番号案内お願いします  Information Please 

            = 「もう一つの世界」 =

    

  現在の私たちは携帯電話が当たり前の時代に生きています。  一般家庭電話加盟数

は降下線の一途をたどり、街角や駅構内の公衆電話の数は激減してしまいました。

  それでは東京オリンピック開催直前までの日本はといいますと、各家庭に電話機が

普及していたわけではありませんでした。

 

  1961年末に私が米国留学から帰国して結婚したばかりのころ、私たち夫婦は葉山の

漁村に住んで漁村伝道を始めました。  その頃でも、東京まで電話をかけたいと思う

時には葉山郵便局まで歩いて行き、番号を申し込み、しばらく待たされたものです。

  急用のときには急行扱い、更に急ぐ時には特急扱いというものを申し込み、高価な

割り増し料金を支払ったものです。  それでも10分や20分待つのは当たり前でした。

 

  更にさかのぼって私が尋常高等小学校低学年生の頃、1940年より少し前でしたが、

電話は珍しいものでした。  商売をしていた親戚の家に電話機があり、手でハンドル

を回しますと発信したのでしょうか、そこで交換手が出てきて『何番へ?』と訊ねて

来たように記憶しています。  『西陣の〇〇さんお願いします』と屋号や名前を伝え

るか『西陣の〇〇番お願いします』と伝えてしばらく待ちますと繋いでくれました。

 

  日本橋近辺だったと思いますが、或る家に数台の電話機があって、『この電話機の

前で待っていてごらん』と言われ、言われたように待っていますと目の前の電話函の

ベルが突然に鳴りだし、どうしてよいのかわからず、ただ驚いたのを覚えています。

  その家の使用人さんが笑いながら鳴っている受話器を取り上げるようにと言われた

ので言われるままに受話器を取り上げて耳に当ててみますと、目の前の使用人さんの

声が飛び込んで来たのでした。  どうしてそのようなことが可能なのかわからず大変

な驚きでした。  小学校2年生?、1930年後半期の体験だったと記憶しています。

 

  これらは携帯電話が当たり前の時代の人には理解できないことでしょうけれど…

いまでも2本の銅線を伝って世界中に電気信号が正面衝突もしないで行き帰りできる

のか、世界中のパソコンのインターネットの信号が正面衝突をどうしてしないのか、

いくら説明を受けても、やはり私には理解できない不思議なことなのです。

  このように、電話という通信手段は、約60年〜50年ほどの間に急速に進歩発展して

来た道具なのです。  これからご紹介致します小話もそのような時代背景の中で生ま

れて来たものであることをご承知下さい。  なお情報源などについては本文の終わり

で説明致します。

                ===== 

 

  僕がまだ幼児の頃でした。  近所の家々には電話がなかった時代に父が電話を設置

しました。  ピカピカ光った「電話機」という木箱が取りつけられました。  箱の横

に黒い筒がぶら下がっていて、箱とは電線で結ばれていました。  僕は背が低かった

ので触りたくても触ることはできませんでしたが、母がその箱に向かって楽しそうに

お喋りをしているのを不思議そうに見ていました。  箱の中には誰かがきっと住んで

いるのだと信じていました。  箱の中の人の名前は「Information Please」でした。

母は箱に話しかける前に必ずそう言って、少し待ってから話を始めたのです。

幼い私にはそれが「番号案内お願いします」の意味だなんて知りませんでした。

 

  ある日、父も母も留守だったことがありました。  そっと地下室に降りて行った僕

は父の工具箱を開けていたずらをしていました。  そして金槌で思いきり自分の指を

叩いてしまいました。  それはそれは痛いなんて言うものではありませんでした。

大声で泣き叫びましたが誰も家にはいません。  泣きべそ顔で指をしゃぶりながら僕

は階段を登り台所にやっとの思いで到着しました。  そこには例の不思議な箱があり

ました。  母がよく話しかけている『インフォーメーション・プリーズ』さんという

お友だちが中にいるはずです。

 

  台所の椅子を引っ張って来て、その上に登り、母がいつもやっているように受話機

のフックをはずし、耳に受信機を当て、僕の頭の上の方にある話し口に向かって大声

で「インフォメーション・プリーズ」と叫び、箱の中に住んでいる母の友達を呼びま

した。  カチッ、カチッという音が二度ほど聞こえた後で、「インフォメーション」

(『こちら番号案内係ですが』の意)という女性の声が聞こえました。

 

  『ママのお友だちの「インフォメーション」さん、僕、お指が痛いよっ!』

『どうしたの、坊や、おうちに誰かいないの?  ママはいないの?』

『うん、誰もいないんだよっ』と僕は泣きべそをかきながら答えました。

 

  『どうしたの?』  『パパが、いけないって言ってたんだけど、地下室の工具箱を

いたずらして、金槌で指を叩いたんだ。  とっても痛いんだよっ』と泣きました。

『血が出ているの?』  『出てないよっ』  『それじゃね、こうしましょうよね』

『冷蔵庫を開けられる?』  『うん、開けられるよ』  『氷を取り出して割るの』

『割った氷を指に当てて冷やすのよ。  わかった?』  『うん、やってみるよっ』

  それからというものは、何か困ったことがおこるたびに、僕は箱の中に住んでいる

「インフォメーション・プリーズ」おばさんに語りかけ、質問をし続けました。

 

  小学1年になって、フィラデルフィアがどこにあるのかわからなかった時も、箱の

中に住む「インフォメーション・プリーズ」おばさんに尋ねて教えて貰いました。

  算数も教えて貰いました。  森の中で捕まえて来たチップモンク(シマ・リス)が

ナッツ類や果物を食べることも教えて貰いました。

 

  小学校低学年生のある日、ピートと名付けていたペットのカナリヤが死にました。

「インフォメーション・プリーズ」のおばさんにカナリヤが死んだこと、悲しいこと

を話しました。  箱の中に住む親切な「インフォメーション・プリーズ」おばさんは

黙って僕の悲しみを聴いてくれました。  そして、その後で、大人が幼い子供を慰め

て言うようなことを語ってくれました。  でも僕は満足しませんでした。

 

  僕は「インフォメーション・プリーズ」おばさんに言いました。  カナリヤさんは

あんなに素晴らしい声で歌を歌ってくれていたのに、ある日、気がついたら、突然、

籠の底に落ちて羽の塊みたいに死んでた…。  これでは余りにも可哀想過ぎる…と。

 

  箱の中に住むおばさんは僕の悲しみをやっと理解してくれたようです。  『坊や、

ピートにはね、歌わなければならない「もう一つの別の世界がある」のよ』と優しく

説明してくれました。  幼かった僕はその説明で満足し、安心したのです。

 

  ある日、「インフォメーション・プリーズ」おばさんに話しかけて綴り方を尋ねま

した。  fix がわからなかったのです。  発音どうりなら ficks  だからです。

 

  こういう会話が箱の中に住む「インフォメーション・プリーズ」おばさんと9歳の

時まで続いていました。  そして父の仕事の都合で太平洋側のオレゴン州から東海岸

のボストンの近くの小さな町に移りました。  しかし、おばさんが恋しかったです。

「インフォメーション・プリーズ」おばさんは、あの古い四角な箱に住んでいたので

す。  新しい町の全自動式電話機に対し僕は何らの関心も興味もありませんでした。

 

  やがて僕は東海岸で中学生から高校生へと成長して行きましたが、幼い頃の思い出

は、特に「インフォメーション・プリーズ」おばさんとの思い出は決して忘れること

がありませんでした。  心に深い安らぎを与えてくれたあの思い出を僕は決して忘れ

去ることはできなかったのです。  誰も知らない僕だけの大切な想い出でした。

  あの当時の、あの電話交換手が、幼かった僕に示してくれた、あの忍耐力と愛情と

智恵と励ましを、どうして忘れることができましょうか。

 

  それから何年かして、僕は西海岸の大学に転入学することになりました。

飛行機がシアトルに着陸した時、乗り換え時間が2時間ほどありました。  姉がその

近くに住んでいたので15分ほど電話をしました。  その後で、どうしてそうしたのか

僕にはよくわかりませんでしたが、無意識の内に、昔住んでいた小さな町のダイヤル

を回し、番号案内係を呼び出しました。  「インフォメーション・プリーズ」です。

 

  そうしたら、何と、あの聞き慣れた優しい女性の声が聞こえて来たのです。

『インフォメーション。  メイ・アイ・ヘルプ・ユー?』

(注「こちら番号案内ですが、何かお手伝いできますか」の意)

僕はとっさに『フィックス ficksの正しい綴り方を教えて下さい』と答えました。

 

  長い、長い沈黙が続いた後で、ようやく彼女の答えが返って来ました。

『お指の痛いの、どうやら、やっと治ったようねっ、トム坊や』と…

僕は爆笑しました。  そして言いました。  『やっぱりあなただったのですね』

『あなたは僕の人生にどれほど大切な人なのか、おわかりになっていらっしゃらない

でしょうが、本当にどれほど感謝しても感謝しきれるものではないのです…』

 

  今度は「インフォメーション・プリーズ」おばさんが喋る番でした。

『トム、私こそあなたに感謝しなけりゃいけないのよ。  私ね、子供がいないのよ。

だから、本当のことを言うとね、あなたの電話をいつも楽しみに待っていたのよっ』

 

  僕は彼女に感謝しても感謝しきれるものではないことを今いちど述べた後で、姉を

訪問した後で、改めてもう一度ゆっくり電話してもよいかを尋ねました。

『エエ、勿論』と彼女は答えてくれ、彼女の名前がサリーだと告げてくれました。

 

  三ヶ月後に僕は再びシアトルに戻って来ました。  ダイヤルしました。

『インフォメーション・プリーズ』と、今回は違った声が応答しました。

『サリーさんをお願いします』  『失礼ですが、彼女の親しいお知り合いですか?』

『ハイ、昔からの、古〜い、古〜い、おつき合いの者ですが…』

 

  『そうですか、わかりました。  実は…サリーは、長く勤めた電話局を、からだを

こわして退職し、ここ二、三年間はパート・タイムで働いていたのですが…  実は…

彼女、一ヶ月半ほど前に天国に帰って行ってしまったのです…』

 

  衝撃を受け、言葉を失い、戸惑った僕は電話を切ろうとしました。  その時です。

『失礼ですが、あなたはトムさんじゃないんですか?』  『エエッ、そうですが…』

 

  『実は…サリーからあなたへのメッセージがあります。  彼女ね、あなたのことを

気にしていましたよ。  トムという青年から電話が必ずかかって来るから、その時に

必ず伝えて欲しい…と言って、病床でメモを書いたのを預かっています。

今それをお読みします。  いいですか。』  『ハイ、お願いします』

 

  『ひとつ、トムから電話がかかって来たら必ず伝えて欲しいこと…

それは、今でも、「歌うためのもう一つ別の世界がある」って伝えてくれれば、あの

子にはきっとわかってくれるはずだわ…』

 

  それを聴いてから僕は新しい番号案内係の女性に感謝を述べて、ゆっくり受話機を

電話機の上に置きました。  トムは、「インフォーメーション・プリーズ」のサリー

おばさんの言いたかった意味を、初めて充分に理解できたように思えたのです。

そのあと、トムは暫くの間じ〜っと青空のかなたを眺めていたのでした。

 

                =====

 

  聖書には、はっきりと、「もう一つ別の世界がある」ことを教えています。

それは、次のようなイェス・キリストのお言葉でわかります。

 

  《あなたがたは心を騒がせてはなりません。  神を信じ、また私を信じなさい。

私の天の父の家には住まいが沢山あります。  もしなかったのならば、あなたがたに

そのように言っていたでしょう。  あなたがたのために私は場所を備えに行きます。

私が行ってあなたがたに場所を備えたら再び戻って来てあなたがたを私のもとに迎え

ます。  私のいる所にあなたがたをおらせるためです》  ヨハネ伝14章2節〜3節

 

                ======

                

  以上の話しは数年前に義息のチャックさんがテキサス州アビリンの大学院で聖書を

学んでいた頃に同じアビリンの町に住んでいた女性から伺ったような気がしますが、

そしてその方を通して日本に紹介してよいものかと尋ねたことがあったような記憶が

あります。  その女性からの回答は、『私も誰かから聞いた話だったので、どこから

聞いたのか覚えていないし、翻訳許可をとらなくてもいいんじゃないですか?』との

ことであったように記憶しています。  従ってこの小話をどこのどなたが私に語って

下さったのか…今となっては情報源は定かでありません。

 

  そして、私なりに勝手に、適当であろうと考えた聖書箇所を付け加え、これも私の

一存で、大切な箇所だと思った箇所に「もう一つの世界」という句を敢えて使って、

纒めてみた次第です。

 

  これらを踏まえまして、私のホーム・ページでは、私が翻訳しました学術講演原稿

や論文を集めた翻訳欄にではなく、私の文章という欄内に他の文献と一緒に紹介して

おきます。  これらの点をお断りしておきます。  それよりも、読んで頂いた皆さま

方のお役に立つものであれば紹介者・翻訳者として嬉しい限りです。

 

  尚、「もう一つの世界」という表現は、日本のような文化圏では、キリスト教会が

使う「神の国」とか「天国」などという言葉の理解が難いものだと思いましたので、

それを簡単に言い表すために考えて使ってみた言葉です。

  それは金銭や物質だけがあたかも価値のあるもののように捉えられがちなこの国に

あって、「そうではなくて、神さまの愛と義が極めて大切なものとして尊ばれる国」

とでも言い替えてみても良いのかも知れません。  皆さまはどうお考えでしょうか…