《あらっ、どちらへ?》

 

  中学校英語や英会話教室でしばしば教える挨拶の一つに『私はどこどこの出身で

す=私は何処どこから来ました』というのがあります。  I'm fromxx .』です。

 

  長坂役場に行きますと『小荒間の野村です』と告げます。  北杜市役所や県庁に

行けば『長坂町の野村です』となります。  東京に行けば『山梨県から来ました』と

なります。  外国空港で出入国管理をする移民官には『日本からです』と告げます。

  一方、路上で思い掛けなく知り合いのご婦人に出会うと『あらっ、どちらへ?』と

訊かれることがありますが、『ちょっとそこまで』でことが足ります!!

 

  創世記12章にはアブラハム(最初はアブラム)がカルデアのウル(現在紛争中の

イラク)から神さまの約束だけを頼りに約束の地に出かけて行ったと記録されていま

す。  もしその当時に現在のような出入国管理事務所があったと仮定すれば、移民官

はアブラハムにどういうふうに質問したでしょうか?

 

    『アブラハムさん、どこから来ましたか?』  『カルデアのウルからです』

『どちらに行かれますか?』  『いやっ、それが実は…よくわかんないんですよ』

          『えっ?  じゃあどうして独り旅びをしているんですか?』

『それはですね…  実はその…  神さまが建てられた揺るがぬ土台の上に建てられた

都を捜しに行く途中なんですけれど…』  『えっ?  どんな神さま?』

『ええ、まだお目にかかったことはないのですがね、お声だけは聞いたんですよ…

    でも、天地万物を創造なさった神さまであることだけは間違いないんです』

 

  さて、それでは…  皆さんは如何でしょうか?

  野村さんはどこからおいでになったのですか?  東京から?  じゃ、その前は?

        その前は京都?  それじゃ、その前は?  わかんないですって?

 

    それじゃね、皆さんは何処に行かれるのですか?  人生行路の目的地は?

  なぜ独りで日夜休むことなく苦労しながら彷徨人生を送っておられるのですか?

    何処に行くのかわからないで、どうして旅を続けておられるんですかねぇ?

 

  犬のお巡りさんが歌う『迷子の迷子の仔猫ちゃん』という童謡があります。

  名前をきいてもわからないし、自宅はわからないし、どうしてよいのかわからない

という主旨の可愛い童謡です。  しかし、私たちの人生がそうであっては困ります。

  しかし実際には殆どの人にとって、この犬のお巡りさんの質問にまともに答えら

れないようです。  クリスチャンだと自称する人も同じようです。  この世のこと、

パンのこと、肉眼で見えるものや両手で触れる物だけに夢中になり過ぎているからで

しょう。  そして自分自身の魂のこと、魂の故郷のこと、人生の目的や行き先に就い

て何ひとつ知っていないのです。  自分がどこから来て、毎日どこに向かって歩んで

いるのかが少しもわかっていないのです。  これほど恐ろしいことはありません。

  最愛の子に親がこの一番大切なことを教えていないのです。  無責任なことです!

 

  私たちはヘブル書11章が語るように、この地球惑星の上にあってはただの「旅人

であり、宿れる者であり、寄留者」にしか過ぎないのです。

  国際空港では乗り継ぎ客・乗り換え客のことを「トランジット=通過者」と呼んで

いますが、まさしく私たちは神の国から出て来て、この一時的な世の中を通過中の、

そして再び神の国に戻る途上にある「通過者・トランジット」なのです。

 

  「この世に仮住まいをしている者」ですが、決して「この世に属している者」では

ないのです。  コリント後書4章16節~18節や同5章7節、さらにピリピ書3章20

がはっきり語っているように、イェスを救い主として受け容れた私たちの国籍は天に

あるのです。  目に見える世界に向けてだけ目を注ぐ者ではなく、目に見えない永遠

の国を仰ぎ望む者なのです。  一時的なこの世のものを見る者ではなく、永遠に続く

神の国を切望する者であるのです。  これをしっかりと確信して頂きたいのです。

 

  この不条理で厳しい世俗の人生には多くの起伏があり、各自それぞれが多くの困難

や涙や溜め息を抱え込んで日々をどうやら生きていることだけは確かなことです。

  ある人には耐え難い苦しみの一生でしょうし、ある人には短か過ぎるでしょう。

しかし共通のことが一つだけあります。  それは私たちこの世に生を受けた者のだれ

しもが、遅かれ早かれ、この世を公平に去り行かなければならないということです。

 

  この世を離れた私たちすべての者は父なる神さまに出会うことになるのです。

「神さまの永遠という計り知ることすらできない長い時の単位」から考えてみれば、

この地上で私たちが過ごした「ほんのしばらくの間に」、「まばたきをする瞬間に」

(コリント前書1551節)、私たちそれぞれは、ルカ伝15章が記録しているイェスの

有名な「放蕩息子」のような愚行をやってきたはずです。

 

  17節が語っているように、私たちのこの地上での生活も放蕩息子とたいして違わ

なかったのに相違ありません。  そこで問題となる点は放蕩息子が『本心に立ち返っ

た、我に返った』とさりげなく書かれている点だと思います。

  これと同じように、「神さまの御国に戻る途上にある私たち」が、豚の飼育小屋で

放蕩息子が自分の在り方に気づいて悔い改めたように、私たちも私たちの罪を悔い、

神さまの御前に打ち砕かれた謙虚な心を持って、本心に立ち返えって、神さまの許に

戻って行こうとする態度があるのかどうかが問われているということです。

 

  ヘブル書1314節は『この地上には、永遠の都はない。  来たらんとする都こそ

私たちが求めているものである』と語っています。  これが私たちの行く先です。

 

  神の御国から目的を持ってこの世に送り出された者たちが、再び戻るべき国は天国

しかないのです。  私たちの国籍はすでに天にあるのです。  (ピリピ書3章20節)

 

  コリント前書1126節には『主の十字架の死とその再臨に到る時まで』という表現

があります。  ひと回りの初めごとに主の食卓に与り、私たちの行く先である御国を

覚えることができるのは極めて有意義なことであり、感謝のひとときなのです。

 

  下記紹介の詩編42編2節は『神さまの御顔をいつになったら仰ぎ見ることができる

のだろうか!?』と、乾きを潤すために谷川の水を慕い求める鹿のように、神さまとの

出会いを切望しています。  そこにはこの世を去る時の死への怖れはなく、神さまの

国を切望する強い思いだけがあります。

  アモス書4章12節は『あなたの神に会う備えをせよ』と勧めています。

  さらに、聖歌 687番は、『間もなく彼方の流れの傍で、神さまの傍の奇麗な川辺で

神さまと一緒にみんなで集まる日が来るが、それは何と懐かしいことであろうか』と

歌っています。  黙示録22章1節~5節の約束です。  何と感謝なこと、何と素敵な

ことでしょうか!!  「天国への帰宅=凱旋」へのあなたの備えは如何でしょうか?