《主の食卓》
アンドリュー・パトン
主の食事(Lord's Supper) は聖書の中でいろいろな名前で呼ばれています。
それぞれの呼び名は、この記念の礼拝(memorial service)の性質と目的がどのよう
なものかを示唆しています。
この呼び名のいくつかを再吟味してみることは、私たち一人ひとりがこの祝いの筵
(ムシロ) に侍(ハベ)るとき、もっとこの慶びの饗宴を意味深いものにしてくれるに違いあ
りません。
主の食事(Lord's Supper) とか主の食卓(Lord's Table)と呼ばれています。
主イエス御自身がこの食卓の持ち主であり、中心主題でいらっしゃるのです。
主イエス自らがこれを設けられ、クリスチャンたちがこれにあずかるように命じられ
ています。
主イエスは、信じる者たちの家族の頭でいらっしゃるので、頭として、主イエスの
血潮によって贖い出された者たちすべてがこの食卓に集まるようにと招いておられる
のです。
この簡素な食事は、私たちの罪のためにカルヴァリの十字架の上で、そんなにも
喜んで御自分を捧げられた、あの神の御子のいのちの思い出のために、記念として
捧げられたものなのです。
何と素敵な救い主であり、実にピッタリの記念なのでしょう!
主の食事、主の食卓は、また、コミュニオン(Communion) とも呼ばれています。
(訳注:共有、参与、親交、霊的な交わり、教会=エクレシア、聖餐cとも訳せる)
私たちは主の食事にあずかることによって私たちの主を共有するのです。
なぜかと言いますと、私たちがそれにあずかる時、主が私たちと御一緒して下さる
と約束して下さっているからなのです。
私たちは、主の裂かれた御身体に参与しそれを共有し、また同じように、流された
血潮に参与しそれを共有するのです。
そして私たちは、その食卓の回りに集まって、お互いにお互いを共にし、かかわり
を持つのです。
事実上、「私のために死んで下さった私の主であり救い主は、あなたのためにも死
んで下さった、あなたの主でもあり、あなたの救い主でもあるのです。 ですから、
私たちは互いに兄弟であり姉妹であるのですc」ということになるのです。
同様に、この食事をとうして、私たちは全世界の他のクリスチャンたちと一緒に、
私たちがみんな兄弟姉妹であり、同じ交わり(フェローシップ=fellowship=同船者の意)の内
にあることを確認して祝うのです。
主の食事は、また、パン裂きとも呼ばれています。
この食事にあずかる時、私たちはただ単にパンを裂いて食べるだけでなく、杯から
葡萄(ブドウ) の液を飲みます。
しかし、実際問題として、私たちはその中の更に顕著なものを指してその名で呼ぶ
のです。 ですから、パン裂きと呼ばれているのです。
食べ物と飲み物は私たちの肉体的生命を維持するのに不可欠なものです。
それですから主の食事において、私たちは、私たちのいのちと、私たちの力と、
私たちのあがないの源泉を覚えさせられるのです。
このような訳ですから、この慶びの祝宴を私たちは大切なこととして固く守り、
私たちが最初に抱いた確信を最後まで堅固なものとしようではありませんか。
訳者注: 著者のアンドリュー・パトン(Andrew Patton) さんは東中野にあるの
桜山キリストの教会と、信州小諸近くにある信州バイブル・キャンプ場で奉仕された
ことのある知日派引退元宣教師で野村基之の個人的友人です。
現在はミゾリー州で余生を送っておられます。 クリスチャン・スタンダード
(The Christian Standard)誌に掲載された文を許可を得て翻訳し、1996年9月29日号
週報(ベタニヤ通信)に紹介したものです。
Andrew and Betty Patton
#6, Tanglewood,
Carl Junction, Missouri 64834
U.S.A.
( 番号は1998年5月10日現在の KDD調査で不明)