《聖歌 523番・燈台は遥か・マタイ傳5章16節》

 

  聖歌 523番の作詞・作曲家であるP.P.ブリス (Let the Lower Lights Be Burning/

Philip P. Bliss)が有名な巡回伝道者 Dwight L. Moodyムーディーと伝道旅行中の

ある日、ムーディーの説教を聴いた時に受けた印象からこの福音歌を作詞作曲したと

言われています。

 

  或る星のない夜のこと、荒れることで有名な五大湖の一つに渡し舟が航行していま

した。  クリーヴランド港の近くまで来た時に、怖れられていたように、カナダから

強い風が吹き始め、湖は荒れだし、山のように大きな波が船を弄び始めました。

 

  『確かにクリーヴランド港を目指しているんだな?』と船長が水先案内人に尋ねま

した。  『はい、間違いありません。  高い燈台からの光りを頼っていますから』

  『低い方の燈台の光りはどうなったのだ?』  『消えているようで見えません』

『入港は確かだな?』  『はい船長。  一生懸命にやっています。  そうでなければ

我々は難破して沈没してしまいます』

 

  経験豊かな年老いた水先案内人は自信をもって舵をに握っていました。

しかし幾つかの低い方の燈台の火は消えたままで見えませんでした。

  背の高い大きな燈台の光りは船を港の方向に導くのに役だっていましたが、低い方

の幾つかの燈台が水先案内人に細かく具体的に船を誘導していたのでした。

  突然に大きな風が大きな波を呼び、船は水中の岩礁に乗り上げ、真っ二つに割れ、

多くの乗客らが水中に呑みこまれてしまったのです。

 

  ムーディーは以上のような実例を用いながら次のように語って説教を終えました。

『諸君、背の高い燈台とは主イェスのことである。  大きな燈台の仕事を主イェスが

してくださっているのだから、我々は我々ができる小さい低い方の燈台としての仕事

を一生懸命にやろうではないか。  沖に出ている船には低い方の燈台の光も必要なん

だから』

 

  ムーディーのこの説教を聴いていたブリスは早速メモ帳を取り出してまず作詞した

のでした。  そして詩に曲をつけて世に送り出し、一躍有名な福音聖歌となったので

す。  このほかにもブリスはたくさんの優れた福音聖歌を作詞作曲しています。

 

  ムーディーがこの逸話を語ったのは、ムーディーが五大湖の周辺のことを熟知して

いたからだと思います。  シカゴにはムーディー聖書学院という大きな学校もありま

す。  銀座の三越の数倍もあるような建物であったと記憶しています。

 

  五大湖には背の高い大きな燈台が要所要所に設置されています。

それら大きな燈台の光によって湖を航行している船舶は自分の位置を測定できます。

  しかし、港の近くにはそれほど背が高くなくても船を具体的に細かく誘導する燈台

が幾つかあります。  お互いの役目の性質が違うのです。

 

  小さな背の低い燈台の方の或る灯台守が思ったのです。

でっかい・のっぽの燈台があることだし、他にも背の低い小さな燈台がいっぱいある

ことだから、そしてどうせおいらの燈台なんてちっぽけなんだから、あんまり役にも

立っていそうもないんだから、ばからしくて夜通し火を焚くなんて無駄なもんさ。

  このように思い始めた灯台守は自分のやっている仕事が惨めに思いだし、自分自身

が哀れに思えるようになってしまったのです。  そして、『俺なんかいなくったって

大したことじゃないさ』とつぶやき、酒を呑んでしまったのです。

 

  嵐の夜に、沖に出ていた船は背の高い大きな燈台の光を嵐の暗黒の中に見失ってし

まい、小さな低い光を出す幾つかの燈台の光を頼りにすることも多いのだそうです。

  このようにして、自分の仕事をどうでもよいように過小評価してしまった灯台守の

愚かさによって多くの人命が失われてしまったのです。  それぞれの燈台には各自の

役割があるのです。  小さな燈台が大きな背の高い燈台と自分を比べる必要は毛頭も

ないのです。  大きなこと、背の高いこと、光力が大きなことが大切なのではないの

です。  それぞれがそれぞれの置かれた場所で忠実に仕事をすることが大切です。

  五大湖だけの話ではなくて、ジョージア州サヴァナ港でも同じような悲劇が起った

と、大阪聖書学院前学長クラークさんが私に語ってくださったことがありました。

 

  先週の日曜朝の主の食卓は順子さんと私だけで与りました。  このような寒村僻地

で大都会の大きな教会の真似などする必要は全くないと私は考えています。

  主イェスの十字架の恩寵を謙虚に、しかも確信を持って語り伝えて行くことに誠実

でありたいと願っています。  世界のどこに行っても人間が生きている限りそこには

罪があり、悲しみがあり、悩みがあり、憂いがあり、寂しさがあり、涙があります。

  どこに私たちが居ようが、そこでイェスの福音の信望愛を語るということが私たち

に託された特権と責務なのです。  「アーメンの教会ゴッコ」ではないのです。

  僻地に在って生活する基督者には都会以上に困難なことがあると思いますが、各自

が感謝をしつつ「地塩世光」の責務を誠実に果たして行きたいと心から願います。