2003年3月16  八ヶ嶽南麓  野村基之

 

 

    『私たちは聖書の民だ』とか『聖書を読む民だ』などと無意識に考えている場合

が多いようようです。  まぁそれはそれで良いでしょう。  そこでお訊ね致します。

 

  エルサレムは何処にありますか?  ガリラヤ湖は?  ヨルダン川は?  エリコは?

よかったですね。  ご存知でしたね。  それではナザレとは何で何処にありますか?

 

    ナザレとはヘブル語で「見張り」という意味です。

標高5百米前後の高地にあり、西方に地中海を見下ろすことができます。

ちょうどベタニヤ・ホームから日野春か韮崎あたりを見下ろすのと同じような距離と

標高差があります。  地中海沿岸に添って南北交易の貿易船の航行が目撃され、陸路

でも沿岸線に添ってギリシャやトルコ方面とエジプト方面を結ぶキャラバン隊の交流

を観察できた小さな寒村でした。  恐らくそのような戦略上の拠点から「見張り」と

いう名前がつけられたのかも知れません。  ここで主イェスはその人生を過ごされた

のです。  讚美歌 123番や 272番にはそのような僻地を偲びながら、そこでその人生

の殆どを過ごされた主イェスに思いを馳せています。

 

    幾つかに分類してナザレに関する聖書箇所を見てみましょう。

a.  マルコ伝1章9節とルカ伝4章16節にはガリラヤの町として紹介されています。

      実際にはガリラヤ湖からは地中海方面に約20粁程の丘陵地に位置しています。

b.  マタイ伝2章23節、ルカ伝1章26節、2章4節〜41節にはイェスと両親との関係

      で紹介されています。

c.  ヨハネ伝1章45節〜46節ではナザレを「僻地」扱いした発言があります。

d.  ルカ伝4章16節はイェスが会堂で旧約聖書イザヤ書から説かれたと言います。

e.  使徒行伝1034節〜38節〜43節は、マタイ伝4章23節〜25節が語る巡回治癒神と

      してのイェスに思いを馳せながら、ユダヤ人が十字架に架けて処刑したナザレ

      のイェスを神が復活させ、審判者となし、罪を赦す者とされたと語ります。

 

    別紙に用意しましたナザレに関する各種聖書辞典の他に、聖書にも各種辞典にも

出て来ない大切な町がナザレの北西部にあります。  手描き地図を御覧下さい。

セプオリス Sepphorisという町です。  セッフォリスとも呼ばれています。

ガリラヤ湖畔の西側に位置した当時の町としては大きな都市だったようです。

 

  ナザレは今でこそ人口3万人弱の都会になっていますが、当時は小さな村でした。

然し既にその頃のセッフォリスの人口は1万5千人だったとも言われています。

西暦紀元前の古い時代からの交通や通商の要所で、例えばローマ帝国などの侵略者や

征服者たちの歴史にも必ずその名前が出て来ます。

 

  当然の事ですがそこにはユダヤ人と異邦人たちが久しく共存していたようです。

ユダヤの宗教や文化の他にも、異教徒たちの諸宗教や諸文化が共存していたという事

になります。  いろいろな人種の人々が出入りし、そこに住んでいたのです。

 

  主イェスはその幼少期〜青年期〜成人の殆どをナザレの丘陵地で過ごされ、地中海

を往来する貿易船を御覧になり、陸路を往還する隊商や行商人や旅行者や奴隷たちを

御覧になっていただけでなく、隣の大都市セッフォリスを訪れ、そこで営まれていた

いろいろな人々のさまざまな人生模様を身近に観察されていたに違いありません。

  そしてこれらの観察をとおして主イェスは人間が抱えているさまざまな問題、大概

は辛くて悲しくて寂しい事と、その裏の罪を深く洞察されていたに相違ないのです。

 

    神さまは、小さな僻地・寒村であったナザレを御子の為に選ばれ、そこで御子を

育てられました。  ナザレという無名の町が占める大切な位置を、御子の成長の為に

必要とお考えになったに違いないと思うのです。

 

  御子イェスも、神さまのそのような御心を深く察知なさり、ナザレの町を中心に、

人の子としての体験と人間洞察を積み重ねられたと思うのです。

  神さまが御覧になる神さまの目には人間の大小や町の大小など問題にもならないの

です。  いや、むしろ神さまは小さな者、弱い者、小さな町、小さな家族、小さな国

をお用いになって、神さまの大きなお仕事をなさる事の方が多いのです。

    私たち一人ひとり、それぞれがいろいろな問題を抱えて生きて来ました。

そして生きています。  そのような私たちにもかかわらず神さまは私たちの事を充分

に御存知であり、私たちを無条件で愛し、一方的に受け容れて下さって、祝福したい

とお考えになっておられます。  私たちのような者をとおしてでも世界を祝したいと

お考えになっていらっしゃいます。  それはナザレという僻地寒村が用いられたのと

同じようにです。  『神は愛なり』と聖書は語っています。  感謝です。

 

    その為にも、私たちは神さまの前に悔い改める必要があるのです。  砕けた魂の

持ち主として神さまに用いて頂くために、先ず悔い改める必要があります。

 

    『主はその御言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭(一種のバーベーキュ

=全焼)や生贄を喜ばれるであろうか?  見ょ神の御言葉に聞き従う事はおいしそう

な動物の脂の多い生贄より遥かに勝っている』  サムエル前書1522節(仮私訳)