《或る讚美歌史  聖歌 634番と 606番》

 

  聖歌 606 I have a Saviour, He's pleading in glory に就いて:

  作詞者はアイルランド人で国教会牧師を勤めていたが辞任、プリムス・ブラザレン

教群に加わったが、更にそこも離れて他の教群に加わったようである。

作詞者O'Malley Cluffクラフ(Cloughと綴る事もあり)に就いてそれ以上は不明。

 

  讚美伝道者アイラ・デイヴィッド・サンキーが1874年アイルランド伝道中に歌詞を

入手し作曲、そののちアイルランド、スコットランド、イングランド及び北米各地で

歌い広めた。  原文に対して邦訳は良い訳だと思われるが…皆さんはいかがお考え?

 

  聖歌 634 When the trumpet of the Lord shall sound に就いて:

  作詞作曲者 James Milton Black はニューヨーク州サウス・ヒルで1856年に生誕。

(米総領事ハリス下田駐在時)  ペンシルヴェニア州ウイリアムポートのメソジスト

教会に1904年から82歳で帰天まで籍を置きメソジスト教界で活発に讚美歌関連事業で

活躍した信者であった。

 

  幼少時代から讚美歌を歌う事とオルガンを弾く事に優れていたのみでなく、声楽を

学校でも教え、メソジスト教会関係の多くの讚美歌集の編集と発行にもかかわった。

日曜学校や青少年教育でも積極的によく奉仕した。

 

  ある日、郵便局に行こうと町の貧しい地区を横切って近道をしていた時、みすぼら

しい少女がボロ家の玄関口を掃いているのをたまたま見かけた。

  『日曜学校に来ないか?』と誘うと『余りの貧乏で日曜学校に着て行く服が無い』

との返事であった。  教会員に声をかけ衣服を彼女に提供することになった。

 

  結果的に14歳のベッシーは日曜学校に来るようになった。  当時の日曜学校の多く

は出席を取る時に生徒は暗唱聖句を唱えて返事の代わりとする習慣があった。

  或る日曜日の朝の点呼の時にベッシーは暗唱聖句を唱えることができなかった。

ベッシーに何か事情がある筈と察した作詞作曲者で日曜学校教師であったブラックは

彼女の自宅を訪ね、父親が酷いアル中であるだけでなくベッシーを虐待している事を

知った。  その後ベッシーは日曜学校をしばしば休むようになった。

 

  案じたブラックが彼女の家を訪ねてみるとベッシーは肺炎を病んで危篤だった。

  気落ちして自宅に戻ったブラックの顔がただ事でないと感じた妻が事情を尋ねた。

『神さまのお召しの声がかかる時に(歌詞ではトランペットが鳴り響く時)応答でき

ない状態に居るというのは悲しい』とブラックは妻に打ち明けた。

 

  妻はブラックに『それではそのことを詩に書き留めてみれば?』と勧めた。

それから10分ほどして作詞を終えたブラックはピアノに向かい詩に曲をつけた。

このようにしてブラックはベッシーの葬儀の席でこの讚美歌を初めて披露した。

 

    ヨハネ伝6章40節、コリント前書1540節~42節、そしてさらにテサロニケ前書

4章13節~18節を参照しながら聖歌 634番をどうぞお歌い下さい。