この原稿は、去る2003年9月15日に八王子の大学セミナー・ハウスで

行われた伝道学院開校記念礼拝特別講師として招かれた、テキサス州アビリン・

クリスチャン大学教授ダグラス・フォスター教授が講演されたときの原稿を

翻訳したものです。 伝道学院では同教授の一連の講演原稿のすべてを翻訳し

伝道学院叢書というかたちで纏めて発表する予定で現在ほかの講演原稿も鋭意

翻訳中であります。

 今回ここに、伝道学院のご好意で、とりあえず野村基之が翻訳を担当した分を

先に紹介することを許されましたので、ここにみなさまの教会史理解のために、

とりあえずご紹介いたします。 学院叢書に関しては伝道学院にお尋ねください。

 

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         キリストの諸教会に於ける神学の形成

          The Shaping of the Theology of Churches of Christ

 

            米国テキサス州アビリン・クリスチャン大学大学院

                      ダグラス・フォスター教授

 

  キリストの諸教会(これ以降便宜上「キリストの教会」と単数扱いとする)

の初期指導者たちは彼等の信仰に関しては本気で取り組んでいました。

  彼等はさまざまな問題に直面するごとにいろいろと苦労をし、よく学習し、

またよく考えて、キリスト教のひとつひとつの論点に対して彼等の強い信仰を

まとめあげ、彼らが信じていた事柄を説教や、小冊子や、書籍や、記事の中で

表しました。

  指導者たちは、説教を聞いた人々や書き物を読んだ人々に対して、見聞きし

たことから新しい信条を作り出したり編み出さないようにと、時として、警告

をしなければならなかったのです。

  それにもかかわらず、人々は自らも学び、そしていろいろな結論に到達した

のです。  こうして主としてストーンとキャンベル親子が中心となって興した

この運動(以降便宜上「ストーン・キャンベル運動」と呼ぶ)に加わった人々

の殆どは大体において似たり寄ったりの見解や立場を採るに到ったのです。

 

  しかしながら、運動が育って行くうちに各地で意見や立場の相違も出て来ま

したし、見解の違いも次第に明らかになって行きました。  19世紀の終り頃に

なりますとストーン・キャンベル運動は分裂の兆を見せ始めるようになりまし

た。

  論争点とは、たとえば、公同礼拝時における楽器使用の是非や、国内外への

宣教者を派遣するための組織の是非や、各教会にフル・タイムの専任説教者を

招き入れることへの是非などでした。  ある教会や人々はこれらを拒絶しまし

た。  しかし、また別の教会や人々は、これらは神さまが彼等にして欲しいと

願っておられることを実践するのに都合のよい方法であると肯定的に捉えたの

でした。

  この分裂が生じつつあった時というのは、実は、アメリカの諸教会から福音

を宣べ伝えるために日本に宣教師たちをまさに送り出そうとしていた時でも

あったのです。  派遣された宣教師たちはそれぞれの赴任地でこれらの論争点

に関する彼等自身の強い信念を教えを乞うている者たちに伝えたのです。

  20世紀におけるキリストの諸教会は論争と分裂をくぐり抜けて来ましたし、

成長と宣教を経験して来たのでした。

  これらの出来事はアメリカ国内の教会に影響を与えただけではなく、世界中

に散らばっていた宣教各拠点をも揺るがしたのでした。

 

  この講演の学びでは、19世紀と20世紀に起った私たちの教会の歴史の遺産の

中からこれらの出来事を手短に眺めて見て、それらが私たちの神学をどのよう

に形成していったのかを考えてみましょう。  とりわけ私たちの神学というも

のが論争の中でどのように形作られていったのかを学んでみましょう。

 

 

                              一致と分裂

                          Unity and Division

 

                    ストーン・キャンベル運動の発展

          The Development of the Stone and Campbell Movement

 

  その1  ストーン運動

 

  バートン・ウォレン・ストーン(Barton Warren Stone) 17721224日に

メリーランドのポート・タバコ(Port Tabacco, Maryland)で生まれました。

  生まれた時には英国国教会員(アングリカン教会、日本では聖公会)として

いわゆる「幼児洗礼infant baptism」というものをさせられていますが、この

ことを含めて、ストーンの幼少年時代において宗教というものは殆ど何も重要

な要素を占めるものではありませんでした。

  18歳になった時、ストーンはすぐ南のノース・キャロライナに移りました。

そこで長老教会牧師のデイヴィッド・コールドウエル(David Caldwell)の下で

法律を学ぼうとしたのでした。  コールドウエル牧師はニュー・ライト派の人

でした。  ニューライト派の長老教会は信仰復興(リヴァイヴァル)を重んじ

る人々が占める教会で、長老教会の教義であったウエストミンスター信仰告白

を固守することをどちらかと言いますと拒む傾向があったグループでした。

 

  コールドウエル学院に到着したストーン青年は、そこで烈火のような説教を

していたリヴァイヴァリスト、強いて邦訳すれば信仰復興運動の説教者とでも

訳しましょうか、ジェームズ・マグレディー(James McGready)の説教に接して

自分が罪の中にある状態であることを確信するに到ったのです。

  ストーンはそれまで、長老教会が説き教えていたような意味での宗教的帰依

体験、信仰に到るための何か超自然的な宗教的体験というものを一度も経験し

ていませんでした。

  長老教会の説くところによりますと、もしも人が神さまによってあらかじめ

選ばれた者の一人であるのならば、すなわち、神さまがその人を救おうと予め

選ばれているのであれば、神さまはその人に対してその人の救いを確認させる

ような何かしら「しるし」をお与えになっている筈であると、そのように説き

教えていたのです。  このような体験を一度も経験したことのないストーンに

とっては、このことで何週間もの間もがき苦しむことになったのでした。

 

  しかし、ついにストーンは長老教会の別の信仰復興運動説教者で暖かい説教

をするウイリアム・ホッジ(William Hodge) 牧師に出会い、ストーンは神さま

の愛と彼自身の救いの確信を得るに到り、そこからストーンはその生涯を牧師

として捧げることになったのです。

 

  1796年にストーンは説教をする許可を得ました。  ノース・キャロライナ州

とテネシー州中部にまず移動し、そこからケンタッキー州バーボン郡に移り、

ケイン・リッジとコンコードの二つの教会で説教をすることになりました。

  1798年になってストーンは長老教会の牧師として正式に任命してもらうため

に按手礼に臨むことになっていました。  しかし、このことでストーンは危機

を迎える羽目に陥っていました。  それは長老教会の信条であるウエストミン

スター信仰告白の一部に対してストーンが疑念を抱いていたからでした。

その中でもとりわけカルヴィン主義と三位一体論に関するものでした。

  しかし按手をして貰って正式に牧師として任命されるための口頭質問の時が

とうとうやって来ました。  ウエストミンスター信仰告白を長老教会の教義と

して信じ受け入れるのかと、当然ですが問われました。  ストーンはそのこと

に対して、『はいっ、ウエストミンスター信仰告白が神の御言葉である聖書と

矛盾しない限り受け入れます』と答えました。  そして按手されたのでした。

 

  1801年の春、ストーンはケンタッキー州西南部のローガン郡に旅行に出まし

た。  テネシー州の三大都市の一つナッシュヴィルから北約80キロほどの所に

あります。  (訳者注:手製の地図を挿入しましたのでご覧下さい。)

  ここで行われていた劇的な回心帰依の数々についてかねてから耳にしていた

ことを自ら確かめるための旅行でした。  コールドウエル学院で先に「地獄の

炎」の説教をしていた、あのジェームズ・マグレディーが説教者でした。

  そこで行われていた一連の宗教行事は、開拓僻地の長老教会が執り行ってい

た聖餐*に関連したものでした。  牧師たちは厳粛な主の晩餐に与る信者たち

にそれなりの心の備えをする手助けをしていましたし、罪びとたちには彼らを

待ち構えている裁きについて警告をするという場でもありました。

(訳者注:*原文は communionコミュニオンで「交わり」の意味。  すなわち

神と人との霊的な交わり、信仰者と信仰者との霊的交わりの意味であり、日本

の多くの教会では「聖餐」や「聖晩餐」や「パン裂き」などと訳している。)

  ストーンはそこで目撃した光景にすっかり肝をつぶしてしまいました。

出席者たちの多くが突如として丸太のように地面に打ちのめされるのを目撃し

ました。  多くの者たちはそのまま何時間ものあいだ地面の上に横たわったま

ま死んだように動きませんでした。  しかし再び彼らが起き上がった時、彼ら

はイェス・キリストをキリストとして心に抱いた者となっており、それまでと

は全く違った生き方をする者となっていたのでした。

 

  自分の牧する教区に戻ったストーンは、8月初旬にケイン・リッジで集会を

開催することにしました。  1万2千人から2万人が集まって来ました。

  長老教会の他にメソジスト教会やバプテスト教会からも牧師たちが集まって

来ました。  その数は40数名にもおよびました。  そしてそれらの牧師たちは

教派意識や区別もなく、ただキリストを宣べ伝えたのでした。

  ストーンがローガン郡で先に目撃したと同じ不思議な恍惚状態の数々の現象

がケイン・リッジでは更に増幅されて再現されました。  そして多くの人々が

イェス・キリストを信じ、回心し、イェスに帰依していることを目の当たりに

しましたし、このことでイェスを信じる者たちの間にクリスチャンたちが一つ

であるという機運が盛りあがり、クリスチャンの一致が促進されていることを

ストーンは実感したのでした。

 

  しかしながらケイン・リッジなど僻地教会のいくつかを管轄する長老教会の

指導者たちはケイン・リッジで起った事柄を必ずしも快く受け入れたわけでは

ありませんでした。  1803年9月に到り彼等はストーンの同僚リッチャード・

マクネマーを教会裁判にかけたのです。

  このことがあったので、マクネマーやストーンや、その他に三名の牧師たち

はそれまで所属していたプレスビテリー(長老中会又は長老中会管轄区)から

脱退し、自分たちだけのプレスビテリーを結成して、スプリングフィールド・

プレスビテリーと名づけたのです。

  しかし、この後わずか半年ほどした1804年6月に到って、ストーンらはこの

プレスビテリーを解散・消滅することを決意するに到ったのです。  ストーン

らの言葉をそのまま使えば、このプレスビテリー(長老中会)を『殺す』こと

を決め、『我らの決意』とも、『我らの遺書』とも、或は『我らの最後の意志

と証』とでも邦訳できる The Last Will and Testament of the Springfield

Presbytery  という解散宣言文を公表したのです。  そして、この文章こそが

ストーン・キャンベル運動の最初の大切な基本的文章となったのです。

(訳者注:『スプリングフィールド中会の遺書と誓約』と織田昭さんは翻訳さ

れ、『最後の意志と契約』と谷田部庄一さんは訳されておられます。)

 

  歴史的に重要なこの声明文の冒頭は以下のように宣言しています。

『この体(訳者注:スプリングフィールド・プレスビテリー、長老教会中会)

がここに死ぬことを我々は意図・決意するものである。  そのことによって、

この身体が溶解して全体的なキリストの体、宇宙的な教会の中に沈んで行き、

それと一体となるためである。  なぜならキリストの身体である教会は一つで

あり、聖霊は一つでいまし、我々が召しいだされた希望もまた一つであるから

である。

  また更に我々が決意することは、説教者たちも人々も、相互寛容自制精神を

更に涵養し、より多く祈り、論争をより少なくすることである…

 

  総てのクリスチャンが我々の訴えに参加して頂き、共に手を携えて、日夜を

問わず、神の御業を妨害する障害物を取り除き、この地でエルサレムが賞賛を

受ける日まで、神の御業と御栄光のために神に祈り続けようではないか。

 

  我々はあらゆる教派の名の下にあるクリスチャンの兄弟たちとも心から共に

一つとなり、この西部僻地に於いてまでもなされている神の栄光に満ち溢れた

御業に示されている神の良き方でいらっしゃることの数々を目の当たりにし、

心から神を讚美し、神に感謝するものである。  そして、福音が全世界の隅々

にまでも宣べ伝えられ、教会の一致が達せられることをあらゆる教派名の下に

ある兄弟たちと共に心から祈るものである。』

 

  ライス・ハガードという教会員の提案によって、その後はお互いにそれまで

の教派名で呼び合うことを止め、お互いをただ単純に「クリスチャン」という

名だけで呼び合うようになったのです。

(訳者注:重要なライス・ハガードに就いては改めて説明したいと計画中。)

 

  それでは更に私たちの教会の背景の学びを進めてみましょう。

 

 

その2  キャンベル運動

 

  ストーン・キャンベル運動のもう一つの大切な部分は、アイルランド北部で

始まったのです。

  トーマス・キャンベルと息子のアレキサンダーは北アイルランドの長老教会

に属していました。  アソシエイト・シノッド、仮私訳で準会と呼ばれていた

スコットランド教会の一部を構成する長老教会*の会員でした。

(*訳者注:詳細説明は福音誌1985年7月号15頁と9月号13頁を参照乞う)

 

  複雑に内部分裂を繰り返していた長老教会のその派の指導者の一人となった

トーマスは、スコットランド教会の内部対立状態に心を痛め、何とかしてそれ

らの障害を取り除き、教会の一致を求めようと熱心に努力を積み重ねていまし

たが報われることはなく、内部分裂・対立を繰り返していた各派の指導者たち

からの妨害は止みませんでした。  そしてトーマスの心労はその極に達し健康

を損なうに到りました。  恐らく潰瘍だったのでしょう。  医師は外洋航海療

養を勧めました。

  このようにして、トーマス・キャンベルは1807年4月、躊躇しながら、家族

を国に残したまま、独り先に新世界アメリカに向けて出発したのでした。

 

  新世界東海岸ペンシルヴェニア州フィラデルフィアに到着したトーマスは、

そこにすでに移住していた同じ教派に属している人々を見いだしたのでした。

また、教会の指導者たちがちょうどその町で集まっていたのを知りました。

  トーマスは本国の教会から持参した信任状を提出し、丁重に受け入れられ、

同州西端地方で説教するようにと任命されました。

  しかし、トーマス・キャンベルが祖国で最も忌み嫌っていたこと、すなわち

同じ教会内部の対立と分裂が新世界にまでもそのまま強い勢いで持ち込まれて

いる事実を知った時の彼の失望は相当なものであったようです。

  ペンシルヴェニアの赴任地でトーマスが集会を司っていた時に、少しばかり

違った派に属していた同じ長老教会員たちが参加していました。  トーマスは

それらの人々にも主の晩餐に与るように招きました。  このことがあったので

トーマスは彼の属する長老教会指導者たちから一連の詰問を受けることになり

ました。  1809年春になり、トーマス・キャンベルは彼がそれまで属していた

長老準会から決別することを決め、結果的に「教会を持たぬ男」となってしま

いました。  しかしそれまでに彼が仕えていたペンシルヴェニア州西部の多く

の人々はトーマスを支え、彼の訴え続けていたクリスチャンの一致への努力を

支援してくれたのです。

 

  その年の8月、トーマス・キャンベルと数名の同志たちが集まって、仮訳で

ペンシルヴェニア州ワシントン郡クリスチャン協会 (The Christian Associa-

tion of Washington, PA.)、あるいは、ワシントン地区クリスチャン連盟とも

訳せる交わりを設立し、聖書だけに基づく「福音的」キリスト教を促進すると

謳いました。  ここでトーマス・キャンベルはこのクリスチャンたちの交わり

が目的とすることと信ずることがらの内容を、仮私訳で、「協会設立の宣言と

式辞」(The Declaration and  Address)という形で発表したのです。

  (訳者注:「宣言」と訳す他に米大統領の場合には年頭「教書」とも訳され

ていますし、「開設式辞」の他に「開設挨拶」や「開設演説」や「開設の辞」

などと訳すことも考えられます。)

 

  この文章は、ストーン・キャンベル運動の第二番目の極めて重要な基本的な

ものとなりました。  キャンベルがこの書き物を発表したということは、彼ら

が明白に目指していたものが、クリスチャンの一致を目標にしたものであった

ということを表しているのです。  以下の数節からそのことを学びましよう。

 

  提案      この地上におけるキリストの教会とは、本質的に、意識的に、

              生来の構造的にも一つであり、どこにあってもキリストを信ず

ることを告白する者たちによって構成され、聖書に従いすべてのことにおいて

キリストに服従する者たちによって成り立つものである。

  また更に、彼らの人となりや気質や行動によって彼らがキリストを信ずる者

であることを示すべきであって、それ以外のことで彼らがクリスチャンである

ということを適切に言い表すことはできない。

 

  提案      聖書の帰納法(訳者注:既知の事実から他の新しい判断を導き

              出すこと)や、演繹法(一般的原理から特殊な事実を説明する

こと、意味を推し広めて説くこと)というものが、公平に推察された場合に、

それは神の聖なる御言葉の教えであると言い得るのかも知れないが、しかし、

推理法や演繹法が前後関係を正しく理解し、確かにそうであると認定すること

を越えてまでも、クリスチャンの良心を束縛するというものではない。

  なぜなら、人の信仰というものは、人の智恵に立脚しているものではなく、

神の力と神の真実さの上にこそ立つものであるからである。

  この故に、人間のそのような推論や演繹というものをクリスチャンの交わり

の条件にするということは許されないことであり、そのようなことよりも前に

教会がなさなければならない急務は、教会自身の漸進的な徳性の高揚に全力を

尽さなければならないということであろう。

  従って今後は推論や演繹といった諸刃の剣(訳者注:原文は「諸真理」)が

教会の信仰告白の場においては無用の長物と化すであろうということである。

 

  提案  10    クリスチャン同士のあいだの(訳者注:原文はクリスチャンズ

               the Christians とあるので、キャンベルが訴えを起した背景

や理由を考えてみると、教派諸教会の間の紛争や、同じ長老教会内の分派諸群

をも含むものと考えるべきであろう)に横たわっている分裂や不和というもの

は恐ろしい罪であり、多くの害悪を孕むものであり、反キリスト教的であり、

反クリスチャン的である。  それは目に見える面でのキリストのみ身体、すな

わち教会の一致を破壊するものでもある。

  それはまた主のみ身体である教会を自ら不和に陥れて分裂させ、主のみ身体

の一部を排除し、み身体の一部を自らが放逐してしまうことでもある。

  それは反聖書的なことでもあり、それは主の主権によって厳かに禁じられて

いることであり、主が明白に命じられたことへの露骨な違反行為となる。

  それはまた極めて不自然なことであり、クリスチャン同士を責めあわさせ、

憎しみあわせ、お互いを対立させるものである。

  なぜなら、本来クリスチャン同士というものは、主ご自身が私たちを愛して

くださったように、お互いに兄弟姉妹として、崇高でしかも人を魅する最高の

相互愛で結ばれるべきものであるからである。

  一言で言うならば、クリスチャン同士(教会・教派)の分裂・対立は混乱を

ますます増大させるだけであり、あらゆる悪の業を生み出すだけのものだとい

うことである。

 

 

  さて、父トーマスが新世界でいろいろな体験を経ていた頃、アイルランドに

残っていた家族は、21歳の長男アレキサンダーの指揮のもと、ニューヨークに

やっと到着しました。

  アレキサンダーもまた父トーマスの不在中に体験した彼と彼の家族が属して

いた長老教会の一派の余りにも排他的で偏狭頑迷な宗閥主義にとうとう愛想を

尽かして縁を切ってしまっていたのでした。

  アレキサンダーが父トーマスと再会し、お互いに別れていた間に起った体験

のいろいろを語り合っている内に、お互いが同じような心境に達していたこと

が明らかになってきました。

  そのようなわけで、1811年の5月に父子はどの教派教会にも属さない単立の

交わり、すなわち、基督者たちの会、クリスチャン・アソシエィションを設立

するに到ったのです。  近くを流れているブラッシュ・ラン・クリークの名を

取ったブラッシュ・ラン・クリーク*(Brush Run Creek) 教会の誕生でした。

(訳者注:「ラン」は「流れ」の意味で、「クリーク」と同じです。)

  雄弁なアレキサンダーキャンベルがこの運動の代弁者になるのに時間はそれ

ほどかかりませんでした。

 

  アレキサンダーの結婚と第一子の誕生は、いわゆる「幼児洗礼」という問題

に対する決断を要求するものとなりました。

  このことで注意深く聖書を丹念に調べた新しいお父さんのアレキサンダーの

結論は、いわゆる「幼児洗礼」というものが聖書の中のどこにも正当な根拠を

おくものではないというものでした。

  またその発見は、アレキサンダー自身が新約聖書が示す「全身を水中に浸す

バプテスマ」に従わなければならないということを彼に教えたのでした。

  このようにして、1812年6月12日にアレキサンダーと、妻マーガレットと、

父母と、妹、その他にブラッシュ・ラン教会員の2名が単純な信仰告白をして

バプテスト教会のマティアス・ルース牧師によって全身を水に浸すバプテスマ

に与ったのでした。  多くの人たちも彼らに続きましたが、一部の人たちには

このことを受け入れることは困難でした。  しかしほどなくブラッシュ・ラン

教会の全員が全身浸水のバプテスマ(immersion) に与った者となったのです。

 

  キャンベル父子は既存のキリスト教界の中で働くべきであると信じていまし

たので、1813年にブラッシュ・ラン教会はレッドストーン・バプテスト連盟に

参加することになりました。

  そのようなことがあって、その後の15年間は、キャンベル父子の運動に関係

していたいくつかの教会は、直訳しますと、「改革促進教会 reforming」とか

「改革されたバプテスト教会 Reformed Baptists」と呼ばれていました。

  しかし1820年代後半に到りますと、バプテスマに対する理解や、バプテスト

教会の教義、すなわちフィラデルフィア信仰告白への忠誠、そしてカルヴァン

主義に基づく教理などを巡って緊張が高まって来ました。

  キャンベル父子の理念に同情的な複数の教会はバプテスト連盟から除名され

るに到り、それ以後は「キリストの弟子たち」すなわち Disciples of Christ

ディサイプルズ・オヴ・クライストとして知られるようになったのです。

 

 

  その3  合同

 

  ストーン運動とキャンベル運動にはいくつかの点で重大な相違があります。

たとえば、表面的なこととしてなら、名前の違いというものがあります。

  お互いに、それでも、彼らが選んで用いた名前のうしろには、彼らがほかの

クリスチャンたちから自分自身を孤立させたくないという願いがありました。

  ストーンが率いる教会はクリスチャン(キリストに属するもの)という名前

を好みましたが、キャンベル父子が率いた教会ではディサイプルズ(キリスト

の弟子たち)という名前を選択しました。

  ある時のことですが、キャンベルが「クリスチャン」という呼称を避けよう

としているのは、自分たちの運動を「好ましからざるものら」と関連づけたく

ないという怖れがあるからではないのかと、そのようにキャンベルはストーン

に責められたことがありました。(訳者注:この件に関してはいずれどこかで

改めて説明したいと思っています。)

 

  しかし、そのようなことよりも更に深刻な相違点もありました。

それは、たとえば、オープン・メンバーシップというものです。

  初期のストーン運動においては、たとえ全身浸水のバプテスマに与っていな

い者であっても、誰であってもストーンらが主張していた改革運動に参加した

いと希望する者は歓迎されていました。

  一方、全身浸水のバプテスマに与っていない者の中にも純粋なクリスチャン

が存在しているとキャンベルは認めつつも、聖書的なバプテスマとは、イェス

を信じる者の全身を水の中に浸すのがバプテスマであると確信していました。

そのような信念から、キャンベルの改革運動に関連していた教会ではそのよう

に全身浸水のバプテスマを固守したのです。

 

  両者の相違点はそれだけで留まるということはなかったのです。

それらの相違点の中には、いわゆる三位一体の理解というものもありました。

贖罪というものもありました。  聖霊の働きに関するものもありました。

人間の本性に関する理解の差もありました。  伝道・宣教の方法論の差もあり

ました。  そしてキリストの再臨に関する理解の違いもありました。

  これらは取るに足りないちっぽけな相違点では決してありません。

  両者の違いというものは、今日のアメリカの状況で例えてみるとするなら、

アメリカのキリストの教会と合同ペンテコステ教会との間に存在している違い

と同じほど異なったものであったと言えるかも知れないということです。

(訳者注:合同ペンテコステ教会に関しても後で説明をしたいと願います。)

 

  しかしながら、両者の間に横たわっていた多くの重要と思われる見解の差に

もかかわらず、以下の三点に対する彼等の頑固なまでに決然とした忠誠さとい

うものが、以上のような相違点を遥かに乗り越え得るほどに強固なもの、更に

大切なものであったのです。

  その三点とは、イェス・キリストが救世主であるという確信、総ての宗教的

な事柄を遥かに超越して聖書こそ最高で最終決定的な権威であるという確信、

そしてクリスチャンたちはいろいろな事柄においてさまざまな相違があるにも

かかわらずキリストの教会が一つであるが故に、クリスチャンたちもそのよう

に行動すべきであるという確信、そしてこれら三つの同意点を中心に他の見解

や意見の差を乗り越えることができるとの確信を共に担いあっていたのです。

 

  二つの異なった運動が次第に当時の開拓僻地西部各地に拡散して行くに従っ

て、ケンタッキーやインディアナやオハイオでお互いが接触する機会が次第に

増えて行きました。  そしてそのことをとおして、お互いが相手の中に自分と

同じ共通の思いが沢山あるということを発見することになって行ったのです。

  このようなことから、1820年代の終り頃になりますと、各地で多くの人々の

間に、『どうして我々は一つになれないのだろうか』という素朴な疑問の声が

起り始めました。  そしてまた実際にいくつかの地域で二つの教会が合同して

一つの教会を形成したのでした。

  1831年のクリスマスの週になって、二つの運動体の説教者や長老や会員らが

まずケンタッキーのジョージタウンに初めて集まりました。  次いですぐ近く

のレキシントンの町に集まり何ができるのかを話し合いました。

 

  1231日、土曜日、改革者たちの群からジョン・スミス、クリスチャンの群

からバートン・ストーンがそれぞれの運動体を代表して所信を述べました。

  スミスは次のように訴えました。  すなわち、『みなさんがた、これからは

ニュー・ライツだのオールド・ライツだの、キャンベライツ(訳者注:キャン

ベル派)だのストーナイツ(ストーン派)だのと呼び合うのを止そうではあり

ませんか。  それよりも今後は我々に必要なすべての光り(ライト)を与えて

くれる唯一の本(聖書)の下に集まろうではありませんか。』

 

  その場に居合わせた者たち全員がこの呼びかけに応じ一つとなることに同意

しました。  そして合同の印として1832年1月1日に主の聖餐に共に与ること

になったのでした。  ストーンの群からはジョン・ロジャーズが、キャンベル

の群からはジョン・スミスがその後の三年をかけ当時の西部開拓僻地を一緒に

旅を続け、レキシントンで起ったことを説明し、訪問先でもそのような合同を

促進強化することに手を貸したのでした。

 

  合同は一筋縄では行きませんでした。  各地にあったすべての教会がこれに

同調して合同したわけでもありませんでした。  しかし、両群の指導者たちも

教会員たちも合同に対する決意は固いものでした。  それから10年ほどの間に

新世界各地の村や町で二つの群の教会は一つの合同した運動体へと溶け合って

行ったのでした。(訳者注:キャンベル派との合同に反対した一部ストーン派

Christian Connexion に関しては改めて紹介したいと思います。)

 

  1832年になりますと、合同したこの運動体の勢力は、一番良い推定数では、

2万2千人になっていました。  1860年になりますと19万5千人が2千百以上

の教会の会員となっていました。

  またこの頃になりますと、少なく見ても15誌以上の定期刊行物が出版されて

いました。  中でもアレキサンダー・キャンベルが発行していたミレニアル・

ハービンジャー(千年王国の先駆者)が最も重要なものでした。

  その他にストーン発行のクリスチャン・メッセンジャーが1826年から1845

の間に出版されていました。

  南北戦争以降になりますと、ガスペル・アドヴォケイト誌とアメリカン・ク

リスチャン・レヴュー誌の二誌が特に影響力の強い定期刊行物となりました。

  またその他に、アレキサンダー・キャンベルや他の指導者らがディベイト、

すなわち、討論に関連した書籍や、教義・教理に関する書籍を発行しました。

 

  更に運動の成長を示すものとして注目すべきことにカレッジ(大学)の設立

があります。

  その中でも最初に設立された大学として、1836年にケンタッキー州ジョージ

タウンに設立されたベーコン・カレッジ、1841年に設立されたヴァージニア州

のベサニー・カレッジ、1845年にテネシー州ナッシュヴィル近郊に設立された

フランクリン・カレッジがあります。  1860年までに一つとなったこの運動の

教会員たちが、その他にも数多くのアカデミー(訳者注:わが国でいう幼稚園

から高校まで)や高等教育を与える学院を創設していました。

  これらの学び舎は、「我々が誰であり、何者であるのか」という、自己検証

の場として、また手段として、大きな役割を担っていました。

  1857年になりますと、全米の諸教派を紹介するハンド・ブックが編纂・発売

されるようになりましたが、その本には私たちの群が当時の全米諸教派諸教会

の中で十大宗教グループの一つとして記録されています。

 

 

  その4  分裂

 

  しかしながら分裂の種子はすでに蒔かれていたのでした。

1830年代の初めにストーンの教会とキャンベルの教会の合同を人々は小躍りし

て慶んだのでしたが、その世紀が終りを迎えるころには分裂によって壊されて

しまうことに到るのです。

  合同して一つとなった教会には多種多様な考え方というものが常に存在して

いたことは事実でした。  しかしついにある種の事柄を巡って論争が激化して

行きました。

 

  その一つがアメリカン・クリスチャン・ミショナリー・ソサイェティーでし

た。  一般的にACMSと省略して呼び、1849年にオハイオ州シンシナティで

結成されたものです。  ある人々にとってこれは全世界に福音を宣べ伝えよと

いうキリストのご宣託を実践するのに良い手段であると受け取られました。

  しかし、それは聖書が承認していない、人間の考えが編み出した人間の制度

であるという理由で反対を唱える人も出てきたのです。

  これら二つの立場というものは、聖書の沈黙を、禁止されている事柄として

捉えるのか、それとも自由に解釈できる事柄として捉えるのかという考え方の

 

相違、信仰上の捉え方の違いを表していると言えます。

 

  それにもかかわらず、ミショナリー・ソサイェティーに最も強く反対を唱え

た人々でさえ、そのことで教会を分裂させるほどの問題であるとは誰も考えて

いませんでした。  ゴスペル・アドヴォケイト誌の創設者であるタルバート・

ファニングはミショナリー・ソサイェティーの反対論者でありましたが、それ

でも1859年のミショナリー・ソサイェティーの年次総会で『我々は一つの民で

ある』と宣言していたのです。  ファニングの心を変えさせたのは国家的惨事

 

だったのです。

 

  南北戦争が勃発し、南部側に居住していたクリスチャンたちは北部側の都市

シンシナティで開催されていたACMS集会に参加することが不可能になって

しまいました。  (訳者中:日本では南北戦争と呼んでいますが、シヴィル・

ウォーと米国では呼びます。  邦語の「内乱」が一番近いでしょう。)

 

  北側で開催されていたACMS集会は、圧力もあって北軍に忠誠を誓わざる

を得なくなり、1861年と1863年に南部側の「反逆・反乱」を責め、北軍従軍兵

への神の祝福を祈願するという決議を通過させるに到ったのでした。

(訳者注:そのように『南の反逆者たちを鎮圧に行く我らの兵士を祝し給え』

と祈ったのは北の指導者アイザック・エレットで、北軍司令官の一人は50ドル

紙幣に登場しているグラント将軍。  グラント将軍はディサイプルズ教会員で

エレットの親友。  確かエレットはグラントの葬儀の司式牧師でした。)

 

  教会を含む全米を襲っていた南北対決の渦から何とかして教会を守りたいと

一生懸命に日夜努力を惜しまず働き続けていたファンニングなど多くの人々が

ACMSのこの決議を耳にした時、『裏切られた』と感じたのでした。

 

  このことに関し1861年にファニングは以下のように意訳できる文章を書いて

います。

  『こちら側、すなわち、南に住むクリスチャンが(ACMSの設立や存在を

必ずしも聖書的なものとして全面的に支持できないとする者たちが)、北側で

開催されているACMS集会に内乱のために現実に参加できないけれど、仮に

もし参加できたとしても、いろいろな障害を排除してわざわざ参加した者たち

の生き血を求めている北の男たちが待ち構えているという厳しい現実を前にし

て、どうして仲良く握手することなどできると言えるのだろうか?』

  つまりこのことは、ただ単に神学上のことだけで最早済まされるようなこと

ではなかったということです。

 

  更に大きな波紋を呼んだ論争は公同礼拝時における楽器使用の問題でした。

そしてこの問題も南北戦争に無関係ではありませんでした。

  1851年にアレキサンダー・キャンベルが公同礼拝における楽器使用に関して

次のように述べていました。  すなわち、『霊的なクリスチャンたちにとって

礼拝に楽器を持ち込んで使うなどという発想は、コンサート会場にカウ・ベル

(訳者注:居所を明らかにするために牛の首につけるベル)を持ち込むような

ものである…』

 

  南北戦争が勃発する頃に教会堂での公同礼拝時に楽器を使用していた教会の

数はほんのわずかであったと言えます。

  その中でもケンタッキー州ミッド・ウエイの教会がこのことに関しては最も

名前が知られていました。  ピンカートン(L.L. Pinkerton)が小さなピアノ

を導入したのでした。  その理由としてピンカートンは、『我々の僻地教会の

会員たちの讚美歌の歌い方が酷すぎて、天井の梁の上の鼠ですら震え上がって

しまうほどだ』と語ったと言われています。

(訳者注:現在でもこの村は僻地です。  当時はメロディオンと呼ばれていた

小型の楽器です。  訳者が1982年に現地で撮影した現物写真を御覧下さい。

サイズ:高さ29.5インチ(75cm)、幅29(74cm)、奥行16.5(42cm)、鍵盤数:白鍵

29、黒鍵20  製造所等不明。  ピンカートン書簡・説教・伝記等を記載した

資料や古文書があります。  いずれ適当な折にご紹介致しましょう。)

 

  南北戦争が集結した後の北部は経済的繁栄を見ることになりましたが、南は

完全に荒廃状態の中に放置されていました。  北の教会は次々に新しい教会堂

を建て始めましたし、一部の教会では教会堂にオルガンやピアノを導入し始め

ました。  その日その日の最低限の生活にもこと欠く南部側の兄弟姉妹たちは

北部側の兄弟姉妹たちが巨万の富みを湯水のように次から次に新しい教会堂や

オルガンに注ぎ込むことを目撃して愉快に思う者は一人もいませんでした。

  このことが公同礼拝時の楽器使用に反対する動きに大きな感情的要素を与え

 

てしまったことを否定できないと思います。

 

  南の農村教会の多くの人々も、また北の農村教会の多くの人々も、公同礼拝

に楽器を使うということは、この世の娯楽欲への適応妥協だと受け止めていた

のです。  なぜならそれは心から素朴に神を讚美するということに反するもの

だと捉えていたのです。

  なぜ楽器使用がそのように最も激しく爆発するような問題であるのかという

ことは、それが聖書の中の主要課題であるかというようなことではなかったの

です。  新約聖書の中には楽器使用も楽器論争も、そのようなことは全く記載

されていないのです。

  それが教会にとってそんなにも大きな破壊的分裂要素になってしまったのか

ということは、地域的、経済的、社会学的な諸要素が複雑に絡んで来てしまっ

たからなのです。

  これらは、聖書に楽器の使用を正当なこととして認めていないという議論や

楽器という物体の存在そのものが誰の目にもはっきり見えるからだというよう

な論争点の他にも、考慮しなければならない要素でした。

  この時代に生きた多くのキリストの教会にとって楽器問題は他の総ての問題

を代表する象徴的なものとなってしまったのです。  その教会が忠実な教会か

背教の教会なのかを判断する唯一の可視的基準となってしまったのです。

  誤解があっては困りますが、楽器なしで礼拝をすることには確かな聖書的、

神学的、更に歴史的な理由があると私は信じていますし、私はその立場を採る

ことを恥ずかしいことだと考えてはいません。

  それにもかかわらず私がここで申し上げようとしていることとは、この楽器

問題が、そのような過去の歴史的背景がなかったとすれば、このような大きな

問題にはならなかったであろうということです。  このことを無視するという

ことは我々自身で我々自身の大切な洞察力を奪い去るということなのです。

 

  1906年の連邦政府宗教調査はキリストの教会をディサイプルズから切り離し

て扱っています。  ストーン・キャンベル運動から生まれたキリストの教会は

あらゆるクリスチャンたちに新約聖書に見いだされる基本的なキリスト教信仰

に基づいて一致をもたらそうとしたものでした。  イェス・キリストはヨハネ

1721節でクリスチャンの一致を祈られましたが、キリストに従う者たちの

一致を今も訴えている二つの大切な文献をキリストの教会は生み出しました。

 

  しかしこの一致運動は、不幸にして、以上で学びましたように、二つに大き

く分裂してしまいました。  更にまたキリストの教会の内部にあっても数多く

の分裂を経験し、分派を派生させてしまいました。

 

  それでは次に、20世紀になってからの分裂と、それが包含するものを簡単に

眺めてみましょう。

 

 

  その5  前千年王国論争

 

  1915年から1940年代初頭にかけて、私たちのキリストの教会は20世紀時代の

私たちの教会の歩みの過程で、ほぼ間違いなく最も教会形成を促進した出来事を

体験したのです。  そしてそれは前千年王国論争でありました。

  この前千年王国論を巡る論争の渦の中心点にあってその論争の激情を独りで

受けて立っていた人物は、元ローマ・カトリック教徒でドイツ移民ヘンリー・

ロバート・ボール(Henry Robert Boll 18751956)でした。

 

  ボールはスイスに近いドイツ西南端バーデンヴァイラーで生まれました。

15歳の時にアメリカに移住し、オハイオ州での雑役を経てテネシー州にたどり

着き農夫の仕事を得ました。  同州中部の田舎でキリストの教会の福音伝道者

から聖書を学び、バプテスマに与るに到りました。

  20歳になった時、ナッシュヴィルに赴き、現在のデイヴィッド・リプスコム

大学の前身であったナッシュヴィル・バイブル・スクールに在籍を許されまし

た。  そこでボール青年はデイヴィッド・リプスコムと、リプスコムと一緒に

同校を設立したジェームズ・A・ハーディングの下で学び大きな影響を受けま

した。  リプスコム(David Lipscomb)とハーディング(James A. Harding

は共に史的前千年王国論historical premillennialism を信奉していました。

 

  その後ボールは各地のキリストの教会の間で急速に尊敬と人気を集めること

となり、1909年(明治42年)に到りキリストの教会では大きな影響力を有する

ガスペル・アドヴォケイト(The Gospel Advocate )誌の論説委員に任命され

るに到りました。  ボールの担当欄は「ワード・アンド・ワーク」という名前

Word and Work 主の御言葉と主の御用)で知られるようになりました。

  この欄を担当し始めてから間もなくボールは一連の豫言とキリストの再臨に

関する記事を連載し始めたのでした。  このことが、結果的に、それから後の

30年間に亙る論争を招き寄せることとなって行ったのです。

(訳者注:「豫言」をここでは遠い未来をある程度具体的に推しはかるという

意味で使用。  預言は聖霊の導きで教会の徳を昂めるという意味で使用。)

 

  1909年にボールは彼の理解した豫言解釈の紹介を書き始めました。

それによりますと、『神さまがおっしゃることは文字どおりそのまま神さまが

そのようにお心の中で意図なされたことである。  それだからそのように聖書

に書かれているのだ。  まずこのことを常に踏まえておかなければならない』

と、このようにボールは唱えたのです。

  そのようなわけで、聖書が述べていることを象徴的なもの、比喩的なものと

して捉えることは極力避けなければならないことである、としたのです。

  あるいはある特定の聖書箇所を霊的に解釈することも、同様に、できるだけ

避けなければならない、とも唱えました。

  もしもある豫言が、いままでに完全に、あるいは、文字どおり成就していな

いのであるならば、それがどのように我々の目には奇妙に映るものであったと

しても、神がその豫言を必ず成就なさるものであるという信仰を我々は持たな

ければならない…と、ボールはそのように訴えました。

 

  1914年後期に到りボールが黙示録に関する一連の連載記事を掲載するように

なった時からボールの解釈に対する論争が起り始めたのでした。

  仮訳で、「黙示録短話」Short Talks on Revelation シリーズを開始した時

から、ボールはそれまで唱えていた史的前千年王国論historical interpreta-

tionから黙示録の豫言に関して未来的解釈論(a futurist approach )に移行

し、この立場を擁護するようになったのです。  短期間でこのシリーズを終え

る予定でしたが、予想を遥かに越えた読者からの反応に応える形で更に詳しい

講座を7回継続することになりました。

 

  第1次世界大戦が起った時の世界に漲った緊迫状態がディスペンセーション

dispensation論(訳者注:わが国では一般に「經綸学」と訳されている学説)

に基づいた多くの出版物が出回りました。  それは世界中を覆っている不安な

状況に照らし合わせて、神の終末の豫言的タイム・テーブルが時々刻々と迫っ

てきているのではないかと思わせるような内容のものでした。

  ボールの初期の書き物の中にもそのような世相を反映しているものがありま

したが、次第にもっと体系的にボールは經綸学説を説明し始めました。

 

  3月になってガスペル・アドヴォケイト誌のもう一人の論説委員スリグリー

F.B.Srygley )がボールの見解に反対する記事を書き、王国と教会との間に

は相違があるという意見に攻撃を加えました。  それはボールの仲間の一人が

書いた記事に関するものでした。  スリグリーは、『二、三の兄弟たちが』と

いう間接的言及方法でそのようなことを説いている者たちに触れ、そのような

考えを捨てて、全世界にキリストの王国を宣べ伝えることに専念するようにと

勧告しました。

  翌月になりますと、前千年王国論争の主要な対立者となるナッシュヴィルの

スミス(F.W. Smith)がスリグリーの論説の後を更に強い口調で追い、具体的

にボールとオームステッド(H.L.Olmstead)を責めたのでした。

  スミスは、これら二人の若者たちはすばらしい知的才能に恵まれた者たちで

あるが危険な道を歩んでいると苦情を述べたのです。  更にスミスは、二人が

神から聖なる霊感を受けたのでないのなら、彼等が多くの貴重な時間を空論に

浪費するのを楽しんでいるように見える未成就の豫言の意味などわかりようが

ないはずであるとも述べたのでした。

  スミスはボールに対し『聖書直訳論主義・文字どおりに聖書を信奉する主義

doctrine of Literalism)を放棄するように』と迫ったのでした。  そして

互いに手と手を取り合い心と心を合わせキリストの単純な福音宣教に専念し、

(聖書に対する)人間のすべての憶測から自由になろうではないかと訴えたの

です。

 

 

  前千年王国論争における4段階

 

    ガスペル・アドヴォケイト誌とボール紛争  19141916

    緊張の増大と分裂期  19221926

    討論期  19271935

    決定的分裂  19361945

 

  4月から6月の間にガスペル・アドヴォケイト誌はいくつかの論説を掲載し

ボールであれ誰であれ、前千年王国論を一つの見解として個人が保持するので

あればよいが、前千年王国論説に基づく憶測説を公に唱えることを慎むように

と訴えました。

 

  しかしボールはこれらの豫言に関する聖書の警告は無視することができない

ものであると捉えていました。

      未成就の豫言というものは大切なものである。  なぜなら、それは神の

      御言葉の一部分であるからだ。  未だ成就していない豫言が必須である

      とか本質的であるとかないとかという質疑レベルの問題ではない。

      我々がそれなしで救われるのか救われないかということでもなく、それ

      はむしろ我々がキリストを忠実に信じる者であり得るのかそうでないの

      かということに関するものであり、神の人が全くされるかどうかという

      ために神が与えられたものであり、ひとつ一つの善き業を完全に終える

      ために神がお与え下さったものである。

 

  1915年6月17日号付けをもってボールはガスペル・アドヴォケイト誌の論説

委員(訳者注:「第一面編集者」が直訳)から降ろされました。  これに応じて

ボールは同誌を辞任しました。  しかしボールは再び元の席に復職させられま

したが、再びボールは辞任しました。  これら一連の出来事は1915年末までに

すべて終わったのです。

  これらの一連の出来事に関しボールとジョーガンソン(E.L.Jorgenson )は

ボールの側から見た小冊子『アドヴォケイト誌とボールとのいきさつに関する

完全証言』(The Full Testimony Respecting the Advocate-Boll Matter)を

発行しました。

  アドヴォケイト誌の発行者マックィディー(J.C.McQuiddy)はこれとは全く

別の見解を示す小雑誌『ガスペル・アドヴォケイト誌とボールとのいきさつに

関する諸事実』(The Facts Respecting the Gospel Advocate-Boll Matter)

印刷しました。

  この1915年に起った紛争が次の三十年間キリストの教会に最も邪悪な問題を

招き入れることとなって行くのです。

 

  それではここで20世紀代のキリストの教会の中で、ボールを初めとする他の

前千年王国論者たちが正確に何をどのように信奉していたのかをみてみましょ

う。

  1916年1月にボールは彼の信じていた立場を更に具体的に定義し始める一連

の関連課題に関して討論するように促す文章を世に送り出しました。

  この挑戦でボールがまず肯定したことは、聖書の豫言的部分に関しては更に

みんなが学ばなければならないと主張したことです。  また、豫言的な部分は

理解されなければならないし、教えられなければならないということでした。

  更に、キリストの再臨は前千年王国的であると同時に切迫したものであると

いう点でした。

  ボールはダニエル書2章35節と44節、『一つの石が人手によらずに切り出さ

れて、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。  こうして鉄と、

粘土と、青銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、夏の打ち場のもみがらのよう

になり、風に吹き払われて、あとかたもなくなりました。  ところがその像を

撃った石は、大きな山となって全地に満ちました。』  『それらの王たちの世

に、天の神は一つの国を立てられます。  この国はいつまでも滅びることがな

く、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打って

滅ぼすでしょう。  そしてこの国は立って永遠に到るのです。』  (すなわち

像を打ち、全世界のもろもろの王国を征服した石)の豫言は、ペンテコステに

よって成就されたとすることを否定し、キリストが今ダヴィデの王座に坐って

いるということをも否定したのです。

  それから二年してボールは彼の豫言に関する見解について問いかける書簡に

応えるかたちで更に次のように述べています。

      イェス・キリストがこの世を離れて行かれた時の状態と同じような姿で

      実際に個人的に戻っておいでになることを私は信じている。  その時に

      ついては、人はこれを知ることはできないけれど…  イェス・キリスト

      は復活なされた時のお姿で戻っておいでになると私は確信している。

      エルサレムに関して言えば、イザヤ書4章、11章、60章に従って栄光を

      受けるはずであり、主イェス・キリストが再臨された時のまつりごとの

      中心地になるはずであり、イスラエルは国として復興を見るであろう…

      その時には、ロマ書1115節、23節、26節、27節などに従って、福音に

      対して不信仰の状態においてでもなく不服従の姿においてでもなく…で

      ある。  王国に関して言えば、コロサイ書1章13節に従えば、教会の中

      に在る者たちはキリストの王国の中に在る者であると私は信じている。

      また教会とは、今という次元の中において、王国に属するものである。

      未来において明示されるであろうキリストの王国に関しては、黙示録の

      2章26節〜27節に約束されているように、聖徒たちはキリストと一緒に

      王国を治めるであろうし、このことがキリストに在る兄弟たちのあいだ

      に広く受け入れられている福音の教えを妨げるものでは全くないと私は

      確信している。

 

  以上の文章の最後の部分でボールが述べていることがらはキリストの教会に

とって極めて注目に値するものです。  私たちにとって新約聖書教会の復元と

いうものが中心的課題の一つであったからです。  しかしボールにとっては、

教会とは神のご計画の中の一つの重要課題であるとした点でした。

  神は王国をユダヤ人たちが拒否するであろうことを見抜いておられました。

そのために、王国は一時的に取り上げられて、世俗的な意味での国籍に関係の

ない、いつの日にかキリストと共に治める、『ほかの国』に与えられてしまっ

たのです。  しかし、ロマ書11章によれば、イスラエルの国を永久に締め出す

というわけではないのです。

 

  ガスペル・アドヴォケイト誌と最終的に決別したあと、ボールは定期刊行物

「ワード・アンド・ワーク The Word and Work」を購入しました。  この雑誌

は、それまではボールの友人で同じように前千年王国論を採るスタンフォード

・チェンバーズ(Stanford Chambers )がルイジアナ州ニュー・オーリンズで

発行していたものでした。

  今やワード・アンド・ワーク誌の編集者となったボールは、ケンタッキー州

ルイヴィルのポートランド・アヴェニュー・キリストの教会の伝道者としての

仕事をする傍ら、仲間たちと一緒に他のキリストの教会に対してボールたちが

信奉していた經綸学的聖書解釈を受け入れるように説得したのでした。

  1922年(大正11年)ボールは「神の国:聖書主要課題の学びThe Kingdom of

God: A Survey-Study of The Bible's Principal Theme」を発行しました。

この出版物の中でボールは教会について、神の王国について、更にキリストの

再臨などについて彼の見解を説きました。

  この本に対しては、反前千年王国論を採る側からの激怒した拒絶反応を招く

結果を招きました。  テキサスの二人の著名な説教者であったホワイトサイド

とニコル(R.L.Whiteside and C.R.Nichol)が特に激しい反応を示しました。

  この二人はボールが聖書を歪曲し、多くのキリストの教会員たちを中傷し、

また操ったと非難し、ボールたちが人々を支配したいという無秩序・無節制な

欲望に駆られたていることを実証したと告発しました。  そして更に二人は、

ボールたちが意図的に彼等の推測推論を押し進めることで諸教会の安寧を崩壊

に導いたと咎めました。  これに対して、ボールを擁護する印刷物も出版され

ました。

 

  ほとんどすべての人が認めることは、個人的にボールには非の打ち所のない

立派な人物であったという点です。  ボールの霊的資質や愛に満ちた態度は、

ボールの書き物を読む者やボールの話を聴く者にとっては説得力のあるもので

した。

  諸教会間で極度に緊張が高まっていた話題なのでガスペル・アドヴォケイト

誌としては一連の関心ごとに関して文章による賛否の討論を企画しました。

  現在のリプスコム大学の前身であったナッシュヴィル・バイブル・スクール

の校長で、ガスペル・アドヴォケイト誌の編集長であったH.L.ボールズと

ボール(H.Lee Boles and R.H.Boll)との間で文書討論を行うことが両者間で

合意されました。  1927年(昭和2年)にガスペル・アドヴォケイト誌面上に

掲載されることで合意されました。  更に、5月19日から11月3日までの間に

毎週掲載されることと、翌年には纒めて本の形で出版されることも同意されま

した。

 

  討論の中心議題はもちろん教会というものの性質と未だ成就されていないと

されている豫言に関するものでした。  これはそれまでの一連の議論ですでに

周知の話題でした。  ボールは、ここでもクリスチャンはすべての聖書を文字

どおりにできるだけ素直に読むべきであると主張し続けました。

  ボール(R.H.Boll)はボールズ(H.L.Boles )の聖書を学ぶ際の法則を取り

上げました。  それは、『(訳者注:聖書箇所で)文意があいまいではっきり

しない箇所やむつかしい箇所は平易で単純な聖書全体(scriptures)から解釈

されなければならない』と、そのようにボールズは聖書を学習するおりの姿勢

をとりわけ強調していました。  更にボールズは『聖書(scriptures)を解釈

するときに、聖書(Bible )が明白に啓示しているか、あるいは明言している

ことに対して、我々は我々自身を制限する(訳者注:それに服従させる)必要

がある』というボールズの主張をボールは引用したのでした。

  ボールは、聖書(Scriptures)それ自身が聖書の解釈者でなければならない

というボールズの見解に賛意を表しました。  しかし、(意味が)『あいまい

ではっきりしないからといって、(我々が)聖書(a Scripture )を法廷から

外に引きずり出すこと』はできない(訳者注:聖書の豫言や特定の豫言箇所を

理解するのが難しいからといって、それを無視したり、おろそかにすることは

良くないことで、その意味を真剣に捜し求め続けるべきである)とつけ加えま

した。  『ある特定の聖句は単純ではっきりしているかも知れないが、しかし

我々の現時点での理解を超越したものであったり、今の我々のものごとに対す

る理念とは何か対立することであるという理由から、それで我々は我々が理解

できないことがらを、あいまいであるとか、はっきりしていないからと考えて

しまって、つい面倒くさいのでそれを脇に押しやってしまい、我々がよく知っ

ている概念に近い聖書(a scripture )に頼る傾向がある』と、ボールはこの

ようにボールズの聖書を学ぶ法則につけ加えました。

 

  教会で何か紛争が起るたびに私たちがしばしば目撃することは、意見を異に

する両陣営において、お互いに相手に対して反キリスト的な穏やかでない態度

が生み出される傾向があるということです。

  このことは、今回の前千年王国論争のように、論争が次第に過熱して来ます

と、前千年王国論に関してどちらか一方の側を支持するようにと、人々は次第

に迫られ、追いつめられて来るものです。

  それにもかかわらず、そのような過熱ぎみの悲痛さの中で、もうひとつ別の

心を示す例があったのです。  一致の心、一致の精神でした。

  ボールとボールズとの間で戦われた論戦は正直で率直で遠慮会釈のない純粋

なものでした。  しかし討論の期間中、二人の間にはお互いに対する尊敬愛の

精神が満ちあふれていたのです。

  紙上討論が終わり、お互いが最後の論文を発表したとき、お互いはお互いを

高く評価したのです。  ボールズはボールのことを次のように書いています。

      今回の紙上討論をとおして私のボール兄弟への高い敬意の念は更に増し

      加えられるものとなった。  ボール兄弟が誠に誠実であり、敬虔な方で

      あり、洗練されたクリスチャンの紳士であると私は確信している。

      私はボール兄弟に対し個人的に最も心のこもった快い気持ちを抱くもの

      である。  読者諸君がすでによくご存知であるように我々二人の見解は

      異なっている。  しかし、我々の意見や見解の相違というものや、その

      ために二人の間でとりおこなった紙上討論というものは、ボール兄弟を

      主イェス・キリストに在るひとりの兄弟として高く評価するということ

      を決して妨げるものではない。

 

  S.H.ホール(S.H.Hall  訳者注:テネシー州の著名な説教者の一人で、

石黒宏亮をロサンゼルスで日系人の間で伝道することを勧めた人物)は討論を

まとめた本の序文で紙上討論を神に感謝し、二人が討議した主題では同意する

に到らなかったけれども、『意見がお互いに異なってもそれはそれでよいこと

であり、お互いに愛し合うということで論議を決着させようではないか!』と

という我々の座右の銘を二人はみごとに実証したのだから、これは見解の相違

を一致に導くという最高の結果こそは得られなかったが、その次にすばらしい

ものであると、そのように書き残しているのです。

 

  この千年王国論争に関して、お互いに意見を異にする人々とどのようにつき

あったらよいのかということが、結果的にそして最終的に、それを教えている

ものとそれを拒絶するものとの間に、暗い影を投げかけることになりました。

  そして教会は分裂分断状態になって行きました。  前千年王国論を支持する

教会が前千年王国論に反対を唱える教会によって交わりから締め出されてしま

いました。  またときとしてその反対の場合もありました。

  1919年(訳者注:大正8年ビクスラー夫妻とローズ夫妻来日年)に或る人が

『ボールの經綸学(ディスペンセーション)の教えは、その教えを信じ、教え

る者を罰として地獄にたたき落とすものである』と書きました。

  しかし、ボール・ボールズ紙上討論の当事者二人は教義の上では意見を全く

異にし同意に到りませんでしたが、お互いに対して示した真のクリスチャンの

品位・人格・特性という点においてはまことに見事なものでありました。

 

  私たちが真理・真実というものを価値あるものとして尊ぶとき、真理・真実

というものが大切であるとまじめに取り組むとき、私たちは普通一般に真理・

真実を述べたり護ったりすることの方を、人間が人間どうし、お互いがお互い

どうしをどのように取り扱い、どのようにつきあったらよいのかという誠実さ

よりも優先させてしまいがちなものです。

  この前千年王国論争においても、また更に20世紀のアメリカの教会で起った

他のいろいろな紛争において、たとえば聖餐のときに一つの酒杯なりコップを

使うのかどうか、専任説教者を教会が雇用することが聖書的に許されるものか

どうか、日曜朝の礼拝前に聖書研究クラスを礼拝堂の中で開催することが聖書

的なのかどうか、聖書学院や孤児院や宣教伝道組織や伝道者説教者を支える会

などを創設して、それに教会の献金を使用することが聖書的に許されるものな

のかどうかなどの討議で、しばしば不和・分裂を生じさせる態度や精神、対立

する精神が関係する教会や教会員たちを支配してきたのです。

  そして、あれほど見解を異にした論客ボールに対して心から尊敬の念を表明

したはずのH.L.ボールズですら不幸にして外圧に屈し1927年末期(昭2)

の討論でボールに対する高い評価の前言を撤回せざるを得なくなってしまった

のでした。  そうしなければボールズ自身が攻撃の矢面に立たされる可能性に

直面するようになったのです。  ボールズ自身は決してボールが主張していた

前千年王国論を信じたわけでもなく、それを教え広めようとしたのでもなかっ

たのですが、そのような雰囲気・外圧がボールズに対してもあったのです。

  それにもかかわらず一致の心、一致を願う精神のお手本がそこにはあったの

です。  そして現在でも私たちに対してその事実はキリストの心、キリストの

精神の可能性を語り続けているのです。  恐ろしいいがみ合いのただ中にあっ

ても一致の可能性を前千年王国論争のおりの具体的な例が語りかけているので

す。

 

  たくさんのものごとの中には私たちをキリストとそのみ身体である教会から

引き離すことができるものや、引き離そうとするに違いないものがあります。

  それですから、私たちをひとつのことがらから引き離させようとするものが

明白に聖書的な教えにかなうものであるのかどうか、それともそれらの諸問題

がある特定の時代的背景なり特定の地域に由来する特定のできごとや意見から

生まれてきたものなのかを私たち自身が深く洞察し、見極める必要があるので

す。  =おわり=                                      翻訳者  野村基之

 

 

 

 

 

 

 

                               =訳者補足=

 

1.  ストーン生誕地はメリーランド州南東部のチェサピーク湾に突出する半島

    内にあり、連邦政府首都ワシントン特別区から南約50kmの寒村です。

    連邦政府国道 301号線沿いにあり、Port Tabaccoとも Port Tobacco

    も綴ります。  昔は宗主国英国に煙草を輸出していた港町です。

 

2.  青年ストーンはノース・キャロライナにあった長老教会ニュー・ライト派

    のコールドウエル学院で学んだと、フォスター教授が語られました。

 

    オールド・ライト派が社会的にも神学的にも保守的、教条主義的であった

    のに対して、ニュー・ライト派は一般に福音宣教、とりわけ当時の大覚醒

    時代の担い手であり、熱心な信仰復興運動主義者、即ち、リヴァイヴァル

    主義者を意味しており、形式主義や教条主義に執着しない、柔軟性のある

    クリスチャンのことを意味していました。

 

    ニュー・ライト派の中でもペンシルヴァニアの僻地でアイルランド系移民

    の子として生まれたジェームズ・マグレディーJames McGready1758-1817

    は、ノース・キャロライナに移住した若い頃からリヴァイヴァル説教者と

    して頭角をあらわしていました。  「地獄の裁きの炎の説教者」すなわち

    「ヘル・ファイヤー・プリーチャー」として聴視者たちを震いあがらせて

    いた説教者でした。

 

    それだけではなく、マグレディーの伝道生涯でもう一つ重要な点は、既存

    の長老教会、即ち、権威主義的、高圧的、教条主義的で、牧師候補生には

    高度の教育基準を設けていた長老教会、旧世界から新世界に持ち込まれて

    いた長老教会制度に対して、マグレディーが激しく反発・抵抗したという

    点です。

 

    そのために、彼は既存の長老教会に反旗をひるがえし、神学的訓練も一般

    教育も受けていない開拓僻地の青年たちの多くを養い励まして立派な説教

    者に育てあげては盛んに僻地開拓者たちの間で伝道説教をやらせていたと

    いうことです。

 

    この時代的背景については更に8.でも述べる予定ですが、「独立と自由」

    を謳歌していた新世界アメリカでは、旧世界からの伝統やしきたりを排除

    したいという強い願望が開拓者たちの間には漲っていたということを理解

    する必要があります。

 

    マグレディーを米国教会史の中で更に有名にさせたものは、後でストーン

    も半信半疑で視察に行くことになった、当時の最西部僻地でも特に「無法

    地帯・ローレス・カントリー」と呼ばれて怖れられていたケンタッキーの

    ローガン郡でのリヴァイヴァル・キャンプ集会と、そこから興った後述の

    新しいタイプの長老教会でした。

 

    この集会で若いストーンは再びマグレディーの説く「地獄の炎の裁き」を

    聞き、集会に集まっていた会衆の不思議なできごとをストーンは目撃した

    のでした。

    ここから私たちはケイン・リッジの信仰復興キャンプ・ミーティングへと

    目を向けてしまい、ローガン郡のキャンプ・ミーティングのその後のこと

    に関しては、残念ながら、ほとんど注意を払ったことがありません。

 

    このローガン郡のキャンプの炎はその周辺に飛び火し、すぐ南のテネシー

    のディクソン郡で、それまでの長老教会、即ち、旧世界から持ち込まれて

    いた長老教会に公然と対決する長老教会が生まれて来たのです。  地域の

    名前を採ったカンバーランド長老教会が誕生したのです。  アメリカ人の

    魂を込めた「自由と独立」の長老教会です。  キリスト教年鑑によります

    1877年(明治10年)に日本伝道を開始したと報じられています。

    私たちの運動が分裂する直前にディサイプルズ系キリストの教会の先駆者

    宣教師ガルストやスミスが来日したのが1883年(明治16年)でした。

 

    ローガン郡のリヴァイヴァル・キャンプ・ミーティングは、ストーンたち

    のクリスチャンの一致運動とカンバーランド長老教会という二つの運動、

    それは新大陸の新世界の新政府のもとで、新世界でなければおそらく生ま

    れて来なかったであろう、旧世界ヨーロッパではあり得なかったであろう

    二つの信仰のうねりを生み出したのです。

    なお、ディクソン郡からはアンドリューズ嬢が来日されたと思います。

    今でもこの地域一帯は無楽器キリストの教会とカンバーランド長老教会が

  多い地域です。

 

3.  当時の長老教会ではCommunionと呼んでいましたので、今回はとりあえず

    「聖餐、主の聖餐、主の晩餐、主の食卓、パン裂き、感謝の交わり」など

    を考慮のうえ、それでもどのように訳してよいのか迷いました。

 

    同様に、ordination to be ordainedという英語の宗教用語を邦語に

    訳すると、「高位聖職者が低位聖職者を叙階する・聖職を授ける」などと

    なり、今回はストーン時代の長老教会制度を想像しながら、「按手礼」と

    不本意ながら訳しました。  「牧師任命式」でもよかったのでしょう。

 

4.  長老教会用語であるプレスビテリーに関しては長老教会の友人に尋ねて、

    「大会、中会、小会」などを確認しましたが、キャンベル時代の新世界の

    アソシエイト・シノッドの正式邦訳名はわかりませんでした。

    そこで、とりあえず「準会」と仮訳しておきました。

 

    新世界に13旧植民地によって合衆国(本当は合州国とすべきでしよう)が

 

    誕生してまだ30余年しかたっていませんでしたので、当時の西部開拓僻地

    の隅々にまで長老教会のシノッド制度が確立できていなかったものと推測

    します。  そこでアソシエイト・シノッドという過渡期の制度が存在した

    ものと思いますので、とりあえず「準会」と訳しておきました。

 

5.  トーマス・キャンベルが体験した長老教会内の分裂と対立と混乱に関して

    は福音誌1985年7月号から1988年1月号までに概略を紹介してあります。

 

 

6.  トーマスの息子アレキサンダー・キャンベルに関しても、基本的紹介文を

    改めて発表したいと願っています。

 

7.  バートン・ウォーレン・ストーンとケイン・リッジ集会に関しては、まず

    最初「ベタニヤつうしん」で十数回にわたって発表し、その後に大月教会

    の清水光雄さんと金沢教会の天野智允さんのご努力を得て、2001年暮れに

    「神の声を聞く会」で発表しました。  連絡ミスが重なり校正が必要です

    ので、改めて校正と推敲を行い最終版を出したいと考えています。

 

    なお、ストーンの史的前千年王国論に関して、ディサイプルズと、有楽器

    キリストの教会と、無楽器教群内のノン・インスティチュショナル群から

 

    それぞれの学者が論文を発表しましたので、現在これも翻訳中です。

 

8.  キャンベル父子が唱えていたディサイプルズの運動では、ケンタッキーの

    ストーンたちの運動で見られた「聖霊の働き」を必ずしも「聖霊の働き」

    として肯定的に捉えていなかったように思っています。

 

    ヨーロッパの合理主義や理性主義の影響を強く受けていたキャンベルらの

    目には、リヴァイヴァリズムがもたらしていた恍惚状態を忌み嫌う傾向が

    あったのではないかと思います。  個人的・感情的体験に頼らず、冷静に

    聖書を読めばそれでよいとする理解があったのではないのでしょうか?

 

    このあたりから律法主義や、聖書=聖霊だとする解釈や、聖霊不在雰囲気

    が無楽器教群の中に生まれてきたのではないかと私は考えています。

 

    キャンベル派にしてみれば、ストーンたちクリスチャン・コネクションの

    僻地開拓者たちと自分たちを同じレヴェルに置いたり、そのように見られ

    たくなかったのではないのでしょうか。

 

    その他にも、旧宗主国英国とその国教会であったアングリカン・チャーチ

    あるいは旧世界そのものへの激しい拒絶反応というものが新世界で政治的

    独立と自由を勝ち取った人々の中には燃えに燃えていました。

 

    「坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い!」というわが国の諺のように、新世界の

    『おいらはアメリカ人なんだ!』という過剰な排他意識がヨーロッパ教会

    から新世界に持ち込まれていた長老教会やバプテスト教会の神学、即ち、

    カルヴァン主義神学、特に「神の選び・予定説」に対する反感と抵抗や、

    あるいは「三位一体」論に対しても激しい拒絶反応の波が開拓者たちの間

    にも打ち寄せていました。

 

    多くの人々は、当時の長老教会が説いていた極端な「予定説」を拒絶した

    いためにユニテリアニズム unitarianism に走る傾向が強かったのです。

    即ち、「三位一体」説を拒否し、キリストを神格化せず神は一人であると

    説くユニテリアニズムに走ったので。

 

 

    それと同じようにユニヴァーサリズム universalismを受け入れる人々も

    多くいたのです。  普遍救済説と邦訳されているこの説は、神の普遍的な

    父性と愛を強調し、終末においてすべての霊魂と神との調和を説いたので

    す。  新世界で新国家の建設はそのまま終末に結びつくものと考えられて

    いましたので、間もなく万人は結局は救われるのだという主張を受け入れ

    ることにそれほど困難を覚える人は少なくはなかったのです。

 

    当時のカルヴァン主義教会、特に「予定説」を唱えていた長老教会にせよ

    バプテスト教会では、「神によって永遠の救いへと選ばれている者である

    のなら、何かしらのシルシを体験したはずだから、それを証明することが

    当然のことだ」と要求していましたし、これが多くの人々を結果的に苦し

    めていたのです。  そのために、「嘆き悲しむ者の席」がリヴァイヴァル

    集会の説教台の傍に設けられており、「救われていない人たち」がそこで

    超自然的な力やシルシを求めて呷き、泣き、絶叫し続けていたのです。

 

    しかし、「いずれ万人は救われるものなのだ!」とユニヴァーサリズムが

    説けば、恐ろしい予定説を説く長老教会よりもユニヴァーサリスト教会に

    行ったほうが遥かに楽だということになったのです。

 

    ストーンや、オケイリーや、アブナー・ジョーンズやエライアス・スミス

    などの運動体の中にもこのような反長老教会神学(=反カルヴァン主義)

    の傾向が強く見られていたようですので、理性的に、科学的に、かつ冷静

    に聖書を読み、個人的な恍惚状態のような体験の必要を覚えていなかった

    キャンベル父子たちには、クリスチャンたちと自分たちディサイプルズと

    を混同して貰いたくないという気持ちが存在していたのかも知れません。

    オケイリーはメソディストでしたからカルヴァン主義者ではありませんが

    それ以上をここでは触れません。

 

    キャンベル側がディサイプルズという呼称にこだわり、「クリスチャン」

    という呼称をできるだけ「使いたくない」「好ましくない」と考えていた

    ので、ストーンがこのことでキャンベルに訊ねた…と、フォスター教授が

    言及されたものと私は理解しています。

 

9.  ユナイテッド・ペンテコスタル・チャーチについてフォスター教授は言及

    されました。 United Pentecostal Church,Internationalまたは別の名を

    Oneness Pentecostal denominationなどと呼ばれているペンテコステ派の

    教会は1945年にそれまでに存在していた幾つかのペンテコステ派諸教会が

    合同して結成されたものです。  1924年には人種的問題で分裂した諸教派

    を含むようです。

 

    信仰表現の自由さや結社の自由が徹底している国です。  ペンテコステ系

    信仰を謳う群は数多くあり、日本の私たちには想像すらつきません。

    その中でも、ペンテコステ諸教派が合同して形成された教団です。  即ち

    全身浸水のバプテスマを実践していますが、三位の名を使ってバプテスマ

    するのではなく、イェスの名によるバプテスマです。神格は父、子、聖霊

    というよりも、主イェス・キリストにすべての神格が集約されていること

    を特に強調するようです。  「聖化」は回心時から始まり、信者の生涯を

    かけて「完璧化」を目指すのだそうです。

 

    「三位一体」論を採るTrinitarian Pentecostal denominationという派

    よりも社会的行動基準は厳しいようです。  教勢は両者共に同じ程度との

    ことで、この合同派は1987年現在で教会数3410、会員数約50万人、全世界

    百ヶ国以上に四百人の宣教師を派遣しているとのことです。

 

    このようなペンテコステ教会にあてはまる教会が日本に存在しているのか

    どうか私は知りませんが、米国の僻地農村地域や山岳丘陵地域や、都会の

    低所得者層の間に、更に社会的・経済的・教育的地位の低い有色人種層に

    この種の激しいペンテコステ教会が存在していたのを記憶しています。

 

    フォスター教授は、これらペンテコステ諸教派間には多くの相違点が存在

    しているし、私たちキリストの諸教会の内にも多くの意見や見解の差異が

    あり、両者がほとんど合同したり一致するなど不可能のように思えるが、

    当時のストーン派のクリスチャンたちと、キャンベル派のディサイプルズ

    との間には、あたかも現在の合同ペンテコステ教会と私たちのキリストの

    教会との間の相違点にも匹敵するほどの多くの相違点があったのにもかか

    わらず、主イェス・キリストを信じる者たちが一致する必要を願い、一致

    への渇望が現実の相違点を遥かに超えるものであったと、そのように説明

    されようとなさったのだと私は思います。  残念なことですが、結果的に

    私たち日本に住むクリスチャンの多くにとっては、かえって理解しにくい

    例題となってしまったようです。

 

10  ストーンの運動や、オケイリーの運動や、ジョーンズやスミスの運動では

    合理主義的傾向・理性的傾向の強いキャンベル派=ディサイプルズ派への

    不信感が強かったのも事実でした。  ストーンの運動がキャンベルの運動

    と合同することに賛成しなかった人々も数多く存在していました。

 

    これらの人々はそのまま相互に「クリスチャン・コネクション」、仮訳で

    「クリスチャンのつながり」という形で残りました。

 

    インディアナ州西南部でミシシッピー川の支流ワバシ川のほとりに小さな

    メロムという町があります。  今でもChristian Connexion 関係の生存者

    たちが住んでいます。  その町から日本に派遣された宣教師たちのうちの

    一組は麻布に教会を設立し、それが渋谷にある日本基督教団聖ヶ丘教会と

    して残っています。  「聖ヶ丘教会百年史」が1989年に発行されました。

    新宿区西落合 1-4-6の茂木宏さんがメロムの宣教師と交流がありました。

    女性宣教師の一人 CT Remington 嬢の墓が雑司ヶ谷墓地の外国人墓地区域

    内にあります。  アリス・ミラー嬢やカニングハム夫人の墓の傍です。

 

11  ピンカートンはキャンベルが設立したベサニーで学んだ人物です。

    ケイン・リッジのすぐ西にあるミッド・ウェイの教会の説教者でした。

    教会堂は火災で焼失しましたがピアノは現在も健在です。

    福音誌1982年7月号21頁にピンカートン博士とメロディオンの写真を紹介

    しておきました。

 

12  今回フォスター教授が名前を挙げられた前千年王国論説を採ったボール、

    オームステッド、ジョーガンソン、チェンバーズなどは、マッケーレブや

    ビクスラーやローズの恩師・仲間・親しい友人たちであり、私にとっても

    個人的によくしていただいた恩師たちでありました。

 

    マッケーレブやビクスラーやアンドリューズ嬢らは、どちらかと言えば、

    当時の史的前千年王国論的宗教文化的雰囲気の中で育たれたと思いますが

    必ずしも前千年王国論の信奉者ではなかったと私は理解しています。

    ローズは明白に前千年王国論を信奉し、キリストの再臨を「祝福に満ちた

    希望」(テトス2章13節)と捉え、再臨待望姿勢で生涯を送りました。

 

13  「ディスペンセーション・經綸学」は聖書全体を一つの興味あるテーマで

    捉えようとした学説です。  神さまのご計画の中で「教会」をどのように

    解釈するのかという大きな課題があるように思えますが、旧新約聖書全体

    をわかり易く理解するには優れた聖書の捉え方だと思います。  個人的に

    お訊ね下されば、賛否両論を公平に踏まえて、更なるご説明を差し上げる

    ことができます。

 

14  ディサイプルズから日本に派遣された宣教師たちは滝野川に聖学院を設立

    し、現在でも駒込駅から徒歩数分の所、北区中里に聖学院として存在して

    います。  大学と大学院だけは埼玉県上尾市にあります。

 

15  講演原稿には私たち日本人クリスチャンの殆どにとって聞き慣れない単語

    がありました。  たとえば千年王国とか、史的前千年王国などです。

    教授の講演内容を更によく日本の読者に理解して頂くにはそれらの用語の

    定義が必要であろうと考えました。

 

    そのようなわけで、訳者としてこれらの用語にも訳者注を付けようかとも

    思いましたが、フォスター教授に教授ご自身で説明をお願いした方が良い

    と考え、そのことを教授に提案し、以下のような追加文章を頂戴いたしま

    した。

 

 

 

    以下は教授の追加説明文を基本に、訳者が更に細かい補足を付け加えたも

    のです。

 

    「キリアズム  chiliasm」または「ミレナリアニズム  millenarianism

    「ミレニアリズム millennialism  いずれも意味は同じで至福千年説、

    千年王国説などの意味で、近い将来キリストが再臨して千年間地上を統治

    するという、初期キリスト教時代から広く信じられ待望されて来た説。

 

    chiliad キリアッドは「千、千個、千年」などを意味するラテン語。

    そこから千を表わすギリシャ語の chilioiキリオイも生じた。

 

    mill(e)ミリ  ミリ・メートルや、ミリ・リットルなどで既に私たちにも

    おなじみのラテン語で「千」を表わす。  たとえば千分の1メートル。

 

    ennium, ann, anne, annoはラテン語で「年」を意味し、年に関係のある

    単語の接頭語として用いられることが多い。 mille と組んでmillennium

    ミレニアム、「千年」となる。  西暦2千年を前にした世界中のパソコン

    業界では大騒ぎがあった。  その時にミレニアムという単語が流行した。

 

    同じようにmillenari(us)はラテン語で「千年の」を意味し、それに eni

    「年」を加えるとmilenaryで千年至福、千年王国となる。

 

    a はラテン語およびギリシャ語系の接頭語で「反」「無」などを表わす。

    ここから a-mill-enniumとなり、無千年王国となる。

 

    pre もラテン語からの借用造語で「〜の前  before」の意味を表わす。

    ここから pre-mill-enniumで、前千年王国となる。

 

    postもラテン語からの借用語の一種で、「〜の後behind, after」を意味

    する造語である。  ここから post-mill-ennium で後千年王国となる。

 

    以上のことからキリアズムはギリシャ語で一千年を意味する合成語である

    ことを理解できる。

    キリストが文字どおり再臨し、地上を千年間にわたり支配されるという説

    を指す。  これは主に黙示録20章1節〜5節を文字どおり解釈する説。

    この専門用語は主として初代教会から中世紀時代の教会で千年王国を論じ

    た時に用いられたものである。

 

    ミレナリアニズムまたはミレニアリズムはラテン語で千年を意味する語で

    キリアズムと意味は同じ。

 

    ここで注目すべき点は、千年至福説とか千年王国説をめぐり二つの解釈が

    生じたことである。

    すなわち、人の努力によって人類世界に改善がもたらされるとする楽観説

    と、人の努力の業が人間社会の改善・改革をもたらすものではないとする

    悲観的な見解である。

 

    前千年王国説  pre-millennialism   プリ・ミレニアリズム

    この世に対して悲観的見解を採る説で、この世は次第に悪くなって行き、

    最終的にはキリストの再臨によってキリストがその敵を打ち破られ、地上

    にキリストの王国を打ち立てられるであろうと主張する説。

    千年王国設立の前にキリストが再臨されると説くので前千年王国説。

    この世の悪の支配に関係なく、クリスチャンは熱心に宣教活動に従事する

    必要があると説き、戦前の日本宣教の殆どは前千年王国論に立脚する米国

    教会によって支えられていた。

    単純な前千年王国説を史的前千年王国説とかクラシック前千年王国説など

    と一般には呼ばれている。  ストーンやリプスコムなどが含まれる。

 

    後千年王国説  post-millennialism  ポスト・ミレニアリズム

    クリスチャンには、この世の諸悪を撲滅する能力や責任が神から与えらて

    いると受けとめる信仰で、そのために慈善行為や宣教活動によって、この

    世の悪は次第に除去されて行き、次第にこの世は明るい善いものとなって

    行き、最後の一人がクリスチャンになった時に、千年王国が始まるとする

    楽観論。  更に、千年王国の終わりにキリストの再臨があると説くので、

    後千年王国論と呼ばれている。  キャンベルなどがこの論陣に含まれる。

 

    無千年王国説  a-millennialism   ア・ミレニアリズム

    文字どおりの千年王国はないと主張する立場で、キリストによる千年間の

    支配という聖句は比喩的なものであり、文字どおりキリストが再臨され、

    この地上に千年の王国を設立されるということはないと主張する立場。

    20世紀に到り多くのキリストの諸教会は、聖書の豫言の解釈に関しては、

    この立場に移行した。

 

    この現象は、前千年王国説を採った教会と、文字どおりの千年王国を否定

    した教会との間に衝突を招くこととなり、今回のフォスター教授が講演で

    述べられたとおりである。

 

    千年王国に関するこれらの見解の違いというものが、クリスチャン同士が

    そのことで自由に交われるとか交われないというような交わりの条件には

    長い間なっていなかったが、1940年代に入ってから、無千年王国論に立脚

    した指導者たち、たとえばフォイ・E・ウォレスニ世Foy E. Wallace,Jr

    がキリストの諸教会から前千年王国論者を排除する一大運動に成功を収め

    たのち、事情はすっかり変わってしまった。    =教授の補足は終わり=

 

    訳者も留学中に、現在の日米教会では想像すらできないような非人間的、

    反聖書的、反基督者的な魔女狩運動の魔手に追われ、『地獄に墜ちろ』と  

  脅かされたことが幾度もありました。

 

    わざわざハーディング大学やアビリン大学を訪問した時、前千年王国説を

    採る学校で学んでいる学生という理由だけでキャンパスに足をいれること

    を拒まれ、道路の反対側からキャンパスを眺めたこともありました。

 

    訪れた教会堂で、その教会の指導者や長老によって、仔猫か仔犬のように

    首筋を掴まれて『ジャップ、ここはおまえら地獄に行く奴らの来る所では

    ない』と、外に放り出されたこともありました。  いろいろありました。 

  

  恐ろしい悪の力が支配していた時代、アメリカの殆どの白人教会が病んで

  いた不幸な時代でした。 マッカーシズムが横行していた時代でした。

 

    多くの善き師や友を前千年王国論を採る教会と無千年王国論を採る両教会

    に与えられていますので、今は感謝の念しか残っていませんけれども…

    『御旨によりて召されたる者には総てのこと相働きて善きとなる』です。