《病室の窓の外の景色》

 

  二人の患者がある病院の二人部屋に収容されていたそうです。

一人の男性患者は毎日1~2回だけ上半身を起こすように勧められていました。

両肺に溜った液体を下に降ろすためです。  その人のベッドの横に窓が一つありまし

た。  二人の相部屋には外部を眺められる窓はこの窓の他にありませんでした。

 

  もう一人の男性患者はと言いますと、ずぅ~っと寝たきりの状態でした。

二人の患者は、何も他にすることがないので、どちらかが疲れ果てるまで、毎日毎日

お互いに話し続けていました。  両親のこと、生まれ育った故郷のこと、妻のこと、

子供たちのこと、家族や親戚のこと、仕事のこと、むかし服した兵役のこと、夏休み

に旅行した時のこと、趣味のことなど、教会のこと…他愛もないことが中心でした。

 

  窓際の男は、起こして貰って、窓を眺める時間が来る度に、広い外の光景を、もう

一人の寝たきりの男に詳しく縷々説明していました。  こうすることで、狭い部屋に

閉じ込められ、動けず、訪れる人も少ない二人の世界が、急に拡がるのです。

 

  窓のすぐ外には緑の芝生を奇麗に敷きつめた美しい公園があること、そこには池が

あること、池には可愛い鴨や鶩が泳いでいること、時には白鳥が姿を現すこと、鯉が

泳いでいること、子供たちが手作りボートを浮かべに来ること…などです。

  そして若い恋人たちが腕を組んで公園の池の周りを散策したりベンチに坐って何か

しら楽しそうに語らい合っていることなどです。

 

  またある時は、空に美しい虹が掛っていることや、季節ごとに種類の違った奇麗な

花が植えられて公園がいつも美しく映えていることなども説明していました。

  公園の遥か向こうには一連の高層建築群が聳え立っていることも詳しく描写してい

ました。

 

  こうして二人は長い長い、終わりのないほど長い病室の時間の一部を、自分たちと

外部とをつなぐことで、毎日毎日、何とか過ごすことができたのでした。

 

  窓際の男が毎日1、2回、外部の模様を詳しく説明している時、もう一人の寝たき

りの男は、じっと両目を閉じて、出来るかぎりの創造力を使って、外部世界の風景を

想像していたのです。

 

  或る春の暖かい日でした。  起こして貰った男は、窓の外の公園脇の道路に大勢の

人々が集まっている…と報告しました。  バンドが通ると言いました。  もう一人の

男には、楽隊の音をどういう訳だか聞けないのに、あらゆる創造力を使って、窓際の

男の詳しい説明を聞いていました。  子供の頃に自分も楽隊員だったこと、楽しかっ

たその時のことなどを思い出しながら…でした。

 

  その時、ある悪い心が寝たきりの男の心に侵入して来ました。  どうして窓際の男

だけが外の世界を毎日眺められるのだろう…、どうして自分だけがベッドに寝たきり

にされているのだろう…こんな不公平なことはない…。  突然このような思いがこの

男を襲ったのです。

 

  最初、男は、そのような自分の悪い心、悪い思いを恥ずかしく思いました。  然し

日が経つに従い、その思いだけが段々と強くなっていきました。  外の光景を眺める

ことができる隣の男が憎たらしくなりました。  そして、外を眺めることができない

自分がますます哀れに思えて来ました。

  このようなわけで彼は窓際の男に優しい言葉を掛けることができなくなりました。

憎悪の気持ちで一杯になった彼は、平常心を完全に失い、夜も眠れなくなりました。

 

  そのような彼の心の変化を知らない窓際の男は、相変わらず外の模様を説明し続け

ていました。  憎しみで一杯になった男の憎しみは益々加速していきました。

 

  ある夜のことです。  寝たきりの男が、いつものように、何もない白壁天井をただ

じっと見つめていた時に窓際の男が咳き込んでいるのに気がつきました。  肺の液体

が詰まって呼吸が困難になった模様です。  薄暗い部屋の中で、横目で窓際の男の姿

を見てみますと、苦しむ男は看護婦を呼ぶ緊急ボタンを押そうともがいていました。

 

  しかし、寝たきりの男は手を伸ばして自分のボタンを押すことをせず、唯だまって

窓際の男が苦しみもだえるのを冷ややかに眺めるだけでした。

  5分もすると窓際の男は静かになりました。  そして呼吸する音も聞こえなくなり

ました。  その夜は特に長い夜のように思えました。

 

  翌朝、巡回に来た看護婦が窓際の男の異常に気づきましたがもうすでに手遅れでし

た。  窓際の男の遺体は病室から運び出され、寝たきりの男だけになりました。

 

  数日後、寝たきりの男は、看護婦に窓際の方のベッドに移して貰いました。

外の景色を、何とか自分の工夫と力で見られるようにするか、誰かに手伝って貰って

眺めたいと考えてのことでした。

 

  それから幾日かして、寝たきりの男は全身の力を出して、少しずつ片腕を動かし、

上半身を起こそうと努力を続けました。  そして何週間もかけて、自分の片腕で自分

の体重を支えられるようになり、看護婦の目を盗んで、長いこと待ちに待った窓の方

を見ようとしました。

 

  そして、やっとのことで、窓の外の光景を見ることができる瞬間が来ました。

しかし、期待に反して、窓の外は暗い廊下の壁だけでした。  公園も池も高層ビルも

ありませんでした!  驚いた彼はボタンを押して看護婦を呼びました。

 

  『亡くなったあの患者さんは盲人だったのよ。  何も見える筈がありませんよっ』

『きっと、退屈しきっていたあなたを楽しませたかったので、いろいろなことを言っ

て、慰めてくれていたのよっ…。  だって、他人を幸せにすることって素敵なことで

しょう。  悲しみも辛いことも半分になるし、嬉しいことや楽しいことは二倍になる

んですものね。  あの亡くなった患者さんね、きっとそのことをよぉ~くわかってい

らっしゃたのよ。  きっとそうだったんだわ!』

 

 

          以上の話をずぅ~っと前にテキサス州アビリンで聞いたような

                記憶がありますので改めてここに紹介してみました

 

          英語で「贈物」のことをプレゼント (present)と言います。

  実はこの単語の別の意味は「今日、この瞬間」という「今」の時間を表します。

私たちも「今日」、「今」、「この瞬間」を「神さま」と「他者」と「自分」のため

に有効に使いたいものですね。  この三者の関係を正しく理解しないと楽しい感謝の

生活は不可能なのです。  自己中心は本質的に罪です。  罪のことを英語では sin

言います。  法律上の犯罪はクライム crimeと言いますが、sin は精神的・倫理的・

道徳的・信仰的な用語です。  神さまとの関係での言葉で、日本語にはありません。

 

  そして、英語の綴りをよく見ますと、sin のsとnの中央にアイ<I> =「俺・私」

があります。  まぁ、これは偶然のことでしょうが、俄か英語学者になったつもりで

「余言者」の「余言」で、無理を承知で、こじつけてみますとsは siblings です。

意味は「同じ両親から生まれた兄弟姉妹」です。  「同氏族共同体の一員」の意味も

あります。  そしてnは neighbor ネィーバーで「隣人」「近所の人たち」です。

  このように無理にこじつけて当てて見ると善いかと思います。  両者の間にいつも

「俺」がいて、「私」を主張するという姿勢です。  聖書的に言う「罪」です。

  このように、常に「俺・私」を中心に考えるのではなく、「俺・私」を常にすべて

のものごとの中心に据え置くのではなく、他の人々と共に存在していることを学び、

そのことを覚える必要があると思います。

 

  そして更に、私たちの日々を豊かにして下さっている人々や、そのようにしてくれ

ている沢山の物質を一つずつ数え挙げて感謝しましょう。(聖歌 604

 

  そう言えば、イェスさまは私たちを幸せにする為に十字架にかかられたのでした。

ロマ書1215節には『喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい』ともあります。

 

  イェスさまとその十字架を覚えると同時に、周囲の人々の事をも顧みる事ができる

人間に成長し続けたいのものです。  「神」と「他者」と「私」の三者関係を…です。