《パスカの記念祝宴に集まった旅人ホームレスたち》

                =コリント前書1117節~30節をめぐる雑所感=

 

  1973年だったでしようか、当時の韓国は朴正熈パッチョンヒ軍事独裁大統領が布告した

大統領緊急処置令とかだったと思いますが、一種の戒厳令の下にありました。

朝鮮動乱後の疲弊しきっていた経済状態の悪さをまだ引きずっていました。

 

  ソウルのド真ん中を流れる清渓川チョンゲチョン に添った最大最悪の清渓川スラムの教会

の無名伝道者と住民代表らの頼みを聞き入れた私は自腹を切って安い飛行機の切符を

入手し、乗り継ぎ乗り継ぎ、約80時間をかけて西獨逸に飛んだことがありました。

 

  中東ドバイを飛び立った飛行機はイェスラエル上空からトルコ半島の付け根部分に

入り、同半島を横切ってギリシャ上空からアルプスを越えて西獨逸に入りました。

 

  トルコとギリシャ、それにマケドニヤの上空で私は熱心に窓下に拡がる景色を熟視

しました。  2000年前、そこにはイェスを主キリストと信じた聖徒たちが無数に活動

し、また住んでいたはずでしたから、たくさんの教会があった筈です。

  それらの教会の一部は新約聖書に現在でも名前を遺していますが、それ以上に無数

の「家の諸教会」が現在のトルコ半島からギリシャ各地にはあったはずでした。

カパドキアの奇岩群の洞窟を利用した主のエクレシアもあったはずだと思いました。

 

  アルプス山脈と平行して飛行し、やがて山脈を越えてフランクルトに向かう飛行機

の窓からはローマ教会の執拗な迫害を逃れて山岳地域に移住した聖徒たち、すなわち

新約聖書の信仰と教会を護ろうとした無名の先輩たちを偲びました。  ドロミテ山脈

の中で聖書一本槍信仰を固守した聖徒たちの忍耐信仰の讚美歌を口ずさみました。

 

  今それらの教会は残っていません。  彼らから発信された福音は今や全世界に拡散

されています。  そして彼らが送り出してくれた福音が2000年後に日本にも届いて、

この私もその同じ福音の恩寵に浴している者となっていたのです。

  そして同じ福音を信じる韓国の貧しい仲間や幼児たちのために、私が西獨逸教会に

赴こうとして2000年前に聖徒たちが活躍した土地の上空を飛んでいたのです。

  それですから、感慨無量でトルコとギリシャの白い大地を機窓から眺めたのです。

白いということは、塩分が多いのか、積雪だったのか、そのような色の岩石なのかは

わかりませんでしたが、日本とは違い、白い地表が延々と続いていました。

 

  教会史を学ぶ素人として、また地中海沿岸人類文化史を学びたいと願っている素人

の私には、2000年前のローマ帝国領土内の人々の生活状態を充分に理解しているわけ

ではありません。  しかし、当時の帝国領土内の殆どの人々は現在のようにめいめい

各自が自分の持ち家を持っていたわけではなく、殆どの人々がローマを中心に領土内

を歩き廻っていたということは基本的に理解しています。

  現在でもヨーロッパ各地にはロマ人(差別蔑視用語ではジプシー)と呼ばれている

人々が幾千年かの彼らの伝統を維持して、定着を拒否し、歩き廻っています。

 

  ローマ帝国領土内に隈なく張りめぐらされた立派な道路は総てローマに通じていた

のです。  その道路をローマの軍人や役人、その召し使いたち、奴隷たち、半奴隷、

行商人たち、旅芸人たち、流れ歩く職人たち、ありとあらゆる職業の人々がとにかく

歩いて歩いて歩いていたのでした。

 

  昨年だったかのNHK大河ドラマ「宮本武蔵」の武蔵も、とにかくひたすらに歩い

て歩いていたのを覚えていらっしゃると思います。  けれども、使徒パウロの3回に

わたる伝道旅行の距離は武蔵どころではありません。  歩きに歩き続けたのです。

 

  「ローマは帝国そのものが深い池である」と言われていました。

  すなわち、帝国領土全体がローマを中心にした大きな池であり、魚が池の中を回遊

するように、人々は大きな池の中心点であるローマという渦を中心に歩き廻っていた

のです。  インド西部からイングランドまでの大きな渦が廻っていたのでした。

  新大陸・新世界アメリカ大陸にヨーロッパ各地から人々が移住したことを除けば、

当時のローマを中心としたローマ帝国領土内を人々が大移動したことは、人類歴史の

中でもそれ以外にはなかったと言われているほどの人類大移動時代であったのです。

 

  歩き廻る人々、とりわけ身分の極めて低い人々の中の多くは、異邦人でありながら

もイェスを救い主と信じていた人々があったのです。  地中海沿岸の大都市にも多数

の奴隷や半奴隷、行商人や旅芸人、各種労働者などが絶え間なく流れていました。

その中にもイェスを救い主として信じている人々が大勢いたのでした。

 

  彼らの出身地も、彼らの皮膚や髪の毛の色や目の色も違っていました。  話す言葉

も違っていました。  それでも彼らは旅先で安心して休める場所を知っていました。

それはエクレシアであったのです。  「呼び出された者たち」の憩いの空間でした。

 

  当時のクリスチャンたちは専門の集会場とか礼拝堂といったものを知りませんでし

た。  それらは2~3百年後に現れて来たのでした。  初代のエクレシアは、時とし

て大きな森の大きな樹木の下で集まったり、洞窟で集まったりしていました。

  裕福な信仰者がたまたま特定の地域に居を構えておれば、自宅を解放して日曜朝の

礼拝の場を提供しました。  集会にはクリスチャンだけが出席を許されていました。

  旅する人々の中にいたクリスチャンたちは、口から口に、クリスチャンの集会場を

伝えあっていたようです。  どこを旅していても、クリスチャン・センターがどこに

あるのかを、クリスチャンは正確に知っていたようです。

 

  一種の閉鎖的な集会でしたので絶えずローマの官憲からは秘密結社の容疑をかけら

れていました。  毛色も目の色も皮膚の色も言葉も異なる身分の低い旅人の男女らが

どこともなく集まって来て、初めて会うはずの相手を「兄弟姉妹」と呼び合い、抱擁

しあい、食事や衣服や宿を無料で提供しあっており、「秘密集会ではどうやら嬰児を

殺してその生き血を吸っているらしい」とも誤解されていました。  飲み食いして、

酔っ払って、目に見えない神という不思議なものを拝んでいるとも誤解されました。

「ローマ帝国を転覆させようと陰謀を企てているようだ」との誤解もありました。

 

  既に述べましたように、使徒パウロたちもローマ帝国が整備したハイウエイを歩き

廻っていたのです。  行く先々でパウロたちは「天下世界を転覆さす陰謀を企む不逞

の輩」だと怖れられていました。  そしてその理由は使徒行伝17章1節~9節により

ますと、彼らが「イェスの受難と埋葬と復活」を宣べ伝えていたからだということが

わかります。  使徒が行商していたのはパスカのイェス・キリストのことでした。

  この十字架のできごとと、復活のできごとこそ彼らを支えていたエネルギー源でし

た。  第1コリント書15章3節~20節に彼らの確信とそれを支えた理由を読みます。

 

  使徒たちが歩き廻っていた理由は「パスカを宣言すること」でした。

そして、ローマ帝国領土内を旅する、ありとあらゆる・いろいろ・さまざまな人々と

共に、主の日になると、どこかに集まって、パスカの祝宴を設けていたのです。

使徒行伝20章7節~12節も「週の初日にパン裂きが行われていた」ことを語ります。

  コリント前書1117節~34節を読みますと、そこには初代教会の愛餐会=パスカの

集まり、すなわち「主の受難と復活を祝う食事会」(こん日ではそのことを「聖餐」

とか「聖晩餐」とか「主の食卓」とか「パン裂き」などと呼んでいます)に就いて、

使徒パウロがコリントの教会に宛てて警告文を書き送っています。

 

  18節の「教会  エクレシア」は教会堂を意味するものではないと思います。

当時は現在の私たちが考える教会=教会堂というものがありませんでした。

  どこか大勢の人々が集まれる場所でパスカ(主の受難と埋葬と復活)を記念する会

に信者が集まっていたようです。  そこにはフル・コースのごちそうがありました。

  この席は、私の考えでは、2000年前のローマ帝国時代に、まるで現在の民主主義の

国のように、主人も金持ちも権力者でも、奴隷でも半奴隷でも職人でも行商人でも、

皮膚の色が違っても、言葉が違っても、等しく出席して食事を共にすることができた

唯一の場所、唯一の民主的な時間であったと思われます。  極めて稀な光景です。

 

  ところが、金持ちや裕福なクリスチャンたちは各自めいめい自分たちが持ち込んだ

ご馳走と葡萄酒を、全員が揃ってから一緒に「主の聖餐」に与るはずなのに、彼らは

先に飲み食いしてしまっていたのです。

  召し使いや、奴隷や、半奴隷など、身分の低い者たちは、時間どおりに集まること

が困難であったようです。  また、そのような身分の低い、貧しい人々の多くは日頃

から充分な食事に与ることもできない状態でいましたから、クリスチャンの集まりは

彼らにとっては、遠慮なく美味しい食事を充分に摂取できる唯一の場所と時であった

ものと、そのように私は思っています。

 

  しかし実際には、主イェスの十字架上の受難と埋葬と復活を記念するための宴席が

一部特権階級に独占されてしまうような状態となっていたのでした。

  一つの食事に一緒に与ること、一つのパンを共に裂くということ、一つの酒杯から

同じ葡萄酒を飲むということ、それはイェスの一つの御身体を共に頂くこと、即ち、

そのことでいろんな階級の人々から成り立っている全員が一つの身体(エクレシア)

であるということをお互いに主のお名前によって、裂かれた主の御身体を表すパンと

主が流された血潮を表す葡萄酒に与ることによって確認するためでした。

 

  いろいろな階級の人々、その多くは旅する職人、旅芸人、行商人などさまざまな人

たちでしたが、ローマの市民も、ローマの官憲も、ローマの役人たちも、一緒に主の

聖餐に与かるというのが本来の姿、パスカを覚える人々であったのです。

 

  「主の聖餐」と20節は表現していますが、こん日でいうフル・コースの食事です。

そのようなフル・コースを囲んでイェスを主と信じる者たちは集まり、讚美を捧げて

いたようです。  そのようなのが原始初代教会の日曜の礼拝形式であったようです。

 

  序でですが、それでは何故こん日の全世界の諸教会では、パンと葡萄酒(又は液)

だけなのかという質問です。  それは、前述のように、クリスチャンという不思議で

不可解な人々が秘密裏に集まり、嬰児の血を吸いながら食事をし、歌を歌ったりする

のは、ローマ政権を覆す陰謀を企てているのではないか…と、そのような誤解を受け

たのです。  そして、クリスチャンたちが集まって飲み食いすることを禁じる…との

命令が出されてしまいました。

 

  そのために、それまでのパスカの愛餐会・聖餐会の中心的なメニューであったパン

と葡萄酒だけに限定し、他の総てを省き、時間を短縮し、ローマ官憲の誤解から免れ

ようと試みたのです。  それがいつの間にか1850年以上も経ちましたので誰もおかし

いと思わなくなったのです。  こん日の日本の多くの教会で時たま行っている愛餐会

こそ、むしろ原始初代教会の礼拝形式や聖餐に与ることに近いと思います。  私自身

は毎週初めの日に主の食卓に与り、これを欠かしたことは一度もありません。

 

  なお、米国では1920年~33年(大正11年~昭和8年)まで酒精飲料の醸造・販売・

運搬・輸出入を禁止しました。  映画アンタッチャブルの時代的背景です。

  ピューリタン主義の伝統が強い北東部では1826年(文政9年・小林一茶の頃)には

既に禁酒協会が設立されていました。

 

  禁酒法設立に敏感に反応した多くのキリスト諸教会では、葡萄酒から葡萄液に切り

替える教会が続出して現在に到ります。  葡萄液が発酵しないように工夫した獨逸系

移民で菓子製造業者ウェルチ Robert Welch 一家が売り出した葡萄液は教会にとって

大きな救いとなりました。

 

  また、結核の大流行があり、衛生面からガラス製(今はプラスチック製品が主流)

の小さな酒杯を沢山使って葡萄液を注いで使う教会が米国を中心に、一般的になって

いますが、現在でも葡萄酒を使って聖餐を執り行っている教会も多くあります。

  そのような教会の多くは酒杯、いわゆるチャリスchalice を使っているようです。

そして、殆どの場合、酒杯は一つのようです。  同じ一つの酒杯から礼拝に出席して

いるクリスチャン全員が飲みます。  「酒が黴菌を殺すから大丈夫」とのことです。

 

  先週の礼拝時に、私が幼かった頃の記憶、あるいは太平洋戦争敗戦直後までの記憶

の中にある「歩き廻る人々」のことを述べておきました。

 

  夫婦が多かったように思いますが鍋釜を修理する鋳掛けイカケ 屋さん、鋸ノコギリの目立

て屋さん、カンボジヤ語から来たキセル屋さん、同じくラオス語で竹の筒を意味する

ラオからキセル、煙草の竹筒のヤニ詰まりを掃除する羅守ラオ屋さん、包丁や鋏ハサミ の

研ぎ屋さん、梯子ハシゴ 売りさん、柴売りさん、汚物を清掃運搬する汚穢オワイ 屋さん、

ポルトガル語の楽器名チャルメラを使う流しの中華(当時は支那そば)ソバ屋さん、

下駄の鼻緒ハナオ や歯を取り替えてくれる下駄屋さん、漢字制限でキャノワード機には

出てきませんが「米」偏に「参」を加えた字の「シン」と「粉」を続けてシンコ細工

屋さん、アイス・キャンデー屋さん、物干竿売りやさん、納豆売り子、トコロテン屋

さん、鰯イワシ 売り屋、蜆シジミ 売り、金魚売り、冬の夜の甘酒売り、漬物や野菜を売る

大原女…いろいろとありました。

  神社のお祭りの時に出るいろいろな屋台には、龜甲飴を売る人やカルメ焼きだとか

粟オコシを売る人や生姜板を売る人もいました。  旅回りの舞台小屋やサーカス団も

あり、伸縮自由な轆轤ロクロ 首だなどと客を呼び込む旅芸人の小屋もありました。

 

  お嫁さんは田舎の遠い道を歩いて嫁いで行きました。  お葬式も歩いてでした。

私が記憶している京都や東京でも、殆どの人が市電を利用せずに歩いていました。

夏の暑い日でも、魚釣りや虫捕りに、ずいぶんと遠い所まで歩いて行きました。

 

  今では死語となっていますが、行き倒れ、野垂れ死に(=野倒れ死)、行路病死、

野辺送り、夜逃げ、子捕り…それに『旅は道連れ、世は情け』などもありました。

  そのいずれも日本人もまた旅をして、歩き廻っていたことを示す言葉でしょう。

 

  それですから新旧約聖書には「旅人、宿れる者」や「寄留者」などの表現が使われ

ているのです。  「旅人をねんごろにもてなしなさい」とか「旅人を宿したら、実は

天使を宿した」などの表現があるのです。  旅行者を大切にするということは教会と

教会員にとって日常茶飯事の「当たりまえ」のことであり、しかも実際に大切なこと

でありました。  第1テモテ3章の長老や執事の資格の構成要因の一部でしたし…

 

  私たちも天国を目指してその日その日をゆっくり歩んでいる旅人であり、この世に

あって寄留者・巡礼者であることを片時も忘れないようにしたいものです。

そのためにもエクレシアを大切にして、そこに集まる者はみんな同伴者どうしである

ことを覚えて、互いに助け合い、仕えあい、励ましあって御国を望みたいものです。