《お盆と御先祖さまと天国》

 

  今朝の集会の開会祈祷は石井高司さんが捧げて下さいました。

その中で、主イェスが私たちの名前を呼んで招いて下さるという一句がありました。

主が私たちの名前を覚えていて下さるという素晴らしい確信に胸を打たれました。

 

  間もなくお盆が始まります。  人々の墓参が始まります。

茄子に割箸で脚をつけた人形を道端に置きます。  京都では大文字という行事があり

ます。  「各自の家庭に戻ってこられる御先祖さまたちの魂」に送迎の道案内をする

ためとか言われていたと記憶しています。

 

  お盆にお墓参りをしますと「先祖代々の墓」と刻まれた石碑をたくさん目にします。

それぞれの家庭に戻って来られるという御先祖さまのことですが、漠然としていて、

お名前を存知ません。  普通の場合ですとお爺さんとお婆さん迄なら覚えていますが、

曾祖父や曾祖母の名前となりますとほとんどお手上げ状態となります。

 

  この調子で行きますと、その反対に、お爺さんやお婆さんより以前の御先祖さまの

霊魂が私たちの名前をご存知でないこともあり得るかも知れませんね。 

そのようなことになれば、お互いにほんとうに困ると思うのですが…

 

  先週号週報で述べましたが、私の父は私が5歳の時に喉頭結核で帰天しました。

生真面目で社会正義感の強い基督者であったようです。  日本の社会的基督教運動の

初期の担い手の一人であったようです。 

父のことを叔父や叔母から聞いたことがありますし、写真を見たことがありますが、

私には父の記憶はほとんどないのです。 母はほとんど話してくれませんでした。

  それでは、私が主の一方的な恩寵で天国に行けるとすれば、その時に私は父を認知

できるのでしょうか?

 

  私たち夫婦には流産した子供がおりました。  命を神さまから頂いて母体に宿った

胎児ですから、とうぜんのこととして、魂があったものと信じています。

その子を、今では天国で立派に成長した人格となっているはずですが、私たちは天国

でその子を正しく認知できるのでしょうか? 

「お盆」という時期を前に、こういう素朴な疑問が涌いてくるのです…

 

       同じ年配の米国の学友・教友に電子メールを書く時の最後に、『主イェス・キリスト

が主催なさる天の王宮聖餐大宴会で間もなく再会しましょう』と書いて結ぶことが多いのです。

 

  毎週ひとまわりの初めの日に主の食卓に必ず与って五十数年になります。

そのたびごとに『主の死を示して、その来り給う時にまで及ぶなり』という聖句を読み

ますが、天の王宮での聖餐大宴会を私はまぶたにいつも思い浮かべています。

 

  おびただしい数の聖徒たちが集まって来ているであろうと想像しています。

その時に、両隣りの席に坐る人々を私は認識できるのでしょうか? 

そのような素朴な疑問も思い浮かんで来ます。 そんな私はおかしいでしょうかね?

  地上で親しかった聖徒たちのことは簡単に認知できるだろうと思いますけれども、

隣に坐る黒人の人、白人の人、赤毛の人、蒼目の人…エトセトラ…を、私はそれらの

人々を正確に認知できるのでしょうか?  それらの聖徒たちのお名前をそのとき私は

知っているのでしょうか?

 

  おそらく地上の言語でお話し合いをするのではないだろうと思いますから、その点

で心配はしていません。  しかし、かんじんの、お隣の人のお名前を知っているので

しょうか?  私の頭がおかしいと思われるかも知れませんが、私はそのようなことを

想像してみるのです。  「楽しいはずの天国」ですから… でもお互いの名前がわから

ないというのではねぇ… これじゃ「楽しいはずの天国」ではないのかも知れませんね。

 

  一方、「楽しいはず」であれば‥ お互いを認識しているということになります。

イェスさまがお招き下さる王宮聖餐大宴会ですから楽しいはずです。

  そこから推し測りますと、全く見知らぬ者どうしが集まって、隣の席に坐るという

ことはあり得ないと推測するのです。  皆さん、私の考えはおかしいですか?

 

  天の王宮聖晩餐大宴会の席では、隣の席に坐る聖徒を私たちは認識するはずだと思い

ます。  見知らぬ者どうしでは楽しくないと思います。  地上惑星に住んでいた時に

は出会ったこともなかった人々のほうがはるかにたくさんだと思います。

 

  しかも、百年も前に帰天した人も、三百年も前に召された人も、千年も前に天国に

戻って来た人も王宮聖餐大宴会には出席しているはずです。

  ヨハネもペテロも使徒パウロも、アブラハムもイサクもヨセフも居るはずです。

教会史の中に名前を連ねた殉教者たちも居るはずです。

 

  地上では誰も知らない時に誰も見て居ない場所で、主イェスを信じていたがゆえに

殺された無数の人々もそこに居るはずです。  スターリン時代にシベリヤに送られて

死に絶えた何十万人もの魂もそこにいるはずです。  彼らこそが讚美歌第2編 136

『われ聞けり彼方には』を歌いながら凍土の中に埋められていった無数・無名の聖徒

たちなのです…  1955年になって獨逸経由で自由世界にこの歌が紹介されたのです。

 

  そういう聖徒たちと一緒に私たちはそこで主を讚美し続けるのです。

それですから天の御国は楽しい家族の集まりなのだと私は確信しているのです。

そうでないのなら天国は退屈な場所となり、飽き飽きする状態となってしまいます。

 

       それでは、どういう理由で私がこのような「狂気じみた」ことをぬけぬけと語れ

るのでしょうか?  何か聖書的な根拠があるのでしょうか?  考えてみましょう。

マタイ伝17章1節~8節、マルコ伝9章2節~8節、ルカ伝9章28節~36節です。

 

  これら三ヶ所で共通していることは、一人の証言だけではなくて三人の弟子たちが

同じ人物と同じ光景を目撃しているという点です。  一人なら間違いもあり得ます。

  しかし、イェスに近かった三人の弟子たち、すなわち、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが

同じ光景を目撃しているのです。

  すなわち三人はモーセとエリヤが変貌された主イェスと会話をしている光景を目撃

したということです。  この共通点は極めて大切な重みを持つ証言です。

 

 

  モーセもエリヤも、ペテロやヤコブやヨハネが主イェスと一緒に生きた時代から

はるか前の旧約時代に生きていた聖徒たちです。  ペテロもヤコブもヨハネもだれも

モーセやエリヤに会ったことはありません。  モーセやエリヤの名前は聞いていたと

思いますが、二人の名と目の前に居る顔が一致することなどあり得ないはずです。

 

  しかし、三人より千年も二千年も前に生きて居た二人の聖徒を、ペテロもヤコブも

ヨハネもちゃんと確認しているのです。  このことを私たちはどのように説明したら

よいのでしょうか?  三福音書が異口同音に証言していることなのです。

 

  このことから判断しますと、それはコリント前書1312節にはっきりと述べられ

ているように、すなわち『その時が来れば…』ということを裏づけていると思うので

す。

 

  今この現在においての私たちは、上記マタイ伝、マルコ伝、そしてルカ伝の証言を

「読んでいるだけ」なのですが、『その時が来れば…』私たちは神さまのお声をじか

にお聞きして、おびたたしい数の聖徒たちがイェスを誉め称えている大合唱の歌声に

合わせて、私たち自身も主を讚美することになると、私はそれとなく想像しながら、

しかもその楽しくすばらしいことを強く確信しているのです。

 

  それですから、『その時が来れば…』私たちはお互いを正しく認識し合いつつ、

恩寵によって救われた共通の感謝と喜びを語り合いつつ、一緒に声を合わせて主と主

の恩寵を誉め讚え続けていることになると、私はそのように確信しているのです。

 

 ひとまわりの初めごとに、主イェスご自身が設定してくださった主の聖晩餐、主の

食卓、コミュニオン(交わりの意)、あるいはパン裂きと呼ぶ教会もありますが、恩寵

によって与らせて頂くことの意味の深さを、改めて教えられるものです。 

天国が、天国での交わりが、天国での讃美の大合唱の素晴らしさが、主の聖晩餐に

与るごとに教え示されるということ、これもまた恩寵の一部であり、感謝なことなの

です。

 

 この地上で、仮にもし私たちが外国の方々と初めてご一緒すると仮定して、そして

何名かのそれらのお客さまたちとご一緒に食卓に侍ったと仮定してみれば、私たちは

それらの人々のお名前も存じ上げていないというのが現実です。

 ところが、天国の王宮聖餐会では想像を超えるほどの人々を私たちがお互いに認識

できるというのですから、これは楽しいこと、素敵なことにほかなりません。

 主の食卓に与るとき、このような喜びの特権を想像しながら、世界中の兄弟姉妹の

ことを具体的にこのような方法で覚えることができるのも感謝ではありませんか。

 

お盆という季節を利用して、天国の素晴らしさの一部を推測してみました。

いかがでしょうか? それでもやはり野村さんは異端的「余言者」なのでしょうか?