ビル・ハンブル博士

(アビリン・クリスチャン大学教授)

1992年1月3日  水戸キリストの教会

通訳  野村基之兄(八幡山キリストの教会)

                                                                             

  皆さんおはようございます。私は大変よい通訳者に恵まれて感謝です。昨夜はよく眠れ

ましたし、先程はおいしい朝食を頂きました。また皆さんと一緒に学びたいと心より願っ

ています。小幡兄弟からこの講演の依頼がありました時、これから向かう21世紀への展

望を含めて話すよう頼まれました。私は今朝その期待に応えたいと思っております。昨夜

お話した事と比べて今朝の話は、少し心安からざるものを感じております。私は一応、歴

史家の端くれでありますので過去を振り返る事には自信があります。しかし未来について

予言をする自信はありません。私の判断力から考えて、これから先、どのような事が起こ

るかと言う事について、何らかの見通しをつけると言う事は自信が持てません。しかし、

すべての人がそうであるように私も未来について何らかの見しを立てなければなりません

ので努力をして見ましょう。皆さんにお渡ししたプリントの中で、将来私たちにはどうい

う良いところと弱いところがあるかと言う事を書いておきました。私たちの未来と言う事

を考えて見る時に、私たちを悩ます深刻な問題がある一方で、また同時に素晴らしい可能

性も私たちに目の前に置かれています。私はこの事をアメリカの復帰運動の関連の中で考

えていますが、日本の皆さんがこの同じような深刻な問題と可能性を持っていらっしゃる

かどうかは私には分かりません。ですから私はアメリカに限ってアメリカの教会が将来ど

のような問題と可能性を秘めているのかについて話したいと思いますが、日本の皆さんの

教会がそれについてどのようになって行くかは皆さん方がご自身でお決めになるほかはな

いと思います。このような問題と可能性を考える時に、私はそれらを越えてそこに私たち

の救い主をそこに見たいのであります。「われわれの信仰を始めて下さって、われわれの

信仰を全うして下さる救い主、主イエス・キリスト」(ヘブル書12章2節)と言うみ言

葉がヘブル書の中にございます。私がそのみ言葉を読みます時に、私は主が変わり給う事

のないお方であって、そういう事で私は未来と言う事を考えたいと思います。昨夜の私の

講演は私たちの心を新たにしなければならないと言う結論で終ったと思います。亡くなっ

た、尊敬するリューエル・レモンズ兄弟がおっしゃった言葉で結んだわけでございますが

教会は絶えず繰り返し繰り返し心を新たにして行かなければならないと言う事でございま

す。私たちがそのようにいつも心を改めよう、新しくしようと願う度に慰めと力を下さる

救い主を見出すわけでございます。私たちがそこで学ばなければならない事は私たちの未

来と言うものは主の御手の中にあるという事でございます。しかしながら私たちは彼にお

願いして、助けを頂いて私たちの教会が強くなって行くと言う事を願わざるを得ません。

 

  先ず私はわれわれの持っている、抱えている弱点というものと、またその強さというも

のを語りたいと思います。私はこの講演と言うものを悲観的な結論で終りたくはありませ

ん。それでありますから、先ず最初に私たちの問題と弱さを語って、その後でわれわれの

強さ、力と言うものを考えたいと思います。私たちが未来に向かって、この復帰運動と言

うものを考えてみます時に、4つの弱点と思われるものをここに書き出しておきました。

  先ず最初に、今日の世俗的文化と言うものが私たちの霊的なものをボロボロに崩して行

くと言う力であります。アメリカにおける文化と言うものはますます物質的、世俗的にな

ってきていると言う傾向があります。かつてアメリカにおいてはほとんどの人がキリスト

教の基準に従った倫理・道徳的な観念によって生活しようと努力を努めた時代がございま

した。いろんな宗派のクリスチャンの人であっても同じような道徳基準・価値基準によっ

て生活してみようと言うふうに努力をしたものでございます。しかし、今日アメリカでは

それらの道徳基準と言うものは段々と崩壊して行く、崩れ去って行くと言う傾向がござい

ます。新聞とか、テレビとか、音楽とかそういうマスコミがアメリカの青年たちの霊的な

ものを高めるのではなくてむしろそれを侵食し始めていると言う事であります。私たちが

テレビで見る殆どのものは私たちクリスチャンにとっては全く異質なものでございます。

私たちがそういうもので見る生き方というものは私たちクリスチャンの基準から見ると全

く別世界のものであります。今日では性的な事を寛容に大目に見ると言う傾向が強くなっ

ています。アメリカの殆どの青年たちは、今日、結婚前に性的な交渉があっても言いと言

うふうに考えています。このように道徳的基準が弱まって参りますと私たちの教会や復帰

運動に非常に悪い影響を与えるように侵入してくるわけであります。次の概要に書いてお

きましたけれども、キリストのおっしゃたことと全くそれは違うものであると言う事であ

ります。山上の垂訓といわれているものにおけるイエス様のメッセージは全く今日のもの

とは違うものであります。われわれは違ったものでなければならない、と言う事でありま

す。「われわれは世の光り、地の塩でなければならない」と言うメッセージであります。

光と言うものが暗闇というものからしてどんなにか違うものであるか考えてみて下さい。

光と闇とはお互いに全く違うものであります。イエス様がそのようにおっしゃっています

が光りと闇とがそんなにも違うように、イエス様がはっきりとおっしゃっている訳でござ

います。第一ペテロ一章の九節から十二節に「私たちクリスチャンと言う者はこの世にと

っては異邦人、旅人、宿れる者でなければならない」と言う事であります。ジェームズ・

トンプソン兄弟が最近「外に放り出された人」と言う本を書きました。その本の主題はこ

のペテロのここの聖句に基づくものでありまして、その本で彼の言っている事は「われわ

れクリスチャンと言う者は、この世にとっては全くの異国人、異邦人、全く性質の違う旅

人、宿れる者だ」というそういうふうな言葉であります。我々はしばしば言う言葉であり

ますけれども「教会はこの世にあるけれども、この世の属している者ではない」と言う事

であります。しかしながらアメリカにおいて教会は地上のものにどんどんなっていくと言

う事であります。そういう傾向が今日のアメリカにおけるアメリカの教会と復帰運動を脅

かしている一番大きなものだと思います。昨日読んだばっかりでありますけれども、日本

の昨日の新聞にも同じ事が書かれておりました。そしてその日本の社会学者の新聞の分析

によりますと、日本の青年たちはますます自己中心的なものになりつつあると言う事が指

摘されておりました。で、そういうわけでありますから皆様方もアメリカで我々が当面し

ていると全く同じ問題を皆様方も拝見されている、当面されていると思います。この人々

を取り巻く文化と言うものから違ったものであろうとすることは非常に困難な事でありま

す。しかしながら、主は私たちにその違ったものであれと言う事を強調、教えていらっし

ゃる、要求されているわけでございます。私が申しました事を覚えていらっしゃると思い

ます、覚えて下さい。それはここに聖書と言うものがあって我々がその聖書の基準に自分

自身をいつも向上させていかなきゃならないと言う事でございます。この基準、この物差

は我々がこの世のものとは違うものでなけりゃならないと言う事を言っているわけであり

ます。その要求は我々にとってこれをいたす事は非常に困難な事でございます。しかしな

がら、我々がその努力をなさない限りわれわれの聖書に戻ろうとする運動は失敗に終るで

ありましょう。この世の人々が生きていると同じような生活の態度を保っているかぎり我

々は新約聖書に戻ろうとする運動の一員ではありえると言う事は出来ないのであります。

で、恐らくこれがアメリカにおいて最も我々の危険な問題であろうかと思われます。

  アメリカにおいてでございますけれども、アメリカのキリストの諸教会は伝道的でなく

なったし、我々は成長をしていない群れになっていおります。1950年代、1960年

代におきまして、アメリカにおきましては何処であってもキリストの教会は一番早く成長

を遂げている教会でありました。そしてあらゆる宗派の方々が私たちを御覧になって我々

が、我々こそ一番成長率の早い教会だと言うふうに驚きの目で見ておりました。我々の教

会はどんどん新しい教会を建てておりましたし、宣教師を海外にどんどんと送り出してあ

りました。しかしながら残念な事に、今日そのような姿はないと言う事を申し上げなきゃ

なりません。今日アメリカにおいて二人の著名な先生がいらっしゃいまして、これは1ペ

ージのBの中に書いてございますが、Flavil Yeakleyと言う人と Mack Lynnと言うお二人

の方でございます。このお二人の方はキリストの諸教会の成長という事を科学的に非常に

注意深く研究なさった方でございます。

  3つの事をそのお二人の方は発見されたようでございます。先ず第1に、アメリカにお

いて我々は我々自身が思っていたほど大きな群れではないという事でありました。我々は

 100万人とか、 200万人の信者がいたというふうに思っていたわけでありますけれども実

際にはそうではなかったという事が分かったと言う事であります。今日大体アメリカにお

いては1万3千位の教会と130万人位の信徒を抱えております。これらは正確な数字で

ありまして我々はこれが正しいと言う事を知っております。日本の皆さんの国のように教

会の数が少ないところでは、1万3千の教会があると言う事は大きな数に見えるようだと

思います。想像します。しかしながら、1万3千と言う数はわれわれが本当はもっとでっ

かいんだと思っていた事から比べますと遥かに小さな少ない数であります。ガスペルアド

ヴォケイト社が去年発行致しましたものがございますが、それは全世界のキリストの教会

の住所録とアメリカ合衆国におけるキリストの教会の住所録でございます。まあ興味深い

事にアメリカ合衆国における教会の数とアメリカ合衆国以外の世界におけるキリストの教

会の数は大体殆ど同じという事です。で、アメリカ以外の世界には大体1万2千のキリス

トの教会があります。そして、アメリカでは1万3千の教会があります。で、合計致しま

すと、大体我々と同じようなこの群れが2万5千世界にあると言う事であります。これか

ら申し上げる事でですね、アメリカ合衆国以外でキリストの教会の数が多いところ今から

申し上げます。インド、アフリカのナイジェリア、アフリカのマローウェイ(マラウィ)

そこには数百あるいは千を越えるキリストの諸教会がございます。まぁたいへん悲しい事

でございますけれども、アメリカにおいてはキリストの教会はそんなに思ったほど多くは

ないし、そんなにたくさんの人をバプテスマしていないという事実でございます。Bの2

に書いておきましたけれども、テキサス州のヒューストンに私の個人的にしたしい伝道者

の友達がおりまして、彼が大変な伝道者でありますけれども、家庭集会などを開いてたく

さんの、何百人という人をバプテスマしておりましたけれども、今日はそうではありませ

ん。で、彼が言うには20年ほど前と比べてみると今日アメリカで一人にバプテスマする

ということはかつての20年前と比べると10倍も難しくなったと彼がつぶやいておりま

した。で、アメリカの多くの人々はですね、お金を儲けることが中心となってしまって、

物質的なものにとり憑かれてしまって、この聖書の基準と言うことが殆ど意味をなさなく

なったようであります。私が思いますには皆さんがたもその中の一部分、同じような傾向

を担っていらっしゃるんではないかと思います。しかしながら、まぁそれが今日アメリカ

における一番大きな問題の一つだと言う事を指摘したいと思います。我々がもう一度再び

どう言う風にして人々を主に導いたら言いかと言う事を見付け出さない限り段々と我々の

教会は自ら死に至ってしまうでありましょう。

  3番目の問題は我々がどう言うふうにして神のみ旨を知り、またどのように神のみ旨を

理解したらいいかと言う質問であります。で、まぁ昨日の夜のお話の中にもご質問がござ

いまして、どうやって神様のみ旨を知ったらよいかと言う事がございました。聖書の中に

ある種の事ははっきりと書かれておりますので聖書を読む私たちがそれが神のみ旨である

あると言う事を確信を持って言える事もございます。で、また、聖書の中にはいくつかの

教えがあるわけでございますけれども今日では当時の2千年前と比べてみますとそんなに

その教えがはっきりとしてないものもございます。例えば、婦人の教会における地位と言

うものが2千年前と今日とではですね、彼女がどう教会の中で、公の席でどうあるべきか

ということを、どうしたらいいかと言う事については当時と今とでは違ってきているよう

に思います。それでありますから、アメリカの兄弟たちは教会ではその事についてしんけ

んな討議がなされております。で、昨日私が申しましたようにこのギリシャ語の専門家に

よってこの問題が今日たたられ討議されております。で、アメリカの真面目な兄弟たちの

中に、学者の中には我々がどう言うふうにして聖書を、み言葉を理解していったらいいの

か、神のみ旨を理解して言ったらいいのかという事を真剣に考え、悩んでいる人がおりま

す。我々が為す事、何事においても我々はもう決定的な、もう最終的な権威というものを

持っていなきゃならないと言うふうに聖書と言うものを理解しています。で、私は勿論非

常に個人的にも深く信じております。聖書の中にははっきりと教えております。命令と、

それからそれの一つの例、例え、そして、それの影響力というものを聖書の中にございま

す。教えています。それはCの1でございます。で、私はCの1に書いておりました事を

深く信じております。まぁそれを深く信じている事と別にですね、それにもかかわらずど

ういうふうにしてこの神のみ旨というものを理解したらいいかと言う事とはまた別の問題

であります。どちらの命令が、教えが我々に適応され、またどちらの命令が我々には当て

はまらないのかと言う事がございます。パウロはお互い兄弟たちが清いキスを持って挨拶

しようと言っています。私はこの通訳者にキスをしなくちゃぁならないんでありましょう

か。その命令は今日の我々に適応されるでありましょうか。まだその他にもどちらの命令

がこの我々を縛り付ける、支配するものであるかどうかという問題があります。で、もう

我々はずーっと昔から聖書に戻ろう聖書に戻ろうって言っていた訳でありますけれども、

じゃぁ、どっちのこの教えに我々はこの戻るのか、どれが我々を縛りつけるのかという事

になる。そういう問題があります。聖書が確かにこの命令でもって我々を教え、また、色

々な例をもって我々を教えていることを私は信じています。しかしながら、私が心の中で

葛藤する問題は、苦しむ問題は、じぁどっちの戒めが、どっちの例題が私にとって私を縛

り付けるものなのかと言う事であります。我々の復帰運動の初期の指導者たちも、その場

所、その事においてやはり問題があると言う事でずいぶん悩んだはずであります。Cの1

の真ん中辺り、トーマス・キャンベルさんの宣言と挨拶と言う中で聖書が我々にですね、

はっきりと教えているものでなければどうしたらいいんだろうかってことを彼自身も問い

かけて悩んでおりました。そのおやじさんの悩みを、苦しみを息子のアレキザンダーが知

った時、彼が曰く、聖書の中には多少の曖昧性がある、曖昧なところがあるとこの息子が

言っております。で、それから以降ずっと私たちがみ言葉の学びを続ける時のこの問題が

いつも私たちにくっついてきている訳であります。この一時的なもの、あるいは文化的な

ものとそれとまた別にとこしえに我々を、永久に我々を結び付けるものとこの二つの違っ

たものをどういふふうにやって見分けるかと言う問題ですね。それはそれを答える時には

とても難しい問題であります。で、新約聖書の教会のメンバーでありたいと願う者は誰で

あっても必ずこの問題に当面する訳であります。で、この問題に当面する時に2つの大切

なものがございますので私はここの書いておきました。まずこのCの2でありますけれど

も、一番下でありますが、1ページの、み言葉の学びをするときには我々は真剣に聖書と

言うものの釈義と言いますか、聖書を解釈する時に聖書が正確に何を教えているかと言う

事を学ばなきゃぁなりません。伝道学院、皆さんがたが始められた伝道学院においてその

最初から聖書の言葉、言語を教えられ始めたと言う事をとても感謝しています。川崎浩兄

弟がですねこの伝道学院の最初の生徒さんになられた時から、最初からギリシャ語とヘブ

ル語をやらされていることで私はもう喜んでおります。同時にその2つの難しい言葉を、

言語を学ぶと言う事は大変な彼にとっては重荷であるはずです。しかしながら私が皆さん

が他、そして浩君に申し上げたい事は聖書の言語をよく勉強して、そのことによって聖書

を正確に聖書の教えを釈義してほしい、解釈してほしいという事であります。それが我々

の復帰運動の中心的課題でありまして、聖書は何をそこで言おうとしているのかという事

を捜し出す事です。先ずその次に私が申し上げたい事は最初のものをこの最初に持って来

なきゃぁならないと言う事であります。それは2のBに書いてある事で、それはイエス・

キリストとその死と、埋められた事と、そしてその甦りという事を我々の宣教の中心課題

にしなきゃぁならないと言う事であります。コリント第1の手紙の第15章です。パウロ

はコリント第1の手紙の15章の3節から8節の中でイエス・キリストの死と、その埋葬

と、そしてその甦り、復活と言う事が一番大切な福音の中心課題だと申しております。多

くの問題があるわけでございますけれども、そういう質問に対してはこの福音の中心的な

課題関係で考えられなければならないと思います。で、例えば、私が信じております事は

バプテスマと言うもの、水に浸すと言う事はこの主イエス・キリストの死と埋められたと

言う事と甦りと言う事との関係に直接この関わっている問題だと思います。我々がバプテ

スマ致します時に、我々はそこでイエスの死と埋葬とこの甦らせた事を思いながら我々自

身もその主の死と、埋められる事と、甦られると言う事と自分自身とを同化させるわけで

ございます。そいういうわけでございますから、私はバプテスマと言うものは非常に大切

なものであって、それは世界中何処へ行っても人々を縛り付ける大切な聖書の教えだと信

じております。私たちが一所懸命努力した後で疲れ切ってしまってですねどっちが大切な

教えで、どっちが関係のない教えであるかってな事が分んなくなってしまうようなことが

ございます。だけれども、ここでもう一度申し上げたい事は、聖書を真剣に追い求める人

は必ず同じ質問にぶつかると言う事であります。

  次の質問、2ページのDにいってみましょう。で、私たちの復帰運動と言うものは2つ

の、この二又の道を行ってしまった訳でありまして、極端な律法主義と、極端な自由主義

の中の道に分かれて行ってしまいました。Dの1に書いておきましたけれども、復帰運動

というものは教会の歴史、2千年の中でどっちか極端な方に行ってしまう傾向がありまし

て、その真ん中、中庸の道を見出すという事がいつも困難であるという事をこの歴史が教

えております。私たちがいつも言います事は我々は聖書に忠実でなきゃぁならないし、聖

書の言う事は従わなければならないという事をいつも言っている訳であります。しかしな

がらそういう事を言う事によって我々は律法主義になってしまって、そしてつまんないよ

うな小さな事を突っつくような事になってしまいました。昨夜お話し申しましたけれども

イギリスにおいて、グレートブリテンと言う言葉をお使いになりましたけれども、イギリ

スっていいましょうか、そこでトーマス・キャンベルさんたち、アレキサンダー・キャン

ベルさんたちよりも前にもこの復帰運動があったと言うお話をしました。当時、その当時

ですね、イングランドとスコットランドにおいてはその運動はこの非常に大きな力に成長

しようとした事がございます。しかしながらその運動はいつの間にか死んでしまって、完

全に消え去ってしまいました。どうしてでしょうか。で、それは彼らがつまんない、もう

全く価値のないような物に捉われてしまって、そればっかり突っつき始めてしまって、非

常に福音、キリスト教の大切なこの教えと言うものすっかりと見失ってしまったからであ

ります。例えば、お互いに清いキスをするとかですね、あの足を洗うとか、こんな事にこ

だわりました。そして教会でお互いに足を洗い始めました。そしてまたある人達は祈りと

執り成しをしなければならないと言う事にこだわりました。ですから教会に行ったら先ず

祈らなきゃぁなんない、神様に先ず教会で祈りから初め名きゃぁならない、そういうよう

に主張し始めました。祈りの代わりに先ず讚美をするなんて事は聖書的でないと言い出し

ました。で、そういうふうなつまんないことばっかりにお互い言い合いしているうちに彼

らは皆自分でこの首吊ってなくなっちゃた訳であります。で、これがそのようなつまんな

い律法主義、つまんないことにこだわってしまうという事で律法主義に陥るということが

復帰運動の一つの恐ろしい罠であります。でありますからこの我々のアメリカの、我々の

兄弟の一部はそのような方向に向かっております。それと今度は別に、反対の方向に向か

うリベラルな自由主義という問題があります。皆さんがたの多くは覚えて、知っていらっ

しゃると思いますけれども今世紀、20世紀の初めにドイツからやって来た学問がござい

まして、そして聖書の非常に大切な教えの殆どを否定するようなそういう教えがドイツか

ら入ってまいりました。で、そのドイツから入ってきた教え派ですね、聖書の霊感説とか

聖書の奇跡、例えば処女、乙女から生れたとかですね、そういうような事をみんな否定す

るようになりました。しかしながら私が申し上げているリベラリズム、自由主義というも

のはそのような事を申し上げているのではございません。しかしながらそういうふうな影

響は我々の復帰運動の一翼を担って、一番左翼のデサイプルス・オブ・クライストの人達

を我々の運動から遠ざけてしまいました。で、まぁ、クリスチャン・チャーチの中で特に

デサイプルス・オブ・クライストという我々の群れの一番の左のグループはアメリカ合衆

国において最もリベラルなグループになってしまいました。彼らが信じていると言ってい

る聖書は我々が信じているような意味での信じ方では全くなくなってしまっています。そ

れにもかかわらず、彼らの先祖っていうのはは我々のやって来たと同じ先祖、ルーツから

出てきている訳であります。2ページのDの2番に二人の(これはクリスチャン・チャー

チとおしゃいましたけれどもデサイプルスのことと思いますが)ニ人の有名な方の言葉が

ございます。「20世紀の聖書研究の、学者たちの諸研究というものと歴史家の勉強と言

うものが(テープ中断)この復帰運動と言うものは、もはや我々にとってもうどうでもい

いことだと、デサイプルの殆どの指導者たちは私たちが信じているような意味で聖書の霊

感によって書かれたと言う事を信じておりません。彼らは聖書が新約聖書教会の規範であ

ると言う事も信じておりません。それですから、バプテスマ、あるいはこの水につかると

言う事は価値は全くなくなって彼らにはしまいました。それは彼らのその自由主義と言う

ものは、この極端な例でありまして、それらは私たちにとっては決して恐怖ではありませ

ん。しかしながら、このDの3にかけまして書きました聖書の権威と言う事についてのリ

ベラルな考えというものは我々にとっては問題だと思います。この規則を守り、掟を守る

と言うことを嫌がる傾向であります。例えば、その聖書の教え、バプテスマというものが

あるいはその教えがそんなに大切なものであるか、そんなことについてのことでグチグチ

と言い出し始めているわけでございます。で、我々の仲間中にもそちらの方向に向かう兄

弟たちがおりまして、私はそういうふうな傾向に対して非常に心配をしております。で、

また我々のこの4番目にですね、律法主義と言うものが反対の、また極端な方向にも行っ

ております。その人たちが主張します事はこの聖書の律法一つことごとくですね守る事を

要求して全く同じように物を見なきゃぁならないっていうふうに向こうは主張するわけで

あります。そしてこのすべての、例えば意見ていうようなものも信仰とすり替えられてし

まってですねそして彼らは非常に他者を、他人を裁く様になり、また分派を生むようなグ

ループになりつつあります。で、それらの兄弟たちにとっては小さな、どうでもいいよう

な事に小さな事にこだわってしまって主・キリストとその十字架を見失っております。今

日、アメリカの復帰運動の中には、こういう2つの極端な傾向があるという事でございま

す。で、私の信じております事はこれらの両極端は危険な物でありまして、そのどちらで

あっても我々の運動を押し潰してしまう危険性を持っていると言う事を申し上げたいと思

います。私が見るかぎりこれらは非常に大きな問題だと思います。

  しかしながら、我々のこの第3番目、2ページの真ん中辺りでございますがこの肯定的

な面、我々の強さ、我々の持っている可能性と言う事を考えて見たいと思います。もっと

あるんでありますが、私はその中のごく一部を簡単にこの皆さんと学んでいきたたいと思

います。私が信じております事は復帰運動の訴えには大きな、偉大な力があると言う事で

ございます。主のお助けで、我々はますます主にとって、より良き僕になって、仕えて行

くことが出来ると言う事を信じています。それはここに私が見るかぎり、そういうものが

ここに私は箇条書きにしておいたわけであります。我々は聖書の人々でありまして、我々

は聖書の信仰をおまけする、ゆるめる何て事はありません。我々の偉大な力と言うものは

み言葉にあって、我々はいつも、絶えず絶えず絶えず聖書にこの従おう、聖書の権威を認

めようと言う事であります。それからまた次にBでございますけれども我々の復帰運動の

訴えに対して我々自身がそれに私たちはもう自分を委ねきって、そしてこの世俗的な世界

にあって我々は宗派に属さないキリストの弟子になろうという事を主張し続けていると言

う強さであります。デサイプルスの人達は私たちの復帰運動の訴えを全く投げ捨ててしま

いました。彼らが認める事は我々はもう新約聖書教会を実現しようって事は諦めてしまっ

たという事を言っています。しかしながら我々は、この復帰運動の訴えを信じ、また、そ

れに私たち自身を委ねて全力を尽くしているわけでございます。今日、3番目は我々はで

すね、かつて我々が説教したような事じゃなくてもっとバランスのとれたこの説教を、説

き明かしをしていると言う事であります。で、先ず我々は例えばパウロがコリントの第1

の手紙15章の3節から8節で先程も申しましたように、申しておりますように「キリス

トと、その十字架の死と、埋葬された事と、キリストが甦り給うた」と言う事を我々のメ

ッセージの中心的な物にして、それとの関係においてバプテスマと言う事を語ろうとする

ようになっております。私が若かった頃、振り返ってみますと私たちの聞いた事、また教

会の語った事はいつもバプテスマ、バプテスマ、またバプテスマだけでありました。私が

若かった頃に聞いた先輩の伝道者、説教者たちはこの人々、他の宗派の人を責めて判決を

下して彼らが何処を間違っている、こう間違っているとこういう事ばっかし説教しており

ました。私が聞いた殆どの説教ってものはそういう意味において否定的な説教だけであり

ました。しかしながら今日、我々のみ言葉の説き明かしはもっとバランスの取れたものに

なっていると言う事を信じております。今日ではこのバプテスマをあんまり強調すると言

うよりもイエス・キリスト、そして十字架、そしてそのキリストに従うと言う事が一体ど

う言う、キリストの弟子になると言う事がどう言う事なのかと言う事のほうをもっと強調

していると思います。バプテスマはもちろん重要な事でありまして、わらしたちはそのこ

とを説かなければなりません。多くの宗派は間違った事を教えておりまして、私たちはそ

れに対して反対しなければなりまりません。しかしながら、聖書の中には聖書のすべての

善き真理と言うものがあって、それを私たちが説教、説かなければならないと思います。

過去においてなされなかった事でありますけれども、今日においてはイエス様と言うもの

をメッセージの中心においている傾向があります。でありますから私たちの今日の説教と

言うものは、バランスがもっと取れていますからより聖書的なものであると言う事を私は

信じております。

  4番目に私は、この1番2ページの下でありますけれども、私たちはもっと伝道と言う

事と、成長と言う事を語りたいと思います。悲しい事でありますが、先程申し上げました

ようにアメリカの教会は成長しておりません、伸びておりません。我々はその事に無関心

でいるわけではありませんで、非常に心配しております。キリストの福音をもって人々に

どういうふうにやって近付いて行ったらいいかと言う事を真剣に悩んで学ぼうと努力して

いる説教者がたくさんおります。今日アメリカでは何とかして私たちももっと伝道的にな

って、どうやって人々にキリストのこの福音を伝えて行ったらいいかということを真剣に

なっております。アメリカ以外において人々が福音に飢えている人がたくさんありまして

私たちそういう人たちにどういうふうにして福音というものを持って近付いたらいいかっ

て言う事を模索しつつございます。東ヨーロッパやロシアにおいて起こった一連の出来事

というものは私たちに福音を提供する機会を与えているわけでございますね。我々の生き

ている、目の色がまだ黒い時にこのような事が起こるだろうっていう事を誰が想像した事

でありましょうか。そのような事は考えられなかった事であります。鉄のカーテン、また

ベルリンの壁がこの壊されるなんて事を誰が想像すらした事がありましょうか。今日そう

いう訳でありまして、福音を伝達する可能性が世界中にひろまっているわけでありますか

らアメリカの兄弟たちはそれを、そのチャンスを、機会を利用しようと今しています。我

々の教会はアラスカに短波放送局を持っておりましてロシア語や中国語でもってそれらの

言葉を語る方たちに、人々に対して福音を伝えようとしております。そして今日ロシア全

土においてですねロシア語で、またラジオでこの福音の伝道をしております。で、もう何

千通、何万通という手紙がですねロシアから来まして福音と言うものを知りたいと言う手

紙が来ております。共産主義と言うものがなくなってしまって、崩れ去ってしまって、そ

れでは彼らにとって生きると言う事の意味と言うものを彼らが真剣に模索し始めたのでご

ざいます。それに対して、私たちは聖書を、み言葉を答えとして提供しようとしておりま

す。我々の中の兄弟のある人達はロシアのキエフに行きまして、そしてこの聖書を差し出

してその彼らの答えに、質問に答えようと致しました。キエフで夜説教しただけで27名

の方がバプテスマされました。アメリカにおいてはそういうわけで、バプテスマの数が少

なく成長する事が遅いわけでありますけれども、なんとかしてアメリカ合衆国、また世界

全土において福音を再び伝えて伸びようとする努力をしております。

  火を消して、暑すぎるので。コートを脱いで、眠くなるかも知れませんから。(私が脱

いだのは通訳者が勝手にするわけには行かない、この先生が脱がれたので私も脱がないと

いけない・・・。この方はテキサスから見えたのでホットマン・・・)(一同の笑い)

  3ぺージ目でございますが。3番目の一番上でございますが我々の教会に人々は今まで

やった事のないような伝道方法、奉仕方法を学びつつあります。というのは、奉仕する、

仕えると言う事においてキリストの弟子になる事を学びつつある訳であります。多くのア

メリカの教会では、貧しい人々、苦しんでいる人々、虐げられた人々、あるいはこの独身

の人々、家庭崩壊の中に巻き込まれてしまった人々たちに伝道をしようとしております。

私がおりますテキサス州のアビリンにおいては13のキリストの教会が共同致しまして、

クリスチャン・センターと言うものを作って、貧しい人々に近付こうと、奉仕しようとし

ております。で、貧しい人々に衣料品と、医療品都、また食べ物などを提供しようとして

おります。アメリカ合衆国の大統領、ジョージ・ブッシュさんが、このクリスチャン・セ

ンターに手紙を出して、良い仕事をしてくれていると励ましと感謝の手紙をくれました。