◆◆◆◆  教会の指導者の最高の喜び  ◆◆◆◆

1989年11月22日  東京以西キリストの教会合同礼拝  奨励

パークアベニュー  キリストの教会長老  ジャック・キス兄

 

聖書  ネヘミヤ書  8章10節

「行って良い肉を食べ、甘い飲物を飲みなさい。その備えのない者には、

それを分けてやりなさい。  今日は我らの主に捧げられた聖なる日だ。

悲しんではならない。主を喜び祝うことこそあなた達の力の源である。」

                                                                         

 

  アツマリニ、チョット、ジコショウカイ    シタイ    オモイマス。

  ムスコガ  3ニン  イマス。マゴガ  4ニン  イマス。オトコノコガ3ニン、オンナノ  コガ  1リ  デス。ハナサ

セテ  イタダイテ、ココロガ  カンシャ  シテイマス。アリガトオウ  ゴザイマシタ。ニホンゴハ  コレダケデ、ツウ

ヤクシャヲ  ツカイマス。

 

(拍手)

皆さんに話す機会を与えて下さってありがとうございます。

このような特別な集会において、皆さんに話す機会を与えられたと言うことは身に余る光栄です。 

このような集いを通して、主の知識に成長しようと努力してることはすばらしいことだと思います。テネシー州メン

フィスにあるパークアベニューの教会の兄弟姉妹達から、皆さんに挨拶を贈ります。

 

  同じく、メンフィスにある姉妹教会によって支援されているフォーカス・オン・ジャパンの委員会の方々から皆さん

に、心からよろしくと言うことです。

 

  私自身のことですが、私は、新約聖書に基づいたクリスチャンホームで育ったわけではありません。海軍に勤務した

頃、海軍の教官として働いたことがあります。その教官として務めていたときに、もう一人の教官(彼は民間人でした

が)と、出会いました。彼はクリスチャンだったわけですが、3年間ほど一緒に教えてから、一緒に聖書を勉強しない

かと、私と妻に言いました。何回か勉強を重ねてから気がついたのですが、私と妻は聖書で教えている福音に聞きした

がっていないと言うことに気がつきました。そこで、私達は1953の2月13日にバプテスマを受けてクリスチャン

になりました。

 

  皆さんに今夜お話しするこの題名はクリスチャンリーダーの最高の喜びという題です。

クリスチャン生活の喜びというものは、主イエス・キリストの教えの中に含まれている大切な物の一つです。今夜の学

びを通して私達は新約聖書の著者達、また、イエスキリストご自身も主の体である私達一人一人に、主にある喜び、ク

リスチャンとしての喜びを与えようとしておられる、教えようとしておられることを学びたいと思います。この喜びと

いうものは決して、教会にある特別な人々、執事とか長老に限られたものではありません。この喜びと言うのは、私達

の中に、私達が生まれ変わったとき、主が聖霊を植え付けられたその時から始まります。

 

  テサロニケの第一手紙2章17節から20節までをお読みします。

「兄弟達よ。私達は、しばらくの間、あなた方から引き離されていたので----心においてではなく、体だけではあ

るが----なおさらあなた方の顔を見たいと切にこいねがった。だから私達はあなた方の所に行こうとした。ことに

、このパウロは、一再ならず行こうとしたのである。それだのに、私たちはサタンに妨げられた。実際、私たちの主イ

エスの来臨に当たって、私たちの望みと喜びと誇りの冠となるべき者は、あなた方を他にして、誰があるだろうか。あ

なたがたこそ、実に私たちの誉れであり、喜びである。」

 

  喜びは、主に従おうとする者に、与えられる者です。アメリカでよく使われる表現ですが「幸福の追求」とよくいい

ます。しかし、そのような幸福と言うものは一時的なものです。そして、それは捕まえどこのないようなものです。私

たちはさまざまなものを通してはかないものを通して幸福を得ようとします。その中には、スポーツとか映画、娯楽、

社交、それから物を手に入れることによって喜びを得ようとします。しかし、それらの物は時間がたてば朽ちてしまう

物です。すぐなくなってしまうような喜びのいい例は、私たちが喜劇などを見るとき味わう喜びです。おかしい話しを

聞いているときは楽しいのですが、それが終われば、その一時的な興奮も終わります。その時私たちは、あの喜びは何

処へ行ってしまったのだろうと思うのです。ある人がいった言葉ですが、一生懸命幸福を探す人はなかなか見つけられ

ない。幸福という物は副産物である。そしてそれは、決して目標ではない。と言いました。喜劇俳優を見ているときの

喜びというものは、間もなく消えてなくなります。しかし、神様からの喜びは、私たちの心の中に植え付けられたなら

、ずっと生き続けるものです。

 

  預言者ネヘミヤも聖書の中でこのように言っています。

ネヘミヤ8章10節

        「行って良い肉を食べ、甘い飲物を飲みなさい。その備えのない者には、

        それを分けてやりなさい。  今日は我らの主に捧げられた聖なる日だ。

        悲しんではならない。主を喜び祝うことこそあなた達の力の源である。」

 

私たちは主にある喜びというものは、主に従おうとする者に与えられるものですが、私たちの力となるということを体

験します。そして、決して絶えることのない主にある喜びこそキリスト教の、あるいはクリスチャンの力です。ヨハネ

の福音書15章9-11節までをお読みします。

 

「父が私を愛されたように、私もあなた方を愛したのである。私の愛の内にいなさい。もし、私の戒めを守るならば、

あなた方は私の愛の内におるのである。それは私が私の父の戒めを守ったので、その愛の内におるのと同じである。私

がこれらにことを話したのは、私の喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなた方の喜びが満ちあふれるため

である。」

 

  主にある目的、私たちが達成しなければならない目的と言うものは、ときどき、涙をもって達成されるものです。そ

れでは、私たちは、涙しているときに、どのようにして喜ぶことが出来るでしょうか。私たちはときどき、主にいただ

いている喜びが心の深いところにあるものだと言うことを忘れます。また、それを理解することが出来ないことがあり

ます。詩編の著者はそれを私たちに教えようとしています。

 

  詩編の126編5,6節

      涙をもって種まく者は、

      喜びの声をもって刈り取る。

      種を携え、涙を流して出ていく者は、

      束を携え、喜びの声を挙げて帰ってくるであろう。

     私たちは、涙をもって種を蒔くとき、喜びをもって刈り取ることが出来るのだと言うことを覚えなければなりません。

  私たち一人一人のクリスチャンは、それぞれ、おかれている状況が違います。或者はクリスチャンホームで育てられ

た者です。その人には、自分の肉親がクリスチャンでない、主の衣服員にちっとの関心を示さないときの胸の痛みとい

うものは分かりません。神様は、この世に於いても、すばらしい喜びを与えて下さいましたが、それは、私たちが天に

於いて味わうことの出来る、比べものにならないような大きな喜びに備えるためのものです。私たちがこの地上に於い

て、まだ、主を知らない人々に福音を述べ伝えるという働きは、今でも続けなければならないものです。主は、主がよ

しとされたときに私たちの努力に報い、あるいは、成長といったものを与えて下さいます。その時に私たちは主と共に

喜ぶことが出来ます。私たちの多くの者は、その報いを生きている間に見ることは出来ないかも知れません。しかし、

天にあって、主と共にその結果を見ることが出来ます。

 

  ガラテヤ人への手紙5章22節

  「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」

  私たちは、主が、主の子供である私たちに、すばらしいものを、常に備えていて下さることに感謝します。イエス・

キリストがこの世にお生まれになったこと、それは喜び、そして希望をこの世に与えました。初代のクリスチャン達、

初代の殉教者たちは、主の喜びを味わうために喜んで自分の命を犠牲にしました。彼らは確かに、肉体的に大変な迫害

を受けました。しかし、彼らの心は、魂は主によって支えられ、主による喜びを味わうことが出来ました。私たちの主

は悲しみの人であり、また、痛みや病を知っておられた方でしたが、主はこの世に於いて、ほんとに何物にも比べられ

ない、比べものにならない喜びを味わわれました。イザヤ書53章3節

 

          彼は侮られて人に捨てられ、

        悲しみの人で、病を知っていた。

        また、顔を覆って忌み嫌われる者のように、

        彼は侮られた。我々も彼を尊ばなかった。

 

今夜は皆さんとご一緒に全てのクリスチャンが味わうことの出来る喜びの3つの要素を学びたいと思います。

クリスチャンのリーダーは、自分に与えられている主の群れにあって、その群れがお互いにわかち会っている、主にあ

る愛、それを共に味わう、また、それを見ること、それがクリスチャンのリーダーの喜びです。