2003年3月9日  八ヶ嶽南麓  野村基之

 

    昨年から当ベタニヤ・ホームの「家の教会」の交わりに参加なさるようになった

S姉妹はホーリネスの群の中の一つからの出身者です。  Y姉妹はいわゆる福音派の

教会から当地に移住されて当方の交わりに転会を希望なさった方です。

 

  お二人が初めておいでになった当初には、私たちの交わりの寛いだ雰囲気や、宗教

儀礼的要素の少ないことなどで、相当な当惑があったものと推測しています。

 

  また、公私における私の冗談に慣れて頂くまでにはそれなりの時間もかかったよう

でした。  お二人が属しておられていた二つの教会は、共に極めて真面目な教会だと

想像するからです。  然し聖書の中には沢山の冗談ととれるものや記録があります。

イェスさま御自身も相当に言葉を上手にお使いになっていたお方であったように私は

理解しているのです。

 

    さて、そのようなわけですから、「世界最大の皮肉」とは一体何でしょうか?

まぁ最大かどうかはわかりませんが、マタイ伝2章1節〜18節に書かれているイェス

の誕生に関する記録は私にとっては本当に「大きな皮肉」と「大きな警告」であると

思えるのです。

 

    先ず、そこに登場する人物を選び出してみて下さい。

1節で「ヘロデ王」が出て来ます。  次に「東から来たマギ=博士?たち」です。

3節で「エルサレムの人々」が登場します。

4節で「祭司長たち」と「民の律法学者たち」全員が出て来ます。

5節で「一人の君=イスラエルの牧者」の出現に関する豫言が紹介されています。

8節で「幼子」(留意:これは生まれたばかりの嬰児ではなく2歳前後の幼児の事)

11節で「母マリヤ」が登場します。

14節で「ヨセフ」が出てきます。

16節で「人々」がベツレヘムとその近郊にいた2歳以下の男子全員を殺戮しました。

 

    次に、以上の登場人物を二つのグループに分けてみましょう。

1.  「ユダヤ人の王として生まれた方」を捜し求めていた人たちは誰でしょう?

2.  「ユダヤ人の王として生まれた方」に就いて知っていた人たちは誰でしょう?

  *「東方から来た**博士たち」に就いての雑情報

 

  聖書は具体的に「どちらの東」とか「どれほど遠い東の方」と語っていません。

シルク・ロードというものを考えてみますと、遥か東方には、中国とか、日本とか、

フィリッピンやインドネシアなども含まれるのかも知れませんが、まぁここでは現在

のイランやイラクの辺りまでと考えてみましょう。

 

  現在のイランやイラクから見たベツレヘムは「西方」ですが、両者の間には巨大

な砂漠がありますし、それを横切ることはできなかった筈です。  ユウフラテス川に

添って北西にトルコ半島の付け根の辺りを目指し、トルコ半島に到着後、更に地中海

沿岸に添って今度は南下するしか道はなかった筈です。  その距離はおよそ最低でも

3千粁〜4千粁ではなかったかと想像します。  日本列島縦断往復はあるでしょう。

 

**  日本語に適訳語がありませんので「博士」と聖書は便宜上とりあえず翻訳して

いますがマギが原語です。  料理の隠し材料にマギ・ブヨンというのがありますし、

手品をマジックと呼びます。  マギと関連のある「不思議」という意味です。

 

  マギとは、古代メディアやペルシャのゾロアスター教の祭司で超自然能力を有して

いた者だったといわれており、占星術や魔術に秀でた者、学ある者と考えられていた

階級の人々のことを表す単語でした。

 

**  具体的に聖書は「博士」たちが誰であったのかを語っていません。

バビロンへの捕囚の末裔のユダヤ人ではなかったのかという説もありますが、聖書は

そのことに対しては黙して一切語っておらず、従って聖書的根拠は何もありません。

 

  旧約聖書に豫言されていた「ユダヤ人の王」に就いて、マギたちは占星学者として

取得していた筈の知識から、『西方に救世主が現れるであろう』とかねてから占って

いたのかも知れません。  そして『西方に何か重大なことが必ず起るに違いない』と

信じたのだろうと推測できます。  然し、それらに関して聖書自身は何も語っていま

せん。  どなたか広い意味でのオリエント学に精通なさった方のご説明を伺いたいと

個人的には願っています。

 

    さて次に、「皮肉」、「あてこすり」とは何を指しているのでしょうか?

 

1.  言葉や風俗習慣が異なり、旅の安全が全く保証されていない遠路を、何千粁もの

距離を徒歩や駱駝や驢馬の背に揺られて「ユダヤ人の王として生まれて来るべき人」

=真の神を捜して、イスラェルの神からほど遠いとされていた異教徒の博士たちが、

彼らなりに命懸けでベツレヘムに辿り着いたのです。  相当時間がかかった筈です。

 

  『それは2千年前の話しであって、私の人生とは全く関係がない』という私たちの

姿勢と同じです。  どのような犠牲を払ってもイェスを主であるとし、救い主として

仕える気など毛頭もない私たち自称クリスチャンと似ていると私は思うのです。

 

2.  「ユダヤ人の王として生まれて来た」イェスに就いて世界中の殆どの人々がその

話を知っていますが、博士たちのように命懸けで信じようとはしないのです。

それは、『神に就いて知っている』、『神の言葉である(旧約)聖書を知っている』

とか、『俺たちは神の選民だ』と言いながら、本当は何も聖書のことを知っていない

し、神を知らなかったし、神の豫言を信じていなかったユダヤ人たちと同じです。

 

  王も、エルサレムに住む人々も、祭司長や律法学者らも、聖書を知っている、聖書

を読んでいる…と言いながら、実は、「ユダヤ人の王として生まれて来る方」を全く

知らなかったのです。  そのような聖書の豫言を信じてはいなかったのです。

 

3.  同じように、『おいらはクリスチャン、真の神を知っている』と自称しながら、

神に心を向けなければならないと知りながら、この世の厳しい現実に捕らえられて、

ちっとも神の方に心を向けようともしない私たちに似ています。

 

  ロマ書1章18節から数節を熟読してみますと、そこに書かれていることは、私たち

の姿そのものだとわかるのです。  本当に恥ずかしい次第です。

  『神をを知っている』と言いながら、神を神として崇めるようなことは一切せず、

イェスを「主」として口先では鸚鵡のように気安く唱えながら、実際生活に於いては

イェスを「主」などとは決してしようとはしないのです。

 

  イェスを主であると告白することは、『私は主イェスの奴隷です』と告白すること

ですし、奴隷ならば無条件で主イェスに仕えなければならないのですが、そのような

ことなど、全くするわけがありませんし、考えたこともありませんし、感謝もせず、

『その心の思いは却って虚しくなっている』と読んでもおかしくないのですから…

 

4.  『クリスチャンは天下を転覆させるほどの人間である』(使徒行伝17章6節)と

聖書は二千年もの間ずっと語りかけているのでが、そんなことが書いてあるなど今の

今まで知らなかったゎ…というわけです。

  また、仮にそのようなことが書いてあるとは知っていたけれど、その意味となると

考えたこともないというのが多くの自称クリスチャンの実際の姿のようです。

  更に、殆どの教会人=チャーチ・ゴーアーズ、年に何回か教会にでも行ってみよう

か式の人々や、日曜朝の礼拝だけは出席しているという人々にとって、実は『天下を

ひっくり返されては困る、その天下にしがみついている、しがみついていたい!』と

いうのがクリスチャンの姿、私たちの本当の姿であり現実なのではありませんか?

 

5.  「神の選民ではない」とされていた異邦人の博士・マギたちが、全財産を携えて

何年もかけて、数千キロの道をひたすらに「王」に会いに出かけたのでした。

 

  更に、聖伝説の一つに「アルタバン物語」というのがありますし、その伝説により

ますと、第4番目のマギも居たとされています。

  アルタバンも他の博士たちと一緒に故郷を同じ頃に出発してベツレヘムに向かいま

したが、途中、行く先々で苦労している人々や虐げられていた人々に出会い、彼らの

世話をしている内に、次第にマギの一行から遅れてしまい、「王」に捧げようと携帯

して来た金銀宝石を人々を助ける為に少しずつ換金していったのでした。

 

  アルタバンが遅れてエルサレムに到着したのは他の博士たちから32年も後のことで

した。  ボロボロ・ヘトヘトの無一文の老人として到着したのです。  そして十字架

のイェスにやっと出会うことができたという伝説です。

イェスがアルタバンの愛の行為を称えたのは申し上げるまでもありません。

 

  聖書的根拠は全くありませんが、そのような聖伝説が伝えられているのです。

けれども私たちは、イェスのために1キロだって余計に歩もうとはしません。

イェスのために財宝も命も捧げようとはしたことがないのです。

 

  旅行のことを travel と言います。  陣痛のことを travailと言います。  語源は

同じで、辛苦を指す言葉から共に派出して来たのです。  命懸けということです。

 

    主イェスの誕生を中心としたマタイ伝2章の登場人物ほど私たちに対する痛烈な

「皮肉」、痛烈な「あてこすり」はないのです。  リップ・サーヴィスだけの私たち

に対する、口先だけは達者な自称・他称クリスチャンに対する厳しい「あてこすり」

や「皮肉」に対して、私たちは本当に恥ずかしい気がしますし、第一、主イェスさま

に対して申し訳ない次第です。  悔い改める必要があるのはこの私たちなのです。

  十字架の赦しの前で謙虚に悔い改める他に道はありません。