翻訳者からのメモ…(序文にするのか後書きにするのか決めていませんが)

 

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  フーグランド博士 Dr. Marvin P. Hoogland の「極めて良い論文がある」と初めて

知ったのは確か1998年の夏だったと思います。

 

  1920年代初めに茨城の水郡線沿線で宣教師の長男として嬰児期から育たれ、翻訳者

が私淑しているハリー・ロバート・ファックス・ジュニアー Harry Robert Fox, Jr.

師が個人的に『良い資料がある』と教えてくださり、『読ませて頂きたい』と返事を

差し上げたところ早速航空便でお送り頂いて手に取ったのが始まりでした。

 

  私が育ちました「キリストの諸教会」という教群にとって、考えてみたこともない

発想の論文でありましたので、読み始めた途端に戸惑いを感じたのは事実でした。

 

  また、北米キリスト改革派教会という教群に関して全く無知でありますので、論文

で使われている同教群を含めた長老教会の教会用語にも大きな戸惑いを覚えました。

  いろいろな英和辞書や英英辞典で調べてみましたがが、どちらの訳語を採用したら

よいのかで、ますます混乱してしまいました。

 

  加えて、複雑な文章構成の論文ですので、私の実力のなさも手伝って、翻訳作業を

ほとんど放棄してしまいました。  原稿を入手してから翻訳を完成させるまでに実に

6年余を要したというのはこれらの事情があったからです。

 

  本文の最初の方ですでに書いておきましたが、心理学者であり教会指導者でもある

著者が使われた二つの用語、すなわち complementary relationship symmetrical

 relationship を理解するのに初めのうちは相当に苦労しました。

  しかし、いったん教授のおっしゃりたい主旨を理解すればそれほど難解な用語でも

ありませんでしたが、それでも「補完関係」などという一種の造成語を考えだして、

それに説明を加えた上で、その言葉を使って翻訳作業を続けた次第です。

 

  ファックス師はこの原稿を私の母校でもあるロサンゼルス市郊外にあるペパダイン

大学院の心理学部長ボブ・ハランドDr. Bob Holland教授から受け取られました。

  シカゴで心理学の教授たちの学会があったときに、この論文が取り上げられて高い

評価を受けていたそうです。  論文を持ち帰られたハーランド教授は多くのコピーを

作られ、ファックス師を含めた「関心のある友人たち」に、「善い資料だよ」と配布

されたのだそうです。  数年も前の話でした。

  ファックス師が入手された時点で論文の後半部はすでに欠けてありませんでした。

翻訳中に私は文脈がどうもおかしいと感じ始めました。

  かねがね久しく私淑していましたトム・オルブライト教授 Dr.Thomas Olbricht

事情を説明しまして、北米キリスト改革派教会本部なりフーグランド教授に直接連絡

がとれないものであろうかと相談しました。

 

  オルブライト教授のご協力を得て、著者フーグランド教授に連絡することができ、

欠けていた部分の原稿を入手し、北米キリスト改革派教会についても懇切丁寧に指導

を受けることができました。

 

  北米キリスト改革派教会は、私が理解した限られた情報ですが、英国からオランダ

に一度移住した改革派信仰を信奉していた人々が、改めて新大陸・新世界に移住して

ミシガン州やシカゴ周辺に定着したことから同地域に根づいている比較的小さい教群

のようです。  28万5千人の会員を抱え、ミシガン州グランド・ラッピヅには教群

の大学 Calvin College があるそうです。  大学名からもカルヴィン主義に立脚した

群れであることがわかります。

 

  フーグランド博士は、シカゴ・クリスチャン・カウンセリング・センターの責任者

として多くの人々のカウンセリングを担当されておりますが、神学を専攻され、その

分野で博士号を取得された方です。  このことからもおわかり頂けますように、この

論文を発表なさるのにふさわしいお方だと言わなければなりません。

 

  論文の主旨からもおわかり頂けますように、神さまの主権をどのように理解するの

か、主イェス・キリストの十字架というものと神さまが人間の贖罪にどのように深く

かかわっておられるのかを、カルヴィン主義信仰の立場から学ぶことができる論文だ

と信じております。

 

  やがて私たちも考えなければならなくなる大切な課題を、それほどまで深く考える

ことをしてこなかった視点から示されているのだと、私個人は教えられました。

  論文が示している指針を、私たちが今まで考えてもみなかった御言葉の読み方を、

読者の皆さんが真摯に、また、謙虚に洞察してくださるように願うものです。

 

  最後に Synod, Classis, Consistory, overture, Church Order, Church offices

などという同教派の専門用語の翻訳に関してひとこと述べておきます。

 

  少し分厚い英和辞典でこれらの用語を調べてみますと、長老教会系統の教会だけに

通用するいくつかの邦語が羅列されています。  しかし、たとえば、シノードを総会

と訳せばよいのか大会と訳せばよいのかを知ることは困難でした。

  オランダ経由の改革派教会と英国から直接に新世界に移住して来た改革派教会では

シノードひとつにしても、日本語では、「総会」とするものと「大会」とするものが

あるようでした。  この群れに属していない私にはどちらを選べば良いのかで戸惑い

ました。

 

  この問題解決のために各方面をいろいろと探しました。  東久留米に同教派の日本

伝道事務所があることをつきとめ、責任宣教師ラリー・スパーリンクさんをたびたび

煩わせました。  大会、中会、小会、提案、教会規定、職務という日本語で良いとの

回答を得ましたので、そのように翻訳しました。

 

  日本の教会と、私たち一人ひとりの更なる真摯な聖書の学びに役立つものであれば

感謝です。  主イェス・キリストの十字架の贖罪の深さ、広さ、高さ、豊かさを読者

が更に覚えてくださり、主への感謝と愛が深まることを祈りたいと願います。

 

  最後に、つまらない蛇足になりますが、そのほかにも、原稿をタイプされた秘書の

語彙に対する誤解なのか、単純なタイプ・ミスなのか、見たことも聞いたこともない

perogatives という単語がいくども出てきました。  数冊の分厚い辞書類で調べても

わからず、翻訳を放棄したこともありました。  秘書の打字ミスであると気がつくの

に数日を要しました。  prerogatives「特権」という単語のタイプ・ミスでした。

 

  貧しい翻訳でしたが、おつき合い頂いたことを感謝いたします。

 

                    2004年8月28  八ヶ嶽南麓  野村基之

 

http://www.bible101.org/nomura

motofish@eps4.comlink.ne.jp

 

 

 

 

 

 

 

                     聖書的・神学的観点から見た男性と女性

 

                シカゴ・クリスチャン・カウンセリング・センター

              マーヴィン・P.フーグランド

 

      Male and Female in Biblical-Theological Perspective

Marvin P. Hoogland, Th. D.

Chicago Christian Counseling Center

 

 

    創造:  関係の定義

    堕落:  関係の転倒

    贖罪:  関係の復元

        1.  旧約聖書

        2.  新約聖書  キリスト

        3.  使徒たち

        4.  男性指導権の本質

 

                                             

 

A.  創造:  関係の定義

 

1.  創世記1章

 

  男と女との間の関係の聖書的理解はまさに「初めに…」という創世記1章1節の句

で始めるのが一番ふさわしいように思います。  神さまがご自分の姿に似せて私たち

人間を創造なさろうとお考えになったその時のことを、私たちは創世記1章26節から

知ることができます。

    『我々に似るように、我々の形に、人を創ろう。  そして彼らに、海の魚、

      空の鳥、家畜、地の総てのもの、地を這うすべてのものを支配させよう』と

      仰せられた。

  神さまに似て、神さまの姿に似た存在(すなわち人間)を創り出すという神さまの

お考えと分けては考えられないことは、その存在が創造されたほかのすべてのものを

支配するということです。  すなわち、創造された他の総てのものはその存在の下に

あって支配される、その存在が他の創られたものすべての支配権を持つということで

す。  それですから、支配するということは、支配権を持つということは、神さまの

似姿を担う者であることを構成するのに絶対必要な部分であるということです。

 

  その日その日の創造の典型的なパターンを考えますと、神さまの御声が発せられた

直後に必ずそこに神さまの完成させられた創造のみ業(ワザ)を見ることができます。

    『神はこのように人を御自身の形に創造された。  神の形に彼を創造し、

      男と女とに彼らを創造された。』(創世記1章27節)

  人間が創造された時のことを考えてみますと、人間が男と女とに創られたことと、

人間が神さまの似姿に似て創造されたということとには、二つとも切っても切れない

関係があるということがわかって来ます。

  私たち人間の生きざまにあって、男と女の関係というものは、ある意味において、

神さまご自身の存在の姿や似姿を反映させているか、神さまご自身のお姿に似ている

とも言えるのです。

  神学的には、26節の「我々に」という言葉のうちに三位一体の教義を垣間見るので

す。  三位一体、すなわち父なる神、子なる神、そして聖霊なる神という、はっきり

した三位がいらっしゃるのと同様に、何らの混乱も全くなくその三位は一体であり、

三位はお互いに対して同等であるのです。

  そのことから神さまの似姿に似て創造されている私たち男と女も、男と女という、

お互いに対してはっきりとした違いを持ちながら、しかも、私たち男と女はお互いに

対して同等であると推測することができるのです。

  男と女は共に一緒になって、一緒であるということにおいて、神さまの祝福を受け

ることができるし、また、共に一緒であることによって『生めよ、増えよ、地を満た

せ…』という28節の命令をいただいたのです。

 

  この生殖の祝福と命令には、しかしながら、そのあと、さらに入念な祝福と命令が

追加されているのです。  すなわち、それは『地を従えさせよ。  地の上のあらゆる

創られたものを支配せよ。  海の魚も空の鳥や地を這うすべての生き物も、食物とし

て与えられる植物類をも支配せよ…』というさらなる祝福と命令です。

  ここで強調しなければならないことは、支配の特徴、支配の性質、支配の内容だと

思います。

 

  最初に、この支配は神さまから人間に与えられたものです。  ここに、この支配を

与えて下さったお方、この支配の源泉を覚えます。  このお方はすべてのものの主で

いらっしゃる神さまであり、神さまの似姿を担う私たちを今もなお支配なさっている

主でいらっしゃるのです。

 

  (ここで、支配する者と支配される者との関係、すなわち他者の上にある者と他者

の下にいる者との関係を著者は complementary relationship という表現、すなわち

相補関係・補完関係・補充関係・代償性関係などとも訳せる言葉を用いて表現してい

ます。

  この単語を直訳しますと、神と人とが相互に補い合う関係に在る、対の一方という

ことをも意味するように受け取ることもできますので、訳者としては納得することが

できず、著者にいくどか更なる説明を求めましたが、充分に納得できる日本語を見い

だすことができませんでした。

 

  この戸惑いのほかにも北米キリスト改革派教会が使う幾つかの大切に思える教会

用語をどのように翻訳してよいのかがわからず、数年間にわたって翻訳作業を中断・

放棄してしまいました。  これらのことはあとがき部分で説明致します)

 

  東洋人であれば「上下関係」や「主従関係」のほうがよりわかりやすいだろうかと

思い著者にお尋ねしましたが、それは著者の意とされる関係を適切に表わす単語では

ないとのことでした。

  そこで翻訳者の実力のなさを白状し、とりあえず「補完関係」という言葉を用いて

神と人間との関係を表わすことに致しました。

  博士の思いが十分に伝わらないかも知れませんが、神と人間との関係を、または、

人と被創造物との関係を「補完関係」という言葉で表して翻訳を進めます。

  すなわち、神が人の足りないところを補充され、補足されることによって人を神の

御旨に沿って完全なものとなさるという意味を「補完関係」ということばで表現して

翻訳を進めます。

 

  それに対し、博士は人と人との関係を表す言葉として symmetrical relationship

という単語を用いられています。

  すなわち「二者またはそれ以上のものが同等の状態にある関係」、「左右が相称的

な関係」、「身体や全体が釣り合いのとれた、均整のとれた関係」を「水平関係」と

か「対等関係」とか「同等関係」、または「平等関係」などと訳したほうがわかりや

いかも知れませんが、ここでは主として「均整のとれた関係」と訳しておきます。

  そのほうがフーグランド博士の意とされる symmetrical relationship をより良く

表現していると思います。

  そのほかに、括弧で示す箇所は主として翻訳者の解説なり補足であるとご承知くだ

さい。)

 

  論文に元に戻ります。

  この意味で、三位一体の三つの位、三つのお方の間の関係は「均整のとれた関係」

と呼ぶことができます。  同等関係、水平関係、対等関係とも言えましょう。

  父なる神、子なる神、そして聖霊なる神は、三位一体において同等・平等の地位を

お占めになっています。

  しかし、神さまと神さまの似姿を担う者との関係は、創世記1章において明らかな

ように、「補完関係」にあるとおわかり頂けると思います。

  神さまは神さまの似姿を担う者たちの上にいらっしゃいますし、人は神さまの下に

いるのです。

  それと同じように、神さまの似姿を担う者と、この地との関係、この地の上を這う

すべての創られたものとの関係も、「補完関係」・「上下関係」にあるのです。

人がそれらのものの上にあって、それらを支配しているからです。

 

  第二番目に、1章26節~28節で明白で重要なことは、神さまの似姿を担う者、すな

わち、人に与えられた支配権というものは、男に対して与えられたものであると同時

に、女に対しても同じように等しく与えられたのもだということです。

それは片方がもう片方に対して主権・支配権(以下では支配権に統一)を持つという

ことではないのです。

  女が男の上に支配権を持つということでもなく、男が女の上に支配権を振り回すと

か、振り回せるということではないのです。  それですから、支配権というものは、

男と女に対して、一緒に与えられたものなのです。

  そして男と女が一緒になって、この地とそこにある総ての創造物に対して支配権を

行使するという体験を共有するために、二人で一組としての男と女に与えられたもの

なのです。  これこそまことにパラダイスではありませんか!

  ここでは片方がもう一方の上に支配権または権力を持つということなどあり得ない

のです。  ここでは明らかに一人の人間が他者との間で権力闘争をする必要がないの

です。  ここでは男と女との間での力の行使の必要は存在しないのです。

男女間の力の闘争ということは、後になって創世記3章で出てくることなのです。

  すでに述べました用語を使ってみますと、創られた者としての男と女との関係は、

そして神さまの御旨によってそのように創られた男と女の関係というものは、上下や

主従の関係を表す「補完関係」では決してなく、むしろ「均衡のとれた関係・同等の

関係・対等な関係」なのです。

 

  こん日、私たちが女性について語り合おうとしている時、ここまでに述べて来まし

たことがどのような意味を持つのかということですが、初めに男と女が同等に創られ

たということと、神さまが彼らに、即ち、男と女に分け隔てなく公平に支配権を委託

されたということと、その支配権を男と女が一緒になって公平に担うことを意図され

たということ、そして、男と女がお互いに他者の上に支配権を行使しないことなど、

すべてこれらのことを考慮にいれなければならない…ということになるのです。

  女性は、創世記1章によりますと、男性と同様に、本来備わっている生得の可能性

として支配権を行使できる存在なのです。  それは男性も同じです。  主なる神さま

がお創りになったすべての創造物の上に、神さまから彼らに託された支配権を、両者

が等しく共に一緒の状態で行使するようにと任じられたのです。

 

  それですから、創世記1章によりますと、神格・神性というものの中に、私たちは

「均衡のとれた関係」を見いだす一方で、神さまと人間との間には、「補完関係」を

見るのです。

  そして更に、男と女との間において、「均衡のとれた関係・平等関係」を見いだす

一方で、男と女とが一緒に平等にあることで、支配権を共に担い、それを一緒に行使

することで、その他のすべての創られたものとの関係において「補完関係」を見いだ

すのです。  『そして、それは非常に良かった』(31節)のです。

 

2.  創世記2章

 

  天地創造物語は2章4節以下で再び語られていますが、共通点もあれば異なった点

もあります。

  創世記1章においては、神さまの壮大さというものが神さまの御言葉の力という形

で描かれています。

  御言葉が創造の業に携わることでその真の威力を発揮しているのです。

そして御言葉による創造の最高点として、創造の業の冠として、神さまの似姿を担う

者として男と女が描かれています。

  そして更に、神さまがお創りになった他の総ての創られたものの上に男と女が共に

一緒になって、支配権を担っているのです。

  しかしながら創世記2章においては、人と人が神さまの創造的備えに対しどのよう

に関わってゆくのか…が明らかにされているのです。

 

  2章の幕が開きますと、舞台には命のない不毛の土地が出てきます。

  神さまは霧によって湿気を与えられ粘着力を得た地の塵埃から人を形作り、命の息

を人の中に吹き込まれました。

  そこで人はその両目を開いて周囲を見回し、生命の知覚によって陽気になってゆく

過程とその姿を私たちは容易に想像することができます。

  しかし、人は、それでも自分が一体誰であるのか、そしてそのことが一体全体何を

意味するのか、自分には何が求められているのか…、そのようなことで戸惑っている

姿を想像できるのです。  なぜなら、それは人間が絶えず問い続けていることだから

です。

  次に神さまは、東の方に園を設けられます。  人間の五感には楽しくてたまらない

ような園です。  そしてそこに『主は主の形作った人を置かれた』のです。(8節)

  そのような過程の中で人は神さまの備えの思慮・意義というものをどのように体験

したのでしょうか!  もちろん、人にとって既に明らかなことは、人は彼の創造者で

あり備えをなして下さる神さまと補完関係にあるということです。

  しかし、この補完関係の本質というものは、主なる神さまが人に対し、園を耕し、

園を守ることを命じられたことと、園のどの樹になる果実でも楽しんで食べて良いと

いう許可を与えられたことと、さらにまた、人が死ぬことのないように、善悪を知る

樹の果実だけは取って食べてはいけないと禁じられたことなどから明白なことであっ

たのです。

  創世記1章と同じように、神さまと人との関係は間違いもなく補完関係として設定

されています。  すなわち神さまは人の上にいらっしゃる主であり、人はその創造者

に対して従う義務を負う者としての存在であること、彼の創造主から委ねられた仕事

をするということで明らかです。

  それと同じように、人と園との関係も、人が園を支配するということで同じように

補完関係にあります。  そのことをここでは仕えるという形が表わしています。

  すなわち、園の中に生えるどの樹の実でも楽しんで食べながら、同時にその園を耕

しそれを守るということで神さまに服従するのです。

  これらすべてのことにもかかわらず、そして人が人自身の必要や感覚を完全に気づ

く前に、主なる神さまは人の胸中に開いた穴の痛みを既に認識されていたのです。

そして神さまはここで『良くない』と宣言されたのです。

  すなわち、人が独りでいるのは良くないとおっしゃったのです。

神さまは、私たち自身が私たちの求めや必要を認識する前にすでにそれらをご存知で

あり、すでに行動に移されるのです。

  創世記2章全体の物語は、神さまが人間のためにいろいろと備えをなし給うこと、

この世において人が必要とするものを総て必ず備え給うということに向かって次第に

その歩調が高まり、強くなって行くという筋書きなのです。

  人が心地良く住めるようにと、人が住み易いような世を念頭に、神さまがいろいろ

な備えを用意して下さっているというシナリオです。  これが創世記2章です。

 

  人が人(他者の意)の必要を意識した時、主なる神さまは地の塵埃からいろいろな

動物を創造されました。  それは神さまが人をお創りになった時と同じようにです。

  神さまはお創りになったこれらの動物を人のところに連れておいでになりました。

今や人は多くの点で彼に似ている被創造物によって取り囲まれることになりました。

  それらの動物は園の樹とは全く異なるものです。  生きており、動き回ります。

呼吸をしています。  頭もあり、首もあり、手足がくっついた胴体もあります。

  主なる神さまがそれまでにも増して人のために用意して下さった神さまからの備え

を前に、人がその時に経験したであろう狂喜の状態を、私たちは何となく良くわかる

ように思うのです。

 

  しかし、それらの動物は、人がそれにどのような『名を付ける』のかをみるために

人のところに連れて来られたものでした。  それが何という名であれ人が付けたもの

がその動物の名前になったのです。

  他の創られたものに名前を付けるということは、それらの創造物の上にいること、

権威なり主権なり支配権を持つということを意味します。

  他人が私たちに、たとえ私たちが子供であっても成人であっても、勝手に名を付け

たりレッテルを張ったりしようとすれば、私たちは良い気がしないという理由の一つ

に、このようなことがあるのかも知れません。

  どのようなあだ名であっても、レッテルであっても、私たちに対して、そのような

ことをしようとする人は、その人が私たちの上にいる人なのだ、私たちに権威や力を

持つ人なのだと、そのように認めさせようとしていることを意味します。

  話を元に戻して、人が動物たちに名前を付ける作業が終わった時、それらの動物の

どれも人の助け手としてはふさわしくないものだったのです。  なぜならそれらは人

の「下」にあるものだったのです。  人はそれらの動物の上にあって補完関係もしく

は上下関係にあったからです。  そして、人は依然として独りであったのです。

  人を創り給うた創造主なる神さまは引き続き人の求め、すなわち彼が独りでいると

いうことを充分にご存知でした。

  次に神さまは、人が眠っているあいだに、人の脇腹から「one being 一つの存在」

をお創りになり、それを「女 women」と認識された) のです。(22節)

  女が人(または男)のところに連れて来られた時、人(または彼)は有頂天になり

歓喜の声をあげて彼女を認識した…と23節は語ります。

  『ついに、これこそ私の骨たちの中の骨! 私の肉の中の肉だ!  男(イッシュ)

から彼女は取り出されたのだから、彼女は女(イッシャー)と呼ばれる』

 

  この劇的な創造物語は人(または男)がただ独りで立っているという筋書きでまず

始まります。

  そして、そこから神さまがお創りになった他の被創造物(人が名付けた園と動物)

の上に人(または男)がいる…という筋書きへと展開して行くのです。

  そしてこの創造記録は、人(または男)にとって文字どおりぴったりの他者、女の

存在を、神さまが彼のために備えて下さったということで最高潮に達するのです

  すなわち、まことに一体であり同等な者と認識することができて、瞬間的に何らの

ためらいもはじらいもなく抱擁することができた、対等の相手だったのです。

 

  ここで遂に彼を創造された神さまと彼とのそれまでの補完関係、また彼と彼よりも

低い所に置かれていた他の被創造物との関係を表す補完関係、言い換えれば上下関係

に在る者ではなく、ここで初めて彼は彼と対等な関係に在る者、すなわち水平関係に

在る者、同等関係に在る者、平等な関係に在る者、「均衡のとれた関係に在る人」、

(共なる人格を有する他者)と出会ったのです。

 

  二つの創造物語は互いに対立したり矛盾したりするものでは決してありません。

むしろ、その二つの創造の物語は、その二つの底辺に潜んでいる共通の調和を、実に

美しく浮上させているのです。  両方の創造物語において主なる神さまは創造の初め

から終わりまで、創造のすべてにおいて創造主としてずっと存在され、君臨されてお

られるのです。  もちろん創造主の似姿を担う者たちの上にもです。

  二つの創造物語は、そのすべての詳細な部分にいたるまで、すでに私たちが使って

きた用語、「補完関係」を示しているのです。  すなわち神さまと人との関係です。

  主なる神さまと、その神さまに創られてその下におかれている、仕える者としての

僕(シモベ )との関係を指し示しているのです。

  それと同様に、二つの創造物語において、その細部に到るまで、一組とされた人間

がほかの創られたすべての被創造物の上に高く挙げられて意気揚々としている状態を

示しているのです(詩編8編と比較)。  そうして、もう一つ別の補完関係を表して

いるのです。

  そして同時にこの二つの創造物語は、その詳細部分に到るまで、無比無類の関係、

すなわち、独特の均衡のとれた関係を強調しているのです。

  男性と女性との間の同等性、男と女との間の認識された対等性、認められた平等性

を表しているのです。

 

 

B.  堕落:  関係の転倒

 

  創世記3章に入りますと、神さまが男におっしゃっていたことが女にも同じように

当てはまる…ということを彼女自身が理解していたことがわかります。(2節)

  蛇が彼女を誘惑する場面は、聖書に描かれている誘惑の描写以外にも、いろいろな

描写が可能だろうと思いますが、3章で語られていることは次のようなことです。

  すなわち、蛇はそれまでの彼女と神さまとの補完関係というものを、均衡のとれた

関係・平等関係・対等関係に変えるようにとそそのかし、誘惑しているのです。

  まさにそれこそがサタンがすでにやってしまったことであり、それが彼と他の一部

の天使たちの堕落を促進し、彼らを奈落のどん底へと叩き落とし込んだ理由だったの

です。(注訳者:イザヤ書1412節参照)

  創世記2章は、1章と同様に、誰の目にもはっきりわかるように、神さまと人との

関係の本質、人から彼の主でいらっしゃる神さまへの関係の本質を定義しています。

  それは決して神さまと人が対等・平等の関係ではあり得ないこと、すなわち均衡の

とれた関係ではないことを明白に宣言しているのです。

  それにもかかわらず蛇はまことしやかにうそぶいたのです。

  『あなたは決して死ぬことはありません。  あなたがたがそれを食べる時、あなた

たちの目が開けて、あなたがたは神のようになり、善悪を知るようになることを神は

知っているのです…』と。

  この4節と5節に含蓄されていることとは、まず男と女は、何が善であり何が悪で

あるのかを自分たち自身で決めることができるようになることです。  そしてさらに

彼らは神さまの下にいる必要がなくなり、むしろ神さまと平等になる、神さまと対等

になる、神さまと同じ土俵に立って、わたり合うことができる…ということです。

  神さまとの関係は、それですから、それまでのように補完関係ではなくなり、均衡

のとれた関係にとって代わるということです。  このようにして、男と女は神さまと

彼らとの関係を改めてしまおうという誘惑に屈してしまったのです。

 

  神さまと自分たちとの関係を再定義しようとする誘惑に負けてしまった男と女は、

すなわち、神さまと対等な関係に、同等な関係に置き変えてみようと試みた結果とし

て、彼ら自身の関係、すなわち男と女との関係にも再定義の必要性を招いてしまった

のです。  今までのように男と女との間に保たれていた均衡のとれた関係は崩壊した

のです。  二人はお互いに自己に目覚めてしまったのです。  そしてお互いに相手が

裸であることにも気がついたのです。  二人ともお互いに自分自身が傷つきやすい、

攻撃されやすい、弱い者であるということに気がついたのです。

  そこで二人はお互いに自分自身を相手から隠すためにいちじくの葉で覆い物を縫い

合わせ、自分自身を隠そうとしたのです。  そしてさらにお互いに相手から自からを

隠そうとしただけではなく、園を歩かれる神さまのみ前から彼ら自身を隠そうと試み

たのです。

  彼ら自身が何をしでかしたのかを神さまに問われた時、そこで、いや、そこから、

彼らは一人ずつ、おのおのが相手を責めあう、おのおのが相手を破壊しようとする、

止むことのない、「責任のなすりあい競争ゲーム」を始めたのです。

  そこには創世記1章でみられた支配権を共有しようとする姿勢も、また創世記2章

でみた二人で一つであるという意識も完全に失われてしまったのです。

 

  そこには、それまで彼らの共通の喜びと遺産であった生殖の歓喜においても、共に

一緒に他の被創造物を支配するという祝福においても、何かしら変化が生じてしまっ

たのです。  それは、女には、子供を生む時に陣痛を経験するという事態を招いてし

まったのです。  そしてそれだけではなく、男に依存して生きてゆくという事態にも

追い込まれてしまったのです。

『しかもお前は夫を恋い慕う』とされたのです。  しかもそれだけではなく、彼女は

彼女よりも肉体的に大きく、力強い彼(夫)の支配を受ける者とされたのです。

『彼はお前の上に君臨してお前を支配する…』となったのです。(16節)

  最初に二人は二人で一緒に、彼らよりも低い地位にいた他のすべての神さまの被創

造物の上に立って、それらを支配するという関係にいましたが、しかしそれは決して

お互いがお互いをお互いに支配し合うという関係にいたのではありませんでした。

しかし、今やこの関係は転倒・転位してしまったのです。

  神さまがお創りになった他のすべての被創造物を二人で一緒に治めるはずになって

いた二人でしたが、今度はそれが彼ら自身に向けられてしまい、男が女を支配すると

いう関係になってしまったのです。

 

  ここに堕落を招いた原因とその結果というものが明らかにされたのです。

  すなわち、それは人間生活の中に、そして人間同士の関係の中に、実に力の闘争、

権力の闘争というものが入り込んでしまったということです。  人間同士がお互いに

一緒になって他の創られたものを支配するということではなくて、一人の人間が他者

の上に立ってこれを支配するという事態となったのです。

  かつては男と女の間にあった均衡のとれた関係は、今や不平等な補完関係に、上下

関係へと転倒してしまったのです。  そして、一人が他者の上に立って支配し、もう

一人は他者の下にあって支配を受けるという関係です。

  そして更に、その上下関係・補完関係・*権力闘争の基本的原理とは、人とこの地

にあるものとの関係においても明らかになったのです。  それは、地が茨とあざみを

生えさせ、地上で働く男の顔に汗をかかせることとなったのです。

  人が生きるということは本当に苦労の連続となり、人間社会とは格闘・生存競争・

権力闘争となってしまったのです。

 

  実際、共に治めるという均衡のとれた関係から、人が他者の上に自分を置くという

力の闘争という補完関係・上下関係にとって代わったということは、創世記の3章に

描写されているように、それ以降の人類のほとんどすべての歴史を貫いて流れる特徴

であると言えるのです。

  卑近な例として私たちが体験し目撃するものの一つに、その力の闘争の原則・原理

は、結婚の破滅というかたちで知ることができます。  そこに私たちは力の闘争原理

を必然的に見せつけられるのです。

  治める者と治められる者との関係においても、経営者と労働者との関係においても

それを体験していますし、競合するイデオロギーの違いが国と国とを恐ろしい戦争の

渦の中に叩き込むことも知っています。

  キリスト教会の歴史というものも、いろいろな権力闘争の見本で飽きるほど一杯に

なっています。  人類の堕落以来こん日に到るまで、純粋な均衡のとれた関係という

ものは、どのような人間の営みの中においても、それを維持しようとすることは常に

困難なことであり、それを達成することはさらに至難の業なのです。

  またたとえ仮にそれが成就されたとしても、どんなにうまくいっているように見え

ても、結局のところそれは不安定で危険な状態にあり、他人頼みの状態、相手次第と

いうことで、実に不安定なものなのです。

 

  創世記3章20節を読んでみますと、瞬間的に、人間の罪に対して述べられた呪いと

いうものがどのようなものであったのかを知ることができます。

  すなわち、『さて人は、その妻の名をエヴァと呼んだ。  それは、彼女がすべての

生きている者の母であったからである』とありますが、ここで私たちが学ぶことは、

転倒した力関係が始まったということです。

  それは男が女の上にあって彼女を支配し始めたからです。  彼女を対等の者、同等

の者としてではなく、彼の下にある者として扱い始めたのです。

  堕落の前に彼が動物たちに名前を付けたのと同じように、今度は彼女に名前を付け

たのです。  彼女に名前を付けることによって彼は彼女の存在そのものと彼女の役割

を再定義する特権、君主としての大権を行使したのです。

  彼女を「エヴァ」と命名することによって彼女が子供を産むという生物学的機能と

の関連で彼女の役割を再定義したのです。  こうして今や支配権は彼一人だけの手に

しっかりと握られた…と思えるように見えるのです。

 

  男が女の上に支配権を持つ、権威を持つということは、こうして堕落以降の人類の

歴史の中で、一部の例外を除き、ほぼ確定的なものになったと言えます。

  それは人が神の下にあるという補完関係を、神さまと対等な関係に・同等な均衡の

とれた関係に変更しようと試みた時から起ったのです。

  その結果、天地創造の時に設けられていた男と女との間の均衡のとれた関係を転倒

させ、不平等な補完関係・補足関係・補充関係・上下関係・主従関係へと変え、人類

の歩みを、人の生涯を、絶えることのない権力闘争の関係にと置き換え、あらそいで

満たしてしまったのです。

 

 

C.  贖罪    関係の復元

 

  神さまとの関係を均衡のとれた関係に、あるいは平等で対等な関係に変えてやろう

とする人間夫婦の試みにもかかわらず、神さまは、依然として常に神さまがお定めに

なった神さまの関係を維持され、すべての上にいらっしゃり、すべてのものを支配な

さっています。

  人間というものは、神さまとの補完関係を、何とかして神さまと対等な関係へと、

平等な関係に、均衡のとれた関係に変更しようと必死になって試みるのですが、その

ような空しい努力は決して成功するものではないのです。

  それでも人間はそのような企てをこりずにやろうと試みるのです。

それは、たとえば、人の姿に似せた偶像を自分の手で作ることにも見られます。

  そして人は彼の手で作ったいろいろな偶像の性質を支配し、定義することによって

人は人の手で作ったいろいろな偶像の上に本当にいるのだ…、彼らを本当に支配して

いるのだ…と、その転倒した上下関係の中で考えようとするのです。

  しかも、人はその転倒した思いの中で、自分の手で自分が作った偶像に対する不安

と、その偶像の尻にひかれてしまうという、偶像の奴隷になり下がってしまう状態の

中に自分自身を押しやってしまうのです。

  旧約聖書の*豫言者たちを通して、たとえばイザヤ書44章9節以下に書かれている

ように、神さまは人の愚かさを嘲笑されるのです。  人がどんなに努力してみても、

人が神さまと同じになってやろう…などという驕慢さが成功した試しがないのです。

なぜならば、ヤハ ウエ でいらっしゃる主なる神さまは常にすべてのものの上にましま

してすべてのものを支配なさっていらっしゃるのです。  それは昨日も今日もそして

永遠に変わることなく主はすべてのものの主でいらっしゃるのです。

(*訳者注:  新約聖書教会の徳をたかめるという意味で「預言」を、旧約聖書では

従来どおりの意味で、すなわち、神が計画されている遠く未来のできごとを予告する

という意味で「豫言」を使いわけました)

 

  主なる神さまは常に主権を保っておられるお方、統治なさるお方としてだけではな

く、創造主としてだけではなく、同時に神さまは人類を贖うお方として存在なさって

いるのです。  『私、この私が主であって、私のほかに救い主はいない』とイザヤ書

4311節は証言しています。

  人の救いと回復・復元は、すなわち力の闘争に象徴されている呪いを解くことは、

人が神さまの下にあるという関係、すなわち「補完関係」を、人が正しくし体験し、

それを正しく告白するという現実の中にだけあり得るのです。

  それは人間のあらゆる営みの中において常に真実であるのです。  とりわけそれは

人の贖いにおいて真実なのです。  人の希望と救いは、まさに神さまと人とが上下の

関係にあることを人が正しく認識するという、補完関係を正しく認定するという現実

の中にあるのです。

  それは、人が絶えず、常に、いつも、どこにいても、神さまを呼び求め、神さまの

主権を告白し、神さまの契約を告白し、神さまの律法を告白し、神さまの救出・解放

を告白し、神さまの恩寵を告白し、神さまの選びを告白し、神さまのメシアたること

を告白し、神さまの救いの方法を告白し続けるということにかかっているのです。

  人の希望は、創造から堕落までの間も堕落のあとも共に同じように、人の命と救い

の両方のために神さまが全き備えをして下さっていることに対して、人がどのように

歓喜して応答するのかにかかっているのです。  ただこの方法によってのみ、神さま

の方法によってのみ、人と人との間の均衡のとれた関係も回復し得るのです。

  そのことによって、恐ろしく破滅し荒廃した悲惨な力の闘争の結果をも乗り越え得

られるし、またその恐ろしい権力闘争の結果をも放棄することができるのです。

  このようにして正真正銘の同等性・対等性というものが人と人との間に回復・復元

し、さらに人は、男と女が創られたその創造の時のように、お互いがお互いに対して

均衡のとれた関係、あるいは平等関係・水平関係・対等関係にいる状態に戻ることが

できるのです。

 

 

2.  新約聖書:  キリスト

 

  神さまが私たちのために備えて下さった救世主キリスト、すなわち、イェスさまの

中に私たちは神さまが贖罪と復元計画を進めていらっしゃることを見ることができま

す。  つまり、私たちは神さまのお働きをイェスさまの中に見るのです。

  それは神さまがイスラエル人の中でお働きになっていることをはるかに超えたこと

なのです。  呪いは権力闘争という姿でいまだに働いています。  そしてそれまでの

最大の権力闘争は、イェスさまを十字架に釘付けにしたということなのです。

 

  人間の権力闘争の中にあって、人と人との力と力のあらそいをとおして、それでも

神さまは人間の最終的贖いのために着々と準備を進めていらっしゃったのです。

それは、キリストの流された血潮をとおして私たちを罪から贖い出すご計画です。

  ここで新しいことというのは、神さまが人と悪との上に、権力闘争の悪魔的支配の

上にお立ちになり、勝利なさるということです。

  それは、たった一度だけのできごとですが、すべてのことに、すべての時間と空間

に、くまなく及ぶできごとなのです。  そして、十字架につけられたお方と共に復活

するという、神さまの新しい時の到来なのです。

  このキリストにあってすべてのものが新しくされるのです。  キリストがすべての

ものの中心となるのです。  キリストが新しい基準となり、新しい道となり、新しい

真理となり、新しい命となるのです。  聖書のすべてが今やキリストの証人となるの

です(ロマ書3章21節)。  そしてキリストによって成就するのです。  キリストが

すべの真理の中心となり、すべて生ける者たちとすべての関係の基準となるのです。

 

  教会、すなわちエクレシアを構成している私たちは、あるいは教会としての私たち

は、イェス・キリストを神さまの御子でありまた同時に人の子であると告白するので

す。

  神さまの御子として、イェス・キリストは神さまと等しく、神さまと同等であり、

『神さまそのもの』でいらっしゃるのです。  イェス・キリストはまことに父なる神

さまと聖霊なる神さまと均衡のとれた関係・対等関係・水平関係にいらっしゃるので

す。  さらに、救世主、メシアでいらっしゃりながらも、また人の子でいらっしゃる

イェス・キリストは、エデンの園で女と男が受け入れることを拒んだこと、それは、

神さまの下に人がいるという補完関係、人の上に神さまが立たれるという上下関係を

エデンの園で人は拒否したことでしたが、それをイェス・キリストは受け入れられた

のです。  『私は、私自身のことを何もすることができない。私が来たのは私の意志

を行うためではない。  私をお遣わしになったお方の御旨を行うためである。  私の

骨子は父なる神の御旨を行うためであり、私の意志を行うためではない。  神の御旨

が行われますように』…と繰り返し主イェス・キリストは証言されているのです。

(訳者注:ヨハネ6章51節~52節およびマタイ2639節と42節のことと思われる)

  『キリストは神の御姿であられるお方なのに、神の在り方を捨てることができない

とはお考えにならないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をおとりになり、人間と

同じようにお生まれになられたのです』(ピリピ2章6節~7節)。

  僕(シモベ )の姿をお採りになることで、キリストは人としての本当の栄光をお示し

になったのです。  そのご栄光とは、創世記1章26節~28節において予示されたもの

であり、また詩編8編において称揚されたものなのです。

 

  キリストの全生涯とお仕事は力の操作や権力闘争にかかわるということと全く逆の

ことを具体化したものなのです。  それは創世記1章26節から28節にかけて示されて

いるような男と女があるべき姿を具体化したものです。  キリストだけが本当の意味

で『第2のアダム』でいらっしゃるのです。

  キリストはその大能、その支配を風の上にも、七つの海の上にも置き給うのです。

魚も、いちじくの木も、豚も、悪魔も、病も、死も、すべてのものがキリストの権能

と支配の下にあるのです。

  しかし、キリストは、決して他者を支配するための人間の権力・権能の地位を手に

入れようとはなさったことはないのです。  イェスさまが荒野に導かれた時、他者を

支配するように権力や地位を悪用するようにと、そのような方向にイェスさまを誘惑

しようとする誘惑があったことは事実でしたが、イェスさまはそのような誘いに負け

るようなお方ではありませんでした。

  イェスさまの弟子たちは、しかしながら、誰がイェスさまの一番偉い弟子になるの

か、なれるのか…などという権力闘争、力の遊びの誘惑には弱いようでした。

その意味で、ペテロがゲッセマネの園で剣を振り回してしまったことは明白です。

  ピラトとヘロデは共にイェスさまが本当に権威・権能・力、そしてまた支配権いう

ものを一体全体お持ちなのかどうかと疑ったのでした。

  『私の王国はこの世のものではない』というのがイェス・キリストのお答でした。

イェスさまにはそのような権威、権能、力の回復、そしてそれを行使をなさる機会が

たくさんありましたが、そのような力の闘争、力への闘争を絶えず拒否なさり、常に

放棄なさったのです。  なぜならそれは呪いの道、呪いの手段だったからです。

  そしてイェスさまは弟子たちにも同じことを行うようにお教えになったのです。

ペテロとヨハネは他の弟子たちの上に立つ優位性を求めたのです。  右側に坐りたい

とか、王国ではキリストの左側に坐りたい…などと要求したのです。

弟子たちは弟子たちで、誰が自分たち弟子仲間の中でいちばん偉いのだろうか…と論

じ合ったのです。  もちろん私たちはイェスさまのお答を充分に知っています。

  そのためにイェスさまは、そのような野心のない幼い子供たちを指さされました。

そしてさらに、イェスさまは弟子たちの足をお洗いになり、弟子たちの在るべき本来

の姿をお示しになったのです。

  イェスさまは、この世の支配者・権力者たちというものは、他者の上その支配権を

行使したがるものだが、イェスさまを信じて、イェスさまに従いたいと願う者の間に

おいては、そうであってはならいと警告されたのです。

  イェスさまを信ずるということ、イェスさまに聞き従うということは、仕える者の

道を選び、*それを一人一人の日常生活の中で具体的に実行することです。

 

  人(または人間・人類)のいのちを神さまのもとに復元し、神さまと和解させよう

とするイェスさまのなさりかたは、その大切な節々で、人と人との権力闘争の策略、

力のもてあそびの駆け引きというものを採用しようとする誘惑をことごとく拒否する

ことに特徴づけられています。  ローマ占領軍を転覆し追い出すために熱心党と手を

組むこともなさいませんでした。  イェスさまのなさりかたは、一貫して変わること

なく仕える者の道、僕(シモベ )のやりかた、僕の道でした。

  この方法で、イェスさまはご自分が常に神さまの下にあることを具体的にお示しに

なることで、人間が本来神さまの下にあるべき本当の補完関係をお示しになったので

す。  そしてそれと同時に、そのことが意味することは、そのことによって人が他の

人との間に、真に純粋な均衡のとれた関係、混じり気のない水平関係が始まったのだ

ということをお示しになったのです。

  イェスさまの母マリアがルカ伝1章52節で豫言したことは、『権力のある者をその

座から引きずり降ろし、いと低い者を高く引き挙げられる…』ということでした。

  パリサイ人たちと食事を共になさったイェスさまは、同時に取税人や罪人たちとも

飲み食いをなさったお方です。  このようなことをなさることによってイェスさまは

前者を引きずり降ろし、後者を高められたのです。  そして両者を同じ位置に置き、

平等となさったのです。

  イェスさまの極めて近しい、ごく親しい内輪の人たちの間では、女性は男性と同じ

ように、同じ水平の位置に、同じ水平の関係に見出されるのです。  イェスさまが、

具体的にご自分を僕の姿をお採りになって示された、仕える者としてご自分をお示し

になったということは、しかしながら、決して弱さとか消極的な受け身であるという

ような意味に誤解して受け取ってはなりません。  世の権力者や力の遊びに溺れ奢る

者にとってはそのように誤解したり受け取ったりする傾向があるようですけれども。

  実際にイェスさまは、創世記1章28節に語られている、神さまから神さまの似姿を

担う者としての男と女に与えられた支配権にも似たものを、ご自身で具体的に実行な

さっていたのです。  仕える者の道というものは、僕のとる手段というものは、一貫

してそのような意味での支配のことであり、その中においてこそイェスさまの純粋で

真の、確実な権威を見ることができるのです。  それはマタイ伝7章28節に描写され

ているような、学者たちやパリサイ人たちをはるかに超えて優った権威であり、また

同時に彼らのものとは全く別種類の純粋な権威なのです。

 

  イェスさまが12名の弟子をお選びになった時、12名の男性をお選びになったこと、

その12名すべてが男性であったということは、実はイェスさまのなさりかた、イェス

さまの一貫したなさりかた、イェスさまの方法に完全に一致しているのです。

  男たちだけをご自分の弟子に選ばれたということは、男性だけがキリストの教会を

治めることに適し、教会の権威を持つことを許されているのだと、単略的に論じると

いうことは、論点を誤るばかりでなく、イェスさまのなさりかた、イェスさまの方法

を全く理解していないということなのです。

  そのような解釈は、そのようにイェスさまのなさりかたを憶測するということは、

イェスさまの関心事が堕落以降ずっと人間の間に引き継がれて来ている権力闘争構造

というものを正当化し、さらに強化することにある…と誤解しているのです。

  しかし、イェスさまが弟子たちをお選びになったのは、彼らにイェスさまに従うと

いうことがどのような意味を持つことなのかを教えるためであったのです。  それは

具体的には、自分自身を無にする、空にする、むなしくするというやりかたです。

それが僕の道、仕える者のやりかた、在り方、道なのです。

  イェスさまは、そのようなことを教えるために女性をお選びになる必要がなかった

のです。  女性たちは改めてそのようなことを特に学ぶ必要がなかったのです。

一般的に女性は長いあいだ家財道具か奴隷のような扱いを受け続けていたからです。

  イェスさまに従って来た女たちとイェスさまが接し、女性を扱われるイェスさまの

方法というものは、女たちを高めて弟子たちと同等の者、均衡のとれた関係に実質的

にいる者とされたということです。  イェスさまがその墓から復活された直後の最初

の福音、すなわち善き知らせを伝えた説教者たちは、実にこれら女性たちであったの

です。

 

  イェスさまは、力によって女性を解放なさろうとされたり、力によって女性を男性

と均衡のとれた関係に持ち込もうとなされたり、闘争によって男女の均等を獲得しよ

うとする婦人解放運動を願われたり、開始なさろうなどとは、もちろんなさいません

でした。  そのような方法や手段は、新たな権力の闘争を招くか、あるいは新たなる

闘争をさらに激化させるだけで、イェスさまのなさりかたとは全く反対のものとなる

からです。

  また、女が男と同等であり、平等であり、対等であると認識され、そのように受け

入れられる前に、人(または人間)は、弟子も含めて、彼ら自身が本当に自分たちは

僕である、仕える者である、召し使いであると理解することを学ばなければなりませ

ん。  そして、それはとてつもなく時間がかかることでしょう。

 

 

3.  使徒たち  パウロ

 

  それでは使徒たちはどのようにキリストのなさりかたを立証し具体化したのでしょ

うか?  呪いの影響と結果、力のあそび、権力闘争の現実というものは、この世界の

あらゆる場所で明らかでした。  それはイェスさまの復活後もそうだったのです。

  しかし、復活なさったキリストの内に、使徒たちが必要としていたすべての証拠を

彼らは見いだしていたのです。  すなわちイェスさまのなさりかたこそ神さまの凱旋

の仕方であるということをです。

 

  ローマ帝国はパレスチナへの暴虐を続けていました。  奴隷制度はその当時の当然

の社会制度の一部として維持されていました。  男が女をあたり前のこととして支配

していました。  けれども使徒たちは軍隊を率いてローマを転覆しようとはしません

でした。  使徒たちは奴隷廃止運動や奴隷廃絶運動を組織しませんでした。  彼らは

女性の権利を力ずくで得ようと力を使ったあらそいに訴えることもしませんでした。

  現に、ロマ書13章1節や第1ペテロ2章13節を読んでみますと、あたかも使徒たち

が暴政を支持しているかのような印象すら受けるのです。

  第1コリント11章と14章、エペソ書5章22節~23節、第1テモテ2章と3章、また

第1ペテロ3章1節から7節を読んでみますと、女性が男性に服従するのに貢献する

ような箇所すらを見いだすのです。

  これらの聖句に含まれているいろいろな論題において、男たちは新約聖書に最終的

権威を訴えています。  すなわち、奴隷制度を擁護するために、王たちが持っていた

聖なる権利について触れるとか、教会の職務から女性を除外することを保持すること

などです。

 

  ロマ書13章においてパウロは、まつりごとを司る権威に対して、各自が従うように

指示を確かに出しているのです。  このことは、絶対専制君主制度のローマ帝国政府

を意味していたことです。  そのような権力に服従するということは、神さまに服従

するということである…とされたのです。  しかしこのような指示を出すことによっ

て、パウロは同時に、人間が治める人間の政府・政治政体というものがどういうもの

でなければならないか…、人間の政治とはどのような使命を帯びたものであるのかを

示しているのです。

  最初に、パウロは、人が人を治めるという政治政体には、神さまがお与えになった

権威というもの以外に、人には権力も権威もあり得ないのだということを示している

のです。  そしてそれらの人間の政治政体というものは神さまに対して責任があり、

神さまに負うものなのだ…と、そのようにパウロは訴えているのです。

  世の支配者、世の権力者というものもまた神さまの下におり、神さまとは補完関係

にあり、神さまに補充していただく関係にあるということです。  それが彼ら自身の

権力とまつりごとの根拠と本質と目的なのです。  それがパウロの定義なのです。

政治権力というものは、善なる者には良く仕え、邪悪を働く者に対しては制限を加え

る…ということです。

 

  『なぜなら彼はあなたの善きことのために遣わされた、神さまの召し使いであるか

ら』なのです。  ここでは、通常どこででも行われているような、横暴や残忍な政治

政体を正当化する余地はなく、自己保存的権力の行使を弁解する余地もないのです。

  治める者の使命と、治めることの意味とは、召し使いであるということ、仕えると

いう視点でのみ定義されるべきものなのです。  それは主イェス・キリスト、私たち

のメシア(メサイヤ、救世主)がそうでいらっしゃったようにです。

  パウロは暴虐政治に正面から反対をしませんでしたし、力でそれを転覆するような

ことを扇動もしませんでした。  しかし仕えるという物差しで、そのような尺度から

治めるという意味を定義したのです。(第1ペテロ2章11節~17節)

 

  この定義をキリストの御心にもう一度しっかりと据えてみましょう。  そうすれば

新しいかたちの支配が現れてくることでしょう。  しかし、このような根源的に新し

い原理・方針が人々の集まりや集団に浸透して行くには時間がかかると思います。

  新しい原則、新しい方針が世に現れる時、私たちが民主主義と呼ぶ新しい政治形態

が出現する時、そしてそれは、公に仕える・パブリック・サーヴィスという姿の政治

政体ですが、治める者は、為政者は、公僕・パブリック・サーヴァントとして、自分

は人々に仕える者であると彼自身が意識しているのか、仕える姿勢があるのか…を、

その人は国なり県なり市なり町の選挙に臨むに際して示す必要があります。  庶民が

彼の上にいるのと同じように、彼も庶民の上にいるのです。

  治めるということを仕えるということで定義するということによって、エデンの園

の堕落以来このかた、治める側と治められる側との間で、均衡のとれた関係に可能な

限り最も近いものを私たちは手に入れたのです。

 

  使徒パウロはエペソ書5章と6章において別の種類の関係を語っています。

6章5節以下でパウロは奴隷たちに宛てて『奴隷たちよ、あなたがたは、キリストに

従うように、畏れおののいて真心から地上の主人に従いなさい』と教えています。

  この世での主人に謀反を起こし反乱しなさいと教えていないのです。  しかしまた、

言われるままに、消極的に、盲従しなさい…ともパウロは教えていないのです。

  奴隷たちは自分自身を積極的に、肯定的に召し使いであると認識して、心の底から

神さまの御旨を行うようにすべきだ、そのようにあるべきだ…と言うのです。

  そして再びその理由についてですが、主人たちも奴隷たちも、共に天において一人

の同じ主人を戴いているのです。  そしてそのお方は偏り給うことがないお方なので

す。  パウロは奴隷たちに対し、奴隷所有者たちに力で対決することを迫っていない

のです。  パウロは奴隷たちと奴隷所有者たちとの関係を、主なる神さまの下にあっ

ては両者は共に召し使いであるという定義において同じ土俵に立たせているのです。

  上下関係という補完関係から離れて、両者が均衡のとれた関係へ向かうようにと、

再定義しているのです。

 

  この同じ精神で、パウロは奴隷であるオネシモをその所有者であるピレモンのもと

に送還しているのです。  それはパウロがピレモンに対してオネシモを『もはや奴隷

としてではなく奴隷以上の者、すなわち主にある愛する兄弟として受け入れる』こと

を当然のこととして期待しているからです。(ピレモン書16節と第1ペテロ2章18

以下を参照のこと)

 

  再びこの原則をキリストの御心に合わせて見てみましょう。

そうすればキリストに従う者たちは、やがて奴隷たちも、奴隷制度も、またどのよう

な姿や形を採る人間社会の人種差別であっても、それが神さまの御旨に明らかに反す

るものであり、イェス・キリストの福音に敵対するものである…ということを理解す

るようになるのです。  この確信が人間社会で受け入れられるようになり、発展して

くるまでには、本当にずいぶんと長い月日がかかったのです。

 

  また使徒パウロは同じようなやり方で妻と夫との間の関係についても語ります。

『妻たちよ、あなたがたは主に従うように、自分の夫に従いなさい』(エペソ書5章

21節以下)。  教会がキリストに従うごとく…と、比較文が用いられています。

しかし全体の文脈は、『キリストを畏れ尊んで、お互いに従い合いなさい…』(同書

5章21節)によって導入されているのです。

  妻たちが夫たちに従うということは、お互いに従い合うということの片面を指して

いるのであって、それはクリスチャンの結婚を特徴づけるものなのです。

  互いに従い合うということのもう片面はと言いますと、それはキリストがキリスト

の教会を愛されるのと同じように、夫たちはその妻たちを愛さなければならない…と

いうことです。

  それは、夫は妻のために己を捧げるということです。  そのことによって妻は夫が

そうであるようになり、とりわけその輝きにおいて、染みも傷もなく、清く責められ

るべき一点の曇りもなく…(27節)(訳者注:以下の原文に一部欠落部分あり不明)

  キリストが僕、召し使いの姿をおとりになったように、そしてご自分を放棄なさっ

た…というのが、夫が彼の妻に対する関係のモデル、模範となすべきことなのです。

  夫と妻との間の関係の転換とは、つまり普通一般に広く受け入れられている関係、

すなわち、補い・補ってもらう関係、上下の関係、縦関係という関係、別な言い方を

すれば、アダムがエヴァの上にあって支配するという、呪いの関係からの転換とは、

キリストご自身が僕の姿をおとりになったことが意味する視点から眺めた結婚、夫と

妻が、キリストとその教会との関係と同じように、お互いに仕え合い、従い合うとい

う、水平関係・均衡のとれた関係という物差しで計る時にのみ可能となるのです。

  そして第1コリント7章ではこの相互補完関係・同等関係・対等関係が、お互いに

仕え合う関係というものが、結婚生活における夫婦の性的関係にも適用されます。

そこでは性から力を媒介とする関係、力の闘争関係を削除しています。

  結婚生活におけるそのような均衡のとれた関係・水平関係は、妻たちが新しく力に

よる闘争に訴えて夫たちに反抗を企てるということではなくて、妻たちがそうである

ように、夫たちもキリストを見習って、召し使いの役割、仕える者の地位を担うこと

によって可能となるのです。  (第1ペテロ3章1節~7節~7節の「いのちの恵み

を〈共に受け継ぐ者〉として」を参照のこと)

 

  またさらに、パウロは同じ文脈の中で、すなわち、エペソ書6章1節以下で、両親

から子供へ、そして子供から両親への関係についても語っています。

この点でもひとこと述べておきましょう。

  いろいろな人間関係がありますが、その中でも生得的に補完関係・縦関係にあるも

のとして、親子関係があります。  この関係は、何人も否定も妥協もできない明白な

補完関係・補足関係です。

  ここでも使徒パウロは両親と子供たちを神さまの下に置き、両者がお互いに尊敬し

合うように呼びかけています。  子供たちは主にあって両親に従うように勧められて

います。

  それと同時に、パウロは父親に対して、子供を怒りに駆り立てるようなことがない

ように勧めています。  ここで注意すべき点は、パウロが母親に対してはそのような

進言をしていないという点です。

  男というものは、いろいろな意味で力を振るうこと、または権力を使うことが多い

ので、父親に敢えて一言つけ加えたのでしょう。  子供たちを怒らせるのではなく、

むしろ主の教えを守り、自己節制するよう育てあげるように勧めています。  子供を

訓練するということは怒りや力ずくですることではないのです。

『お父さんが今そう言っているんだからお前は黙ってやれ!』というようなことでは

ないのです。

  クリスチャンの両親が子育てをする目的、子供をしつける目的は、子供たち自身が

責任ある成人になれるように、なるようにと、両親が子供を助けることにあります。

  それは別な言い方をしますと、親子の補完関係から均整の採れた関係に、すなわち

横の関係に、平等の関係に、縦関係から同等で対等で水平の関係の成人にと導くこと

なのです。  それはキリストが僕となられ、仕える者となられたそのお姿を見習い、

そのお姿のようになるためなのです。  そのようなわけですので、両親と子供たちと

の関係に横たわっている原則は、使徒パウロがエペソ書5章と6章で語っている他の

いろいろな人間関係と全く同じことなのです。

 

  このようなわけですから、使徒パウロが教会において男と女を共なる関係において

語る時、パウロが他のいろいろな関係と関わる時と同じ扱い方で臨むであろうことは

容易に予測できることなのです。

  ローマ政府の暴政を攻撃するのに決して焦って急がなかったのと同様に、あるいは

奴隷制度を転覆・廃止せることにも焦って急ぐ素振りを見せなかったように、パウロ

は、男が女を社会的に支配している現実を大急ぎで変革してみようなどという態度を

微塵も示さなかったのです。

  ローマの権力に柔順であるようにと教え、奴隷たちには彼らの主人に従うようにと

教えたのと同じように、使徒パウロは、妻は夫に従うようにと説いたのです。

  それと全く同じ精神で、同じ心で使徒パウロは教会の女性たちに謙虚な心で静かに

学ぶようにと呼びかけています。  そして、それだけではなく、第1テモテ書2章の

11節と12節や第1コリント書11章で、女が男を教えたり、男の上に権威を持ってみた

りすることを許さないと、そのように説いているのです。  パウロの実践方法という

のは、男が教会で長老や執事として仕えるようにということでした。

(第1テモテ書3章)

  パウロは、第1コリント書11章で、この原則の具体的な適用を語っています。

それはどういうことであるかと言いますと、「夫は妻の頭であり、男の頭はキリスト

であり、キリストの頭は神である」と述べていることです。

  このことを論拠にパウロは男が祈る時、頭に被り物を着用しないが、女はベールを

着用すべきであると主張しています。  それは男が髪の毛を短く刈る一方で女の髪の

毛は長くあるべきだと主張しているのと同じ論拠からです。

  さらに、ここでパウロは、女は男から創られたのであって、女から男が創られたの

ではないと訴えています。  ベールに関して、パウロがこのように述べているのは、

パウロが既存の社会的諸慣習を徹底的、或は過激に変革しようとする動きに対しては

賛成していなかったという姿勢を明確に示したのです。

  パウロはクリスチャンとなった女性たちが、彼らがキリストに在って新しい自負心

や自由を手に入れたことに目覚めたからといって、異教徒や未開の僻地に住んでいる

気の毒な無数の女性たちの状況と比べてみたり、彼女たちがクリスチャンになる前の

彼女ら自身の古い在り方と比較してみて、キリストを信じた者としての、今の自由な

自分たちの在り方と比較して、彼女らの社会的地位が高められているからといって、

男に対して闘争を挑むようなことのないように願っているのです。

  もしそのようなことになれば、それは必ず男たちの怒りを必ず招き、力による逆襲

を招く可能性があるとパウロは考えていたからです。  そのようなわけで、パウロは

いろいろな理由を挙げて女性がベールを使うことを支持しているのです。

  13節でパウロは、女性たちの礼儀を弁えるという感覚に訴えています。  14節では

自然そのものの秩序ということに訴えています。  15節では類似類比論法を用いてい

ます。  そして最後に16節でパウロはどのようなものであれ、闘争的・係争的な精神

的態度を明白に拒絶しているのです。

  これらすべての点において、パウロの一貫した原則というものは、どのような形で

あれ、人間関係を根本的に変えようと試みる手段として、力による対決方法を用いる

ことに対しては、これに抵抗し警告するということにあります。

  パウロは、女性が男性に公然と反抗し、敢然と立ち上がって争いを挑むということ

を見たくないし、見たいとも欲していないのです。  それは奴隷たちが奴隷所有者に

奴隷解放闘争を挑むのをパウロが見たくないのと同じであり、またクリスチャンたち

がローマ官憲の権力に反逆するのを見たくないのと同じ原理に立脚するものです。

  これらの反乱は、古から存在している闘争の新しい形にしか過ぎず、さらなる力の

闘争を招くだけだからです。  それらはすべて僕としてのキリスト、仕える者として

のキリストの精神と実践方法とは相容れない、真っ向から対立するものだからです。

  それらは、呪いと憎悪を恒久化させるのに役立つだけであって、復元と和解の道を

妨害するだけだからです。

 

  以上のような文脈においても、また他の箇所においてもそうであるように、パウロ

は繊細・巧妙に違った新しい関係に導こうとしているのです。  それは同等・平等の

関係を目指す方向への道です。  11節と12節でパウロは以下のように書いています。

  『ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。  それは、

女が男から出たように、男もまた女から生まれたのである。  そして、すべてのもの

は神から出たのである』…と。

  ここで使徒パウロは、男も女も同じようにお互いの関係をキリストに在って眺める

ようにと呼びかけています。  「主に在って」ということを強調しているのです。

  そのような視点からパウロは見ているのです。  お互いがお互いに依存しあわない

方向、すなわち、あたかも自分独りで成り立っているような姿勢、相手の存在を無視

するような傾向、相手の存在の必要を認めようとしないような態度、相手に依り頼ま

ないで自分だけですべてをやってしまおうとするような傾向とか、あるいはその反対

に、お互いがお互いに競い合うような方向に動くことではなくて、むしろ、お互いが

お互いに依り頼む必要があること、男と女が相互依存の必要性を認め合うこと、その

ような視点から語っているのです。  パウロの焦点とは、男に対して、男というもの

は女に依り頼む存在であるということを覚えさせようとすることであり、同じように

女もまた男に依り頼っている存在であるということを、女にも理解させようとするこ

とです。

 

  使徒パウロはここで教会における男と女の関係を、他の関係、すなわち治める者と

治められる者との関係、主人と奴隷との関係、夫と妻の関係、両親と子供との関係と

同じ論拠から語っているのです。  これらの関係をおとして一貫している使徒パウロ

の姿勢は、別な言葉で言い表すならば、以下のようになります。

 

  1.  どのような形であれ反抗ということに対してはこれを排斥し、どのような人間

関係においても下の位置に置かれている者たちが、あるいは歴史的に見た時に社会的

不正・不義の犠牲者たち、すなわち、暴虐な為政者の下に置かれている虐げられた者

たちや、奴隷や、妻や、子供や、教会にいる女性たちが、服従することを命じている

のです。

  2.  そしてパウロは、この服従というものを主への服従であると釈明しているので

す。

  3.  パウロは、エデンの園で男女が罪を犯して堕落してからというものは、歴史的

に見た時、権力のある側に立つ者に対して、すなわち支配者たち、奴隷の主人たち、

夫たち、父たち、教会の男たちに対して、彼らもまた同じように主の下にいることを

思い起こさせています。

  4.  そしてさらにパウロは、力の地位、力の関係というものの意味を、キリストが

己を全く空しくされたという視点から、お互いに頼りあっている関係に、相互に従属

している関係に、あるいは僕であるという視点から、仕える者であるという見地から

定義しているのです。

 

  すべての人間関係を以上のような一貫した姿勢で建白することにより、使徒パウロ

は、どのような人間関係であれ、いろいろな関係のすべてが主の下にあるということ

において、共通した、共同の、お互いがお互いを補い補われている関係にあることを

認識するようにと呼びかけているのです。  それは上記1.2.で明らかです。

  このように、力関係にある両方の側が認識し合うことから、そこで今ひとたび純粋

に双方が神さまの天地創造の初めにお考えになっていた関係、エデンの園で男と女が

罪を犯して堕落するより前に満喫していた関係、すなわち、均衡のとれた関係、均整

のとれた関係、同等関係、水平関係、補ったり補って貰う関係を取り戻すことが可能

となって来るのです。  1.4.とです。

  このような方法によって、力による闘争というものを経ないで、いろいろな関係の

復元・修復が可能となるのです。

 

  使徒パウロは、権力を行使できる立場にいるいる者たちが、彼らの権力下に置かれ

ている者たちをいつまでもその支配力の下に置いておいて良いなどと決して語ってい

ません。  使徒パウロは、支配者たちが彼らの民をいつまでも従順に服従させておい

て良いなどと語っていないのと同じように、奴隷保有者たちが奴隷制度をいつまでも

維持してよいなどと説いてもいないのです。

  それと同じように、夫たちも彼らの支配権を彼らの妻たちに対して行使してよいな

どと語っていませんし、父親たちが彼らの子供たちに盲目的な服従を強いてよいとも

勧めていません。  それと同じように、教会の中で、男たちが女性に沈黙を守るよう

に勧告しているわけでもなく、女性たちを教会の職務から遠ざけようと勧めているわ

けでもありません。  むしろ使徒パウロが語っていることは、権力の座にいる者たち

が常に自分を空しくして仕える者の場を、姿を採るということです。

  ここまでで語ってきましたことが帰着する点とは、お互いが神さまの下にあっては

仕える者の姿を担う、僕の場を採るということに尽きるのです。

 

  パウロがこれらのいろいろな人間関係に接する時の態度は、常にキリストご自身の

方法と合致していて矛盾がないのです。  イェスさまが接触なさる種々の人間関係を

眺めて見て教えられることの一つは、女性を高められたということです。  そして、

イェスさまはご自分の男の弟子たちに対して僕の道を採るように教えられたのです。

 

  ここで注目すべきこととして、使徒ペテロも、これらのいろいろな人間関係を扱う

にさいして、使徒パウロと同じ態度で臨んでいるということです。

  ペテロはクリスチャンたちに対して、主のために、人間が設定したすべての制度や

機関に服従するようにと勧めています。  これには何と、ペテロが手紙を書いていた

時に、まさしくクリスチャンたちに対する迫害が切迫していた時でしたが、それでも

最高の座に坐っていた皇帝にさえ従うようにと進言していたことを含むのです。

(第1ペテロ書2章13節)

  16節でペテロは、『(奴隷でない)あなたがたは、自由人としてふさわしい行動を

しなさい』と勧めています。

  さらにペテロは、僕たち(奴隷たち)に対して『畏敬の念をもって、たとえ意地の

悪い人であっても主人に仕えなさい』と18節で述べています。  さらに18節~25節で

ペテロは、僕たち(奴隷たち)の模範として、苦難の僕としてキリストの姿を語って

います。

  3章1節~7節でペテロは『同じように』という言葉を用い、苦難の僕キリストの

姿を模範として、妻たちに対して夫に仕えるように勧告しています。  ここでも苦難

の僕が模範として適用されているのです。

  さらに7節において、『同じように』という表現をペテロは再び用いて、苦難の僕

キリストの姿を模範として用いて、それを主人たちの妻に対する関係に対しても適用

しているのです。  夫たちは彼らの妻に対して尊敬の念を表わすように告げています。

  人がエデンの園で堕落してから以降、男性が権力を握り続けており、女性は無力な

状態に置かれている現実を踏まえ、妻たちが夫たちよりも「より弱い」立場に置かれ

ているのが現実であるとペテロは認めた上で、妻は夫と恩寵を「一緒に受け継ぐ者」

であるという観点から、夫は妻に尊敬の念を払うべきだと述べています。  これは、

創世記1章26節~28節が語る「一緒に支配し・所有し・統治する」という概念を再度

私たちに思い起こさせているのです。

  ペテロは、これらすべての人間関係について論じる時、抑圧「下」にある者たちに

対して、権力闘争という間違った手段に訴えてこれを是正しようとすることを戒めて

います。  ペテロもまた、苦難の僕としてのイェスさまを引き合いにだして、両側に

自制を呼びかけているのです。

 

  不平等な人間関係の回復と調和というものは、エデンの園での堕落と追放から来る

古い権力闘争を新しい形にして促進することでなし遂げられるものではありません。

  そのような新しい関係とは、キリストの御心からだけ生まれて来るもの、キリスト

の霊によってのみ始まるもの、キリストの精神に従った時にだけ可能なものです。

  すなわち、僕の道からです。  そして、不平等な関係にある両側、上下関係にある

両側に、主従関係にある両側に、次第に浸透し始め、拡がり始めるのです。

そうして、そのような関係の変化が両者の間に生まれ始める時に、真の均整のとれた

関係、同等関係、水平関係、対等関係が、エデンの園での堕落以前に二人の間に存在

していたように、育ち始め、繁栄して行くのです。

  パウロもペテロも、キリストと同じように、そのような新しい関係、新しい秩序が

更新するために必要な充分な時間を歴史に与えて、歴史がおのずからそのように動く

ようにと意図しているのです。

 

  民主主義が(訳者注:米国で)確立されるまでにはずいぶんと長い年月を要したの

です。  しかし、世界全体を眺めてみますと、それはまだまだ限られたものですし、

不安定で当てにならないような状態にあると言えるでしょう。

  しかしながら教会にとって、民主主義という政体は、神さまの御旨に適う最も近い

政体であるということはかなり明白だと言ってよいでしょう。  それは、より正確に

言いますと、基本的人権、万人平等と正義の原則、そして神の下での基本的自由など

が必然的に含まれ、かつまた、それらが大切なものとして考えられているからです。

そうでなければ、別な言い方をしますと、それらが少なくとも可能であるということ

です。

  キリスト以降の西洋の歴史には暴虐な政治形態をたくさん含んでいました。

宗教改革において再発見された聖書的諸原則、特にジュネーヴでJ・カルヴァンや、

あちこちにいた彼の信奉者たちによって明らかにされ、遂行された聖書的諸原則が、

民主主義を浮かびあがらせ、促進し、育つようにと肥沃な土壌を提供したのです。

  その結果とは、キリストの教会としての私たちが、過去に後戻りして、暴虐な専制

国王らが、俺たちには神さまから与えられた特権を有しているのだ、などと主張する

ことを暗に含蓄するような政治形態を支持することなど、もはやとうていできないと

いうことです。  こん日では、民主主義を守るためなら己の命を捧げてもよいという

人々が多いのです。  なぜならその人々は民主主義というものは神の御旨に適うもの

だと確信しているからです。

 

  奴隷制度の廃止ということは、歴史の営みの中で考えてみますと、民主主義の成長

過程と比べてみて、さらに長い年月を要したものです。  そしてそれに随伴する人種

差別というものは現在に到るまで私たちと一緒にあります。

  しかし、これらの事柄において神さまの私たちに対する御旨は、それらを排除する

ために私たちが取り組まなければならないことがどんなにか困難に思えても、それを

遂行するのが神さまの御旨に適うものであるということは、これはもう明らかです。

  ここで確かなことが一つあります。  それは、使徒パウロが僕ら(=奴隷たち)に

向かって主人に従うようにと命じていますけれども、私たちが奴隷制度や人種差別に

反対するように私たちを仕向けるだけの充分な聖書的根拠があるということです。

 

  女性同権・平等さということも今や(訳者注:1980年代)問題になって来ました。

この問題は、人類の歴史の中において解決をみるのにさらにもっと長い時間を要した

ものです。  しかしながら、ひとたびこの問題と向き合った以上、そしてキリストの

方法によって、すなわち、お互いに仕えあうという形でキリストに従うということに

よってひとたび広がり始めた以上、そしてまた、私たちの生活の場でこの分野の回復

を試みることに着手してしまった以上、男と女との間に均衡の取れた、お互いに助け

合い補い合い、しかも平等で対等な関係を回復する作業に取りかかった以上、私たち

に時計の針を逆方向に回すことはもはや許されないことなのです。

むしろ、これもまた、聖書をとおして、このことが神さまの御旨であると示されたと

私たちが確信する以上、ただ前進あるのみです。

 

  このような歴史理解を持つということは、私たちの先祖(訳者注:先駆者・先輩・

開拓者の意)が間違っていて、私たちが正しいとか、先祖たちの聖書理解が間違って

いて私たちの方が賢いのだ、などという驕慢さを許すものではなく、そのような驕慢

な自尊心を阻止するものなのです。

  そのような尊大さを防ぐものとは、こん日私たちが取り組んでいる女性同権・平等

問題というものは、先祖たちの努力があったからこそできるのだという理解です。

  先祖たちの働きがあったからこそ、神さまの御旨の一つの表現方法として、現在の

民主主義というものが可能となったのです。

  先祖たちが、どのような形であれ奴隷制度や人種差別というものがキリストの道、

キリストの精神とは全くの正反対であると認識して努力をしたからこそ、今の私たち

が目的に向かってさらに前進することができるのです。

  先祖たちが洞察し、そして築き上げて来たものを基礎として、その上にだけ私たち

はさらに積み上げて行くことができるのです。

  万民は平等で同権であり、正義も同じだとする理解が共通の関心ごとであるという

民主主義の風潮と土壌においてのみ、男と女の完全な平等・同権という論争は生まれ

てくることが可能なのです。

  そして、そのような確信の風潮と土壌というものが、僕としてのキリストの精神と

共に久しく普及し始め、長期にわたって耐え残ることが可能なのです。

  そして、そのキリストの僕であるということ、キリストの僕さということ自体が、

生得的に神さまの御旨と権威と共に、授けられているのです。

 

 男が頭であるということの原則

 

  男であれ女であれ、教会のすべての職務に任命することの妥当性を認めさせること

への最大の障害とおそらくなるものとは、男が頭であるとする聖書的原則であろうか

と思われます。

  この原則を念頭に、1978年の*クリスチャン・リフォームド・シノードは、女性が

執事職に就くことを、「監督たちの職務・地位と明白に区別されること」を条件に、

承認したのです。  このことから推測されることは、長老たちが教会を「治める」と

いうことです。  長老たちが教会員たちの「上にあって」治める「権威」を保有して

いるということです。  女が男の上にあって男を治めることを許さないということで

す。

  執事たちは教会の中で長老たちと共に、執事としての役割で活動するのですから、

シノード、すなわち、大会の決定した上記条件は、執事として活動する女性が教会の

中で男性の「上」にあって権威ある地位を占めるようなことがないようにする安全弁

を置いたものと思えます。

  あるいは、男はその妻の頭であると第1コリント書11章とエペソ書5章で語られて

いますので、懸念というのは、教会の中で執事としての職務を果たす女性が、教会の

中で彼女の夫の「上」に権威を振るわないようにということなのかも知れません。

  (もしそのことが懸念材料になるのであれば、それならいっそうのこと、独身女性

か宗教的信念から独身主義を貫いている女性たちに長老や牧師の職務を担ってもらえ

ば、それで良いのではありませんか!)

 

  ここまでのあいだ、聖書的・神学的原則に照らしあわせてご一緒に考えてきました

ように、男が頭であるという原則について、そのことを結婚と教会の職務という観点

からさらに考察して見ましょう。

 

  最初に、「頭」という概念は、夫が妻の「上にあって支配する者」という、エデン

の園での堕落から由来する概念の代案、または対比だというように考えられると思い

ます。  「頭」であるという人物は、最初に行く人、率先する人だとも言えます。

最初に行動を起こす人であり、導く人であるとも言えるでしょう。

 

  しかし、この場合、この人が導くということは、彼のあとに従って来る人たちも、

最初に行く人と一緒に、同じ場所に到着し、同じ地位に着くということを意味するの

です。

  この意味で、キリストはまさしく卓越した「頭」でいらっしゃるのです。

キリストは墓からよみがえり給いました。  それは、キリストに従う私たちが新しい

いのちを得るためであり、そしてまた、やがていつの日にか死者の中からよみがえる

ためなのです。

  キリストは父なる神さまの右手にあって支配されていますが、それはやがて私たち

もキリストと共に治めるようになるからです。

  「しみも、しわも、そのたぐいのものが何もいっさいない」お方であったキリスト

が導かれるのです。  ベツレヘムからゴルゴダまでの道を、墓から神さまの右手まで

の道のりを導かれるのです。  それは、エクレシアである私たちもキリストがおられ

る所にたどり着けるためであり、キリストご自身に似た者となれるためです。

それはエペソ書5章27節が語るように、「栄光の内に」「しみもなく、しわもなく、

清く傷のない者」となるためなのです。

  ロマ書6章でこのことを、来たるべき約束と現在の現実であると告げています。

私たちは、(訳者注:バプテスマをとおして)キリストの死と、その復活において、

キリストと一つとされているという現実があります。

  しかもキリストは「初穂」(訳者注:最初の実・第1コリント書1520節~22節)

でいらっしゃるのです。  キリストは自ら率先して、まずご自身を仕える者とされ、

一貫して僕の姿を採り続けることを私たちに示して、そしてそれは十字架の死に到る

まで(ピリピ書2章6節~8節)僕の道を選ばれたのです。

  そのようなわけですから、「頭」であるという概念は「僕」である、「仕える者」

であるという概念と分離できないのです。

 

  それでは、キリストを模範にして、夫がその妻の「頭」であるということは、どの

ような意味なのか(ピリピ書2章5節、エペソ書5章23節、第1ペテロ書3章7節)

ということですが、それは、夫が自ら率先し、導き、キリストの道、キリストの方法

を、僕の道を、仕える者の道を、自ら例証し、結婚関係に課せられている呪いの結果

(訳者注:エデンの園での堕落・創世記3章16節~19節)を無効にすることです。

結婚関係における力の闘争に自らを巻き込むことなく、それを拒否することです。

妻が夫に仕えるように、夫も妻に仕える僕の道を、キリストがそうであったように、

自ら選ぶことです。

  このような方法で、夫が享受している名誉の地位を、妻も同じように名誉の地位を

夫と享受できる道を回復することができるのです。  そしてこれこそ最初に男と女が

享受していた姿なのです(創世記1章26節~28節)。

  しかしながら、夫が頭として、キリストの例に倣って己を空しくするという姿勢を

とることを拒否し、あいかわらず妻の上で力ある者としての地位をにぎりしめたり、

保持し続けることに執着したりするかぎり、このことは決して起るものではありませ

ん。  頭であるということは仕える僕としてのキリストご自身に生得的に備えられて

いた神さまのすべての権威に帰すること、キリストのすべての権威の中に備わってい

ることなのです。

 

  いかなる形にせよ、エデンの園での堕落以降、補完関係において「上に」ある者は

キリストにあって使命が与えられているのです。  そしてその使命とは、キリストと

共に「頭」となるためにキリストの権威のすべてを生得しているということであり、

堕落以降こん日に到るまで「下」に置かれている者たちと共に、補完関係を再建する

ための道を先導するということなのです。

  このような理由があったのでイェスさまは男性をお弟子として選ばれたのです。

「上」にある者たちが、具体的には、家庭にあっては夫が、教会にあっては男性が、

この一連の作業で先導的な役割を担うことにより、古い権力闘争を新しい形へと転じ

ることが有意義にできるのです。  神さまが男性と女性を創造なさった時に意図され

た関係、すなわち、男と女がお互いに補い合う関係、均衡の取れた関係、同等関係、

水平関係へと私たちは移れるのです。

 

  それですから、頭としてのクリスチャンの夫の使命とは、妻に対して、結婚生活に

おいて、彼女自身が完全に対等なパートナーとしての体験を味わうことができるよう

に彼女を励ますことです。

 

  そして、教会における男の使命とは、キリストのすべての権威と共に、彼ら自身の

指導力を発揮することです。  すなわち、頭として、彼ら自身と同じように、女性が

完全に男性と平等であるような地位にまで彼女たちを高めることです。  そのことは

家庭であれ、社会においてであれ、言うまでもなく教会の中では当然のことです。

 

  第1コリント書11章で使徒パウロは、頭というものが持つピラミッド型階級制度を

理解することが大切であると考えています。  神さまが上にいらっしゃり、キリスト

の頭でです。  そして明白なことは、頭としての神さまがまず率先して道を導かれ、

ご自身の独り子、メシアを送られ、僕として受肉させられたのです。

  それですから、私たちの完全な贖いと回復は、キリストを送り込むという神さまの

お働きに由来するものであり、またそのお働きから始まったのです。

  キリストの僕でいらっしゃるということの生得の権威は神さまご自身から出ている

のです。  そして、キリストは男の頭でいらっしゃいます。  そのキリストが私たち

を導いてくださり、キリストの性格、在り方、己を空しくする僕の姿などを私たちも

具現することができるようにと導いてくださるのです。

  男もまた、己を空しくするという僕の道に従うことによって、キリストのその権威

を具現することができるのです。  そして彼女の夫は彼女の頭なのです。  僕として

の夫の使命は、彼の妻を導いて、彼と同じように仕える僕の姿に、位置に妻を導き、

高めることなのです。  彼が仕える僕の道を選ぶということは、彼の妻が仕える僕と

なることの評価と価値を正当化することになるのです。  このようにして夫婦関係、

結婚関係における権力闘争は除去されるのです。

 

  基本的な聖書の原則は教会において頭であるピラミッド型階級制度に対して辛辣な

表現で応えます。  それは、エデンの園における堕落によってもたらされた権力闘争

に対する答として、贖いと回復というものは「上」から下にという形でのみ得られる

というのです。  「上」に在る者がまず率先して己を空しくし、仕える僕となること

によって、「下」に在る者が正真正銘に平等で対等な状況と地位にまで高められ引き

上げられるというのです。

  この頭としての教会のピラミッド型階級制度の内に、天地創造のときに定義された

関係が保存され、また復元されているのです。  神さまは無類な神として、キリスト

とすべての人間の上に在って、補完関係において、存在されておられるのです。

  そしてまた、すべての男性と女性は、すべての人間は、神さまの似姿を担う無類の

存在として、神さまが本来意図されていた、神さまがお創りになったすべての創造物

の上に在って、男と女が共に対等の立場で、それら被創造物を治めることをふたたび

可能にして下さったのです。

 

  これまでに学んできた光りに照らしあわせてみますと、男性が頭であるという概念

と、教会のいろいろな職務に女性を任命するという概念との間になんら対立はなく、

むしろ両者の間には美しい調和が存在しているということです。

  もちろん、女が教会で男の「上で権威を持ったり」権力の地位を握り締めないよう

にと案ずるのはまともなことであり、聖書的なことです。(第1テモテ書2章12節)

  聖書は明白に、そして一貫して女性が男性に対して権力闘争に従事することに警告

しています。  男が上という主従関係を女が上という主従関係に逆転させようとする

試みに聖書は注意を促しています。  それは女性を教会の職務に任命するということ

の主旨ではないのです。  教会の職務に授けられた権威は、いかなる意味でも創世記

3章16節の呪いに含蓄された根拠や力に由来するものではありません。  教会の職務

は、むしろ創世記1章26節~28節に由来するものであり、キリストにおいて受肉し、

仕える僕としてのキリストに受肉し具現化したものです。

 

  これと同じ観点は第1ペテロ書5章1節~6節においても見ることができます。

ここでペテロは長老たちに「群に仕えなさい・群の世話をしなさい」と勧告していま

す。  群に仕えることにおける権威というものは、「キリストの苦難の証人であり、

同労の長老の一人」としてなのです。  長老たちの模範は苦難の僕なのです。

  ペテロのいう「群に仕える・群の世話をする」ということがどのような意味をなす

のかということのペテロのさらなる説明は、他の人々の上にいかなる形であれ権力を

振るうことを否定するというものです。  「無理やりにするのではなく、自ら喜んで

やり、恥ずかしい利益(権力と金銭)のためにやるのではなく、自分に託された人々

を支配するのではなく、群の模範となるように」ということです(2節~3節)。

このような方法によって「しぼまない栄光の冠」がやって来ると4節は言います。

仕える僕の方法による生得にキリストの権威があります。  長老たちに具現化された

そのような権威に対して若い者たちは服従しなければなりません(5節)。

  ペテロは、教会の中のすべての均衡の取れた関係、相互の関係を、次のように結論

づけるのです。  すなわち、「お互いに全員が謙遜を身にまといなさい。  神さまは

高慢な者に反対なさるけれども、謙遜な者には恩寵をお与えになります」(5節)。

  このようにして、「神さまの力強い御手のもとに」すべての人々はお互いに対して

均衡のとれた平等で対等な関係の中で、仕える僕としての謙虚さという共通のきずな

によって一つとして結びあわされるのです。  しかも同時に私たちは「力強い神さま

の御手の下」にあって、お互いに神さまから補って頂き、全くして頂いているという

補完関係にあるのです(6節)。

  長老たちの権威には、どのような形であれ「上」に在って支配すること、いかなる

権力・権威の行使というものを明確に排除しているのです。  長老たちの権威には、

苦難の僕の凡例の内に具現化された共通の、お互いへの謙虚さというものを本質的に

含蓄するものです。  そして女性は、生得的に同じように男性たちと共に教会のこの

権利を具現化するのに適しているのです。

 

  このような聖書的・神学的な文脈の中でガラテヤ書3章26節~28節は深遠な意味を

なすのです。  (以下野村仮私訳で)

    『なぜなら、キリスト・イェスに在って、信仰をとおして、あなたがた

    すべては神さまの息子たちなのです。  キリストへとバプテスマされた

    あなたがたは、だれもがキリストを身にまとったのです。

    そこにはもはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、

    *「男性も女性もない」のです(*著者の強調点)。

    なぜなら、キリストに在ってあなたがたはすべて一つとなっているからです』

 

(訳者注:所有しています数種類の日本語訳聖書はいずれも「神の子」「神の子供」

と訳していますが、原語はヒュイオイで「息子たち」の意です。  フーグランド博士

が意とされる観点からは「息子たち」という原語をそのまま使ったほうが良いと思わ

れます。)

 

  全員すべてが一体、全員すべてが「息子たち」なのです。  奴隷や奴婢ではなく、

「息子たち」なのです!  女性たちではなく「息子たち」なのです!

「息子たち」というのは、彼らの父から父という地位が持つあらゆる特権、すなわち

権利や権威を含めて、すべてを相続する者たちのことをいうのです。(同3章29節、

4章1節および7節)キリストに在って、すべての人がこの地位に引き上げられてい

るのです。  そこには区別や差別はまったく存在しないのです。

  そこでは、古い人間の上下関係、一方が上で一方が下という関係はないのです。

エデンの園での堕落から延々と続いてきた古い補完関係というものはもはや適切では

ないのです。  キリストに在るすべての人の間において、均衡の取れた関係、平等な

関係、水平の関係が可能となったのです。  ユダヤ人とギリシャ人との間に、奴隷・

奴婢と主人との間に、男性と女性との間に、夫と妻との間に、一つとされた者たちの

間に、もはや区別や差別は存在しないです。  すべての者が「息子たち」なのです。

キリストに在って…です。  そしてそれは、教会の中にあってはなおさらのことなの

です。

 

  パウロはこの主題をガラテヤ書の中でさらに発展させています。

5章では、キリストに在って私たちのものとされた新しい自由を称揚しています。

  諸教会が、与えられた新しい自由に「しっかりと立って」、「奴隷のくびきの下に

ふたたび屈することのないように」と(1節)、穏やかではありますが、厳しく注意

しています。  パウロは諸教会に対して与えられた新しい自由を「肉の権力闘争への

機会に」用いないようにとも警告しています。  そしてパウロは、キリストに在って

その自由がどのように使われるべきであるかということについても触れています。

すなわち「愛をもってお互いに仕えあいなさい」(13節)です。

  ひとたびこのキリストに在る自由が教会の中で男性と女性との関係において味わい

知られたならば、私たちは二度とふたたび昔の一人が他者を支配するというくびきに

戻ることはできなくなるのです。

 

  ガラテヤ書3章28節を、それだけで他の聖書箇所から切り離した状態で読むとすれ

ば、教会のなかで女性たちを教会の職務に任命することを許すわけにはゆかないと、

そのように余儀なくさせられるでしょう。

  しかし全体的な聖書的・神学的観点から眺めてみますと、創世記1章26節~28節に

明記されている男と女が共に治めるということが妥当であり、創世記3章16節に示さ

れている呪い、すなわち、夫が妻を支配するという法則がまちがっているということ

は明白です。

 

  教会が規律を行使するということすらも、職務の権威に関する以上の理解から見て

みますと合わないものとなります。  実際にはかならずしもそうでないのかも知れま

せんが、教会の規律を行使するに際し、規律を「受ける側」の者に対して、長老たち

が「上」の立場に立って規律を課す、すなわち、「与える」るというわけではありま

せん。  観念的に言えば長老たちは仕えているのです。  いや、それ以上に、教会が

イェス・キリストの僕としての性格を保持するために教会が忠実に活動できるように

との制限を与えるものなのです。

  教会の職務の権威というものが、仕える者の役割を生得しているのだと充分に理解

されれば、教会の職責に女性を任命することに何も矛盾はないのです。  女性たちは

仕える役割に慣れているので、エデンの園の堕落以降支配することに慣れきっている

男性たちに対して、教会の職務に就任する女性たちは効果的に男性を補佐することが

できるのです。  そしてさらに、女性たちは、仕えるということがどのようなことを

意味するのかを充分に掌握することになるのです。

 

  教会の中で、女性たちが男女の平等さを達成するための適切な方法というものは、

もちろん教会の職務を含めてのことですが、それは女性が男性に対抗する権力闘争を

始めるというような方法や手段をとおしてということではありません。

  それはむしろ男性が頭として指導力を発揮し、教会のいろいろな職務に女性たちを

完全に平等なパートナーとして歓迎して受け入れ、さらにまた、そのことを認識する

ことから始まるのです。  そして女性たちも、キリストに在っては自分たちも男性と

完全に平等であるということを認めて、それらの職務を謙虚に受け入れることです。

  このような形においてだけ男性も、既存の権力の形態のまま、仕える僕の立場へと

己を謙虚に置くことを喜んで積極的に行うことができるのです。  そしてさらに女性

は女性で、女性たちが今まで一度も味わったことのない権力と権威の座へのゆがんだ

掌握欲の誘惑に打ち勝って、キリストが主であり頭であるという支配の下に、同労者

として、共に仕える者として、男性と一緒に加わることができるのです。

  このようにして、女性がキリストの教会の諸職務に任命されれば、権力闘争という

ものは生まれてこなくなるのです。  一つの性が他の性の上にあって支配するという

問題はなくなるのです。

 

  しかし、上記のように、もし教会の男性たちが頭として、頭の役割を行使すること

を、仕える僕として、僕としての仲間の女性たちを、そして、すでに学びましたよう

に彼女たちは神さまの「息子たち」ですが、その彼女たちを歓迎することを男たちが

怠ったり、期待を裏切るようなことをすれば、彼女たちによる権力獲得闘争が増え、

また、そのような動きを招き入れる可能性が出てくるのです。  そのような権力闘争

の逆の道というのは、キリストの僕の道なのです。  この地上の上にキリストの王国

を設立するための神さまの目的を達成する方法手段として、このキリストの道という

ものを神さまがお使いになったのは、決して初めてではないのです。

  (どのようにして北米で民主主義が達成され、奴隷制度が廃止され奴隷が解放され

たのかを考えてみて下さい。)

  私たちは、女性が男性に対して挑むそのような権力闘争を、どんなにか思いとどま

るようにと叫び、どのように嘆かわしいことかと非難するのですが、しかしながら、

そのようなことを用いて神さまが神さまの教会を懲らしめ、神さまの御旨を達成なさ

るために、神さまが神さまの主権の内で、そのような可能性を用いられることを排除

することもできないと思います。

 

  教会のすべての職務に男性と一緒に女性を招き入れ、任命することは、男性が頭で

あるという聖書的・神学的原則を否定したり無視するということでは決してないので

す。  むしろそのことは、男性が頭であるということの、物事の奥底までを見極めた

造詣深い実践であり行使だと言えるのです。

 

 

  結論:  規範満たされる

 

  今回の学びの最初で私たちは三つの規準を使うことを確認し、それらの規準によっ

て教会の諸職務に女性を任命することに関する政策を変更する提言をするにあたり、

そのことが充分に正当な理由を有するものなのか、また強制するだけの聖書的根拠を

有するものかどうかを考えてみました。  そしてこれら三つの規準は十分に満たされ

たものと考えます。

 

  教会のいかなる職務であれ女性を任命すると決める際の基準は、天地創造、エデン

の園での堕落、そして贖罪に関するキリスト改革派教会の聖書的・神学的な理解から

出てくるものであり、そのような信仰理解を構成するものだということです。

 

  天地創造を考察するとき、神さまがご自身の姿(訳者注:イメージ)に人を創造さ

れ、神さまは男性と女性に共有の支配権をお与えになり(創世記1章26節~28節)、

それは神さまの独創的な意図(26節)と創造(28節)であり、女も男も一緒に平等に

支配権を行使するのに適うものであったのです。

  不平等さ、すなわち、女が男の支配下の従属的地位を占めるという不均等さという

ものは、女が教会の職務から排除されているということを示しているのです。

そしてそれは、天地創造に由来するものでもなく、(訳者注:十字架の)贖罪に由来

するものでもないのです。  権力闘争を導入した堕落と呪いから出てきたものなので

す。  それは創世記1章28節には全く異質なものなのです。  それはその後のすべて

の人間関係に侵入してきたものなのです。

  呪いを打ち負かす勝利のキリストの道は、権力闘争という手段に訴えて権力闘争を

克服して回復を試みようとするような誘惑を一貫して拒絶するものであって、創世記

1章26節~28節で述べられている支配権と調和するものなのです。  キリストが己を

空しくなさり仕える僕の姿をお採りになったことは、そのような支配権と権威を具現

化したものなのです。

  仕える僕の道を選ぶようにと、イェスさまは弟子たち(私たち)と教会をも招いて

おられます。  使徒たちは主だった不平等な人間関係を選びだし、その両方の側が、

すなわち、「上にある者」も「下に置かれている者」も、共に同様に仕える僕の道を

選ぶように招いています。

  女性も、家庭で夫に従うのと同じように、教会でもそうあるように勧められていま

す。  それと同じように夫たちも、キリストが仕える僕でいらっしゃるように、その

ことを模範として、従うように勧められています。

  このような方法で、新約聖書が明白に語るように、エデンの園での堕落に由来する

不平等な人間関係をさらに強化しようとするいかなる試みからも遠ざかり、意味ある

平等な人間関係への回帰を承認できるというものです。

  この移行は創世記1章26節~28節とガラテヤ書3章26節~28節との相関関係で最も

明白に表現されています。  本来の支配と主権というものは、堕落の後では独占的に

男性とその息子たちの手に落ちてしまったものですが、今やキリストに在って女性に

も男性にも、奴隷にもその所有者にも、適切に属するものとなったのです。  それは

すべての者が「息子たち」であるからです。

  キリストに在る女性は男性と同じ特権を持つ者であり、教会の職務に仕えるのにも

男性と同じように適しているのです。

 

  これまでに見て来ましたように、キリストと同じように弟子たちは、あたかも外部

からの力や権威によってであるかのように、教会内や結婚生活における男女関係に、

人間の政治の在り方や奴隷制度に持ち込もうとしていた、新しい、そしてそれまでに

経験したことのない平等性を、一方的に直ちに押しつけるような試みをしようとはし

なかったのです。

  目的の達成のための手段としての権力闘争を一貫して拒絶する原則、そしてそれは

仕える僕としてのキリストの道を肯定する原則が、(堕落以降ことごとに対立関係に

あった)人間関係の両方の側に今や適用されることになるのです。

  このことは、マタイ伝5章13節と1333節にしるされている地の潮やパン種が黙々

と働いているように、『すべてのものが新しくなった』(第2コリント5章17節)と

いう状態が歴史のひのき舞台の上でそれ自身で充分に活躍できるようにと時間を提供

することになるのです。

  このようなわけですから、女性たちに制限を加えていると思えるようないくつかの

聖句は、仕える僕というクリスチャンの中心的原則を具現化したものと同じ視点から

捉えることができるのです。  すなわち、「上」に在る者=「男」が己を空しくして

仕える者の姿勢をとるというクリスチャンの中心的原則を具体化するという視点から

それらの聖句を読むことができるということです。

  このような観点からみますと、男が頭であるという概念は、むしろ男性の優位さを

強化するということではなくて、女性たちを女性たちが当然与ってしかるべきである

(堕落以前に両者が共有していた)共同の支配権と平等性を回復するという作業に、

男性が自ら率先して指導力を発揮するようにと招かれているということを意味するの

です。  そうすることによって男女間のあらゆる種類の権力闘争を避けることができ

るのです。

  それらの聖句は、それですから、女性が教会の諸職務に任命されることに対して、

頭痛の種を投げかけたり障害になるということではなく、男であれ女であれ、教会の

諸職務に仕える僕として就任することの本質的な資格を指し示すものなのです。

  それですから、それらの聖句を「何とか適当に取り扱ってそれとなくことを運ぶ」

というようなことをする必要は全くないのです。  男性が、一見して女性の上に課せ

られたように思えるそれらの聖句を、自分自身に課せられたものであると理解する時

に、男たちはキリストに在って、また教会に在って、女性たちが彼ら男性と全く同じ

平等な立場に置かれているのだということを認識するのに困難を覚えることはなくな

るのです。

 

  今までに述べてきましたこれらの聖書的原則は、三つめの規範をも満たすものなの

です。  すなわち、一般社会における婦人解放運動をも厳しく酷評的に評価すること

ができるような聖書的・神学的規準を提供できるという点です。

  男に対する女のどのような運動であれ、それが新しいものであれ、教会内での運動

であれ、そのような運動を刺激し、それの目的を達成するための手段というものは、

聖書の基準から判断されるべきものなのです。

  その目的というものが両方の性の誠実で純粋な平等関係を達成させるためのもので

ある限り、そしてそこでは両方の性が他のもう一方の性に対して何らの差別もせずに

自発的に仕えるものであり、両方の性が一緒に益を得ながら、共に成長するものであ

る限り、その目的とするものが聖書の教えに適うものであると評価することができま

すし、そのような運動が存在し得ること自体が神さまのお働きによるものだと言える

のです。

 

  以上のように、天地創造、堕落、そしてキリストに在る贖罪というものが、改革派

教会の聖書的・神学的視点から考察して、女性を教会のすべての職務に就任させるの

に「充分かつ強制させる」根拠を提供するものであり、また、そのように教会の方針

を変えることを「正当化」し、「要求」すらするものであると結論づけるものです。

 

  提案

 

  イリノイ州オーク・フォーレストにあるホープ・クリスチャン改革派教会小会は、

南シカゴ中会の指導の下に執り行われてきましたこれまでの聖書研究の結果として、

中会に対して聖書の学びを承認されるように提案し、大会が必要に応じて教会規定の

変更を図り、提案されたことがらを施行するに必要な手段を採られるように提案しま

す。  それによって資格を満たす女性たちが男性と同じように執事や長老や御言葉に

仕える牧師として任命されることができるようになるためです。

 

 

  結論的根拠

 

  1.  創世記1章26節~28節が含蓄することは、女性がこれらの職務に就くことに、

        男性と同じように生得的に可能であるということ。

 

  2.  キリストに在る贖罪は天地創造のときの男性と同じ状態に女性を戻すもので、

        これにはガラテヤ書3章26節~28節ので謳われている「息子たち」としての

        すべての特権が含まれるものである。

 

  3.  女性を教会の職務に任命するということは、女性を男性よりもより優れた地位

        に置くということを意味するものではなく、女性が、仕える僕としての姿勢

        に含まれているキリストの権能を、男性と共に担うことができるということ

        を具体的に可能ならしめるということである。

 

  4.  男性が頭であるということは、男性が教会小会においても、中会においても、

        また大会においても、女性に与えられている才能を認めることであり、教会

        の職務と、その他の教会のあらゆる分野を含めて、女性が奉仕できるすべて

        の範囲を提供するということを意味するという認識である。

 

 

                                          書記署名

                                          書記  ジョン・ボンテケ

                                          ホープ・キリスト改革派教会

                                          1980年2月11日教会会議席上採択