House Churches and the Lordfs Supper

 

家の教会と主の晩餐

 

                                                      ジョン・マクレイ

                                                      野々垣正信

 

      教会の最初の300年間において、つまりコンスタンテヌスの時代の前における教会の設立と広がりは、教会の建物の建築する事なしに成就されました。1世紀での教会という言葉は、銀行の口座、保険、電話、住所、教会の看板などのもった建物をさしているのではありません。キリスト教は、社会の中で受け入れられていましたが、その存在は最初の300年間は、313年のミラノ寛容令までは、認められませんでした。そして、財産を持つ事はありませんでした。

      その一方でユダヤ教は、公的に認められていた宗教でしたので、ローマ帝国の始めの時から、財産を持つ事を許されていました。ユダヤ人のグループは法的な目的のためにコレギヤとして区別され、他のクラブ、ギルド、組合と共に保護されていました。ユリウス・カイサルは、長い歴史を持っていないグループを解散させるように命じた時、ユダヤ人のグループ(集会)はこの解散命令から公に免除されました。クラウデイウス皇帝は、パウロが宣教している頃 (起源後41年頃)、ギリシャ人に与えているようなローマ市民の権利をユダヤ人に与えませんでしたが、ユダヤ人の家庭内での宗教を守る権利を認める法律を作りました。デイアスポラにあるサルデス、エペソ、他の都市の記録によれば、ローマ帝国はコンスタンチンの後までユダヤ人たちに対し一般的に好意的に対処していました。古代の碑文、筆跡、そして新約聖書(使徒行伝18:7)は、1世紀のユダヤ会堂について触れています。イスラエルにおける考古学の発掘によれば、ガムラ、カペナウム、マグダラにおいて、1世紀のユダヤ会堂の跡を見つけ、ヘロデイウム、マサダにおいても、建物が同じようにユダヤ会堂として使われていたのが見つかりました。

    キリスト教への最初の改心者はユダヤ人でした。ユダヤ人たちが、イエスをメシヤとして受け入れた時、彼らはユダヤ人会堂に集まっていました(使徒行伝18:26によれば、イエスキリストを受け入れたアポロはエペソのユダヤ会堂でイエスについて話しはじめ、プリスキラとアクラはそこでアポロの言葉を聞いたとあります)。パウロは、ユダヤ人のクリスチャンを会堂から追い出し監禁するためにダマスコに行きました。ルカは、次のように書いています。「パウロはダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば、男でも、女でも、見つけ次第、エルサレムに引いて来るためであった。」(使徒行伝9:2)

    会堂でのクリスチャンの存在は、ヤコブの手紙2:2でもふれられています(ある翻訳で集まりと訳されている単語は、ギリシャ語で会堂の事です)。クリスチャンは、会堂の代わりになる建物を持っていませんでした。そんなわけで、彼らは家庭で集会を開きました。テトス・ユスト(後にクリスチャンになったと思われる)は自分の家が会堂と隣接していました。テトス・ユストのような人々は、神様を敬い会堂の集まりに出ていたのでしょう。そして、自分の家にパウロと他の人を招待していたのでしょう(使徒行伝18:7)。会堂管理者クリスポもたぶん自分の家族とともに礼拝するようにと他の人々を招待していたのでしょう(使徒行伝18:8)。会堂の集会に出席していたプリスキラとアクラもエペソ(1コリント16:19)で、後にローマ(ローマ16:5)で家の教会を守っていました。それは、ちょうどピレモンがコロサイで(ピレモン2)、ヌンパがラオデキヤで(コロサイ4:15)家庭教会を守っていたのと同じです。初期のクリスチャンの集会は、社会を形作っている基本的な単位である家庭と密接な関係にありました。

    都市における教会の一部となった個人の家庭は、クリスチャンの広がりの基本的な核になりました。新約聖書には家族全員がクリスチャンになったという記録が(使徒行伝16:15、33;18:8;1コリント1:16;16:15)数回残されています。そしてこれらの家族が、家の教会の核になっていきました。中には教会全体が、1人の家たとえば、ガイオのように集会のための大きな家を持っていた人の家に集まりました。(ローマ16:23)ガイオはパウロと教会全体をもてなしました。パウロはその事について、1つの場所で教会全体が集まり神様を礼拝したと書いています(1コリント14:23)。これは、複数の家の教会の合同礼拝でしょう。

    新約聖書では、このような合同の礼拝は触れられていません。ユダヤ人の会堂の集会と共に考えあわせますと、はっきりと書かれてはいませんが、クリスチャンは毎回主の日に集り礼拝していたと考えられます。このような礼拝は週の初めの日にトロアスで行われ(使徒行伝20:7)またコリントでも行われています(1コリント16:1~2)。家の教会は、疑いもなく毎週日曜日にまたは他の日にも集まり礼拝していました(使徒行伝2:42~46;5:42)。多くの人たちを納めるだけの大きな公共の施設と建物を見つけ出す事は、クリスチャンにとって非常に難しかったのです。時に行われた野外での集会は、寒い冬において満足できるものではありませんでしたし、また彼らのニーズの根本的な解説策にはなりませんでした。

      愛餐会または親睦を深める為の食事会の準備と食事をする事が出来るような施設を見つける事の必要性によって、この問題は増長されていきました。ある家庭では、このような食事会を持つ為に必要な台所を持っていました。親睦のための食事会は、古代ギリシャ・ローマ社会において非常に一般的なものでした。これらの食事会は異教の寺院で行われ、異邦人たちのクラブまたはボランテイアーの組合は、日常、これらの親睦の食事会に参加していました。ユダヤ人の会堂も親睦の食事会を開いていました。ユダヤ教の主な祝祭は、各家庭でとりおこなわれ、割礼、婚約式、結婚式、また葬式は会堂でとりおこなわれました。パウロによって宣教された人々は、ユダヤ教か異教にかかわらず、家庭内での親睦の食事会に集まるグループについてよく知っていました。

      主の晩餐は、裕福な個人の家をもてる家庭で30人から50人のクリスチャンが集まり挙行されていました。または、数階建てのアパートの部屋に住んでいる貧しいクリスチャンの10人から15人のグループによって主の晩餐はとられていました。これらの親睦の為の食事と主の晩餐がどんなであったかを説明する前に、中流家庭の人たちが現代と同じように大きな個人の家を持っていたというような誤解を避ける為に、新約聖書の時代では、住まいがどうであったかを最初に説明する事が必要でしょう(訳者注:ジョン・マクレイ兄が、中流家庭といっているのはアメリカの中流家庭を指しているものと思われます)。

      ローマ帝国では90%以上の自由市民と90%以上の奴隷は、何階か建ての非常に混み合った小さいアパートに住んでいました。ローまでは、ローマの人口の3%の人だけが自分の家を所有していました。ポンペイでは、住宅地域の10%だけが、個人所有の住宅の地域であった事に、私自身、非常に驚きます。ローマの港町であるオステヤでは22の個人の住宅がありました。

      ローマ帝国においてポンペイ、ヘラークレス、エペソ、他の多くの都市での考古学の発掘から、ほとんどの場合、大きな家では中庭または食卓に50人ぐらいの人たちを収容出来たのではないかというのが私の印象でした。ローマ時代の建物は、道に向かって強固な壁を造って建てられ、安全の為に窓はありませんでした。部屋は、中庭のまわりに造られていました。この中庭だけが、家の中でプライベートでない場所ですから、中庭でクリスチャンは集まり礼拝していたのです。クリスチャンになる前、これらのローマ人やギリシャ人は中庭で異教の神々を礼拝していました。家庭での先祖の偶像と守護神偶像を掲げてある中庭は、伝統的な家族の礼拝の場所であり、また仕事上または政治的な顧客を接待する場所でした。

    既に述べましたように、初期の教会では、ほんのわずかの人が裕福であり、家庭内において集会を開けるほどの家を持っていた人たちはわずかでした。都市にいたほとんどのクリスチャンは社会の貧しい階層の人たちであり、10―15人が集まれるような非常に小さなアパートで集会を開いていました。これらの住宅街は非常にごみごみしており良い地域でありませんでした。1階は店舗がはいっていました。2階と3階は住まいとして使われ、2階は3階よりも割高の家賃を払える人が住んでいました。というのも3階は2階よりも階段を駆け上がるぶんだけ家賃が安くなり、それ以上の階に住んでいる人たちは非常に少ない給料でまかない貧しく暮らしていました。このような建物では、1階に高い家賃を払える人が借り、一番上の階は30平方フィートのような小さな住居に貧しい自由市民または奴隷たちが住んでいました。

    これらの建物には、暖房設備、水を使える設備、トイレの設備はありませんでした。このような建物に住んでいる貧しい人たちは、都市によって供給されているトイレを使っていました。ランプで明かりを保っていましたが、ランプからは煙が立ち込めるようになっていたのです。このように1日働いた後の夕方の礼拝は、環境的に信者にとっては楽なものではありませんでした(たとえば、使徒行伝20:7では、パウロは夜中まで語り続けたとあります)。使徒行伝20:8―9が言っているように、つまり灯火がたくさんともり、ランプから出る煙はひどいものであったでしょう。疑いもなくこのような状況の中で、ユテコは主の晩餐が行われている夜、3階の窓から眠り落ちたのでした。3階の窓の所に座っているにもかかわらずユテコは眠ってしまったのです。集会の場所は暑さと空気の悪さの為に窓を閉め切っておくわけにいきませんでした。このために商人たちが石畳の道を通っていく大きな音を、その結果、遮断する事は出来ませんでした。商人たちは、夜、荷物を運ぶ時は、路地を通るように法律で決められていたのです。

    ローマ帝国でのこのような住宅環境を考慮すると、家の教会が、今日の中産階級で行われていたとは考えられない事は明らかです(訳者注:この場合中産階級とは、アメリカの中産階級を指しているものと思われます)。今日の中産階級のようなものは、存在していませんでした。教会が集まれるような大きな家を持っていた人はほんのわずかの裕福な人たちだけでした。都市のほとんどの教会は、借用の建物の小さなアパートを使って小さいグループで集まっていました。1コリント14:23に「もし教会全体が1か所に集まって」と言われているように、特別な時に一緒に集まって礼拝をしました。クリスチャンがアパートで大きな集会を開くようになった時に、社会的な慣習に従って家庭で開かれてた時の女性の自由な役割と責任がなくなっていたと思われます。この2種類の集会の明らかな違いは、家庭での小さな集会では、女性が食事をだす大切な役目を女性だけがやっていたとしなくても持っていた事です。

    3種類の食事が初期の教会ではとられていたようです。1番目は、健康と栄養のためにとられていた食事です。2番目は、霊的な一致をはかる為の一緒に食事をする愛餐です(ユダ12)。3番目は、主の晩餐です。主の晩餐は、愛餐の一部としてとられていました。これは、新約聖書で教会が主の晩餐をとっていると、唯一、語られている1コリント10章と11章の大切な背景になります。

    アパートでは住民は共用の台所を使っていました。またある住民は小さなアパートの中で火鉢を使って料理していました。このような状況下で、女性たちは食事を準備し、出しました。小さなグループが、大きな集会に参加した時は、多分、女性が引き続き食事、主の晩餐を含めて準備したと思われます。そしてその主の晩餐は、愛餐の間にとられていました。愛餐と主の晩餐をはっきりと区別する事は、主の晩餐の理解において誤りです。パウロは1コリント11:20―22で次のようにいっています。「しかし、そういうわけで、あなたがたは一緒に集まっても、それは主の晩餐を食べる為ではありません。食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。飲食の為ならば、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何といったら良いでしょう。ほめるべきでしょうか。この事に関しては、ほめるわけにはいきません。」

    ギリシャ語では、「主の」という言葉と「自分の」という言葉が、強調されています。大きな近代的な教会の建物での礼拝において、主の晩餐の意味について理解しないがために主のみからだをわきまえていなかったという事が、コリントの教会の問題ではありませんでした。11章29節のわきまえる(diakrinon)という言葉は見分けるという意味です。コリントのクリスチャンは同じ時にとられていた愛餐と主の晩餐を見分ける事を怠った為に、その飲み食いが自分を裁く事になったのです。主の晩餐は、一般の食事がとられるという状況下においてとられていました。これは、状況的な推論です。大きなグループが裕福な家でまたは、借りた設備を使って集まった時に、主の晩餐が誤用されていたというのがコリントの問題であったように思われます。

    第一に、裕福な教会員の家での集会では、その社会のエリート、つまり裕福で社会的に影響力のある人たちは、食卓に座り上等な食事をしていたと思われます。身分の低い人たちつまり奴隷や自由市民は、中庭で程度の悪い少ない量を食べていたのでしょう。それで、より貧しい人たちが愛餐に来て中庭に入った時には、もう食べ物は残っていなかったのです。他の人たちが、もうすでにすべて食べてしまっていたのです。遅く来た人たちが空腹な時に、ある人たちは酔っていました(1コリント11:21)。

    ですからパウロは1コリント11:33―34で次のように教えています。「ですから、兄弟たち。食事に集まる時は互いに待ち合わせなさい。空腹な人は、家で食なさい。それは、あなたがたが集まる事によって、裁きを受ける事にならないためです。」愛餐の目的は空腹さを満たすためではありません。テーブルのまわりを囲みいっしょに食事をとる事によって一致の和を分かち合ったのです。イエス様はルカ22:30で弟子たちに「それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓について食事をし」と言っています。だから空腹な人は自宅に帰り食事をして、むさぼるように食べて酔っぱらう異教の食事会のようにすべきではないわけです。しかしこのように行動する事によって主のからだと血に対して罪を犯すことになり自分を裁く事になります(1コリント11:27―29)。ですから、ひとり一人が自分を吟味して正しく主の晩餐を区別すべきです。

    コリントのもう1つの状況は、借用の建物での集会でのことです。この場合、裕福な家での集会で信者の為に食事を用意するような裕福な接待する人はいません。商人たちは、借用の建物またはアパートの1階に住んでおり、これらの人たちが食事を出す為のお金をもっていました。しかし、非常に貧しい人たちは、何にも貢献できませんでした。これらの借用の建物に住んでいた貧しい人たちは、愛餐のためにお金を貯金しました。結果的にある人たちは、愛餐でいつもよりたくさん食べてしまいました。その結果、遅く来て食べ物も持ってこれないような貧しい人たちは愛餐から除外されてしまったのです。パウロは、主のからだでは、持っている者は持っていない者と分かち合うべきだとコリントのクリスチャンに教えています。

    ある都市では、アパートに住んでいるクリスチャンは空腹な兄弟姉妹に食事をしてもらう為に定期的にいっしょに食事をしていたと言われています。もし誰かが働く事を拒絶して、働く事ができない人と労働の実を分かち合う事を拒絶したら、そのひとは愛餐で食事する事を拒絶されていたでしょう。パウロと彼の同労者は、人のパンをただで食べる事はしなかったとテサロニケのクリスチャンに言っています。(2テサロニケ3:8)さらに9―10節で次のように言っています。「それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちに見習うようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。私たちは、あなたがたのところにいた時にも、働きたくないものは食べるなと命じました。」1個人が家庭で家族のひとりとして食事をしている場合は、このような教えは当てはまりません。愛餐の場合についてパウロは言っているのです。今日の教会が知り得る状況とはまったく違う事を私たちは理解し強調する必要があります。

    主の晩餐は1世紀から4世紀のほとんどのキリスト教の信者の間で、愛餐と共にとられていました。その4世紀に大きな会堂としての教会の建物の建設が始まり、聖礼典と礼拝式を重要視し、同時に交わりのための愛餐の重要な意味が少なくなりました。今日、キリストの教会のような反聖礼典的な団体でさえ、主の晩餐の聖礼典なアプローチは、初期の教会がもっていた交わりのための食事、つまり愛餐とのつながりを取り去ってしまいました。夕方の礼拝では、朝の礼拝で主の晩餐をとれなかった人たちが、夕方の礼拝の終わりに実質上、聖礼典としてとっています。このような状況下では、初期の教会が主の晩餐とともに理解していた、交わりの意味、お互いに受け入れる事の意味、キリストのからだに参加する事の意味、キリストのからだとしての和の意味は失われています。朝の礼拝で教会として主の晩餐をとる時でさえ、食事をいっしょにとっているという意味は失われています。このような事は、場所を家庭から大きな会堂に変えていった過程の結果です。

    クリスチャンは、もはや少数派の人たちを差別する事はありません。しかしおごり高ぶりに対して倫理的な利点は根底にはなく、しかも偽りの平等感をつくりだしています。この平等感は、アメリカ合衆国の最高裁判所によって法律によって決められたものです。本当の意味でのお互いに受け入れるという事は、法律で決められているような1つの建物内で一緒に座っているから来るのではなく、むしろ教会が終わった後、平等にいっしょに食卓を囲む事によって生まれてきます。主はこのような意味を主の晩餐に位地づけて制定したように、主の晩餐はこのような交わりとともに初期の教会でとられていました。1コリント10:17は次のように言っています。「パンは1つですから、私たちは多数であっても、1つのからだです。それは、みなの者がともに1つのパンを食べるからです。」

    さもなければ、主は銅でパンとぶどう液の像をつくって、クリスチャンが見るようにと教会の台座に置いたでしょう。それはちょうどイスラエルが荒野で銅のへびの像を見たのと同じです。これに反して、主の晩餐は交わりであり、それはいっしょに食べて飲む過程において参加するという意味です。初期の教会において、家の教会が物語っているように、主の晩餐は遵守するための記念ではなくて主のからだにいっしょに加わるための記念です。1世紀の家の集会の教会がこの点を明らかに示しています。

訳者注:原文にはいくつかの脚注があります。脚注についてのお問い合わせは野々垣まで。