米はおろか全世界を恐怖

        のどん底に叩き落とした共和党上院議員マッカーシー Joseph McCarthy 

        政敵殲滅手法であった「赤狩り」のマッカーシズム McCarthyismにも似た、

        キリストの教会政治に於ける雛形であったとも言えるだろうと考えている。

 

        結果的に、キリストの諸教会から恩寵の教えが失われ、摂理への信仰が消え

        去り、内在される聖霊に関する教えが捨て去られ、クリスチャンたちの一致

        の願いが絵に描いた餅となり、そして大切な終末への期待も緊張感も教えも

        喪失してしまうという、元来はストーンからリプスコムやハーディングや

        アームストロングなどに継承されていた信仰の霊的内容面を失ってしまい、

        人が何かを「する・しない」という、すなわち、「五本指の救いの計画」の

        ような行為面だけを強調する宗教セクトになってしまうという悲劇的な結果

        を無楽器主流派諸教会は得ることになった。

        そして現在ではボストン運動が同じ轍を踏んでいるようである。

 

        これらの事柄は、当然のことであるが、千年王国論争の後で、単立教会が

        協力して学校や伝道を維持するのが聖書的であるのか、そうでないのか…と

        いう問題を新たに引き起こして、再び教群全体が割れるという悲劇の種とも

        なったいわゆる non-institutional issueノン・インスティテューショナル

        論争であり、「人が何かをする・しない」が聖書的かどうかという律法主義

        の問題である。

 

        さて元に戻って、フォイ・ウォーレス・ジュニアーは前千年王国論を教群

        から殲滅することを最高の使命、最大の喜びとしたテキサス人であった。

 

        たまたま前述のように南北戦争直後から千年王国に対する関心が高まってい

          たこともあり、建国百年祭のムーディーやサンキーの伝道活動もあり、

        バイオラ発行の(現在も発行中)King's Business 誌の影響もあり、1914

        に始まった第一次世界大戦という、それまでの人類がかつて体験したことの

        なかった恐ろしい戦争体験が伝えられており、そして間もなく世界大恐慌が

        押し寄せてくるという前でもあり、人々の不安感は高まるばかりで、それは

        そのまま「切迫しつつある終末」という雰囲気を醸し出していたと言えよう

 

        1933年になって、フォイ・ウォーレス・ジニアーは、前千年王国論信奉者の

        チャールズ・ニール Charles Neal とケンタッキー州ウインチェスターの町

        で討論会を開催することとなった。

        この町は野村や故中原七郎夫妻らが1950年代に留学していた所で、討論を

        受けて立ったニール家の家族は留学先の学校で共に学んだ仲間であった。

 

        広い会場が必要となり、ウインチェスターで一番大きな会堂を有していた

        クリスチャン・チャーチの会堂を借りる事となった。  当時クリスチャン・

        チャーチは現在のようにディサイプルズとクリスチャン・チャーチとに分裂

        していない状態であったと記憶している。

 

        ウォーレスは『前千年王国論者たちを抹殺してやる』と豪語して乗り込んで

        来たという。

        一方のニールは誰が読んでもわかり易い前千年王国説の解説をする小冊子を

        用意して会衆に配布した。

 

        二日目の夜になって、ウォーレスの余りにも酷い暴言に、クリスチャン・

        チャーチの長老たちが両者を呼び寄せて注意し、ウォーレスを拒否し、会場

        提供を断るという事態となった。

        そこで町の中心部のロータリーにあるコート・ハウス、裁判所の建物に急遽

        会場を移して討論会を続行した。

 

        『俺は薔薇園の造園師じゃないんだ。  前千年王国論者というコンクリート

        の石頭の壁をぶっ壊しにやって来たんだ!』というような発言があったので

        クリスチャン・チャーチの長老たちが会場提供を拒否した。

        フォイ・ウォーレス・ジニアーの気性をよく表している一面である。

        このような雰囲気の中で、それ以降、全米にわたって前千年王国論者攻撃が

        仕掛けられて行くことになった。  非常に不幸で残念なことであった。

 

        前千年王国論者たちへのウォーレスによるこの不幸な攻撃のほとぼりが未だ

        冷めていなかった1954年の夏、何も知らない私がウインチェスターに到着。

          最初の水曜の夕方、大学の校舎から15分ほどの距離を歩いてフェアー・

        ファックス Fair Fox Church of Christ  キリストの教会の祈祷会に出席

        しようと教会堂に入った瞬間、背の高い白人男性が近寄って来て訊ねた。

 

        『貴様はここの聖書学校に来たと新聞に出ていたジャップ・ボーイズの一人

        なのか?』  『イェス、サー』  『ここは貴様らの来る所ではない』

          『貴様らはみんな地獄に行ってしまえ』  『?』

        その瞬間、仔猫でも放り出すように私の襟首を掴んだ大男は私を教会堂から

        外の通りに引きずり出した。  わけのわからぬ不可解な出来事であった。

        ワイシャツを洗濯屋に持参した際、その同じ男が店主であると知り、私から

        無言でシャツを受け取った。  気の毒な、そして「忠実な教会の忠実な教会

        役員さま」の一人だった。  滞米8年弱で同様の酷い扱いを幾度か経験した

 

        フォイ・ウォーレスと同じテキサス人で、フォートワースとデトロイトの

          両都市で大きな単立バプテスト教会を牧会していたフランク・ノーリス

        J.Frank Norris, D.D., 18771952という前千年王国論者の神学博士の牧師

        がいた。

 

        ノーリス牧師は極めて著名な人物、別の意味で典型的なテキサス人であった

        相当にカラフルな人物だったと説明してくれた人があったが、1920年代から

        1930年代のバプテスト教界内の原理主義運動の指導者であった。

 

        会員数1万5千人のテキサス州フォート・ワースの第一バプテスト教会と

        1万人を抱えるミシガン州デトロイトのテンプル・バプテスト教会の二つを

        掛け持ちで同時に牧会していた極めて積極的・活動的な牧師であった。

        現在のように飛行機旅行が手軽に利用できる時代ではなかった時に、すでに

        飛行機を利用して両都市間を往復していたというし、もちろん列車でも往復

        をするエネルギッシュな人であった。

 

        伝道熱心で個人伝道にも熱心な説教者であり、バプテスト教界の有力者でも

        あった。  神学校や神学界でも発言力は極めて強大であったという。

 

        毎日、毎晩、毎週、どこかで説教をし、聖書研究会を開催し、全米向けの

        ラジオ伝道にも熱心であったという。

 

        また、テキサス州のバプテスト誌 The Baptist Standard の編集長の仕事を

        こなし、他にも幾つかのバプテスト系の新聞や機関紙にも関係していた。

        テキサス州の公益ギャンブルであった競馬ギャンブルを禁止させるほどの

        実力を誇った人物でもある。

 

        ローマ・カトリック教会に極めて強い不快感を持つことでも有名であり、

        ハーバート・フーバーが大統領選挙戦に出馬した時、対抗相手のカトリック

        信者アルフレッド・スミス候補打倒にノーリスを駆り立てたことでも明白で

        ある。  深南部やテキサス州の保守原理主義的キリスト教界では常に強力な

        オピニオン・リーダー的存在であった。

 

        テキサス州の無楽器キリストの教会教群にとって常に意識する大敵の一つは

        バプテスト教会であり、バプテスト教会にとってキリストの教会は宿敵関係

        にあると言っても決して過言ではないと、私個人の体験からも、そのように

        理解している。

 

        脱線ついでだが、留学中に或るバプテスト教会員の友人が吐いた発言で、

        『世界には三つの悪いCがある。  コミュニストと、カトリックと、そして

        お前たちのチャーチ・オヴ・クライストの三つなんだ…』というのを忘れる

        ことができない。  このような歴史的軋轢があってのことであった。

 

        また、ノーリスの名前が全米に知られるようになったもう一つの理由は、

        1920年代に教会で聖書の勉強をしていた時に、ノーリスの反カトリック精神

        に反感を抱いた男が聖書研究会場に潜り込み、その男と口論となり、相手を

        彼の事務所内で拳銃で射殺してしまうという事件を引き起こした事である。

 

        当然のことであるが殺人罪で告発され、裁判では自らの弁護をやり、そして

        正当防衛ということで無罪放免を勝ち取ったことでも知られているが、拳銃

        を使うことといい、自分で自分を弁護することといい、テキサス人であると

        同時に、ノーリスの性格を如実によく表していると思える。

 

        さて、このような大物人物であるバプテスト教会牧師ノーリス牧師の存在を

        我々のフォイ・ウォーレス・ジュニアーが知らない筈がない。

 

        ここで再度フォイ・E・ウォーレス・ジュニアー Foy Esco Wallace, Jr.

        18961979)を紹介しておきたい。

 

        ウォーレス家は元来ストーン Barton Warren Stone17721844)牧師が

        活躍していたテネシー州からアラバマ州にかけて1800年代初頭にストーンの

        呼びかけていた「クリスチャンだけ」運動に参加していた家族で、 Wallis

        と綴っていた。  ジョナサン・ウォーリスJonathan Wallis が家族の中で

        最初に説教者になり、その後に家族はテキサス州ワイズ郡に移住し、父親の

        フォイ・ウォーレス・シニアーが1871年に生まれた。  フォート・ワースの

        北約50キロの地点にワイズ郡がある。

 

        父のフォイ・ウォーレス・シニアーもテキサスでは有名な説教者であったが

        息子のフォイ・ジュニアーは少年時代から説教を始め、戦闘的、挑戦的、

        攻撃的、積極的な人物で、気性の荒いテキサス開拓者精神をそのまま全身に

        浴びて育った感じがする説教者である。

 

        そのような激しい彼を差し置いて彼の右に出ることのできた説教者はなく、

        唯一の例外はテキサスを中心に極めて保守的、律法主義的、原理主義的な

        The Firm Foundation 誌を発行したマッゲァリー Austin McGaryのみである

 

        父フォイもそうであったようであるが、キリストの諸教会の交わりの中で、

        彼の意見に同意しない者に対しては、あるいは彼が考えて「正しい」とする

        事柄に他の人が見解を異にする場合には、その人物に対して徹底的に攻撃を

        加えるという性格の持ち主であったことは「周知の事実であった」という。

 

        前述のホワイトサイドとニコルズ両名は、フォイ・ウォーレス・ジュニアー

        に大きな影響を与えた人物であるが、この両名のボールへの羨望や嫉妬や

        偏見など個人的感情に動機づけられたものによってフォイ・ジュニアーが

        扇動され、これがフォイ・ジュニアーを前千年王国論とその論者たちのこと

        を「教会の秩序を乱す異端」と決めつけさせ、結果的にウォーレスのボール

        や前千年王国論と論者たちへの魔女狩的なキャンペーンへとキリストの教会

        全体を巻き込んだ不幸な異常状態を築き上げることとなっていった。

 

        このような多くの要因や背景が重なりあって、前千年王国論を忌み嫌い、

        そのような終末観を抱く者の存在を絶対に許せなくなっていったウォーレス

        は、テキサスのみならず全米規模でその名を知られていたバプテスト教会の

        ノーリスと彼の前千年王国論を許すことができなくなり、討論会開催という

        ことに発展していったのは極めて自然なことであったと言わざるを得ない。

 

        ノーリスとの対決は、ウォーレスにとって前千年王国論者との闘い、特に

        無楽器教群内で前千年王国論を信奉する者たちを彼の生涯を懸けて追求する

        こととなる分水嶺のような役割を果たすことになって行くのである。

 

        前述のホワイトサイドとニコルズの応援を得たウォーレスは、ボールの論説

        を詳しく分析し、ボールの前千年王国論を攻撃し、ボール主義を撃破しよう

          と、そのために彼が1936年1月に発行したガスペル・ガーディアン誌

        Gospel Guardian に「ボール運動の歴史」と題した文章を発表することにな

        る。  ボール個人への攻撃というより、ボールが信奉する前千年王国説に

        我慢がならなかったのだと言う人もいるが、ウォーレスなりに論敵撃破術を

        研究したのであろう。

 

        ウォーレスは、ウォーレスを好きだという人に対しては、徹頭徹尾ほんとう

        に尽くすが、ウォーレスを嫌いだという人に対しては徹底的に攻撃を執拗に

        加え続けて、相手が完全に壊滅するまで攻撃の手を緩めないということでも

        有名な人であった。  彼の個人的な敵は同時に公の場においても敵であり、

        個人的な友は公の席においても同じ友であったという。

 

        またウォーレスは、一旦口にしたことは、言葉であれ筆であれ、誰に対しも

        二枚舌を使わず、言葉に裏表や駆け引きはなく、彼が思うことを言葉に率直

        に表し、言葉はそのまま彼の思いを表現していたという。

        Aに対して語ることとBやCに語ることとは常に同じであって矛盾はなく、

        例えば教会での顔と、職場での顔と、家庭での顔もいつも同じで矛盾なく、

        教壇からの顔と、教室での顔と、運転中の顔と、マーケットでの顔はいつも

        同じだったという。  この一貫した姿勢を保つことは仲々にできることでは

        ないし、彼の性格の一面を如実に物語っていると言えるのだろう。  即ち、

        誰に対しても同じ率直な気持ちを伝える人物であり、友に対しては常に友で

        あり忠実であったというし、敵に対しては同様に徹底的に敵であったという

 

        ウォーレスは相手が不明である時には攻撃を控え、相手が特定できてから

        遠慮会釈なく攻撃を仕掛けるという人物であったとも言われている。

 

        ボール撃退に情熱を燃やし、ボールの理論を研究し、前年のケンタッキー州

        ウインチェスターでチャールズ・M・ニール Charles McKendree Neal との

        討論の体験から学んだこともあり、ウォーレスはノーリスをも壊滅させ得る

        と確信して討論に臨んだ。

 

          この準備に関しては、無楽器主流派の説教者ホワイトサイドとニコルズ

        Robertson LLafayette Whiteside and Charles Rready Nicholがウォーレス

        を助け、ボールの信仰や考え方を纏めた A Review of R.H. Bollを書いた。

        このことは既に紹介したとおりである。

 

        ウォーレスはノーリスに向かって『お前はリベラルだ』などと執拗に攻撃を

        加え、熱血漢テキサス人同士の討論は相当に激しい言葉のやり取りになった

 

        ウォーレスがケンタッキー州ウインチェスターで前千年王国論者のニールと

        クリスチャン・チャーチの会堂を借りて討論をした時にも、彼の罵詈雑言が

        余りに酷かったので、クリスチャン・チャーチの長老たちがウォーレスに

        彼の発言を注意し、会場提供を拒絶したことは既に紹介したが、ウォーレス

        にはそのような激しい性格があった。  個性とテキサス気質の合体なのかも

        知れないが、とにかく気性の荒い人物であったようで、同様に言葉使いも

        荒かったようである。

 

        ウインチェスターでの討論会は1933年1月2日から6日にかけて行われた。

        二人の人間が居れば少なくとも二つ、あるいはそれ以上の見方というものが

        あり得るわけで、ウインチェスターでの討論会をどちら側が先に誰に話しを

        持ちかけたのかということも、過去のことでもあり、疑問が残るが、挑戦者

        は前千年王国論者のニール側からだったと発言した人を知っている。

 

        このニールとの討論がウォーレスを前千年王国論者殲滅意欲の導火線に火を

        つけたと言うひともおれば、その翌年にノーリスとの討論会がウォーレスに

        前千年王国論者を無楽器教群内から徹底的に追放させる決意を決定させたと

        言う人もいる。

 

        (インディアナ出身のチャールズ・ニールはスタンフォド・チェンバーズの

        友人で、インディアナ州で説教者を勤めたあと、ウインチェスターに移って

        説教を続けていた。  息子のフィリップ・ニールとは同じウインチェスター

        に前千年王国論に立脚する聖書大学が設立された時、私と同級生であった。

        その後フィリップはアフリカに宣教師として出かけたと記憶している。)

 

        当時の討論会の式たりとして、討論する者同士はお互いの友人や支援者たち

        を壇上に招くという習慣があったようである。

        前千年王国論者であったバプテスト教会牧師ノーリスが、「立会人」として

        招いたのは、結果的に皮肉と言えばよいのか不幸なことと言えば良いのか、

        同じキリストの教会員たちで前千年王国説を信奉する者たちを含んでいた。

 

        この討論会に立会人として壇上に上がった人々の中で、少なくとも二人は、

        留学中と帰国後こん日までの私個人の人生や信仰に極めて大きな影響を与え

        続けた恩師たちであったということを最近になって知り、誠に複雑な心境に

        陥っている。

 

        同じ無楽器教群の教会員たちが論敵の陣営の立会人として出席したという

        この事実は、ウォーレスを激昂させ、話によると、ウォーレスは自分を忘れ

        て「中生代の肉食恐竜タイラノザウルスに攻撃を仕掛ける猛犬ピットブル」

        のようにノーリスに激しく迫った…という人もいる。

 

        ケンタッキー州ウインチェスターでの討論会は同じキリストの教会の説教者

        同士の論争であったから、立会人たちも同じように同じ無楽器教会の者たち

        でありながら、豫言や恩寵などに関する理解を異にする者たちであったが、

        こういうことは私たち日本人には仲々に理解できない一面である。

 

        (ウォーレス対ノーリスの討論をどちら側がどちら側に申し込んだのかに

        関してもアビリン大学の復帰運動史資料館の学芸員相当の方に調査をお願い

        しているものの、相手があることでもあり、仲々に調査が及んでいない。

 

        これはこの件に就いて詳しいとされている学者が現在ペパダイン大学での

        恒例の講演会に出席中であり連絡が取れないということもある。

        また、ウォーレス側の立会人がどういう人たちであったのかも、どうやら

        このままでは六月までに調べるのは困難であろうと思われる。

        アビリン・クリスチャン大学の復帰運動関係資料センターやナッシュヴィル

        にあるディサイプルズの歴史協会の資料保存館には当時の夥しい新聞記事、

        写真、交信記録や、私信などが保管されているのは承知しているが、どなた

        かにお願いして根気よく丹念に調べて頂かなければならないという問題があ

        り、現時点においては、これ以上の調査は八ケ岳山中からは無理である。)

 

        しかし、ウォーレスに、或る意味で、前千年王国論者との討論をするように

        扇動した人として、そして扇動という表現が穏やかでないのなら、勧めた人

        は、フィロ・バニヤン・スリグリー Filo Bunyan Srygleyとロバーツスン・

        ラフィエッテ・ホワイトサイド Robertson Lafayette Whitesideの二人で

        あったと言われている。  前述のニコルズを加えていない古文書もある。

        この二人が、あるいはニコルズを加えた三名が、ある意味では、ウォーレス

        を扇動した影の黒幕的存在であったという人々も多い。

 

        フォイ・ウォーレスはこの二人、即ち、フィロ・バニヤン・スリグリーと

        ロバーツスン・ラフィエッテ・ホワイトサイドを恩師、英語でメンターと

        呼び、事ごとにこの二人に相談をし、指示を仰ぎ、忠告を得ていたという。

        とりわけ、ウォーレスに前千年王国論者壊滅を誓わせるように仕向けたのは

        いま述べたばかりであるが、この二人であったと証言する人も多い。

 

        論より証拠と言うが、この二人がウォレースに先立ってしまってからという

        ものは、ウォーレスの前千年王国論者殲滅の情熱は消え去って行ったという

        ことでも明白だと、それらの人々は証言している。

        この点で、少し脱線になるが、あるいは先を急ぎ過ぎるが、参考までに彼の

        その後の活動を簡単に紹介しておくと以下のようになる。

 

        恩師たちが死去した後のウォーレスは、前千年王国論とその信奉者たちへの

        攻撃の手を緩めはじめ、1940年度あたりになると、今度は単立諸教会が協力

        して孤児院を維持したり、内外宣教に協力できるのかとか、聖書学校や大学

        や慈善事業に献金を注ぎ込むことが聖書的かどうかとか、それらを協力して

        維持運営できるのか…などという、いわゆる institutional issues 制度や

        事業に関する論争に、反対側の立場から二つの誌面で攻撃を加えた。

 

        (日本に於いては、この問題、即ち一般にノン・インスティテューショナル

        non-institutional issue と呼ばれている問題は実質上存在しないし、存在

        し難い。  非協力主義教会とか非協力主義伝道・宣教主義とでもいえる。

        太平洋戦争敗戦直後から大阪近辺のこの主義主張に基づくN宣教師一族が

        いるが、結果的に全く孤立し、不毛同然である。  それでも自分たちだけが

        唯一正しいキリストの教会とその教会員であると主張しているようである)

 

        その次にウォーレスが取り組んだのはキリストの教会の中に流れていた平和

        主義に対する挑戦であった。  いわゆるパシフィズム pacifism である。

        1800年代、即ち復帰運動初期の指導者ストーンやリプスコムらが抱いていた

        平和主義、これは彼らの天啓・黙示的な信仰が生み出した当然の結果である

        が、ウォーレスも最初は同じように平和主義者であった。  然し、日本軍の

        真珠湾奇襲攻撃が引き金となってウォーレスは伝統的な平和主義を批判する

        立場を明らかにした。  これも間接的な前千年王国論者への反撃である。

 

        これと同様な事はジョージ・ベンソン Geroge Stuart Benson 18981991

        も適用される。  平和主義者であったベンソンが中国大陸で共産軍の非道な

        在り方を体験してから反共主義の右翼に変節したことを日本人は知らない。

 

        そして最後にウォーレスが攻撃を加えたのは聖書翻訳事業に対してである。

        聖書の近代訳を「リベラルだ」と叫んで攻撃し始め、「背教・変節の近代訳

        聖書が教会の中に近代主義を持ち込んでくる」という主旨であった。

        新旧訳聖書の言語学的な教養も専門訓練も受けたことのないウォーレスは、

        彼の論文 In A Review of the New Versions (1973) で初歩的な文法ミスを

        繰り返したが、それでも彼の支持者・追従者は多かった。  彼はこの運動の

        ために最後の15年間を費やして人生を終えた。

 

        元に戻って、ウォーレスの恩師ホワイトサイドは宣教師マッケーレブと同じ

        テネシー州ヒックマン郡生まれで、アビリン大学の三番目の学長を勤めた

        筆の人である。

        ニコル Charles  Ready Nicholと組んで「健全な教義Sound Doctrine」と

        いう四巻の著書を著し、無楽器教群の「組織神学の教科書」とされ、長年に

        亙り使用されたことは有名である。

 

        フィロ・バニヤン・スリグリーはすでに21頁で紹介済の F.D. スリグリー

        Fletcher Douglas Srygley  の兄弟である。  フレッチャー・ダグラスの方

        1900年に40歳で帰天しており、孫たちがマッケイさんと同じ教会員である

 

        フィロ・バニヤン・スリグリーは、フォイ・ウォーレス程に攻撃的ではない

        が、兄弟のフレッチャー・ダグラスと比べると遥かにウォーレス的な人物で

        あったようである。  子孫たちがマッケイさん経由で証言してくれた。

        フレッチャーもフィロも共にガスペル・アドヴォケイト誌の編集に携わって

        いたようであり、また、共にリプスコム大学にも関係が深かったようである

 

        ウォーレス対ノーリスの千年王国や豫言に関する討論が終了した後、討論を

        本の形で残すかどういうかという点でも意見がまとまらず、誰がそれを出版

        するかでも二人は更に争った。  結局ノーリスは自分の論文だけを発行し、

        その中には論争相手のウォーレスの論文を加えなかった。

 

        この事がまた二人の間で論争の種を蒔いたことになり、二人の間の意見の

        差による争いは久しく絶えなかったようである。  徹底的に意見の違いを

        論じようとするあたりは、さすがにアメリカ人であると感心させられる。

 

        こうして、二人は10年後の1944年に再度討論会をやることになり、1946年の

        2月10日、17日、25日、更に3月3日に討論会をやったという記録がある。

        即ちナッシュヴィルのディサイプルズ・オヴ・クライスト・ヒストリカル・

        ソサイェティーに保存されているが場所の特定がまだできないでいる。

        一つの事の半分がわかっても後の半分の事がわからず、文字どおり「靴の上

        から痒い所を掻く」ようなもので、教会史の勉強とは常にこのようである。

 

        ウォーレスがボールに対して、或はニールに対して、更にノーリスに対して

        行った前千年王国論者撲滅作戦の矛先は、1937年にはオクラホマ・シティー

        の千年王国論者ウエバー E.F.Webber にも向けられ結果的に討論会となり、

        1944年にはロサンゼルスのアングロ・イスラエル主義者ジョン・マシューズ

        John Matthews との討論会にも発展した。

 

        無楽器教群内でも、ボールや前千年王国論者に対して交わりを維持する姿勢

        を崩さないハーディング大学長アームストロング John Nelson Armstrong

        激しい攻撃を加え続け、結果的にアームストロングを大学から追放させるの

        に成功している。  マッカーシズム時代を彷彿させる「恐怖時代の創造者」

        でもある。  どれほど多くの穏やかな教会指導者たちが同様戦法で苦境に

        追いやられたか想像を絶するものがある。

 

        ナッシュヴィルの大きなセントラル教会 Central Church of Christ の設立

        に関わり、その教会の牧会者となったアイムズ Elvin H. Ijams 18861982

        も、前千年王国論とボールに対する穏やかな姿勢の故にウォーレスの攻撃を

        受けてリプスコム大学長の席を追われたと、私の記憶が間違いでなければ、

        そのように記憶している。  ハリー・ファックスさんが尊敬されていた師で

        ハヮード・ホートンさんの友人でもあった。

 

        マッケーレブも同じような目にあっている。

        おそらくアンドリューズ嬢も体験されたのではないかと推測できる。

        茨城基督教学園が設立されて間もない頃の内部事情をローガン・ファックス

        さんが書いておられるが、そこでも前千年王国論が踏み絵として、リトマス

        試験紙として使われたようである。  Voices of Concern, St. Louis, 1966

        Destiny or Disease ? by Logan J. Fox

 

        このように、教会指導者や教会員たちの中で、数知れぬ多くの善良で穏健な

        人々がボールや前千年王国説を信奉する仲間や友人を、終末論に関する見解

        や意見が違うだけという理由で交わりを断たず、主に在る兄弟姉妹として、

        普通に仲良くお付き合いを続けていたし、続けていたいと願っていたが、

        そこにウォーレスが恐ろしい剣幕で乗り込んで来て、二者択一の選択を迫っ

        たのである。

 

        シンガポール侵攻日本軍総司令官山下奉文トモユキが同島守備隊英軍総司令官

        パーシバルに対して『イェスかノーか』と迫った話は有名だが、同様な態度

        でウォーレスは迫り、無楽器教群全体から前千年王国論者を殆ど完全に排除

        することに成功して現在に到っている。

 

        無楽器教群内で分裂が生じる時には、必ずというほど、「~をする」とか

        「~をしない」という、「ある行為をする・しない」が問題である。

        しかし、ウォーレスが介入することで、「前千年王国論を信じるのか?」

        「信じないか」という、「信じる・信じない」という信仰の内容の事で分裂

        と混乱が起ったのはこれが初めてであり最後となってしまった。

 

        無楽器教群の中で、ある特定のことを「する・しない」で意見や見解が割れ

        た場合、意見を異にする者やグループが脱退して新しい群を作るというのが

        通常の姿である。

 

        ところが、この前千年王国論争の場合だけは、ウォーレス指導の徹底した

        魔女狩の成果があって、前千年王国論の信奉者たちやその同情者たちは、

        「自らの意に反して追放される」という異常な形を採ってしまった。

        こうして主流派から「追放された」教会は凡そ百ほど私の留学中には存在し

        ていたが、現在では80教会前後となってしまっているように理解している。

 

        このようにして前千年王国説は無楽器教群にとって恐怖の踏み絵となった。

        こうして教群に深い分裂と分断の傷を作りあげて凡そ80数年が経ち、現在で

        もその傷の回復、交わりの修復は人間の手による限り容易なことではない。

 

        しかし、結果的に無楽器教群主流派から殆ど完全に前千年王国主義とその

        信奉者たちを追放することに成功しただけではなく、天啓・黙示的信仰と、

        それに伴う一連の霊的内容、即ち、神の摂理への絶対的な信頼、内在される

        聖霊の働き、恩寵理解、祈りの力、基督者の一致への願望などという、重要

          な教えが次々に教会から消え去ってしまうという悲劇を招いてしまい、

        「異端・邪教」を駆除したけれど、余りにも代価が高すぎるように思う。

 

        教群から終末に関する教えが忽然と消えて数十年が経ってしまった。

        今回の全国伝道者研修会で終末に関する関心が高まったことを神さまに感謝

        したいと思う。  敗戦直後に若手の宣教師たちがビクスラーやローズを喚問

        して『千年王国論を信奉しているのか?』などと詰問したことがあった。

        二度と再びこの国に於いてそのような愚を我々が繰り返してはならない。

        主イェスが己の血潮をもって贖われた御身体を二度と分裂させてはならない

 

        無楽器教群外に対しても、同じ復帰運動の願いを抱いて共に歩み始めた兄弟

        教群のディサイプルズに対してもウォーレスは、公同礼拝時の楽器繰使用や

        ミショナリー・ソサイェティー問題で繰り返し攻撃を仕掛けた。

        ウォーリスとは、良くも悪くも、無楽器主流派内の強力な指導者であった。

 

        もしこん日ウォーレスが我が国におれば、伝道者を支える会であれ、月例の

        伝道者会であれ、全国伝道者研修会であれ、伝道学院であれ、伝道学院の

        理事会や後援会であれ、教会会計から給料を貰っている伝道者であれ、木端

        微塵になるまで執拗に攻撃されることは間違いないであろうと思う。

 

        こういう人物が深南部無楽器教群の中で、1920年代から1950年前後まで教群

        全体を駆り立てて、前千年王国説とその信奉者たちに対する魔女狩に総動員

        させたのである。  悪夢は殆ど鎮静化したが、蹴飛ばされた側にとっては、

        その傷と後遺症はいまだに治癒していないし、癒されようもない。

 

        『基督者の一致を我々の北極星にしよう』とストーンは言った。

        自分自身の思い出したくもない滞米中の諸体験を思う時、また、G宣教師が

        絡んでいた帰国直後の不思議な交通事故と腎臓喪失の事実を考え併せると、

        ストーンの訴えを心から静かに叫んでこの報告文を終わりたい。

 

                                《編集後記》

 

  本文献を印刷する直前になってアビリン大学の復帰運動研究所で古文書などを専門

に扱われる図書館司書役のラヴランド夫人から数百点にわたるフォイ・ウォーレスの

討論関連資料が到着しました。

 

  新資料によりますと、フォイ・ウォーレス対フランク・ノーリスの討論会の後に、

ハインズ Dr. Jacob Lee Hinesというキリストの教会の説教者がノーリスと討論会を

やったことの詳細も判明しました。

  ウォーレス対ノーリス間の激しいやり取りと違って、両者が互いに相手を尊敬しな

がら穏やかに終末論や豫言に関する意見の違いを討論した模様です。

 

  ウォーレス対ノーリスの対立の時には、テキサス州内は勿論のこと、周辺地域、

例えばオクラホマの諸教会などもノーリス Dr. J.Frank Norris 打倒精神に巻き込ま

れてずいぶんと感情的になっていたことなども資料からわかりました。

これらに関しては、何かの折が再び与えられれば、更に詳しく説明できるでしょう。

 

  尚、ラヴランド夫人はインディアナ州南部にある小さな村ライオンズに今でもある

プレザント・グローヴ・キリストの教会の出身者です。  この僻地教会は基本的には

前千年王国論に立つ教会で、この教会の関係者の古い方々は私の留学中にお小遣いを

下さったことがある人たちで、しかもラヴランド夫人の友人たちですから奇遇です。

 

  登場人物の確認などで茨城基督教学園のベッツさん、元茨城基督教学園への宣教師

マッケイさん、ケンタッキー州ルイヴィル市ポートランド街キリストの教会説教者の

アレックス・ウイルスンさんのお世話になりました。  参考図書や辞典購入に際して

トム・オルブライト博士から貴重な具体的提案を得て資料源を入手できました。

金沢教会の天野智允さんには中途段階での校正を2度お願いしました。  校正作業で

野村順ヨリ子さんの協力があり、高価な資料購入に際しも「山内一豊の妻」的な協力が

ありました。  これらの方々に感謝を捧げ、主が祝して下さるようにと祈ります。

 

  発題当日に割り当てられた短時間内で総てを紹介できなかったのは残念でしたが、

日本では殆ど知られていなかった事実のごく一部分でも紹介できたのは幸いでした。

  終末待望緊張姿勢が更に救霊熱と聖書の学びを促してくれる事を心より願います。

 

  2002年6月16  八ヶ嶽南麓  祝福の希望(テトス2:13)に在って  野村基之

 

    2002年度全国伝道者研修会  主題  「Μαραναθα  マらナた」

              キリストの諸教会に於ける再臨理解の歴史的概観

                        発表を終えて    野村基之

 

  今年度全国伝道者研修会を担当された茨城地区の伝道者たちが選ばれた主題の

「マらナた」(コリント前書1622節、*平仮名にアクセント)が日本に於いて

公式に、然も肯定的に取り上げられた事は初めてであった。  この歴史的意義は

極めて重要であると評価したい。  個人的には深い感動を覚え、主に感謝した。

 

  その理由は当日担当した発題講演時に提供した資料に纒めておいたが、米国の

聖書復帰運動の中の無楽器教群の在り方や性格を根本的に変えてしまう程に重大

な論争が終末論を中心に闘われ、その影響を我が国でも強く受けてしまい、再臨

を話題にする事は久しく禁忌とされて来たからである。

 

  「切迫するイェス・キリストの再臨」を待望しつつその生涯を福音宣教に捧げ

たローズ宣教師を除いて、誰もこの事を教えず、学ばず、口にする事がなかった

ので、前千年王国説を含めて、再臨に関する学びと、その事が米国教会で深刻な

問題を起こしていた事を知る日本人が無楽器教群の中には存在していなかった。

 

  これらの理由で、極めて限られた時間の中で、できるだけ多くの資料と情報を

提供したいと考えた。  当日会場で提供した資料がお役に立つ事を願っている。

 

  このような事情があったので、今年度の副題であった「主の再臨に備える伝道

と牧会」、即ち「伝道と牧会」との関連でイェス・キリストの再臨を捉える事に

まで言及する事ができなかった事を残念に思う。  一過性の関心ではなく、聖書

の主要部分を占める豫言に対する常日頃からの学びが更に深められ、その中から

各自が各自の福音伝道と教会への奉仕を深められ、窮められるように希望する。

 

  聖書とは、或る意味で、人々の解釈に委ねられているとも言える。  神さまが

そのように我々が真摯に聖書を読むように求めておられる。  そのような姿勢で

聖書を読む者は、或る意味で、総ての者が神さまの前に同等であり対等である。

  そのような意味で、読まれる書としての聖書を解釈する時に、いろいろな解釈

や意見が出て来る事を神さまは御存知である筈だと思う。  一人の人の読み方が

絶対的であるというような事はあり得ない筈である。  それでも各基督者は主の

恩寵の中にあって自由であり、兄弟姉妹であり得る。  これは大切な点である。

  然し、単なる真摯な聖書の読み方の差異だけでなく、そこに個人間の人間的な

感情が入り込むと深刻で複雑な問題を主のエクレシアの中に招いてしまう。

 

  また、南北戦争後の米国は激しく揺れ動きながら成長して行った。  社会的、

経済的、地理的、文化的、その他の諸要因要素が戦勝側と敗戦側に大きな変化を

もたらした。  その後に、第一次世界大戦が勃発して孤立していた新生国米国は

急激に世界的規模で拡大する国となった。  教会も大きな影響を受ける事となっ

た。  ヨーロッパからいろいろな影響が海を渡って北米大陸に持ち込まれた。

第二次世界大戦、朝鮮戦争、ヴィエトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン出兵

と、戦争ごとに米国は計り知れない変化と成長を教会を含む国内にももたらして

いる。  そのような中にあって、教会の聖書解釈も、実は大きな影響を受けて来

たと考えられる。  科学万能主義の時代にあって豫言や再臨を語る事が減った。

 

  然し、どのような時代にあっても、聖書を単純に文字通りに読もうとする群や

人々がいる。  そのような人々にとっては、激しく移り変り行くこの世にあって

も変わらないものは神さまの御言葉であると信じている。  聖書をなるべく文字

通りに読むと、それらの人々が到着しがちなのは前千年王国的な豫言解釈という

事になる。  世界的傾向として、いわゆる福音派と称する、原理主義的基督者の

多くは、そのような訳で、前千年王国説に堅く立っている場合が多い。

 

  1900年の前後からディスペンセーションという聖書の読み方が急速に福音派の

間に世界的に拡がって行った。  そして今も根強い支持を得ている。  キリスト

の再臨に関する部分になると私個人としても或る種の躊躇と差し控える点を留保

するが、全体的に眺めて創世記から黙示録までを一貫して流れる神さまの救いの

御計画をわかり易く理解するのに役立つ優れた一つの勉強方法だと考えている。

 

  いづれにせよ、日本のキリストの諸教会に於いて、今後は各自が忌憚なく聖書

を各自の責任で、聖霊の導きを得て、また神さまが下さった知性をも活用して、

自由に読み、どのように神さまが私たちを愛して救って下さったのかという事を

更に深く理解し、聖書を愛し、基督者が一致する事を心から願いながら、同時に

私たちに与えられている世界宣教・人類救霊の業に喜んで参加し、それを通して

主イェス・キリストの再臨を「祝福に満ちた希望」(テトス書2章13節)として

待ち望む者へと成長し続ける必要があると思われる。

  主が再び我々の為にお帰りになる時は、我々が思っている以上に近いという事

を常に覚え、いつお召しがあっても相応しいような日々を謙虚に送りたい。