ボストン運動関連雑感    野村基之

        (数年前の「ベタニヤつうしん」記事を2003・08・31に推敲したも)

 

  旧代々木八幡教会を乗っ取ったとされているボストン運動(最近では国際キリスト

の教会とか東京キリストの教会と自称している)カルト集団の被害者が続出中です。

 

  先週水曜の朝日新聞には名前こそ出ませんでしたが、実情の一端が紹介されていま

した。  先進国世界各地や発展途上国世界各地で既存教会を乗っ取り、盛んに若者ら

を勧誘してその勢力を誇示しています。  オウムとか統一原理協会のような反社会的

宗教集団ではなく、非社会的宗教集団であるので、法的処置に訴えられないというも

どかしさが被害者側にあります。

 

  この集団の発想の基礎をなすものは律法主義、即ち、人間の力に依って救いを得よ

うとするものです。  これは、一方的な恩寵に依って人は救われるという理解が完全

に欠落しているからです。  太平洋戦争末期に神風特攻隊という無謀な戦略を編み出

して青年たちを煽り立て、それに乗せられて自爆していった多くの若者たちと同様に

このボストン運動の指導者たちも、青年らの人生体験の不足と純粋な情熱をたくみに

利用して、「行為する事で信仰の向上が得られる」と煽り立てるカルト集団です。

 

  敗戦後に「ビルマの竪琴」という本が出回り、その中で、若者たちが誤った目標、

偽りの目的によって洗脳される時、若者はその激情を如何に無駄に注ぎ込んでしまう

ことか…というようなことが書かれていたように記憶しています。  ボストン運動に

勧誘されてしまった青年たちの姿とどこか似ているように思えてなりません。

 

  メソジスト教会系の教群(含ホーリネス系諸教群)のアルミニウス主義やジョン・

ウェスレー主義を巧みに利用して、『もっと捧げよ、もっと、もっと捧げよ!』と、

人間の行為によって救いを得られるように信じこませて若者を洗脳してゆくのです。

  そこには救いは神さまからの一方的な恩寵によるものであるという基本的な理解が

完全に欠落しているのです。

  ちなみに、人の行為で救いを得ようとする発想を律法主義と私は呼んでいます。

 

  旧代々木八幡教会を設立した宣教師Gは、そのような律法主義によって純粋培養さ

れた人でした。  『人が救われる為には人は何を為すべきか?』が絶えず教えられて

いたのを覚えています。  福音を聞いて信じたら、次に悔い改め、イェスを救い主と

告白してバプテスマ(全身を水に浸すの意)されればそれで充分なのだ』という発想

でした。  ウォルター・スコットという人が嘗て語った一種の宗教方程式です。

  『公同礼拝時に楽器を使うことは罪である』とか、『毎週主の晩餐を守る』とか、

『女は教会で黙すべし』とか、人が何かを「する」とか「しない」が絶え間なく強調

された発想を基礎にした、南北戦争直後辺りから農村型教会で教えられていた教義で

純粋培養された人の一人がGでした。

 

  そのような信仰理解に基づく教義が太平洋戦争敗戦後に占領軍と絶対的な$の力を

背景にして日本に持ち込まれたのです。  そのような環境の中でG宣教師から聖書の

教育を受けた者の一人にこの私もいたのです。  『自分たちだけがクリスチャンで、

他にクリスチャンはいないのだ!』とも教えられました。  何かがどこかでおかしい

Something is wrong! と思いましたが反論するだけの実力がありませんでした。

  Gの支配圏といいますか、影響下にあった世界を離れ、ケンタッキーに行った時、

そこで初めて救いは恩寵によるものであると学び、Gの思考の誤りを知りました。

 

  Gはニューヨーク州?の大学で学んでいた時だったかに弁論学を学んだようです。

その彼が占領下の東京の土を踏んで間もなく、乞われて中央大学の弁論部の顧問とな

りました。  そこでMさん(以下Mと省略)というハンサムな学生に出会いました。

 

  その頃G宣教師は全米各地の諸教会から莫大な献金を得て代々木八幡に土地を入手

し、次いで教会堂建設を始めました。  物資が極度に不足していた時代です。

  新築された教会堂のガラス類を狙う不心得者が跋扈していた時代でした。  住居が

極端に不足していた敗戦直後の東京でした。  Gに愛された学生Mは新築の教会堂と

宣教師館や牧師館を守るために教会に住み込むようになりました。  そしてそのまま

教会活動の中心的人物の一人となり、卒業後も伝道者としてそのまま残ったのです。

 

  海外留学など全く不可能であった時代にG宣教師の手助けを得たMはアーカンソー

州にあるH大学、G宣教師の母校に留学したのでした。  帰国して同教会に伝道者と

して再び戻りました。

 

  講和会議後に日本は独立国となり、占領下にあった時と事情が変わり始めました。

G宣教師は帰国しました。  それまで百人を越す日本人や占領軍将兵が来ていた教会

も出席者が激減し始めました。  若い伝道者Mは悩み始めました。  どうすれば再度

教勢を取り戻せるのであろうか…と。  答を見いだせぬままM夫妻は親族からの呼び

寄せという形で米国に永住して行きました。  代々木八幡教会は、以後、ず〜ぅっと

無牧(専任の伝道者・または一般には牧師と呼ばれていますが、その伝道者・牧師が

いない状態)のままで数名の人々が日曜の朝になると宗教儀式を守っていました。

  私は留学から帰国後に暫く出席していましたが同教会の在り方に関して疑問に思う

ところがあり代々木八幡を離れ、八幡山の自宅で家庭集会を始めました。

 

  渡米したMが説教をするように頼まれたのは日本語を話す少数の年老いた一世たち

が集まる小さな教会でした。  加齢でこの世を去る一世は多くても、若者が集まらぬ

教会でした。  嘗て私もその教会で四、五年間奉仕したことがありました。

  その教会でパート・タイムの説教者となったMは再び同じ悩みに当面したのです。

『どうしたら教勢が上がるのか?  このままでは駄目だ。  どうしようか?』とMは

再び悩んだのです。

  もしかすると、従来Mが慣れ親しんできていたキリストの教会というアメリカ的な

教会の在り方、信仰の理解と在り方に対しても疑問を感じていたのかも知れません。

 

  その頃、元宣教師Gも自分の余生や再就職先や交友関係でも悩んでいたようです。

実際的・現実的・世俗的成功志向や自己顕示顕欲の強かった元宣教師Gは、いろいろ

と手を尽くして就職先を模索していたようですがうまく行かず、最後に行為義認主義

のボストン運動に興味を覚えたのです。

 

  すっかりのめり込んだGはMの家族を招き、M一家を同運動支持者に取り込む事に

成功したのです。  Mがロサンゼルスで同運動を熱心に賞賛する姿を私は目撃して、

強い疑問と衝撃を覚えたのを現在でも記憶しています。  人の行為や可視的面数字面

だけで教会の成長や信者の霊的成長は決して計れるものではないと私は確信していた

からです。  今でもそう堅く信じています。  救いは一方的に恩寵として与えられる

ものと理解しています。  そうでなければイェスの十字架は不必要となります。

 

  こうして、無意識の内に、教会成長を主として可視的面でだけ計ろうとする誘惑に

捕らえられたMと、可視的成長を切望するG元宣教師の思いは一致したのです。

『ボストン運動こそ日本の教会を活性化する唯一の方法だ!』となったのです。

 

  そこには前述の律法主義的教群の歪んだ福音理解があり、更に、神さまの御恩寵に

よってのみ人は救われるのだという福音理解の欠如が明白に表されていたのです。

 

  元宣教師GにもMにも、律法主義と恩寵の関係が完全にわかっていなかったことに

大きな悲劇的な問題があり、それがこん日のカルトの悲劇を招いてしまったと思いま

す。  更にまた、Gに私淑していたMは、冷静な一面のある人ですが、Gの恐ろしく

冷酷な性格を見抜けなかった「お人よしさ」が今でもあると私は思っています。

 

  先週水曜に立川の或る教会で偶然にも出会ったMとの会話から、MにはG元宣教師

のもう一つの隠された恐ろしい面と、律法主義と恩寵の関係が、残念ながらお判りに

なっていないなぁと感じました。  元宣教師Gの私に対する個人的な恐ろしい体験の

一部だけを今回初めて書いてみましょう。  いずれ改めて諸事実を語りましょう。

 

  人が救われるのは、人が何かを「する」とか「しない」ということに全く関係がな

いことです。  人が神さまの前に義とされるのは神さまからの一方的な恩寵によるの

です。  ロマ書やガラテヤ書は、人間が神さまの前で義とされるのは、唯々ひとえに

神さまの恩寵によるものであると強調しているのです。  マルティン・ルターなどが

格闘した新約聖書の最も重要な主題であった筈です。  ロマ書3章24節や、エペソ書

2章5節〜9節などは、人間の都合に合わせて勝手に解釈できない永遠の真理です。

 

  そこでは人が「〜する」とか「〜しない」とか、「〜した」とか「〜しなかった」

とか、また、いろいろな「教会成長」のやり方や定義や評価などは、それぞれの人の

解釈に属するものであって、場所や時代や環境に応じて、どうにでも可動・変化する

ものであり、絶対的なものでは在り得ないことを示されていると私は思っています。

 

  人が何かを「〜する」とか「〜しなかった」ということは、神さまの目から御覧に

なれば、実はそんなに大きな問題ではない筈です。  人は、神さまの前で、何らの値

や功なしで、ただただ恩寵によってだけ義と認められると聖書は説いていると、私は

そのように理解しています。  そこでは人の業、人間の小細工は全く通用しません。

 

  罪ある私が(皆さんも?!)救われるのは神さまの御恩寵によるのです。  何か私に

勲功があったから神さまによって特別に救われたというのでは絶対にないのです。

  これは前述の如く、マルティン・ルターら優れた信仰の先輩偉人が命がけで主張し

たキリスト教信仰の基本的で最重要課題でもあったし、今でもそうなのです。

 

  このことを無視したり軽視したりすると、そこに人の焦りや可視的数字を求めよう

とする誘惑と危険が入り込む可能性が出てきます。  そして主イェス不在の宗教儀式

だけが残ります。  そこには焦りから生じた可視的成長を求める無意識の姿勢だの、

主として数字だけに頼ろうとする成功表だけが虚しく残ると私は考えています。

 

  そこでは主の恩寵にひたすら応えようとする誠実さなどは全く問われないのです。

それですから、殆どの教会は大都会に集中するのです。  寒村僻地や過疎地に教会は

ないのです。  うだつが上がらない所は宣教忘却地帯として放置されるのです。

  教会や伝道者・牧師が「成功病 success crazy」に取り付かれると悲劇です。

 

  私はボストン運動の最高指導者と自称・他称していたキップ・マッキーンとその弟

に八ケ岳の寒村僻地に来て伝道を手伝えばどうだと勧めたことがありましたが、彼は

私を狂気の人間だと思ったことでしょう。

  一個のパチンコ球を投入して何千個もの球を期待している彼に、数千個の球を使っ

て一個だけを辛うじて得るというような作戦は、愚者か不信仰者の狂気の発想としか

写らなかったことでしょう。  典型的で徹底したアメリカ型の実益主義者です。

 

  然し、この八ヶ嶽南麓寒村僻地でも、恩寵に支えられていると信じ、神さまの摂理

の中に自分が居るのだと確信していれば何も恐れることはないのです。  恩寵に対し

誠実に応える姿勢と、再臨を待望する姿勢があれば、それで良いと信じています。

 

  都会では、その反面、成功だの成長だのと、可視的面だけが強調され、重要視され

て神さまの恩寵が疎かにされる可能性と危険性があると思います。  大きな教会堂や

大きな打ち上げ花火式の活動が要求されます。  牧師も教会役員もその落とし穴の罠

に陥ってしまいます。  奇抜な客集め作戦や派手な宗教儀式が中心となります。

世俗の考えが教会の中を支配してしまいます。  どうやったら教会が成功するかと。

ロマ書12章2節が警告し続けている問題のひとつだと考えています。

  数だけが常に中心で、数だけが「ものをいう」哲学です。  一匹の仔羊を捜し出す

ために九十九匹を野原に残すというルカ伝15章4節の聖書哲学は通用しないのです。

 

  このような発想の中に捕らえられると、そこにカルト集団のボストン運動のような

集団が入り込むのです。  私たち夫婦の母教会であった代々木八幡教会がそのような

宗教的マルチ商法、上層部だけが常に安定した安楽な生活を満喫できるピラミッド型

疑似宗教集団にまんまと奪われてしまう悲劇がそこから生まれて来たものと私は考え

ています。  勧誘された多くの青年たちは「働き蜂役」を勤めさせられるだけです。

 

  そうでなくても、深南部のキリストの教会教群の中には、アメリカ原理主義と共に

マニフェスト・デスティニーという世界制覇欲や、物質主義的現実主義がはびこって

いる場合が多いのです。  一部ではアメリカ型実益主義も見られ、メガ・チャーチと

いう、何万人単位の大きな教会がどんどん増加して来ています。

  嘗て立川方面に住んでいた別の若いお金持ちの宣教師Bにも同じようなパチンコ式

信仰が露骨に潜んでいたと記憶しています。  そのような考え方の強い群から生まれ

てきたクロスローズ運動と、それが更に発展したボストン運動の基本的な哲学は律法

主義しかあり得ないのです。  恩寵という理解が完全に欠落しているのです。

 

  私が敬愛するSさんも、恐らく、そのような同じような悩みと誘惑に捕らえられて

『何かをしていなければ落ち着かなくなって、自分の信仰が駄目になって行くのでは

ないか』と焦っていたそのような時、ボストン運動の中心地ボストンに招聘された事

がありました。  出発前夜まで長距離電話で説得を試み、危ういところで難を逃れた

事がありました。  真面目な人だけに可視的面だけを求めて焦っていたのでしょう。

 

  そこにG宣教師らが目をつけ、単眼情熱的なSが一本釣りの対象となったのです。

人が焦る時、そこには必ずそれを利用しようとする悪い者たちがいるもでです。

悪魔は人の焦りや不安感を実に巧みに利用することが多いと私は思うのです。

 

  尚、これは余談になりますが、何故Gが的確にSに狙いを定めて一本釣りを試みた

かということです。  Gの義息のDJさんが嘗て一時期ですが代々木八幡教会に宣教師

として赴任していたことがありました。  読書好きの真面目な好青年で、私とも仲が

良かったのです。  不幸にして彼の妻J、Gの娘が、こともあろうに、同教会のSS氏

の高校生の息子と駆け落ちしたことがあって、DJは傷心の内に帰国しました。

 

  彼の帰国後もお互いに頻繁に文通を続けていました。  日本の諸教会のことをGは

私の報告書から充分に知っていました。  ところが、私が知らない間に、Gは義息の

DJから私の手紙を読んでいたのです。  こうしてGは、久しく「不在地主」でありな

がら、日本の諸教会のこと、伝道者たちの働きぶりを確実に把握していたのです。

 

  DJから事情を説明して詫びる手紙が届くまで私は完全にGに利用されていたことに

なります。  こうしてGとボストン運動の最高指導者らはSを日本でのボストン運動

の最適人物として捉え、白羽の矢を立て、一本釣りを狙ったというわけでした。

 

  更にこんなこともありました。  私がケンタッキーに留学していた1950年代には、

私が代々木八幡の仲間たちに送った手紙や小包類で、教会の私書函を経由したものの

殆どは受取人たちに届かず、Gが抜き取り、開封し、翻訳文を添付して移民局に手渡

し、『野村は前千年王国論者で、同時に、米国政府の転覆を企てるsubversive alien

共産主義者で危険人物である』と報告していたのでした。  青天の霹靂とはこういう

ことを言うのでしょうか。  私書函の鍵はGの他に日本人二人も持っていた筈です。

 

  宛てた手紙の中には今は妻となっている永瀬順子さん宛てのものもありました。

郵便物の中でも特に問題視されたのは、当時世界的に最高レヴェルの写真雑誌ライフ

の一冊でした。  そのような雑誌を東京に送ったことさえ忘れていましたが、南部の

白人秘密結社 KKKによってリンチされている写真が掲載されていたライフを私が東京

に送ったということが不穏だとされたのです。  移民官にそう言われました。

 

  然し、その号もそうですが、全世界に向けて何千万部もの数で毎週毎週発行されて

いたライフです。  その一冊を私がケンタッキーで購入して、当時の日本では外貨の

制限の関係で外国雑誌の購入が困難であったので、それを日本に郵送したからといっ

て、それを根拠に私が共産党員であるとか、米国政府転覆を企てている不穏な外国人

だと断定する根拠は極めて薄いと思います。  全くクレイジーな言いがかりでした。

 

  当時のアメリカは、赤狩りで悪名の高かったマッカーシズムという恐怖政治が幅を

利かせていた時代でした。  チャップリンも共産党員だと言われ、スイスに移住して

しまいました。  然し、一旦そのような容疑を掛けられてしまった以上、法律的用語

を全く知らない、下手な英語だけを話す外国人青年の私の弁明などは全然何の役にも

立たず、身の潔白を証明することなど不可能でした。  全く無力で絶望的でした。

 

  ソヴィエットのフルシチョフが国連で演説した際、脱いだ靴で演説台を叩きながら

『我々はアメリカを埋葬してやるっ!』と叫んだのです。  そのフルシチョフや中国

の毛澤東と同じぐらいこの私が危険な人物であると移民局で言われました。

 

  ロサンゼルスの移民局で取り調べを幾度か受けていたある時のことですが、代々木

八幡の仲間たちに私が主としてケンタッキーから出した沢山の私信に翻訳文が付けら

れて、分厚いファイルになって保管されているのを示されたことがありました。

  大変な衝撃を受けました。  目の前に、私が出した手紙の数々が宛て先に届かず、

盗まれ、開封され、盗読され、翻訳文を付けられて、分厚いファイルとなっていたの

です。  代々木郵便局の私書函の鍵は、Gと、Gの弟子二人だけが持っていたはずで

す。  他の誰も私書函を開くことも、そこから私からの教会員宛の郵便物を盗みだす

こともできなかったのです。  これが宣教師のやること、或はGに命じられた仲間の

日本人教会指導者クリスチャンのすることとは想像だにつかないことでした。

 

  同じことをGは二度もやっていたのです。  Sを在日本ボストン運動指導者にする

ために友人のDJから義父の立場を利用してDJ宛の私の手紙を盗読していたことと同じ

ことを、1950年代半ばに、私がまだケンタッキー留学中に、既にやっていたのです。

 

  G夫人が当時占領下にあった羽田米軍飛行場内の米軍機関で働いていたことは聞い

ていましたが、まさかこの私をそのように扱っていたとは想像もできませんでした。

  それがG自身だったのか、G夫人だったのかは記憶が定かでありませんが、どちら

かが、あるいは夫婦ともどもが米軍情報機関に出入りしていた筈だったと思います。

  宣教師の中には、その国の情報機関のために働く人物がいるということは、周知の

事実ですが、そのような人が自分のすぐ傍にいるということは信じがたいことです。

 

  彼の言うことを聞かなければ、本当にどのような仕打ちを受けるのか、何をされる

のかわかりません。  恐ろしい人でした。  教会の寮に住んでいた時に、サポートを

与えるとの申し込みがありました。  それに対してアルバイトをするからサポートは

要らないと私はGの申し出でを断りました。  当時 200人ほどいた日曜学校の責任者

として全力を尽くすから、寮に泊めて貰えるだけで感謝だと答えました。

 

  若い結婚したばかりのT医師の次にMをGの母校H大学に送る…  その次はお前の

番だ…とも言われましたが、これも断りました。  当時海外留学など、今で言えば、

アポロ宇宙船にでも乗せてもらえるような特権でした。  それを断ったのです。

Gに媚びたり、Gの「ひもつき」になるのが嫌だったからです。  これらは結果的に

Gの私に対する心証を極めて悪くしたようです。

 

  移民局での取り調べに戻ります。

  法律用語も法律自体も全くわからない私に対して決して楽しくない取り調べが何度

も何度も続いていました。  赤貧留学生がたった独りで、留学先で、絶望感と恐怖心

と孤独感に激しく襲われました。  ケンタッキー時代の恩師や、ペパダイン大学院の

ハリー・ロバート・ファックス先生やローガン・ファックス先生など数十名の方々が

私が共産党員でも米国政府の転覆を企てるような人物ではないと移民局に手紙を出し

て下さいました。  然し無駄でした。  彼らには私の知らない計画があったのです。

 

  イザヤ書53章の「悲しみの人Man of Sowrrow」という意味を少しだけ、何となく、

身近に感じ始めたのはその頃です。  マタイ伝27章を読み直したのを覚えています。

ヘンデルのメサイヤを更に好きになりましたし、夢中でバッハをFM局で捜しました。

 

  赤貧極貧の苦学留学生活に耐えながら何とか大学院までだどり着いて基督教思想史

をペパダイン大学院のホートン教授から学んでいましたが、米国政府の転覆を企てる

不穏外国人であると密告され、その疑いを法的に晴らす術の全くない無力な留学生に

は、強制送還の可能性ありという脅しを前にして、結果的にあと一年で卒業だという

のに、大学院での学びを断念放棄して、自ら帰国を決断せざるを得ないという道しか

なかったのでした。  わけがわからず『一体どうなってんだ?』と問い続けました。

 

  『帰国費用がなければ、助けてあげることもできるょ』と、私を車でハリウッドの

丘陵地帯に連れ込んだ或る情報部員が囁きました。  勿論、お断りしました。

 

  本当に長くて厳しい赤貧苦学生活を重ねた末に、実に勉強を放棄せざるを得ないと

いう結果に到り、目標達成不能者、未完成者という挫折感に襲われました。

  暫くの間はこの現実と向き合うのが辛かったです。  聖書信仰に堅く立とう願えば

曖昧な混合宗教的な日本人にも戻りきれず、勿論、米国人でもありません。  加えて

経済的に極めて厳しいかった苦学の末に大学院を終了することができなくなった自分

に腹立たしく、辛い寂しい孤独な心境でした。  しかし、今ではそれはそれで良かっ

たと思っています。  一つ一つの歩の後ろに恩寵の備えがあったと学んだからです。

 

  他にも沢山のことを学ばせて頂きました。  アジアのスラムでの学習も貴重なもの

でした。  そして人が人を虫けらのように扱うこともできるのだということも学びま

した。  他者を生かすことで己を生かす道もあるとも学びました。  波瀾万丈の人生

の後ろに、ちゃんと恩寵というものが絶えず備えられていたのだと知ることができた

のですから、素敵で、楽しい、意味の深い、恩寵に満ち溢れた人生でした。

 

  帰国後の情報部員からの接触は更に執拗で露骨で具体的なものとなりました。

飴と鞭で迫って来ました。  11年もかかって結婚した奥さんが葉山の海に浮いている

あなたの死骸を見たらどうなんでしょうね…とも呟き脅し、汚名を着せられて大学院

を中退したのだから悔しいでしょう…ともPという陸軍情報官がのたまい、ジョン・

F・ケネディーの名によって野村さんは本当はアメリカの真の友であったと証明する

から、暫くの間は我々に協力して貰いたい…などとも誘われました。

 

  当時はインドシナ半島が不安定で、国内では、例えばベトナム反戦運動というもの

があり、全共闘というものがあり、立川や砂川方面で反米基地闘争が活発だったよう

に記憶しています。  クリスチャンの中にもこれらの闘争に積極的に参加していた人

もあったようで、帰国間もない私に「飴と鞭」で迫って来た情報機関員たちは、私に

表面上は米国で得た信仰を捨てたことにして、反米運動に参加することを求めようと

迫って来ていたようです。  今回はこれ以上の詳細は述べないことに致します。

 

  G宣教師の通報から始まった一連の不愉快な出来事は、米国政府転覆を企てる危険

外国人とまづ烙印を押しておいて、次にそれを脅しの材料に用いて、情報機関員への

協力者になるように仕組んで来たものと思います。  ベトナム戦争前後に米国留学を

体験した日本人の中には、私と同じような脅しを経験した人があったようです。

 

  どちらの国にも公安情報機関というものはあるものです。  私を扱った人々を恨ん

だり憎んだりする気持ちは私には全くありません。  それが彼らの仕事なのです。

  日本にも勿論そのような公安情報機関がある筈です。  韓国スラムで伝道奉仕活動

をしていた時には、東京の韓国大使館にはTという公安情報部から出向していた人が

私を担当し、韓国内では中央情報部KCIAの2局と6局に一人づつ私の担当者がいまし

た。  それらの人々はそれぞれの国権・国益を守るために必要な存在でしょう。

 

  彼らは彼らのこの地上の国々を守る人々です。  然し、私の国籍は天にあり、私は

神さまの国に仕える者です。  素晴らしい仲間のクリスチャンたちが世界中に宝石を

散りばめたようにいます。  それですから、それらの国の情報機関員に対して個人的

な恨み辛みの気持ちはないのです。  次元が違うからです。

  それにしても私に接して来たPという男は、スパイ映画の物語のように恐ろしくて

奇怪な方法で私に露骨に迫り、私に更なる恐怖心を植えつけ、私を利用し続けようと

しました。  伝道者になりたいだけで、それ以外に興味はないと断り続けました。

 

  挙げ句の果てに不可解な交通事故に遭遇し、左腎臓を失い、二つの病院で七ヶ月間

入院し、その後に到り、やっと恐ろしい体験から解放されたと思っています。

  十字架を思い出させる左脇腹の鈍痛・異痛は死ぬ瞬間まで続くものと思います。

 

  元に戻りますが、Gとはそのように恐ろしいこと、私信の窃盗や開封という、憲法

違反も平気でやる人物だったのです。  ただひたすら伝道者になりたいと願っている

若者をそのように粗末に扱うことをいとわないのです。  若者を生かし、弱者を慰励

し、よくできない者を養うということができない、気の毒な人だったと思います。

 

  他人を見る時、その人を自分の利益目的の道具や手段、itとしてしか眺めることが

できないで、決して一人の人格と将来を背負った Youとして見ることができない人で

はないかと、そのようにGのことを思います。

  彼はイェスに果たして出会ったのであろうかとすら疑いたくなるような哀れな人で

あったのではないかと、ときどきそのようにGのことを思い出すのです。

 

  品川の占領軍兵舎にいたクリスチャンの兵士で、ヒスパニック系の仲良しのGIに

ジョー・キューラーという友人がいました。  のちにアーカンソー州のH大学に入学

し聖書を学んだ筈だと思います。  最近手紙を出しましたが返事はありません。

 

  彼が私にラビットだったかピジョンだったか名前は忘れましたが、当時は高嶺の花

であった輸出用に造られていたスクーターを呉れたことがありました。  中古自転車

ですら入手困難な時代でした。

 

  スクーターを貰うということは、こん日なら差し詰めヘリコプターでも貰うような

ものだったのかも知れません。  ガソリンも簡単には手に入らない時代です。  運転

免許もまだ持っていません。  とりあえず教会の敷地内の印刷所横ならば安全だろう

と思い駐めておきました。  物資が極端にに不足していて盗難の多い物騒な時代でし

たから、教会の敷地内なら安全と思ったからでした。  アルバイトをして費用を稼ぎ

出してから鮫洲に行って運転免許を取得しようと張り切っていました。

 

  ところが数日後、印刷所に勤め始めたSSがそのスクーターに乗っていました。

GがSSに、スクーターは印刷所で公用車として使うことにすると宣言したそうです。

SSの高校生の息子がGの娘と駆け落ちをしたことは既に書きました)

 

  物資が極端に不足していた時代でしたから、中古自転車ですら高価で、おいそれと

入手できるという時代ではありませんでした。  一方的にスクーターを私から強奪し

たGは、私に対しては何らの相談もありませんでした。  Gにはそのような恐ろしい

面がありました。  それが彼の性格の一面であったのか、占領軍の意識が強かったの

か、それは未だに私にはわからないことです。

 

  脱線しましたが、ボストン運動にもう少しで一本釣りされそうになったSさんと、

なぜ沢山いる伝道者たちの中から彼らが的確にSを選び出したのかということの説明

になればと思い「余言者」の発言をした次第です。

 

  もうこの年になりますと、社会正義感は別として、特定人物に対する激しい個人的

な恨み辛みとか憎しみのような、そのような気持ちは薄れてくるものです。

  人間というものが実に愚かな存在であり、失敗と過ちの塊のようなものであって、

神さまと人さまの赦しがなければ生きては行けないと、次第に理解し始めるからだと

思います。  そして何よりもまず、主が総てを一番よくご存知でいらっしゃり、主が

各自をお裁きになるということを素直に信じられるようになって来たからでしょう。

 

  私たちは主イェスの一方的な恩寵と赦しがなければ一刻たりとも存在し得ないので

すから。  救いは人の業、人間の小細工によるのではありません。

 

  それは常に神さまの恩寵、十字架の上に啓示された主イェス・キリストの恵みによ

るのです。  Man of Sorrow 悲しみの人、総てを知り給まう主イェスがいつも一緒に

いて下さるのです。  人間の小細工で人生を渡り歩くことはできません。

 

  まして、私たちが神さまに手をお貸しして、神さまの人間に対する救いの御計画に

口を挟み、ああだ、こうだと言うのは、お仕えしているように一見みえますが、実は

恐ろしく驕慢で、不敬で、僣越な心の在り方だと思います。  それがボストン運動の

致命的な弱点だと思っています。

 

  サムエル後書6章6節〜7節や歴代志略下13章7節〜14節に記録されていますよう

に、契約の函がずり落ちそうになったので、函が落ちないように、思わずそれに手を

かけたウザが、主なる神さまの厳しい裁きを受けたのと同じように、神さまのお仕事

を手伝っているように見えますが、実はそれが慣れ合いの罪、驕慢の罪、不敬の罪で

あったと聖書は警告しているのです。  神さまに属する聖なる事柄に対して俗なる者

が、それが一見どんなに純粋な行為に見えても、安易に手を差し出すということは、

これは厳に慎まなければならないことだと思います。  青年たちをそのように仕向け

ているボストン指導者の過ちもこの辺りにあると私は思います。

 

  救いは、一方的に、恩寵に依って、神さまからの賜物として与えられているもので

あり、私たちは謙虚にその救いを感謝して、感動して、感激して、ただ信仰によって

受け入れることが大切だと、私はそのように思っているのです。

 

  ボストン運動に関する拙翻訳文をどなたが下記に紹介し掲載されたのか全く不明で

すが、 http://www.geocities.co.jp/Berkeley/9080/  にあります。

 

  主イェスのおん守りを、祝福に満ちた再臨の希望に在って、心から祈ります。

 

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